ひえた唇
『あぁ……どうか、憐れな我輩の舌に垂らしておくれ……』
『――媚薬みたいな命の水・otome-rose』
『今宵もおぬしの元に参ろうぞ……♪』
今夜も足音はまっすぐダイニングを目指していたから、ドアの開くタイミングで身を乗り出した。
「おかえりのキス、してもいいかのう?」
「……ただいま」
零に先んじてただいまのキスをすると、晃牙は悔しそうな顔を赤く染めて台所に向かった。どんなに恥ずかしくてもしてくれるのは零の躾のたまものだ。おかえりのキスを待つのはプライドが許さなかったからかもしれない。
まるで新婚さんみたいじゃのうと茶化してやったら明日からキス抜きになるだろうから、零は喜びたくて仕方ない唇を押さえて「おかえり」とだけ言う。狭いDKにいるから晃牙の背中にすぐ追い付いた。
「お返しのキスじゃ♪」
「いらね~よ、あんた舌入れてくるし……んっ」
何かのフリかと思いつつ、フレンチキス。そのまま顔を引けば安堵の吐息を感じたから、おまけで下唇に舌先で触れる。名残惜しくするテクニックだ。
「……だからヤなんだよ」
「ん、クク、術中に落ちおった」
角度を変えて合わせながら、晃牙の指が腰骨の上を撫でる。
「ぁむ……ご飯より先に我輩を食べるのかえ?」
腰骨から脇腹に移り、Tシャツの裾に潜り込んで、零の白い肌を掻く。
硬い指先を待ち望んで身悶えると、晃牙に腰を押し付けられた。ふたりとも昂ぶっている。
「ン、は、いいだろ別に……」
このまま流し台に手をついて、後ろから責められるのもいいかもしれない。立ったまましたら感じ過ぎてしまうだろうか、なんて期待する零の服を、晃牙が脱がしにかかっている。
腹が空く分性欲も高まるようで、急いた手つきだ。ぐいと胸元までたくし上げて、ふと思い出したように元の丈まで引っ張って、
「ってその服俺様のじゃね~か!」
……台所立ちバックは夢と消えてしまった。
「そうじゃったかのう?」
「テメ~のじゃねえなら誰のだよ! とぼけんじゃね~ぞジジイ!」
Tシャツの胸元には、優男の零に似つかわしくないバンドロゴ。長年リスペクトしている晃牙が見逃すはずもなかった。
「う~ん、最近物覚えが悪くてのう……これをやるから落ち着かんか」
「がううう、こんな、ジャーキー1本で……うめ~なコレ」
「販売員の嬢ちゃんのオススメらしいぞい」
「ふ~ん……も1本寄越せ」
高級スーパーのビーフジャーキーを平らげた口は、怒りを忘れるまいと無理矢理尖らされている。
「ん"ん、ウム、冷蔵庫の下の段に入っておるよ」
すっかり気をそらされた愛犬に笑いを噛み殺しながら、零は夕食の準備を抱えるだけ抱えてローテーブルに足を運んだ。生ハムにスタッフドオリーブ、タラモサラダ、アボカドのディップ、クラッカー、今朝漬けたピクルス……どう見ても晩酌の準備だ。
犬の餌(わんこのしょくじ)用にローストビーフ丼も用意しているが、零はすっかり飲む気らしく、第2陣でロゼワインを取り出した。
「酒は飲まね~んじゃなかったのかよ」
「試供品じゃよ」
「試供……あぁ、撮影に行ってたヤツか」
あの女くせ~やつ、と顰めっ面。
まだ新緑の若々しい頃に撮ったCMは好評で、零が舞台稽古に勤しむ間に飛ぶように売れたらしい。うら若い乙女を狙った吸血鬼が血の代わりに差し出されたワインに夢中になり、夜毎乙女に「もう一滴」と乞い願う……女騙しのくだらね~話だと恋人は吐き捨てるが、
「でも夢中になったじゃろう?」
「うっ」
ワインを強請る顔を見せればわかりやすく動揺された。
吸血鬼もとい零を飼い慣らしたい気持ちはあるようだ。
「実は我輩も落ち着いて飲むのはこれが初めてでのう、おぬしと酌み交わすのを心待ちにしておったのじゃ」
空のグラスを掲げて繊細な細工をきらめかせ、さっさと座った晃牙のすぐ傍に腰を下ろす。キスの呪縛から解けたばかりの青年の肩が跳ねたのには気づかないフリで、ハタチになったばかりの肌はやわこいのうなどと笑って頬に口付けた。ハリのある肌に残った柔らかさは、晃牙がまだまだ子犬であることの表れだ。何度も口付けても飽きない、絶妙の質感が良い。
「なんだよさっきから……飲んでね~のに酔ってんのかよう」
零はにんまり笑んで、慣れた手つきでワインを注ぐ。晃牙の頬と同じ、淡い薔薇色がグラスに咲いた。
「わんこの体臭になら、酔っておるよ」
「……っ!」
「痛い、痛い。年寄りは大事にしておくれ」
「チッ……年寄りの割には元気にしやがって」
零の手首を解放すると、晃牙はキスされた頬を立て膝に押し付けた。そういうのは布団に入ってから言えよ、なんて呟きはくぐもってフローリングに落ちる。
晃牙が零のニオイで自慰に耽っていたところを目撃されたのは、ついこの間のことだ。床オナのような間抜けな体勢で朔間さんと呼ぶ姿は当然ネタにされ、妙に似た声真似まで事あるごとに披露されている。これが変態仮面だったら迷わず殴っていただろう。殴らなかったのは、恋人の顔が商売道具なのと、零の私服をオカズにした罪悪感があったからだ。
とはいえ、あと1ヶ月はネタに出来るとほくそ笑む零も、
「うむ、我輩元気が有り余っておる」
実は晃牙を笑えない。そんなにニオイは良いものじゃろうかと猫をも殺す好奇心に突き動かされて、晃牙が出かける前に着ていたTシャツで試してみたのだ。そうしたら思いのほか夢中になって、後ろ手に慰めた後孔が今もじくじくと疼いている。
「有り余って有り余って……満たされないのじゃよ」
忙しい日々の直後の全日オフとなると暇を持て余して仕方ない。思いついたことを手当たり次第試してみるのも当然だろう。
それでも最愛の恋人がいなければ物足りない。
だから、晃牙の膨らんだ股間をそっと撫でる。
「この前は、わんこのモノを楽しむ前に寝てしまったからのう……今夜こそコレで気持ち良くせておくれ」
「……メシ、まだ食ってねぇぞ」
気を逸らそうとするくせに、雄らしい腕が零の腰を引き寄せる。
「我輩ではいかんか?」
「腹一杯にできるならな」
「ふむ、役不足じゃな」
当たり前だがキスは肉の味がした。
※
「はふぅ……相変わらず大きいのう」
胡座をかいた晃牙に向かい合って跨がれば、ふたりを隔てるのはお互いの衣服だけになった。
「先っぽが特に大きくて、飲み込むのも一苦労じゃ……んん」
慰めるように腰を動かして、晃牙に快楽を届けてやる。連日の稽古に零を奪られていた晃牙は、めずらしく零に抱きついて離れない。本人からすれば自分の檻に恋人を閉じ込めているつもりだろうが、傍目には飼い主にべったりの犬そのものだ。零の不在を責めるように、とうに生え揃った歯列で首筋など甘噛みしてみたりする。そうして我に返ってから噛み跡をぺろぺろ舐めるのもいじらしい。唾液が意外と染みるのは、深く噛まれたからだろうか。
明日の撮影現場で何と言い訳しよう。隣にいるであろう恋人の申し訳なさそうな顔まで叱られ待ちの犬そっくりに想像してしまって、こぼれた苦笑が腹の中の屹立に伝わった。
「……ッ」
吐息で零の肌を粟立たせても、逞しい腕は離してくれない。
「わーんこ。ややこ返りでもしてしもうたかえ?」
「……してね~し」
離れ離れが、ちっとばかし寂しかっただけじゃな。
なんてことは口に出さず、ただしょげた頭を肩口に押し付ける。
「ややこくらい甘えてくれた方が、我輩嬉しいんじゃがのう」
舞台上で誰よりも眩い晃牙をここまで寂しがりやにしたのは零だ。
孤高の狼だと言い張る捨て犬を懐かせて、愛し子の成長を間近で見たいというエゴに従い片時も離さなかった。おかげで晃牙はすくすくと成長し、代わりに子供らしい寂しさを持て余している。
寝顔すら合わさない生活の続く間は平気な顔をしているのに、どうしようもなくぐずぐずになってから寂しさが溢れ出す。
「誰が甘えるかよう……」
体と意識が裏腹で、抱きつく腕を緩められない。
幼い心を肯定するのも、おとなのフリをするのも難しい年頃。
「大丈夫じゃよ、我輩がぜんぶ受け止め……っん、んあ」
零も同じ。
親離れだというように大人の快楽を追わせるカラダと、際限なく甘やかすコトバが矛盾している。
「あう、あ、もどかし、っ」
向かい合ってするなんて、甘えて甘やかすための体位だ。揺すられて穿たれるのはハズレの場所ばかりで、零がいくら腰をうねらせても、ゆるやかな快感だけでは決してイけない。繋がったところをドロドロに溶かすだけ。
「ん、あ、こうがっ」
ただ、零は2歳上の大人だから、寂しさの御し方を知っている。
「はぁっ、ん、ン……っん」
「う……!?」
ローテーブルに手を伸ばして薄桃色の液体を煽り、零はいきおいで目の前の唇にむしゃぶりついた。
口腔にぬるいワインを流し込めば、立派な喉仏が大袈裟に動く。
「ふぅ……んん……はン……っ」
アルコールの染みた舌先で牙の付け根をなぞり、晃牙の舌をやわやわとつつく頃には、蜂蜜色の瞳が酒精に負けて蕩けていた。
とろんと伏せた瞼の下で、困惑と羞恥がない交ぜのまま、
「……まずい」と一言、真っ赤になった唇から溢れる。
「おかしいのう、フルーティな飲み口で初めてのワインにも良いと謳っておるのじゃが」
「なんか変な感じだ……よくこんなの飲めるな」
「でも、きもちよかったじゃろう」
「……」
こくり、と小さく傾く。酔いが晃牙を素直にさせている。
「同じこと、出来るかのう?」
薔薇色の液体を注いで手渡すと、晃牙はグラスを静かに傾けた。こく、こく、と飲み干す顔は少しだけ顰められて、妙な色気がある。
「これ、全部飲んでは意味が、んんっ」
忠告は濡れた唇で遮られ、舌に押されて喉まで無理矢理流し込まれる。アルコールの海で絡まりじゅぽじゅぽと抜き差しされれば、いつも通りのキスもふたりを煽った。
真似をしろと言ったのに、酒精は理性の箍を外したらしい。いつの間にか、晃牙の手はグラスを離れて零の尻たぶを揉みしだいている。遠慮なく掴んで左右に押し広げるから、
「ア、あぁっ!?」
深い所まで突き入れ掻き回されて、気が狂いそうになる。
「ぅあ、ひっ、このっ、まて、まてじゃぁ……!」
「……なんだよう」
慌てて腕を振り払えば、明らかに不満そうな顔で見上げられた。尖らせた唇が愛らしい。……ではなく。
「そういうのじゃないわい! いや我輩そういうのも好きじゃけども、奥の奥まで感じるからどちらかというと大好きじゃけども……そうではない」
仕切り直しだ。ロゼを注いで、
「もいっかい、キスしておくれ」
口に流し込む。
「わけわかんねえ……ン」
「ん、ちゅ、んんぅ……そうじゃ、ぁふ、んむ……ふ」
晃牙は従順に口づけた。葡萄の酸味がお互いの唾液とカクテルにされてまろやかになっている。その代わり、アルコールはそのままふたりの胃を焼いて、爪先まで体中やわらかい浮遊感で包む。
零が薄目を開けると、晃牙はすっかり蕩けた顔で舌の愛撫に夢中になっていた。狼の誇りすら忘れてしまったような、庇護欲を誘う瞳だ。
すっかり出来上がっている――そのことを確認して、ふやけた唇を離す。
「んっ……これで、おぬしは名実共に酔っ払いじゃ」
理性を、自制を無くせば、晃牙は寂しさを解放できる。年上の恋人としての手ほどきだ。お酒がアイドルを破滅させる劇薬だとしても、大人がついていれば大丈夫。狼の手足に絡んだ糸を、解してやる。
「アルコールに爪先まで浸ったおかげで、どこもかしこも薄い膜を隔てたように感覚が遠いじゃろう? そうやって世の中が――ともすると自分自身さえ――覚束ない中、確かなのは己の感情のみじゃ。だから皆つい悦びや怒り、悲しみや恋しさを暴走させる。それが『酔っ払い』の宿命であり所以でもある。したがって……如何な世迷言も酔っ払いのワガママでしかない。行動も、然り。……らしくないおぬしを、存分に見せればよかろう」
投げ出された両腕は重かった。持ち上げて零の首にそっと回させると、先ほどの檻とは違う、腕以外の力を抜き切った重みが零の薄い胸にもたれ掛かる。
そうしてしがみついて、すり、すり、と控えめに額が擦りつけられたのは、晃牙なりの甘え方だろう。だから『いいこ、いいこ』でまるい頭を撫でる。晃牙の柔らかい髪が汗に濡れていて、零の指の股をしっとり冷やした。
愛している。愛されている。
3年前より確かな絆が、晃牙から強がりの鎧を取り去っていく。
「……零さん」
「ん?」
首筋を震わせる声は、それでも気丈だった。
「あんたのこと、今度から零さんって呼ぶ。……付き合ってて、同棲もしてんのに、朔間さんなんてよそよそしいの、ヘンだし。イヤだし……」
「……これはまた、かわいらしい酔っ払いじゃな」
わざわざ素面の世界にまで持ち帰るのか。
妙な意地は子どもらしくて、大人びていた。尻すぼみの言葉に滲む嫉妬が愛おしい。
「ならば……今すぐ呼ぶがよかろ」
いちばん近くで。肌を重ねる距離で、自分だけの呼び名で呼んでみせてほしい。
こうが、と舌の上で転がした名前はこんぺいとうより甘く、ロゼワインより零を酔わせる。
息をふたつ吐くだけで零の胸は甘く切なくなるのに、晃牙に名前を呼ばれたらどうなってしまうだろう。
だから、晃牙に胸をつぶされてしまう前に、零は愛しい人の唇を食べに行くのだった。
※
そうしてアイドル活動3年目と2年目の夏が過ぎ、秋風が身に染みる頃に晃牙の新曲が出た。
編:3枚目のソロシングル発売、おめでとうございます。
今回はソロ曲初のバラード、しかもラブソングということで、心境の変化などお聞きしたいです。
大:別に、そういう大きな変化は俺の中にはないです。
ただ、こういうのもいいんじゃねぇか、って思うようになって。俺、零さん(編注:朔間零)のこと尊敬してて、あの人のソロ曲みたいなのを俺なりに歌いたくなったんです。あの人のマネにはしたくないんですけど。
編:朔間さんのソロというと、長年の愛が恋へ移ろう瞬間を歌う、伸びやかな声が印象的でした。
大:発売当初はロックじゃね~って反発してたんですけど(笑)、誰かのことを想い続けるのも、ロックだなって今なら思えます。
――零さんのこと、尊敬してて。
こんなことも言えるようになったのか、とは声に出さなかった。
そのかわり、ひどく慌てる晃牙の前で紙面をなぞる。1文字ずつ、ゆっくりと。紙の粗い粒が指の腹に擦れて下から上へと流れていく。
晩秋の風は冷たい。なんとなく窓を開けていたおかげで、剥き出しの指先はもちろん厚手のニットの隙間からも体温が奪われていった。こんなときはいきものの温かさが恋しい。だから机越しに引き寄せれば、モッズコートまでひんやりしている。
抱き着く先を間違えたかのう。馬鹿言ってんじゃね~よ。
腕を無造作に掴まれて、コートの中に導かれる。少し湿ったあたたかさだ。晃牙の優しさも嬉しかったから、零は心置きなく抱きつき直して、ついでに鎖骨に額を押し付けた。甘える仕草だと、ちゃんと伝わっているだろうか。
拾った子犬は零が思うよりずっとすくすく育っていて、それでもまだまだおとなのわんこには成り切れない。
なってほしくない、かいなの中にいてほしい。ずいぶん未練がましい手つきに自嘲すると、馬鹿にされたと受け取った晃牙に恥ずかしそうに睨まれた。
その眼差しがほろ苦くなる前に、冷えた唇を交わしに行く。