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黄色い春のオムライス(アドニスと晃牙と零)

晃牙くんとアドニスくんが1年生の頃の、5月初旬のお話
この零くんはイラストで見たい(描けない)




 4限終わりのチャイムが鳴った。
 アドニスは数十分の戦いの末に息を吐いた。祖国でもある程度の教育は受けていたから世界史は苦手ではない。日本語会話もそれなりだ。だが板書、それも中国の歴代王朝の羅列を前にすると、ただでさえ難しいノートテイクがやれ横線は何本だここはくっつけるのか漢字の書き取りにてんやわんやで授業が耳に入らないのだった。
 ひらがなカタカナに漢字まで使いこなすなんて、日本人はすごい民族だ。
 しかし語学の勉強は根気あるのみ。残りの板書を書き写そうと顔を上げると、前の座席の生徒と目が合った。
「乙狩! メシ行こ~ぜ」
 生徒――大神晃牙が振り向いたままの姿勢で人懐こい笑顔を咲かせていた。教師すらまだ教壇で帰り支度をしているのに、財布を掴んで腰を浮かせている。
「今日はカフェテラスを案内してやるぜ♪ わかんね~ことあったら聞けよな!」
「ありがとう。いつも助かっている」
「ふっふ~ん♪」
 だが先に板書を、と黒板を仰いだときには日直が黒板消しを滑らせていたので、アドニスはがっかりしつつ席を立つ。
 廊下は5月の日差しで薄黄色い。そこに若々しい浅葱のブレザーの群れが泳ぎ、春の色だと感心するアドニスの背中を大神がぐいぐい押してカフェテラスまで急ぐ。カフェテラスは少し離れた庭園の中にあるから、3階の1年生はそれだけで不利だ。今日に限って同じ方向に行く生徒が妙に多い。
 大神もアドニスも人混みには慣れないし、実はカフェテラスは(一度だけだが)利用したことがあるし、無理に案内してもらうより購買で済ませた方がいいだろう。
 そう素直に告げたら、
「う。まあい~だろ、付き合えよ」
と言われた。
「俺様がそ~いう気分なんだよ。次ダンスだし、たまにはい~だろ」
 階段を跳ね下りる大神の頬が赤い。
 どういう気分なのだろう? と考えるうちにカフェテラスが見えた。
 勝手知ったるとばかりに入口を通り過ぎた大神は、店頭のメニューボードを一瞥するなりキョロキョロしだした。ガラス張りの開放的なフロアに進み、色とりどりの花の中で辛うじて空いていた席に着くときも、何か探している様子で辺りを見回す。そして、テーブルに頬杖をついて大きなため息を吐いた。
「いね~じゃん……」
「……?」
 金色の目が据わる。
「朔間先輩。水曜の日替わりは生ハムサラダがつくから何があっても食べにくる、って校内新聞のインタビューで言ってた。けど先輩いね~し……」
 会えると思ったのにな、と大神。
 なるほど『朔間先輩に会いたい』気分だったらしい。朔間先輩は大神の憧れの人で、日本に越してきたばかりのアドニスの世話を大神に頼んだ人でもある。大神は朔間先輩と同じ軽音部員なのだった。ということは。
「……放課後に部室で会うだろう?」
「昼休みも会っちゃワリ~かよ。っつか、あの人忙しいから部室にゃいね~んだよな。まあ朔間先輩はアイドル科のスーパースターだし、どこも引っ張りだこだしメディアでもめちゃくちゃ取り上げられてるし? 学内でも外でもステージで演ってる姿は最高にかっけ~し? 演ってなくてもめちゃくちゃかっけ~し? すげ~よな!」
 自分のことではないのに鼻高々の大神だったが、アドニスも心の底から相槌を打つ。
 朔間先輩はかっこいい。みなを喜ばせ、楽しませることに長けている。外見も上背があるのに雄ヒョウのようにしなやかだ。狩りではさぞかし名を馳せるだろう。この同級生だけでなく、アドニスにとっても憧れの人だ。
 大神の後ろは席を探す生徒でごった返していた。この前きたときよりもずいぶん多い。ふと、朔間先輩がいたら声だけでなく足音でも聞き分けられるかもしれないと思った。アドニスに日本人の知り合いが少ないからというのもあるが、優雅で、自信に裏打ちされた、けれど嫌味にならない足取りは、聴く者の鼓膜に心地よいリフレインを残していく。
 ーーコツ、コツ。
 そう、こんな感じの……。
 ……?
「でも、朔間先輩もたまには部室でゆっくりしてもい~よな。それで俺と――」
「俺様がなんだって?」
「うわぁっ!?」
 大神があやうく椅子から転げ落ちそうになった。
「亡霊か鬼が出たみたいに驚くなよ」
 と、朔間先輩の苦笑い。
 目を丸くするアドニスの前で、先輩はテーブルにグラスを2つ置くと、胸ポケットから紙の束とペンを出し、
「せ、せんぱい、なんで」
「ん~? あぁ、これ」
 自分の恰好――シャツを腕まくりして、紫色の蝶ネクタイを締めたエプロン姿、と手元の注文票とを見比べる。
「助っ人頼まれてんだよ。ホールのおばちゃんが病欠で人手足りないって、生ハムサラダ食べ放題でどうだ~ってさ。そんなオプション付けなくても入んのにな」
「そうなんすか……」
「ふふん、似合うだろ?」
 朔間先輩が大神の熱視線に気づいてわざとらしく胸を反らす。
 薄いシャツが胸筋の形にぴたりと添い、窮屈そうな襟元には蝶ネクタイの遊び心が加わっている。細い腰は同色のリボンと闇色のエプロンで覆われてタイトだ。腰から膝に掛けての禁欲的で洗練されたラインが、かえって男の色気のようなものを出している。
 アドニスはむかし父に連れられて出たパーティーを思い出した。会場の隅で暇を持て余していた自分に、そっと砂糖菓子をくれた給仕。広げた手の大きさと糖衣の薄紫とが目蓋の裏に優しく残り、ひとりきりの天蓋の夜からアドニスを何度も守ってくれた。
 幼心に憧れた彼が、今の先輩によく似ている。
「ーー似合っている」
 大神が千切れんばかりに頷いている。真っ赤な頬の上で両目がきらきらと輝いて、頬全体で笑っている。体育でもこんな顔は見たことがない。
 先輩も満足そうに笑う。
「で? ご注文は? ふんふん……了解、ごゆっくり~♪」
 
 フロアを渡る先輩の背中をアドニスが見つめていると、向かいから熱いため息が聞こえた。
「あぁ~……先輩かっけ~なぁ……!」
 大神だ。
「朔間先輩はかっこいいな」
「だろ!? 俺もああなりて~な……♪」
 なってやるぜ! と握りこぶしを胸の前できつく作る。 
「やっぱ腕立て伏せだなっ。あとスクワットと、体幹と」
 朔間先輩は両手にトレーを載せてスープ付き大盛りランチを運んでいる。今日の日替わりはオムライスらしい。皿いっぱいに盛られたチキンライスを卵のケープがふっくらと覆い、それでも裾をはみ出たケチャップ色が鮮やかだ。小皿の上のベビーリーフと生ハムも、レモンオイルのシャワーを浴びて踊っている。
 トレーは隣の席に置かれた。
「日替わり定食2つ、お待たせしました」
 そのまま見ていると、先輩がちらりと視線を寄越し、
「ったく……子犬に子グマみて~な目して。もうちょっと待ってろよ?」
 聞き分けよく頷く子どもに父ヒョウも笑顔だ。
 それから先輩はフロアを何度か往復したあと、キッチンに少し長めに消え、アドニスたちのランチを運んできた。
 トレーをふたりの前に危なげなく置き、慌ただしく見えない所作ですぐに引き返す。
 アドニスは皿を覗き込んだ。
「!!!!!」
 オムライスに絵が描いてあった。アドニスにはクマ、大神の方には犬が、黄色いキャンバスの上で吠えている。
 慌てて背中を目で追うと先輩が振り向いた。いたずら大成功の子どもの笑顔で『うまいだろ♪』と口パクで言って背中を向け、ひらひらと手を振る。
「先輩ってすげ~な……」
「あぁ……それに絵もうまい」
 赤い子グマの邪魔にならないよう、アドニスは卵の端からいただくことにした。
 
 ふたりが先輩の背中を見つつ昼食をとる間、朔間先輩は怒涛のランチタイムを華麗に捌いていった。
 たとえば細い体にしなやかな動きで人混みを掻き分け、生徒に呼び止められそうなタイミングで注文を集める。合間合間にキッチンを覗き込むのはケチャップを垂らし終えたばかりの卵を運ぶためだ。他のホールスタッフとも連携を取り合い、フロアの隅までお冷やを注ぎに行き、生徒も店員も笑顔にしている。
 今日に限って客足が多すぎる理由がよくわかった。みんな朔間先輩に会いに来ているのだ。伝説の助っ人を見るため、そして先輩に笑顔にしてもらうために。
「……やってやるぜ」
「大神?」
 気づくと向かいで大神がうずうずしている。
 ちょうど近くを通りがかった先輩を引き留めると、大神は顔をきりりとさせて言った。
「先輩、俺もバイトして~んすけど」
「おまえホント俺の真似したがるなぁ。おばちゃんに聞いてくるけど、1年ってそんなにバイトできね~んじゃね~か? 受けられる種類も決まってるし、授業数自体多いし」
「ぐっ……サボっても問題ね~っす!」
「いや1年の5月でサボんなって。つ~か」
 呆れ笑いだった朔間先輩が、ふとやわらかく微笑む。
「俺の真似もい~けど青春しろよ~? 友だちと遊びに行くとかさ」
 友だち、のところで先輩に目配せされる。
「……友はいない」
 戸惑いが言葉になった。
「いるじゃね~か。なぁ晃牙」
「えっ!? あ、ハイ……」
「な~んて、おまえら知り合ったばっかだもんな。俺も友だちいね~し。いや、4人くらいならいるか……? でも友だちでい~のかな、俺吸血鬼だし、『奇人』だし――」
 口の中だけで呟く先輩を横目に、アドニスは大神の顔を覗き込む。
 大神も戸惑いを隠せていなかった。孤高の狼だからだ。アドニスも、独りで生き抜くことが当たり前の国にいて、独りになるには小さいから大人たちに囲まれていた。まわりに同年代の子どもはいなかった。
 大神がそのままの顔で先輩を見上げると、完璧な笑顔に迎えられる。
「まあい~や、遊んで友だちになれば解決だろ。友だち100人いたらきっと楽し~ぜ? おまえら人間なんだからたっくさん作ってたくさん遊べよ! 青春もアンサンブルも人数いた方が楽し~だろ?」
「俺は、先輩さえいれば」
 先輩が目を細めた。
 アドニスも大神も、その瞬間とても息が吐けなくなった。優しいのに胸の苦しくなるような、ガラスで何枚も覆われた部屋の中の笑い方を見たから。
 先輩はふたりに言い聞かせる。
「楽しいぜ、絶対。……ほんとにさ」
 
 
 昼も盛りを過ぎたフロアに穏やかな空気が漂っている。
 遅い昼食をとりにくるのは先生くらいだ。他はアドニスたちのように空の皿の前で寛いで、みな食後の気だるさに立ち上がれない。
 朔間先輩も水を注ぎに行った先で演劇の先生と雑談している。
「そろそろ出るか……乙狩」
 大神が言った。あれから唇を尖らせたまま、黙り続けていたので喉の奥に声が絡んだ。
「あぁ……」
 答えたアドニスの視線も朔間先輩から離れない。
 先輩が傾けた透明な水差しの、ほっそりとした注ぎ口から水が落ちる。春の日差しを集めて輝きながら零れていく。透明なアーチが途切れる。先輩が困ったように水差しを覗き込み、レモンの輪切りが注ぎ口をふさいでいるのを見ると、会釈して取り換えに行く。
 空の水差しを抱えてフロアを渡る先輩が、ふと立ち止まった。
「……?」
 テラス席の方をぼんやり眺めている。
 ふたりはつられてテラス席を見た。
 先輩の視線はテーブルを越え、色とりどりの花咲くプランターを越え、テラスを囲む植え込みを越えて幻想にたどり着いた。
 黄色い春のさざ波が庭の隅に広がっている。
 
「――すいません、注文!」
「あっ、……は~い♪」
 誰かにうつつに戻されて、朔間先輩はすぐに笑顔で駆けていった。
 アドニスも腰を上げた。先輩ではないホールスタッフに代金を支払い、大神と玄関を抜けて外に出る。
 裏側に回る。先輩が無防備な横顔を向けていたのはこのあたりだ。生い茂る緑を掻き分けると黄色い波が目の前にあふれる。
 菜の花の群れが揺れているのだった。
「大神」
 花畑に立ち入る大神に、アドニスは板書のことを話した。
「あ? ノート? い~よそんくらい、今日付き合わせたし。他の授業のも見ろよ。……っつ~か、何でも聞けっつっただろ」
 先に戻って俺様の写しとくか? と大神は言い、さざ波の中でじっと温室の中を眺める。
 アドニスも眺めた。
 美しい、穏やかなショーケースがそこにあった。咲き誇る花々においしい洋食、すてきな給仕。子どもが憧れて覗き込み、駄目だと言われて諦める世界。いつか懐かしい思い出として忘れ去られていった場所。
 ガラスの窓に、黄色い波が寄せては返す。春の日差しで輝いている。
 ふたりはじっと幻想を見た。

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