夏の東秋
仕上げに項から結い目にかけて一撫ですると、
「ひゃう!」
と奇妙な声を上げて、秋山は体をすくませた。
「どうした秋山」
「どうしたもないでしょう! いきなり何をするんですか」
振り返る秋山の顔は苦渋に満ち、目にはありありと非難の色が浮かんでいた。しかし素知らぬ顔をして見つめ返してやれば髪をまとめたことで露わになった耳から頬にかけてほんのりと朱が差し、伏し目がちに視線を逸らせるので、こちらに他意のないものと思いこみ自分の憤りを恥じたのだろう、と東郷は納得した。
間違いを正してやるために、
「ひゃうっ」
もう一度撫でてやるが、今度は疑いととまどいの視線を寄越されるだけで、子犬の噛みつくような抗議をしてこない。
秋山は生真面目だ。
軍属として秋山と迎える何回目かの夏、既に勤務艦は冷房の完備されたものしか指定されなくなったが、休日に娘と繰り出す街であるとか日本と似た気候の侵攻星域であるとかで、夏のうだるような暑さは未だに暦の上での夏の到来と共に感じることができる。
であるから、夏だなあ、と感慨深くなると、次いで項に汗の滲む感覚が思い起こされ、真希のあせもの心配をし、真希の髪をつむじのあたりまで上げてやろう、ついでに秋山のも上げてやろう、と考えることになるのが初夏の東郷現海軍長官の思考過程であった。
かくして東郷自室に常のように夕食を作りに来た秋山を引き留め、まあ麦茶でも、と座らせたとしても、秋山は例年のごとくおとなしくその場に留まるのだが、それは今夜されなければ明日される、明日されなくても夏の終わりまで逃れられぬ、という一種の諦念からであって、決して東郷と親密な時間を過ごすことができるからという訳ではないのだろう、と東郷は思っていた。
去年までは。
「似合うよあーちゃん!」
「ありがとう、真希ちゃん」
「えへへ、お揃いだねっ」
目の前の鏡で前を向いたり後ろを向いたり、ポニーテールが歪んでないか、シュシュは綺麗にまとまっているか、真希は色々な角度から乙女のチェックを一通り終えて、秋山に走り寄る。
何度も鏡を見つめるのは、気に入らなければ直そうと思っているのではないらしい、と秋山に聞かされたのは、ほんの数日前だ。どうやら父渾身の作品を鑑賞しているらしい。父親として、娘がポニーテールを気に掛けるのは、気恥ずかしいやら嬉しいやら、複雑な気分である。
一方秋山は、東郷の目の前に座したまま、真希のポニーテール自慢に頷いたり笑いかけたり、良い聞き役に回っている。秋山が頭を傾ける度に、同色のゴムで結われた黒髪が揺れ、白い軍服の表面を微かな音を立てて流れる。
なんとも夏らしい音だと東郷は思ったが、真希も秋山もその音には気づかない。
高く髪を結ったふたりが、自室で話に花を咲かせる。それが東郷にとっての夏の風物詩であった。
「――長官、東郷長官」
「……ん?」
秋山の呼ぶ声で、我に返る。
何とはなしにふたりの様子を眺めていたはずが、辺りを見回すと真希の姿はなく、秋山も腰を浮かせたまま東郷に耳打ちする姿勢をとっていた。傍に置いた麦茶のグラスに大粒の露がまとわりついているあたり、どうやら思いの外時間が経っていたらしい。
「もうそろそろおいとまさせて頂こうと思います。明日も早いので……」
「あぁ、そうか。悪いな」
「いえ」
声をひそめて、暇を告げると秋山が言う。しかし、そう切り出して、そのまま動かない。
「秋山?」ふと秋山の顔を見ると、一瞬視線が交わって、すぐに手元のグラスに落とされる。そっと窺うように、秋山の黒い目が東郷を見つめ、逸らし、もう一度見つめたところで、ようやく東郷は秋山の目の奥に情欲の炎が燻るのを見た。
「東――」
秋山に名を呼ばれるより早くその腕を引き寄せれば、驚きに見開かれた目とぶつかった。眼鏡を押しつけない角度で秋山の薄い唇に口を寄せ、尖らせた舌先で緩く隙間をなぞれば、秋山の舌が温もりを求めるように口腔から東郷を招き出た。
うっとりと、待ち望んでいたかのように、秋山が東郷と舌を絡ませる。
「……ん」
そうしてものの十秒もせずに唇を離すと、開けた視界には秋山の戸惑う顔があった。
伏せた目の端が微かに垂れ、濡れた唇と相俟って物欲しげな様子であるのに、視線はひどく落ち着かない。さては欲しがるのを躊躇っているのか、と東郷が腰を浮かせれば、はっと何かに気づいた様子で立ち上がり、バインダーを抱える。
「失礼しますっ」
「あ、おい――」
「あーちゃん帰っちゃうのー?」
ばたばたとあわただしく入り口の向こうに消えるのを、盆に自作らしいデザートを載せて居間に戻ってきた真希と見つめる。
「もー、おとーさんまたあーちゃんにいじわるしたでしょー」
「そうかなあ……すまんな」
「もー」
あの時、白く綺麗な項にキスのひとつでも落としてやればよかっただろうか。
後悔と言うには満たされた感情を胸にともしながら、東郷は秋山の残したグラスの結露を見つめ続けた。