1207(翼薫)
- 2017/12/07 00:00
- カテゴリー:その他
よろよろとスタジオを出た桜庭は、廊下の隅に見知った影を見つけて眉をひそめた。
にこりと好青年スマイル……にしては地に足のつかない笑顔でこちらに駆け寄り、ひとつどうぞと喉飴を渡す男こそ、柏木翼である。
幻覚か、と桜庭の頭が結論づけた。柏木が収録を終えたのは2時間前だったのだ。カフェスペースもなければ自販機もなく、当然自由に使えるレッスンルームすらないこのビルで暇を潰すのは狂気の沙汰だ。しかし手のひらに飴を転がす指先は質量を伴い、有無を言わせぬ強さで利き手を握り込んできた両の手はしっとりとあたたかい。
「先に帰れと言ったはずだ」
「生麺がこだわりなんですよ」
恐ろしく楽しげな声で、柏木。
「麺は細めで、鶏白湯スープがこっくり濃厚で人気なんです。疲れた体にしみますよ。池袋にあるんです。今食べたら絶対おいしいですから、一緒に行きませんか」
出来の悪いドラマのような白々しい台詞が続いてゆく。だからなんだ、君は疲れていないだろう、疲れたとしたらそれは同じ姿勢をとり続けたせいだから屈伸すれば回復する。僕と夕食を共にする理由などない。2時間かけてもラブバラードを歌えなかった僕とは。
「当然、オレもくたくたです。待ってる間に次のドラマの台詞ぜんぶ覚えたかったんですけど、どういう背景でこの台詞が出てきたのかなとか、役の人の気持ちとか、色々考えたらわからなくなっちゃって。結局、薫さんの言葉を思い出してーー『その役を任された自分を信じて』感じるままに演じようと思ったんです。でもレッスンルームがないんですよね、このビル。だからラーメン食べて事務所で稽古しようと思います」
うっかりしてました、と笑う柏木の横をすり抜け、足早に玄関へ向かう。本読みの稽古をするなら君も栄養補給が必要だろう、案内してくれ。はい! 地に足のつかない声が桜庭の心を優しく包み、凝り固まった胸の内をほどいてゆく。あぁこれか、こう歌えばよかったのか。ふわふわと心地良いぬくもりが喉を包むので、白い吐息に混じって歌がこぼれそうになった。この胸の浮つきを、桜庭は恋のようなものだと結論づけた。