こいわずらう
執事喫茶の頃の話
素敵な恋をしていますね、と語る瞳にランプの灯りが反射している。
素敵な恋をしていますね、と語る瞳にランプの灯りが反射している。
戯言を弄ぶには優しすぎる声音だ。
「コレが恋なら、おぬしは世界と大恋愛じゃよ」
「恋する者は皆そう言います」
犬を手元に置きたがる、それのどこが特別だろう?
そう訝しむ17の春、真夜中の演劇部室に恋の足音が響いている。
※
「うがああああ! こんなモン着てられっかよ!」
「ほんにうるさいわんこじゃのう。あぁ嬢ちゃん、気にせんでよい。こうも無駄吠えばかりする犬は、我輩が向こうで躾けてこようぞ」
「は!? あ、おい引っ張んな! 離せクソヤロ~! ……何すんだよ!」
零が給仕室の扉を後ろ手に閉めると、晃牙は早速吠えかかった。首根っこを掴まれたまま引きずられて、あまつさえ放り投げられて、孤高の一匹狼のプライドはズタズタだ。けれど晃牙の飼い主は、ちっぽけなプライドなど捨て置けとばかりに冷めた目で愛犬を見下ろす。
「う~ん、困ったのう。こうもわんこがうるさいと喫茶の意味がなくなるわい」
「別にどうだっていいだろ執事喫茶なんざ! 俺様はまだ納得してね~ぞ!」
「UNDEADの名声を取り戻す第一歩なんじゃがのう……どこぞの犬には些事であったか」
「ぐっ……」
零がわざと嘲笑を浮かべると、晃牙は悔しそうに口を噤んだ。
賢い犬は好きだ。捨て犬みたいな目をしているけれど、気高い本能が己の従うべき相手を利口に見抜いている。
ならば、零が次にすることの意味もわかるだろう。
「いぬ……あぁそうじゃった、犬の躾には褒美をやらんとのう」
「あぁ!? ……っ」
褒美の前貸しじゃ、と言って零は晃牙に口付けた。子どもみたいに、触れるだけ。晃牙の意外と柔らかい唇を、ふに、と押しつぶして、弾力を楽しむようにそっと離す。合わせるだけのキスなどいつ振りだろうか。キスは情交のときくらいしかしないふたりだが、そのキスも零にとっては快楽を得るための道具でしかなかった。呆けた顔をした年下の恋人も、きっと同じだろう。
案の定物足りない晃牙が、顔を思い切り顰めて零の腰を引き寄せる。
唇を性急にこじ開け零の小さな口に舌をねじ込むのが獣じみていて、零は喉で笑った。
「ふふ、はン、ぅ」
「ン! っんぁ……このやろ」
耳の付け根を指でなぞれば狼も形無しだ。鼻にかかった甘い声は子犬の証。そのまま人差し指を耳朶から顎まで滑らせてやれば、焦らすような手つきに晃牙が体を震わせた。
競うように背筋を撫でられ、零の吐息も甘くなる。
「ぁ、んは、ふ……ッ」
「んん、はっ、ぁく、っ」
いくら晃牙がかぶりを振っても、零の指先は愛犬を離さない。顎の下の薄く柔らかい肌に指を這わせて、零を喘がせようと躍起になった晃牙の気を逸らす。
そうして無防備な上顎を舌先でつつけば、晃牙の目が切なそうに眇められた。いつの間にか背中の愛撫を忘れた両手が、零のジャケットに縋りついている。
いくら強がってみても、快楽を拾う体はまだまだ子どもだ。年上の恋人のほかに、口腔をこんなに愛撫されたことはないだろう。交わるためにするキスの気持ちよさも、零の手で知ったに違いない。
「は、んぅ、ん、ンぁ……」
「んっ……はぁ、っかわい、の」
愛おしげに見やれば晃牙の頬が朱に染まった。
喘ぐことは恥ずかしくないのだと躾けたのも零だ。いつのことだったか、未知の快楽に耐え忍ぶ晃牙の口から指を一本ずつ剥がしてやりながら、おぬしの声で我輩も悦くなるのだと繰り返し説いた。わななく唇からひとつ声を上げるたびに、羞恥に染まった目元が快楽に溶かされていったのを、零はよく覚えている。
晃牙の嬌声を聞くために弄した詭弁だったが、今もその嬌声が零と晃牙を煽る。
「あっ、ア、はぁ……っ」
ぬるりと犬歯をなぞって上顎をねぶり、口淫を真似て舌を吸う。
あの夕刻のひりつくような快楽を思い出したのか、晃牙の腰がもどかしそうに揺れた。この少年は、零の与えた情欲の味をちゃんと覚えているのだ。
言い知れぬ征服欲が零の胸を満たし、甘い痺れが背筋を舐める。
その隙をついて、晃牙が零の舌に噛み付いた。
「ぅあ、……っ!」
歯を立てたところに痺れが走り、波のように爪先まで広がる。
噛み千切られる恐怖が零の中から快楽を引き出して思考を溶かしてゆく。被虐欲だ。
「調子乗んなよ……っ」
晃牙が激情に駆られた目で吠えた。大きな獣が獲物を捕食するときのように、晃牙の男らしい手が零の細い肩を掴んで壁に勢いよく押し付ける。骨が軋むほどの強さなのに、晃牙から余裕は感じられない。与えられ続けた快楽を引きずって、縋りつくように貪る。
「んぅう、ふ、ンン、あっ」
整った歯列の根元を乱暴になぞられ、下唇がぎゅうと噛まれる。余裕がない分舌の動きも荒々しい。気持ちよくなるところばかり責められて、零の腰が重くなる。
「はっ、んく、ふはッ、はは、なんだ、あんたの方がずっとかわいいじゃねぇか!」
「っ、ぁむ、ンッ」
あからさまな挑発に零の頬が染まると、晃牙は満足気な顔でキスを再開する。
何度も角度を変えて口づけを深くされて、一度だけ交わった視線の先で、晃牙の双眸が欲にまみれてギラギラしている。目の前に零の愛でた子犬はいない。狼みたいな肉食の目をして、零を奥深くまで拓くつもりだ。
――食われる。
舌の先を捏ねられながら、零は口角が吊り上がるのを抑えられなかった。自分がなくなってしまうというのに、零の胸中に広がるのは息の詰まるような幸福だ。怒りも欲情も、すべて晃牙に向けられている。晃牙の中で生まれて持て余された思いが、舌を絡ませる度に身体の奥まで注がれて、零を狂おしくさせる――あぁ、なんて甘美なのだろう。
「これ、っ、前貸しというたじゃろう……っ」
けれど、今は『褒美の前貸し』をしているだけ。ご馳走をこの身に与えられることも、褒美を奪い尽くされることも、零は良しとしない。悦楽の分け合いに夢中になる晃牙に、導き手として自制を覚えさせるのだ。
「はっ、何の話だよ」
「ぁ、ばか、」
口内だけでは飽き足らず、晃牙は零のシャツの襟を開きにかかった。手袋を嵌めたままだと外しにくい。強張る手の甲に手のひらを重ねて制止を促せば、晃牙は躍起になってボタンを外した。襟元を大きく開いてはだけさせ、おいしそうな首筋に歯を立てる。
「ひ、ぁ」
やわい皮膚は敏感だ。歯を立てられれば、突き破りそうなそれに背筋が凍る。
ついさっき零が執拗に責めた箇所を仕返しとばかりに愛撫されて、零の頭が快楽で犯される。
「んぁ、は、っこの、駄犬め……!」
喉仏をぞろりと舐められ噛み付かれたところで、零は晃牙の肩を無理矢理押し返した。
「何すんだよ……!」
「っ馬鹿わんこ、ここで盛ってどうする。……こんな、かたくしおって」
わざと膝で晃牙の股を撫で上げれば、腰が跳ねた。晃牙が眦を羞恥の色に染めて睨んでくる。晃牙も零も、すっかり興奮しきっていた。これでは褒美の前貸しどころか追加報酬の与えすぎだ。相手のいいように翻弄された末のらしくない痴態が恥ずかしい。
お互い息の上がったまま、暫し見つめ合う。
「……おぬし、その目で接客しても良いかもしれんのう」
「あ?」
犬でも狼でもないハシバミを覗き込むと、零はぞくりと体を震わせた。
晃牙の瞳に満ちているのは獣の色だ。キスを落としてやる度に、蜂蜜色が愛欲に濁っていった。この色に見据えられると零の奥から情欲が引き出されて、理性も博愛も蕩けてしまう。
「執事のくせして、ご主人様を食らい尽くさんばかりの目をしておる」
こんな晃牙に見つめられてしまったら、女性客はどうなるだろう。自分みたいにドロドロに蕩けてしまうだろうか。
胸がざわめく。先ほどまでの快楽とは違う、黒い気持ちにさせるざわめきだった。嫉妬の名のつくものだと、賢明な零は知っている。
喜んだり妬んだり鬱陶しい胸中じゃのう、と零は己をたしなめた。
鬱陶しくて煩わしくて、けれど晃牙に恋をしている証だ。大人ぶった零の年相応の部分が、晃牙を独り占めしたいと泣いている。そのくせ零を駆り立てるのは毒のような被虐欲だから、この恋に瑞々しさなんて無い。
あるとしたら、
「俺様が食らい尽くしたいのはっ、テメ~1人だ!」
ひたむきに零を見つめて焦がれてくれる、愛犬のおかげだろう。
「……そうか、そうか♪」
「わかってね~だろ……」
わかっておるよ。
零は薄く笑って襟元を直した。犬の唾液で首元がべたつくけれど、接客するうちに汗ばんで気にならなくなるだろう。胸いっぱいに広がる喜びの前では、晃牙につけられたものすべてが愛おしい。キスマークのひとつやふたつ、首筋にでも付けさせればよかったかもしれない。そんなことさせたら今度こそ、狂犬を止められなかっただろうけれど。……そんな世迷言が脳裏をよぎる。『夜闇を総べる魔王』もすっかり色ボケしてしまった。
「まあとにかく、続きは夜まで待て。ここでおっ始めて開店が遅れたら目も当てられん」
「テメ~の口からマトモな話を聞くとはな。……夜だからな」
整えたばかりの襟元を掴まれて、唇に噛み付かれた。
口腔を荒らす代わりに、晃牙の赤い舌がキスでふやけた唇をゆっくりと舐め上げる。
ハシバミ色は晃牙のやわらかい頬の上で爛々と輝いている。濡れた瞳は零の情欲を掻き立てるばかりで、体の奥の燻りを忘れさせてくれない。
いつの間に煽るのが上手くなったのだろう。愛しい飼い犬は、教えた覚えのないことまで上達して、いずれ遠くにいってしまうのだろうか。
(これも、恋心というやつかのう)
馬鹿なことだと思うけれど、向けられた背中に恋の行く末を重ねてしまう。少年らしい背中を覆うのは、同い年の少女の誂えだ。きっと晃牙も彼女のような小さな存在を、いつかは守り愛でていくのだろう。
……犬を手元に置くのは、それが零の恋だから。渉の言う通りだった。あの頃の自分が知らなかっただけで、零は1年前から時間をかけて晃牙に恋をしてきた。そうして爪先まで恋の毒で侵されて、ようやく想いを自覚したのだ。
忘れられない。忘れたくない。
けれど悟られたくなくて、かわりに晃牙を夢中にさせる。
「顔、洗ってくる」
「早よう戻るがよかろ」
「わぁってら!」
荒々しく給仕室を出る背中に先ほどの色はない。
傲岸不遜の狂犬の姿があんなに甘く変貌するのは、飼い主の前だけ――そう思うと、零の胸中が仄暗い欲で塗り替えられる。
頬を染めて苦しそうに喘ぐ晃牙も、零を喰らい尽くしてやろうと欲情する晃牙も、誰も見たことがないだろう。零が見せない。
零の恋は、体を奥まで甘く焦がして侵してしまう恋。自覚しているよりずっとずっと、毒が回って煩わされている。