夜長
2016年春の晃+零
1Kのアパートはひとりで住むにはそれなりに窮屈だけれど、春の夜長に電話するには丁度よい。
「そんでさあ、新歓けっこう良くて」
『うむうむ』
「ロック好きが結構いると見たね俺は」
ギターの弦を撫でながら話しかける。窓を開けっぱなしにしているから音は出せない。
『かわいい後輩は出来そうかや』
「おう!」
代わりに電車の走る音と風の音がBGMになる。それと、そうか、と頷く先輩の声。
寝る前とか打ち上げの帰りとか、暇な夜更けに零と電話するのがこの春からの晃牙の習慣だ。何日おきにするかもどちらから掛けるかも決めず、ただ電話したいときにそうするだけ。今夜は新歓ライブの興奮冷めやらないまま発信ボタンを押そうとした瞬間、『着信:朔間零』の表示が画面に出た。
『晃牙』
呼ばれて、はたと顔を上げた。壁掛け時計は午前1時を指している。10時過ぎからずっと話し込んでいたからもう3時間も零の時間を奪っていたことになる。
「わりぃ、忙しいのによ」
『そうではない。おぬし、おねむの時間じゃろ? 育ち盛りに夜更かしすると身長止まるぞい?』
「ねむくね~し背も伸びてるし!」
『この前1cmも伸びなかったと言っておったのに』
「うっせ~な」
憎まれ口を叩くと頭がくらりとした。一度自覚してしまえば眠気の侵攻は止まらない。鈍る思考、気怠い体、瞼も視界に否応なしに覆い被さってくる。早寝早起きがモットーの晃牙にとって、深夜1時は大冒険なのだ。
「……あんたがそう言うなら、寝てやってもいい」
寝たくね~けど……。欠伸交じりにこぼした言葉を拾われたのか、電話口から呆れ笑いが漏れ聞こえる。
既にうつらうつらする晃牙の耳に、咳払いがひとつ届いた。
『かわいい子犬に子守歌を贈ろうかの』
歌、と聞いて背筋が伸びる。おもわず居住まいを正せば、向こうは足を組み替えたのかベッドの軋む音が聞こえた。ついせわしなくなる晃牙を焦らすように、零の声がことさらゆっくり、低くなる。
『ねんねよころりよ……は続きがわからぬ故、外国のじゃけども。ややこを寝かしつける旋律は、どこの国でも同じじゃろう。ほれ、横になるがよかろ。ちゃんと電気も消すのじゃよ』
どこの国のだって、あんたの歌声が聴けるなら同じだろ。そう言いたくなるのをこらえて、指示されるままに照明を落として布団に潜り込む。カーテン越しに街の明かりの漏れ入る部屋も、瞼を閉じれば深い闇が広がる。
暗闇に、心臓の音と零の息遣いが響いている。
『眠たくなったら、そのまま寝てよいからのう。ゆっくりおやすみ……』
「ん……」
零が歌いだして、ほとんど囁くみたいな声の小ささで、異国語の子守歌が耳に染み渡った。やさしくて穏やかな、だからこそ晃牙が何年も焦がれた歌声は、はやる鼓動を落ち着かせる。どういう歌詞なのかはわからなかった。ただ、繰り返し出てくるフレーズは「おやすみ」とか「はやくねなさい」とかいう意味なのだろうと思えた。
晃牙の頭を撫でるような声で、おやすみ、はやくねなさい、と零が歌う。
おやすみ、はやくねなさい夜だから。そう言うけれど、朔間先輩はそれでいいのか。ふと、そんな考えが浮かんだ。
俺があんたにおやすみと言って、そうして眠って、あんたはひとりそれでいいのか……。
おやすみなさいの森に囲まれて、晃牙は木々の合間に意識を散らしていった。
「おはよーございます大神センパイ!」
ぎょっとして振り返ると、見知らぬ顔が赤ネクタイを揺らして昇降口に佇んでいた。
「おはよーございます!」
「お、おう……」
見知らぬ顔というのは正しくない、きのう晃牙が新歓ステージから見下ろした「ロック好きらしき1年」の顔だ。気圧されながら挨拶を返すと、1年生は朝陽を背にして満足そうに破顔した。
「昨日はマジでかっこよかったっす!」
「……!? へへっ、ありがとな」
「それで、だからなんすけど……」
「おう、なんだ?」
早朝、早朝といっても7時半だが、とにかく早朝の昇降口は意外と人が多い。特に今日は新歓前からの出演依頼を捌こうと早朝練に励む者が多いのだろう。晃牙もアドニスとユニット練の待ち合わせ中だ。制服を着崩した生徒の行き交う中、真っ赤なネクタイをぎゅっと締めた1年は目立つらしく、先輩風吹かせたい同輩が「おはよっ☆」とか「やだ~熱烈ねぇ」とかすれ違いざまに茶々を入れてくる。
「新歓でUNDEADに一目惚れして入れてほしくなったの?」
「あっ、いえ! 軽音部の見学です!」
鳴上の問いに晃牙は目を瞬かせた。確かに同じユニットに入れてほしいと頼むより部活に入る方が話は早いだろう。あわよくばユニットの方にも拾ってもらえるかもしれない。1年だった頃の晃牙の発想だ。がぜん興味が出てきて(しかし食いつくのもカッコ悪いと思って面には出さずに)質問を投げかける。
「ふ~ん? 楽器なにやってんだ?」
「ハイハイッ! おれトランペット☆」
「テメ~に聞いてんじゃね~よ」
「あ、あの、ギターです」
「ギターか! わかってんな~」
「あらすごいドヤ顔」
大神の方をチラリと見た鳴上が噴き出した。スバルが「大吉がよくやってる!」と抜かしたので怒るに怒れず鼻を鳴らすと、1年は不思議そうな顔で3人を見回して、後ろから来た『先輩』に気づく。
「大神、おはよう」
日の光で顔の彫りをいっそう深くしたアドニスに目を丸くした1年は、すぐに跳ねるようにお辞儀した。「センパイ、おはよーございますっ!」
「コイツ軽音部に入りたいんだってさ」
別にアドニスに紹介する必要はないのだが、親指で1年を指し示す。アドニスは晃牙と1年を見比べると、晃牙の方に向き直って言った。
「……よかったな」
「保護者みて~なツラすんなよ」
すぐにツッコミを入れられて、アドニスはそれでも目尻を和らげるのをやめなかった。調子が狂う、と生温い視線から逃れるように仰け反ると、「俺はよかったと思う」と追い打ちをかけられる。
「……じゃあ昼休みに西棟3階奥に来いよ、昼はいつも開けてるから」
「ありがとうございます!」
「じゃあな」
所在無げな1年に手をひらひらと振ってアドニスと昇降口を出た。ほとんど夏みたいな日差しが降り注ぐ中、校庭の真ん中を進む足取りは軽やかだ。ギタリストでたぶん音楽の趣味も合う(これでオルタナティヴとかテクノだったら笑うが)、伸びしろのありそうな1年生。今や軽音部にひとりきりになってしまったロック愛好家の血が、どう鍛えようかと今から騒いでいる。目指せエリック・クラプトン、いけるぜヌーノ・ベッテンコート。
「練習がんばろうぜ! アドニス!」
「? ああ」
昼休みが待ち遠しい。晃牙は吠える代わりに拳を高く突き上げた。
そしてそういうのはフラグになる訳だ。
「すいませんっ! 友達と別のクラブに入ることになっちゃって……!」
「そうかよ……」
平身低頭の後輩に頭を上げさせるところまで意識が回らず、晃牙は後輩が体を垂直に折るのをぼんやり眺めていた。
チャイムが鳴るや否や古文の教科書を放り出して部室のカギを開けに行った晃牙が、はたして意気揚々と出迎えた後輩に平謝りされると予想できただろうか。貴重な人材を奪ったのはどこのクソクラブだと聞くと演劇部だという。あのクソ仮面が五奇人時代の一度ならず二度までも俺様達を裏切りやがるかと怒りを向けたところで3年生が卒業したことに気づく。真面目に演劇している北斗のことを思うと怒る気にはなれなかった。恨みはするが。
「本当にすいません……ロック好きなんですけど……」
「これでモテたいからバンドやりたかったとか言われたらどうしようかと思ったけどな」
「え?」
「こっちの話」
何でもないと手を一振りすれば、後輩の頭の位置がさらに下がる。ニュアンスは伝わったらしい。
お辞儀をしたまま、そっと表情を窺われた。晃牙が怒るというより呆れた顔をしているのに後輩も気づいたようで、目が合った瞬間続きを促せばおどおどと先を続ける。
「その……友達に『一緒に演劇部の頂点を目指そうぜ』って言われて、断れなかったんです……」
頂点。
「ならしゃ~ねぇな」
「……怒らないんですか」
「なんで」
「大神センパイはすごい怒りっぽいって他の先輩が」
「誰だそいつシメる、ってそうじゃね~よ怒らね~よ、それがテメ~の覚悟ならな。頂点目指すならライバルとかいた方がいいし」
ライバルとか目標とか、と言ってもピンとこない顔をされた。そりゃそうだと晃牙は思う。3年かけても追いつけない目標が1年のはじめからいた晃牙は、それはもう恵まれていたのだ。天才ゆえの孤独を知らなくていいという意味でも。
「まっ、演劇がんばれよ。激詰め食らうらしいけどな~?」
「ひえええええ」
晃牙に部室から追い出されつつ“激励”されて、後輩は顔を青ざめさせた。晃牙のほうも、氷の王子様の指導を想像しただろう後輩の様子に留飲を下げる。ぬか喜びが帳消しになるくらいは愉快だった。うなだれた後輩がトボトボと来た時と同じくらい重い足取りで歩くものだから、
「煮詰まったら演りにこいよ~! 俺様がシゴいてやる!」
「そっちでも激詰めされるんじゃないですか~!」
なんて追加でからかいたくなるくらいに。
「…………」
そうして後輩の背中が曲がり角に消えるまで見送って、部室に引っこんで、ドアをきっちり閉めたのを確認すると窓の方まで歩いていって、倒れ込んだ。棺桶の上に。
「……そっか。そうか~~」
はああああ、と吐き出した息は棺桶の蓋の表面を曇らせた。もちろんすぐ元通りになるが、晃牙の心は曇ったままだ。
校庭の歓声が遠くに聞こえる。陸上部のホイッスルにバスケ部の走り込みの掛け声、演劇部の発声練習に混じって双子のキャッチボールに興じる声まで届いた。アドニスも鳴上もスバルも1年も、ひなたとゆうただって、思い思いの楽しい時間を過ごしている。なのに晃牙だけ、この前まで零と時間を忘れて演奏していた晃牙だけが、広い部室でひとりきり。あんなに楽しかったのに。
もう何日も、晃牙は軽音部室の静けさを味わっている。
棺桶に、そっと指を這わせる。晃牙が何度も蹴ったり叩いたり、時には飛び乗ったりして揺らした棺。思い出の数だけ傷がついて、けれど卒業式まで朔間先輩を閉じこめ続けた。閉じこめたのではなく、寂しい夜の世界から遠ざけてきたのだと今ならわかる。だって昼はこんなにも広くて孤独で遠い、朔間先輩の寝息すら聞こえない世界。
「昼ってなげ~んだなあ……朔間先輩……」
朔間先輩に聞かれたら「何を今更」と笑われるだろうか。昼は長くて、それと同じくらい夜も長いから。しかも授業も登下校も放課後もない。誰かの廊下を走る足音も聞こえない。長々し夜を一人かも寝む、とは恋愛の歌で、そういうことではないけれど、長い長い数多の夜を過ごした朔間零に大神晃牙は想いを馳せる。目を閉じながら、そして聞こえない寝息を探すように、棺桶に耳をあてながら。真っ暗闇の校舎の奥、西棟3階突き当りの部室でひとり佇み誰かを待ったり諦めたりする彼を想う。
あぁ、と晃牙はため息をついた。あぁ、俺は寂しかったんだ。寂しいから朔間先輩に電話して、眠りたくなかったんだ。孤高の一匹狼なのにずっと先輩の傍で存在を感じていたのが、ひとりじゃないのがどういうことか、わからなかった。それを「あんたひとりでいいのか」なんて余計な心配、責任転嫁みたいなことしてたんだなあ……。
「――せんぱい、大神先輩」
「…………んん」
「先輩、いつから寝てたんですか? もう放課後ですよ」
いつの間に寝てしまったのだろう、身を起こすと部室が夕焼け色に染まっていて、ひなたとゆうたが棺桶の傍にしゃがんでいた。
「新歓ぶっ飛ばしてたもんね、スポドリいります?」
気を遣っている、遣わせている顔がふたつ並んでいる。
晃牙はペットボトルを受け取り無言で中身を飲み干した。飲み干して、最後の一滴まで振って飲んで、壁掛け時計を見る。午後6時半。
後輩ふたりに向き直る。
「ちくしょう、昼飯に逃げられちまった」
わざとへらりと、朔間先輩がしていたような顔で笑った。
そうして。
そうして晃牙は、レオンと春の夜の散歩に出た。10時を過ぎてもレオンがリードを咥えて玄関前に張り付いていたからだ。寝付けない夜は夜の匂いを嗅ぐに限ると言っているようで、夜をひとりで乗り切ると決めた晃牙にはほとんど天啓だった。
真夜中の住宅街、気晴らしに出るにはうってつけの道行き。春の、始まりの季節の匂い。涎でじっとり濡れたリード。黒い街路樹のさざめく音にも夜の声を感じ取る。葉を揺らす風を振り切るように駆け出すと、レオンは跳ぶような足取りで傍らについた。
そうして朔間先輩に会った。
「おせ~よ」
先輩は遊具の隣のベンチに腰掛けて、脚を組んだまま笑った。「待たせてんじゃね~よ、先輩を」
「? すいません?」
よしと言うなり駆け出したレオンのちぎれそうな尻尾を視界に入れながら、朔間先輩の顔を同時に見た。視界の空いたところにスケジュール帳が捲れていく。2年前ではない、今のふたりの予定。電話する予定はもちろん決めていないし、ユニットで会うのも2週間先、ふたりでつまり先輩後輩で会う約束もしていなくて、つまり。
「……待ち合わせ、してたか?」
つまり、朔間先輩も。
「待ち合わせなんてしてね~し約束もね~し俺が勝手に待ってただけだけど、テメ~も来てるだろ。だから待ちくたびれた」
「……じゃあ、『お詫び』に何か買うから、コンビニまで行こうぜ」
「と~ぜん」
朔間先輩は笑って手を差し出した。繋ぐ。繋いで揺らして、ブランコにする。朔間先輩の硬い手――板のように硬い、豆だらけで硬い、ギターやらヴァイオリンやらドラムやらを毎晩空が白み切るまで練習し尽くして硬い手の平に、晃牙の手が乗る。
春の夜を出たら徒歩2分のコンビニに入る。そして煌々と明るいコンビニでお詫びを買ったら食べる場所を探す。場所を見つけて食べ終えたら、ふたりで眠る場所を探す。そうして眠る。眠る。眠った。おやすみ先輩。
おやすみ晃牙。