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ファイプロニュース


 

 

ファイプロDのエディットレスラー達のストーリー
2007-2012年度版
(年表は降順)
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◇NCWP

  

2012年
・一月。氷上龍斗の後継者と目されながらも、人気の面で伸び悩む山縣が、刈馬に「俺を男にしてください」と直訴。刈馬はそれを張り手で返し、ボディスラムで投げると、「だからおまえは駄目なんだ。来い、手本を見せてやる!」と手を差し伸べた。

・刈馬はヒートバーリーを捨てて、山縣と組む事を宣言するが、刈馬のヒートバーリーに固執する塚間社長がこれを認めず。逆に山縣をヒートバーリーに加えるように提案した。
・刈馬はそれを承諾すると、今度は試合中の一草と加宮を強襲。山縣と二人で試合をぶち壊すと、彼らのヒートバーリーからの追い出しを宣告し、ここに新生ヒートバーリーの誕生を宣言した。

・一草は「なんで刈馬がおれのことを追い出したがっているのかわからない…」と困惑した様子で、加宮も「俺たちに足りない所があるからこういう事になったんだと思います…」と反省を口にした。

・刈馬は事の真相を「もともと俺は馴れ合うのが嫌いなんだよ。弾はイイ奴だ。親友ヅラして親しげにしてくる。(リングの)外でなら構わねえけど、リングの上にまで同じ空気を持ち込みやがる」「俺にはそれが我慢ならねえ。それに、俺たちが組んでも勝って当たり前だっていうヌルイ空気が漂うだけだろ? だから、俺はずっとタッグを解消したかったんだ!」と熱く語った。

・それを受けて一草は、「ヌルイ? おれは永原さんにずっとついてストイックにやってきた」「世界王者も取ったし、タッグの成績は刈馬より遥かに上だ!」「レッスルエンペラーズ、メタリックゲイル、G−UNIT、ヒートバーリー。全て歴史に名前を残す最強ユニットとして通っている! 刈馬のチームは汚名しか残していない!」と怒りを滲ませながら反論。「刈馬、デビューから二〇年かけておれが作り上げた実績をよく見てみろよ!」「結果を出すためにどうすればいいのか、刈馬よりもおれの方がよくわかっている!」とトップレスラーとしての自らのプライドを語ったが、最後に「氷上さんの下に居た刈馬は、おれとはプロ意識の感覚が違うのかも知れないな」とタッグ解消を残念そうな顔で締めくくった。

・ヒートバーリーを追い出された一草と加宮は、桧山の勧めで正規軍に加入。一方で近年は前座で若手の相手に専念していた清水からもラブコールを受けていた。
・清水は元プロレスリングFの伊武と那須を引き込み、ロイヤルファミリーFを設立。「四十半ばを過ぎた第二世代のおれにとって、これが最後の挑戦」と、タイトル戦線に意欲を見せた。

・最強タッグの名を欲しいままにしていた刈馬・一草組の解散により、タッグ戦線がにわかに活気づいてきた。
 三月の大会でベルトを持っていた桧山・瀬賀(ファイヤーS)組がフリーバーズ内藤・野村組に敗れると、リングを取り囲むように挑戦者希望者がわんさかと押し寄せた。

・新皇杯で優勝した桧山は、一草・加宮・井上と共に「正規軍の逆襲」と「NCWPの再興」を宣言。式島や石和が去り、存在感を失っていたNCWP正規軍がここにきて勢いを取り戻しはじめた。

・だが、シングル戦線は"プロレスの統治者"内藤の一強時代が続いていた。
 世界王座の防衛回数を十九回に伸ばした内藤は、「氷上龍斗に近づいた手ごたえを感じている」「オレが日本一のレスラーだと言えば、いまじゃみんなが認めてくれる」「だけど、オレが世界一だと言っても全員が首を縦に振るわけじゃない。歴代最高だと言っても全員が頷くことは決してない。それが現実だ……」「氷上龍斗は皆が世界一と信じたレスラーだった。式島和也は皆が世界一愛していたレスラーで、刈馬雅雅史は世界を相手に皆の期待に応え続けたレスラーだった」と先人たちをリスペクト。「オレはいま偉大な先輩たちに肩を並べた。だけどまだ超えていないんだ。来年こそ、来年こそはオレは彼ら全員を超えてみせます!」とリング上で語り、団体を代表する歴代トップ選手を超える宣言をした。

・第五回インターナショナルカップUSA大会へ向けた日本予選では、勝ち点二位で並んだヒートバーリー刈馬・山縣組が、同じく勝ち点二位の一草・加宮組を破り決勝へ進出。しかし勝ち点一位の内藤・野村組に、この日ニ試合目のヒートバーリーは苦戦を強いられ、16分21秒野村のアルゼンチンバックブリーカーで山縣がギブアップ。フリーバーズ内藤・野村組が初優勝を果たし、本戦へ駒を進めた。

・WWCとAWEの権利関係の問題でこれまで米国の開催を見送られてきたインターナショナルカップが、ついにプロレスの本場アメリカで開催。
・佐倉涼介がすっかり格闘家の雰囲気を漂わせVIP席で観戦する中、日本代表の内藤・野村組は決勝へ進出。
・しかし、地元米国のハーデストガイズに破れ準優勝。日本人の大会二連覇はならなかった。
 

2011年
・桧山の「俺たちの時代は終わっていた」宣言以降、内藤を脅かす存在として、『仁村賢利をデビュー一年でフォールした男』こと、佐倉涼介の復帰待望論が噴出するようになる。
 仁村会長自ら佐倉とコンタクトを取ったという話も伝わってきた。
・だが、一方の佐倉はNCWPを離れた後、式島のWNC.JPにスポット参戦する傍ら、総合格闘技に参戦しており、ハンターパドックMMAの大会では二年間で5戦3勝の成績を残し、現在は米国へと渡っている。
・佐倉がプロレスの世界へ足を踏み入れたのは主に金銭的な理由である。すでに借金は返済しているが、プロレス界の未来を危惧していると話す佐倉は、現時点でのNCWP復帰を考えていないと否定した。

・世界規模の不況が続く中、東北部地震津波大災害が起こり、日本ではイベントに対する消費マインドが一変した。
 チャリティーイベントにこそ人は集まるものの、通常興行での集客はさらに減少の一途を辿っていた。
 NCWP創設以来もっとも狭い会場も経験し、団体そのもののあり方が問われる状況に陥ってしまった。

・芸能人好きの塚間社長は、アイドルのイベントが消費マインド低下の影響を受けていないことに目をつけ、プロレスの構造改革案を雑誌で発表した。
「熱さを伝えるライブスポーツイベントという基本方針は変えるつもりはない」としつつも、NCWPの掲げるスペクテータースポーツの理念をより芸能界寄りにする構想を口にした。
 根幹として、『スポーツ』『ファッション』『ドラマ』『エレベーション』の四つの柱を掲げた。
 エレベーションとは『高揚感』のことで、他のスポーツでは味わえない観客との一体感を大事にする意味だと言う。
・四月より、あらためて今年のキャッチコピーを『みんなに勇気を与える。より洗練されたプロレス』に変更し、『スポーツ』『ファッション』『ドラマ』『エレベーション』の四つの柱を全選手に求めた。

・人気のあるフリーバーズ(内藤・野村ら)、ヒートバーリー(刈馬・一草・加宮)らも社長方針を受け入れ、スポーツ用品メーカーやファッション業界とのコラボレーションを実現。フリーバーズ仕様のファッションやスポーツウェア、ヒートバーリーの筋トレグッズや装飾品などを業界外部の企業へ一般販売するに至った。
 NCWPは、プロレスの窓口で客を集めるのではなく、街を歩く人々のセンスの良いファッションやグッズを入り口にプロレスに興味を持ってもらい、スポーツ性やドラマ性、観客との一体感でプロレス人気を高めようという戦略に出た。

・リング外では大きな構想が動きつつあるものの、リング上では変化に乏しい戦いが続いていた。
 仁村会長曰く、「今は打っても響かない状況」として、アクションを起こそうとする選手を諌め、無理な変化を嫌ったのだと言う。
 世界王者内藤は氷上龍斗以来の長期政権を築き、防衛記録を十四に伸ばし、ヒートバーリーは刈馬がヤサぐれ、試合を途中で放棄してタッグ王座を手放したものの、一草の説得で刈馬が立ち直ると、再び圧倒的な力でこの年のタッグリーグ戦を優勝で飾り、氷上龍斗・一草和秀組のエンペラーズでさえ達成できなかった、前人未到の四連覇を達成した。

 

2010年
・NCWPは今年で創立15周年を迎える。前身の日本チャンピオンシップレスリング(NWC)から数えて35周年となる本年は、かつてないほどに厳しい状況下でのスタートとなった。
・五十路を超えた坂田五郎や、佐藤大季らフリー選手の参戦もなくなり、他団体と交流戦を行うも、熱気は盛り上がらず。
・リング内外で話題性に欠く中、塚間社長はしっかりとした地盤固めを目標に掲げる。年間キャッチフレーズは『冬の時代を熱く乗り切れ!』となった。

・内藤人気、ヒートバーリー人気で集客は下げ止まったものの、会場全体に倦怠感が漂い、その雰囲気に嫌気した王者内藤は発奮を促し、より強い相手を求め世界王座を持ったまま海外遠征へと出発してしまう。
・内藤抜きで迎えた新皇杯では、決勝で刈馬を破った一草弾が二度目の優勝を遂げたが、五月の王座戦では王者内藤の前に16分足らずで沈んでしまう。シングルでは内藤一強、チームではヒートバーリーの天下と、NCWPの勢力図が完全に塗り固められた瞬間であった。

・六月シリーズではWWC世界タッグ王者:ヒートバーリー刈馬・一草組が、挑戦者:フリーバーズ内藤・野村組を撃退するも、試合後に敗れた内藤が「一匹狼を気取っていた刈馬雅史のクセに、今になって、群れていい気になってんじゃねーぞ!」とシングル戦線で存在感を失いつつある刈馬を挑発。
・これを受けて、刈馬は停滞を打破するためにヒートバーリーの解散を決意するも、塚間社長がヒートバーリーの解散を断固として拒否。両者の確執がリングに影を落とすまでに到った。
・ヤサぐれた刈馬は酒に溺れ、ソーシャルネットワークを通じて荒れた生活を暴露。式島が去った後の刈馬のモチベーションの低下は周囲の知る所となってしまった。

・第三世代筆頭の刈馬が落ち込む中、次期エース候補として期待される山縣は怪我に泣き、佐倉や石和と並ぶ逸材と思われていた加宮は独立心のなさが課題で、目の前の試合をただこなすだけで、トップに食い込むアクションが不足していた。
・創立二十五周年大会で刈馬を破った内藤がNWWC史上最長となる10連続防衛を記録し、NCWPの完全制圧を宣言。以後"プロレスの統治者(ソブリン)"の異名を付けられるようになる。

・さらに11月の王座戦で敗れた桧山は、「式島さん達の時代が終われば、俺たちの時代が始まるんだと思っていました」「それなのに、俺たちの時代はいつのまにか終わっていたんです」「刈馬や内藤のように、上の世代に食ってかからないとトップには立てなかったんですね……」と世界王者に届かなかった自らのレスラー人生を嘆いた。

   

2009年
・米国の信用不安により世界経済が揺れる中、塚間社長は仁村会長と会談。今年の目標に再度の中国進出。キャッチフレーズに「世界のNCWP」を掲げた。
・八月に行われた海外ツアーは、台湾、香港、上海の三都市を回る計画となった。
・昨年のオリンピック、年末のインターナショナルカップとスポーツイベントが好調な中国で行われた上海興行。反応はまずまずで、グッズ販売の売れ行きは好調であったものの、円高の影響や会場使用料の高額化などもあり、予想していたほどの収益は上げられなかったという。
・団体ではプロレスリングF山縣・伊武・那須組、刈馬・一草のヒートバーリー、内藤のフリーバーズなど、六人タッグ路線での充実を図るが、外国人選手の質の低下もあいまって、カードのマンネリ化が進み、国内の興行も観客動員は回復せず、団体は苦しい局面を迎えていた。

・九月に行われたNCWP14周年大会では、東洋王者野村と世界王者内藤の王座再統一戦が実現。
・世界王者内藤が19分48秒サンダーファイヤーパワーボムで野村を破り、最後のNCWP東洋王者に名を刻むと、歴史と伝統の同タイトルは再び封印された。

   

2008年
・NCWPに衝撃が走る事件が起こった。
 新年の挨拶で、新社長式島和也がNCWPを去る意思を発表。新年早々リング内外に大きな動揺が広がった。
・式島が決断に至った理由は観客動員数の減少を押さえ切れず責任を痛感したとのこと。
・しかし、関係者筋によると、ことの真相は仁村会長との確執のようだ。
・式島は日本全国の独立団体と提携し、日本中にプロレスジムを作る計画を練っていたが、仁村会長に却下され、社長職にありながらいまだ実権を仁村会長に握られていたことに幻滅したのだという。

・団体離脱を表明した式島に賛同者が相次ぎ、団体は分裂騒動にまで発展する。
・三月末を持って式島と共に退団するのは、次期エース候補の佐倉涼介、WWCタッグチャンピオン石和圭一、元タッグ王者加藤勇作、そして新生NCWPデビュー第一号の鈴木タカシ。
 団体人気を支える中核とも呼べる人材の流出に、2000年以来の団体の危機とまで囁かれた。

・大ブーイングを浴びながら、式島和也の送別試合が武道館で行われ、メインイベントの内藤・仁村・刈馬・一草組 対 式島・佐倉・石和・加藤組の八人タッグは、30分時間切れ引き分けに終わった。
 試合後、刈馬が「この決着はいつかつけるぞ、コラッ!」とマイクで叫ぶと、場内は大歓声に包まれ、式島らは無言のまま深く一礼してリングを後にした。

・離脱した式島は日本レスリングネットワークコミッショナーズ「WN.JP(ダブリュー・エヌ・ドット・ジェイ・ピー)」を設立。自らの夢であった日本各地の独立団体と連携して全国規模のプロレスリーグの開幕を宣言した。
・旗揚げ戦では、西海上プロレスを離脱した真崎正道とメインイベントで激突。式島のWN.JPはこの年の話題を独占した。

・NCWPでは第三代となる社長に副社長であった塚間道正が昇格して就任。塚間は同時にレスラーからの引退を宣言して、社長業に専念する事となった。

・九月の旗揚げ記念シリーズはこれまでにない閑散とした雰囲気であった。観客と話題をレスリングネットワークに奪われ、人数不足のため代わり映えのないカードのジレンマに陥ったNCWPは、社長命令で刈馬と一草弾のレッスルエンペラーズを復活させた。刈馬は反発したが、二人の間に清水の下に居た加宮を加入させることで合意に至った。

・ここにプロレス界屈指の超大型チームが誕生する。身長185cm体重120kgの刈馬、身長194cm111kgの一草、身長191cm115kgの加宮というスーパーヘビー級のチームが産声をあげた。
・チーム名を"ヒートバーリー(熱き渓谷)"と改めた新生WEは、その圧倒的なパワーでリングを席捲。世界王者の内藤すらも、その圧倒的な力で叩き潰した。
・ヒートバーリーは中国で行われた年末のICでも優勝を収め、2000年以来八年ぶりにインターナショナルカップの優勝トロフィーを日本へ持ち帰った。

 

2007年
・NCWP新体制が始まる。代表取締役社長に式島和也。取締役副社長に塚間道正、同取締役副社長に加藤レフェリーを加え、マッチメイカーはフロントの井上氏に決まり、仁村時代とは違う新しいプロレスに期待が集まった。
・就任発表時はやや暗い顔で受け答えした式島だったが、年を明けた一月シリーズには意欲に燃える姿勢で臨み、開幕戦で行われる社長から全選手へのメッセージも熱が篭っていた。

・式島の掲げる理想は、選手の個性を生かしたプロレス。本年度のキャッチフレーズは"個性重視のプロレス"に決まった。

・式島社長自身はベルト戦線から距離を置き、いまだトップの一員でありながら多くの試合を解説席で観戦し、プロデュースに努めた。
・よりスタイリッシュにワイルドにと求められた刈馬は、当然のように反発。式島をリングの上に引き戻そうと画策するがうまくいかず、最大のライバルのフェードアウト共に徐々にリング上での存在感も失ってしまう。

・ニューエンペラーズカップを制した内藤は、『20世紀のプロレス』 …と、古くなりつつあった自分のスタイルを揶揄されると、「見返してやりますよ」と不機嫌に答えた。内藤は新皇杯優勝の勢いのまま刈馬の持つNWWC世界ヘビー級王座を奪取すると、観客に向かって「オレと! オレたちで新しいプロレスしよーぜ!」と訴えかけた。
 最初は「?」マークを浮かべていた観客も、何度目かのマイクパフォーマンスの後「オレと!」「"オレ達で!"」『"新しいプロレスをしよーぜ!"』という掛け合いが定着していった。

・式島がトップ戦線からフェードアウトし、刈馬も王座から転落したこの年。NCWPリングは内藤一色に染まっていった。
 防衛戦で野村、ブック、桧山を撃退した内藤は、年末のタッグトーナメントも塚間とのコンビで優勝を飾り、名実共にNCWPの頂点に立つ。
 だが、その勢いはフリーバードの頃のかつての熱狂には程遠く、ともすれば、どこかぬるい予定調和のような空気が漂うものであった。

・プロレスリングF出身、氷上龍斗の付き人を務めた身長2mの山縣彰人がNCWPで再デビュー。再デビュー戦では有望株の佐倉涼介を追い詰め、長身から繰り出されるジャンピングパイルドライバーで観客の度肝を抜いた。仁村前社長から徹底的にしごきぬかれたという山縣は新皇杯でも準決勝まで進むなど、その実力は本物。次期エース候補としてこれからに期待がかかる船出となった。

(ファイプロリターンズ)