仰げば尊し
800字で1シーン書く練習のはずなのに気づけば2300字……
※
なんだっけなと部室を出て、3階分の階段を下り、昇降口に出たところで思い出した。
「楽譜わすれた」
「教室かえ?」
「部室。行ってくる……」
途中で気づけよ1分前の俺。
全速力で戻れるよう朔間先輩に荷物を預ける。先輩はUNDEADのステッカーの輝くギターケースを背負い、指定鞄を両手で抱えると、3年使い込んでボロボロの合皮を細い指でなぞりだした。ゆっくり、傷の深いの浅いの、皺の寄っているのを順に。思い出を辿られているような指使いに、晃牙は恥ずかしくなって背中を向けた。
と、振り返る。不思議そうな顔を睨み、一言、
「帰んなよ」
曖昧な笑みの朔間先輩をその場に残し、来た道を戻る。
アイドル科の校舎は無駄にデカい。夢ノ咲自体がマンモス校だからか、それとも金持ち私学だからだろうか。廊下だって母校の中学の倍くらいあり、床はしけた苔色ではなく磨き上げられたダイヤ柄だ。
格子窓から差し込む夕日を上履きの底で踏み荒らしながら、ほとんど跳んでる大股歩きで3階分を上りきると、手早く部室の鍵を開けた。ひねる動きにおもちゃのコウモリが音を立てる。部長にだけ貸与される鍵が目立つよう、晃牙はキーホルダーを買って付けたのだった。
夕暮れ色の部室を見回す。
楽譜。あった。
おもわず噴き出した。棺桶の上なんて、置くのは自分しかいない。それか先代の部長。どちらも棺を自分の寝床にしているせいで、つまりパジャマみたいなもので、パジャマを脱いだらどこに置いたか忘れるものだ。先輩はここで寝泊まりしていたから、忘れても問題なかったけれど。
「げっ」
回収ついでに窓からグラウンドを見下ろして、ど真ん中に立つ朔間先輩に顔を引きつらせる。満面の笑みで見つめられている。晃牙を置いて帰らなかったのは嬉しいが、これ見よがしに両手を振っているのはいただけない。校門に向かう後輩が朔間先輩を見て騒いでいる。
「おぉ~い! 晃牙~!」
「んだよ……注目されてんじゃね~よ。帰れね~だろ、俺達だけで」
「なんじゃ~? もっと大きな声で応えておくれ~?」
「恥ずかしいっつってんだよ! ば~か!」
わ~、と後輩が拍手した。見世物じゃね~よ、ば~か! とそっちにも吼えると、震え上がって身を寄せ合っている。赤いネクタイの集団の中に軽音部の後輩や部活外で面倒見ているヤツもいた。一様に朔間先輩を遠巻きに見ていて、2年前の晃牙を思い出させる。ブカブカのブレザーに着崩せないシャツ、緊張の面持ちで憧れの人の背中を見ていたら、追いついてこいよと言われて必死こいて頑張った日々。
「晃牙~? もう下りたのかえ~? 我輩そっちに忘れ物したから、取りに行きたかったんじゃけども……」
「…………」
「晃牙~……?」
急いで帰ろうと廊下に出たところで、もう一度引き返す。
窓越しに見せた顔に先輩が花の咲くような笑顔を向けた。後輩も先輩の真似をして手を振っている。
おまえらも頑張れよ、と言っても此処からじゃ聞こえないだろう。聞こえるのは地獄耳の先輩まで。晃牙のことを愛してくれて、どんな呟きでも拾ってみせると笑った朔間先輩だけだ。だから。
「……あのな!」
窓を開けてそう叫ぶと、晃牙は軽く息を吐いた。格子窓の下半分から身を乗り出す。
先輩も後輩も目を見張っている。先輩なんか、冬日で淡く輝く顔を引きつらせ、晃牙のことを本気で心配している。
落ちね~よ。やってないことたくさんあるから。だって勝手に失望して意地張って、焦がれた日々を手放した時期もあった。先輩は変わらないのに、自分だけ拒絶して、酷いことも言ってしまった。なのに朔間先輩は晃牙に手を振っている。思ったより華奢な指を手の平で抱くことも許してくれる。熱を唇に溶かし合うことも、その先も。
そんな得難い日々を、瞬きだけしか過ごせていない。人生の半分どころか9割を薔薇色で占めてみせるまで楽しむと決めたのだ。楽しんで、頑張るのだ。なんとか先輩の隣を走り続けて、先輩に隣を歩いてもらえる自分で在るように。
大きく息を吸い込んで、お腹を限界まで膨らませる。
「――大神晃牙は、朔間零が大好きだからな!
俺様を置いていったら、ぜって~殺すからな!」
☆
「やっちまった……」
とん、とん、と。
来たときの勢いを忘れたような足取りで、1段1段が妙に低い階段を下りてゆく。
真冬の校舎は廊下まで暖房を効かせているので暑いくらいだ。頬の火照りが加速するようで、晃牙はおかしくない程度にネクタイを緩めた。後輩の前で告白大会。クールな先輩で通しているのに。明日から見る目を変えられたら1週間は確実に落ち込むだろう。
最後の1段から足を下ろす。廊下の西日も行きより翳って淡い。床のダイヤの白い方が橙色に柔らかく染まり、来客用の紅いスリッパの先がきらきらと輝いた。晃牙は上履きだ。スリッパ、それも紅いのなんて好んで履くのは1人しかいない。
「……待ってたぞい。待ちきれなくて、廊下まで戻ったぞい」
「――」
「晃牙?」
「……うん」
日が暮れていなくてよかった。
そう思ったのは秘密にして、晃牙は鞄とギターを受け取り、さっさと昇降口を出た。
スリッパを返した先輩がすぐに追いつく。当たり前だが私服で、指定鞄も持ってない。学院の外でも先輩と過ごせることが無性に嬉しい。
「何の曲をやっておるのじゃ? 楽譜なんて今日のセッションで読まんかったじゃろ?」
「別に、つまんね~曲」
「ふむ? 校歌あたりかのう?」
見られないうちに鞄に仕舞いこむ。つまらない曲だ。わかりきっていて、ありきたりで、本当に歌うまでもない曲。
晃牙は先輩を仰ぎ見る。
「なんじゃ?」
とうとう卒業まで抜かせない背丈。ほんの数cmの距離がもどかしくて、最高に愛おしい。
「なんでもね~よ」
暮れなずむ空の下、ふたりの影が伸びてゆく。