くらいみち


 


 闇の中を歩くという行為は人類にとって耐え難い苦痛だ。
 踏み出したその先にどんな危険が潜んでいるかわからない。その恐怖は想像以上に精神を疲弊させる。
 諦めないことを信条としているが、変わらない景色に心が折れそうになる。時間の感覚がない今、永遠に彷徨っているような気分にさせられるのだ。
「大丈夫か」
 足元をふらつかせた金城に心配そうに福富が言った。
「少し休んだ方がいいんじゃないか?」
「いや、いい」
 またいつあの獅子が襲ってくるかもわからない。立ち止まるわけにはいかない。もはや強迫観念ようだった。
「では、気が紛れるようにひとつ話をしようか」
「なんだこんな時に」
 渋い顔をする金城に「まぁ、いいじゃないか」とのんびりと福富は言う。
「昔々あるところに一人の少女いた……」
 赤ずきんを被るその女の子はある日、病気になったおばあさんのところへお見舞いに行くことになった。途中でお花を摘みながら。ようやく辿りついたおばあさんの家。でも、様子がおかしい。
「流石にその話は知っているサ。祖母は狼なんだろう」
“どうしてそんなにお耳が大きいの?”“それはお前の声がよく聞けるようにさ”“どうしてそんなにお目々が大きいの?”“それはお前の顔がよく見えるようにさ”
“どうしてそんなにお口が大きいの?”
――それはお前を食べる為さ。
 福富はそこまで言うと急に話すのを止めた。
「続きは?」
 猟師が鉄砲を打ってハッピーエンドのはずだ。
「ない」
「何を言っているんだ。この後があるだろう」
「オレの知っている話はここまでだ」
 気に入らなかったのならすままない。それなら別の話をしよう。
 福富はそう言って再び語り始めた。
「あるところに七匹のこやぎとその母親が住んでいた……」
 母やぎは街に出かける時にこやぎたちに言い含める“誰が来ても決してドアを開けてはいけませんよ”元気に返事をするこやぎたち。母やぎは安心して家を出た。
 そこへ腹を空かせた狼がやってくる。“お母さんですよ。ドアを開けてちょうだい”こやぎたちは応える。“お母さんはそんなガラガラ声じゃない”
「童話が好きなのか?」
 からかうように金城は言った。懐かしい物語だ。子どもの頃、何故チョークを食べると声が高くなるのか不思議だったものだ。
 福富は金城に何か言うこともなく起伏のない声で物語を続ける。
 チョークの頬張っても、足の黒さでバレてしまった狼は街で足に小麦粉をはたいてもらう。そうやって狼は再びこやぎたちの家の前に立つ。“お母さんよ、ドアを開けてちょうだい”“わぁ、お母さんだ。お母さんが帰ってきた”こやぎたちは大喜びでドアを開けてしまう。そして――
「一人残らず食べられてしまった」
「違う。末っ子だけ時計の中に隠れていたはずだ」
「そうだったか。覚えていないな」
 気のない返事をすると福富は金城に尋ねた。
「この二つの話の共通はなんだと思う?」
「狼が悪役なことだな。ヨーロッパにおいていかに狼が嫌われていたことがわかる」
「なるほど」
 自分が問題を出したのにも関わらず福富はぼんやりと相槌をうつ。
「どうかしたか。足が痛むのか」
「少し話し疲れただけだ。今度はお前が何か話してくれないか?」
 そう言われても金城は考える。
 福富は先ほどから金城を怖がらようとしているのか、残酷な結末の童話ばかりしている。仕返しに驚かせてやるか。未だ晴れぬ目の前の闇を睨みながら自分を奮い立たせるように金城は口を開く。
「昔、箱根に直線の鬼がいた事は知っているな?」
「ほう」
 興味深そうに福富が相槌を打つ。
「お前には黙っていたが、奴とは一度だけサシで勝負したことがある」
 まだ福富と付き合う前の話だ。
 卒業を控えたある日。新開が愛車を担いで千葉までやってきた。
 田所に用事があるのかと思ったが、新開が指定したのは金城だった。
少し付き合ってくれないか
 穏やかな口調にも関わらず、有無を言わせない雰囲気だった。
「鬼とオレは、ほらお前とも走ったことがあるだろう。あの道を並んで走った」
 新開は走りながらよく喋った。中学時代の福富との思い出から始まって、箱学へ入学する際に互いに約束をした話。新開が崩れた時に信頼してくれたこと。荒北、東堂との四人の絆。
寿一は……∞寿一が……
 何度も何度も新開はその名を口にした。こちらが嫉妬するくらい。
「やがて鬼は前方の大きな樹を指差し、言った。あそこまで競争しないか?=v
 平坦な道が続くそのコースはスプリンターが圧倒的に有利だ。だが、金城は首を縦に振った。ここで逃げてはいけない気がしたのだ。
「オレは全力で鬼に挑んだ」
 脚がちぎれるかと思うほどペダルを回した。舌を振り回し鬼の形相で走る新開に必死で食らいついていく。僅かに金城が先行した場面もあった。
「だが、やはり鬼は速かった」
 ゴール直前、ぐんぐんと伸びるように進んでいく背中を思い出す。あれこそがスプリンターの走りだ。
「オレは負けた。すると鬼はオレにひとつ要求をした」
 オレの勝ちだと微笑む新開はその腕を真っ直ぐに伸ばして指で作った銃で金城を射抜いた。
だからサ、オレのお願いをひとつ聞いてくれないか
「鬼は言った。自分の……宝物を大切にして欲しい、と」
寿一のこと、よろしく。オレの大事な親友なんだ≠サう新開は言った。
「お前は何と答えたんだ?」
 それまで黙っていた福富が口を挟んだ。
「オレは頷いた」
わかった≠ニ一言だけ金城は口にした。それだけで十分だった。新開が微笑む。憂うような嬉しそうな寂しそうな、友を想うその顔は金城の心に深く響いた。今でもその表情を鮮明に思い出す事ができる。福富は幸せ者だ。
「その後、オレはその宝を手に入れて今も大切に想っている」
 金城はそう締めくくり、照れ隠しに繋いでいる手を強く握った。福富の冷えた手は熱くなった掌にはちょうど良い。
「驚いたか?」
 少し砕けた調子で金城は尋ねる。
「あぁ」
 無感動に福富が呟く。思ったよりも手応えのない様子に金城は内心がっかりする。もしかして既に新開から聞いていたのだろうか。
「箱根の鬼はとっくに滅んでいると思っていた」
「何?」
「それに強欲なあの鬼が宝を人間に渡すとはな。なかなか面白い話だった。だが、お前嘘をついているだろう。」
――何を言っている。
「よく考えてみろ。奴が人間と勝負するはずがない。お前はパンと競争しないだろう?」
 ぞわりと肌が粟立つ。
 話が噛み合わない。何故か福富は本物の鬼の話をしている。まるで箱根学園の新開隼人を知らない人間みたいだ。
 福富はこの怪異せいで、親友の事を忘れてしまったのだろうか。
――それとも、初めから新開隼人を知らない誰かなのか。
 どくん。どくん。と心臓の音がやけに大きく響く。
 落ち着け。金城は自分に言い聞かせるが、白い紙に落ちた墨汁のようにじわじわと疑念が広がっていく。
 思い返せば、意識を失ってから金城は一度も福富の顔を見ていない。
 それにこの手。
 金城は繋がっている手を意識する。
 長い間歩いているというのに汗ひとつかかない。それどころか、氷のように凍えたままだ。
「どうした」
 突然、福富が話しかけたので金城は小さく飛び跳ねた。
「呼吸が乱れている」
 そう言う福富の声がやけに耳の近くで聴こえる気がする。
「そうか。疲れてきたのかもしれないな」
「大丈夫か。先に歩くほうがキツイだろう。すまない」
 申し訳無さそうに囁く声は福富そのものにしか聴こえない。
 やはり自分の思い過ごしなのだろうか。そうであって欲しい。
「福富」
 疑念を抱えたまま硬い口調で金城は尋ねる。
「お前の方こそ大丈夫か。足が痛いだろう」
「問題ない。オレは強い」
 記憶と寸分たがわぬ口調に金城はますます混乱する。
 こいつは一体誰だ。もし何者かが福富に成りすましているのならば、その目的は何だ。
 その時、かちりと音を立てて記憶が一気に巻き戻る。
――この二つの話の共通点はなんだと思う?
 声が脳髄に響く。
 赤ずきん。七匹の子ヤギ。答えは何だ。
 金城は口を反射的に手で抑えた。ぞっとする。
 偶然だろうか。
 どちらも偽者に殺される話だ。

 さくさくと草を踏み荒らしながら歩く。できるだけ早く。光はまだ見えない。
 金城は喘ぐ。汗ばむほど暑いのに寒くって堪らない。
 金城は奴と繋がっっている手を盗み見る。
 放してしまいたいのに、金城の手は彫像になってしまったかのように動かない。そのまま視線を後ろに向けそうになって慌てて前を向く。 
 振り返ってしまいたい。
 恐ろしく甘美な誘惑が頭をもたげる。
 背後にいるのは誰だ。恋人なのか。恋人の皮を被った化物なのか。おそらく後者なのだろう。脳裏に顔のないのっぺらぼうの姿が浮かぶ。
――それとも。
 金城は想像は悪い方悪い方へと傾いていく。
 毛むくじゃらの怪物が今にも金城を襲おうと笑っているような気がしてくる。闇に覆われて何も見えない。その時が来ても金城は何も気付かないだろう。
 恐ろしい。恐ろしくて、恐ろしくて。恐ろしいのに、見たくってしかたがない。
 湧き出るような好奇心を金城は無理矢理に押さえつけてる。先を急ぐしかない。一瞬でも立ち止まってしまえば、振り返らない自信はなかった。
“絶対に振り返ってはいけない”
 手を繋ぐ時に奴に確かに言っていた。
 金城は背後の者と唯一繋がっている自らの手を意識する。握っているというのに少しの暖かさも感じさせないその手。
 この手の主と約束をしてしまった。破ればどんな目に遭わされるかわからない。
 約束を破る事はこの手の話ではタブーだ。
 振り返ってはいけない。立ち止まってはいけない。
 自分に言い聞かせる。
 だが、そんな金城を知ってか知らずか背後の見知らぬ男は囁く。
「疲れた。金城、少し休もう」
 福富の声を借りて奴は金城を誘う。
「少しなら平気だ。さぁ」
「駄目だ」
 ひたすらに進んでいく。見える景色は相変わらず黒に塗り潰されている。それが金城の心を削ぐ。誰かの箱庭を彷徨っている感覚。ゴールなどない。
「金城」
 奴が甘えたように名を呼ぶ回数が増えてきた。
 疲れた。休もう。少しくらいならば大丈夫。
 エラーを起こした機械のように同じ内容を執拗に繰り返す。その度に金城は断り続ける。
「金城」
 また奴が名を呼ぶ。何度目かわからない。
「オレは休まない」
 何もない空中を睨みながら金城は先に宣言する。奴の魂胆はわかっている。
「違う。何か聞こえないか?」
 そう言われて金城は耳を澄ます。相変わらず森はしんと静まり返り、自分たちの足音だけが響いている。
「聞こえないが」
「微かに聞こえないか? 獣の走るような音が」
「なにッ」
 恐ろしい獅子の鋭い牙を思い出して金城は思わず立ち止まってしまった。
 再び耳を傾ける。闇に溶け込むよう深い沈黙。風の音さえしない。
「何も聞こえない」
 気のせいだ。素っ気なく金城は言う。だが、福富は返事をしない。
「福富?」
 その密やかな息遣いも感じられない。
「福富」
 そうしているとまるで誰もいないような気がしてくる。本当に誰もいないかもしれない。だが、未だに金城の手の内に誰のものか知れぬ手の感触はある。
「福富、」
 限界だった。知りたい答えは全てすぐ後ろにある。砂漠でオアシスを見つけたようなものだ。喩えそれが蜃気楼だろうと走り出さずにはいられない。
「振り向くぞ」
 そう宣言したのはせめてもの罪滅ぼしか。
 金城はゆっくりと首を回そうとした。
 その時、前方から草が揺れる音がした。

 暗がりの中に光が浮かび上がる。鋭い両の目。やがて小さかった光はは徐々に大きくなり、遂にはその全貌が姿を現した。
 なびく立派なたてがみ。しなやかな四肢。美しく伸ばされた尾。
 あぁ、金城は息を吐く。恐怖と感嘆で。魅入られたように金城は獅子を見つめた。
 獅子は不思議とすぐに飛びかかってはこなかった。ただじっと金城を見ている。その瞳には意外にも知性の光があるように見える。
 見つめているうちに急に胸が塞がれるような想いがして金城は狼狽えた。何故だか酷く懐かしい。
「金城」
 するりと背後から手を回されてそのまま抱きしめられる。奴だ。少しの暖かさも感じられないその身体。
「アイツを殺してくれ」
 すぐ耳元で声がする。
「無理だ」
 人が獅子に敵うわけがない。
「無理ではない」
 囁きに微かに笑みが混じる。
「お前がこう言えばアイツは命を断つさ」
――オレの為に死んでくれ。
 呟かれた一言に金城は険しい表情をした。
「そんなことあるはずがない」
「金城」
 出来の悪い生徒に話すように優しく諭すように奴は言う。肩に顎を乗せて頭をすり寄せてきた。
「オレを信じろ」
「だが、」
 信じられるわけがない。
 だが、この状況を打破する方法は思いつかない。いっその事思い切って言うことを聞くのも手ではあるかもしれない。
 当の獅子はこちらの会話が聞こえていないのか何かを訴えるようにひたすら金城を見つめている。
 その姿に金城は躊躇う。
――この獅子を死なせたくない。
 何故か強くそう思った。
 動かない金城に焦れたように再び囁き声がする。
「見ろ。剥き出しの尖ったあの爪を」
「あの爪は容易くお前の肌を切り裂くぞ」
 その言葉に金城は肋の傷を意識する。酷く疼く。
「アイツはまたお前の血を見たくて仕方がないんだ」
 殊更優しく彼は語り続ける。
「この首にに牙を立てたくてうずうずしてる」
 硬い指先が首筋を撫でる。
――殺せ。
 低い声が金城の鼓膜を揺らす。
 それが紛れも無く福富の声で金城は息が止まる想いがした。
 金城は福富の声が好きだった。福富は口数があまり多くはない。
 だからなのだろうか。その口から発せられる言葉は丁寧に選ばえれた価値のあるもののように思えた。
 金城は背後にいる男を振り払う。そして、獅子へと踏み出す。
「待て、どうする気だ」
 意外にも冷静に奴は言った。
「わからない」
 本心から金城は言った。
「だが、お前の思い通りにはならない」
 更に一歩前へと足を進める。獅子がピクリと動いた。金城は安心させるように微笑みかける。
「その獣と共に生きるつもりか」
「獣ではない。――こいつは王者だ」
 二歩、三歩。遂には小走りとなって金城は獅子に駆け寄った。
「福富」
 自分を見上げる獅子に金城は呼びかける。その瞳を覗き込んで確信する。
「お前は福富なんだろう?」
 どうしてそんな姿をしているかはわからない。だが、金城にはわかる。理屈ではない、もっと深いところで。
 獅子が頷くような仕草をしたので、金城は相好を崩した。ようやく本当の恋人と出会えた。
「不幸になるぞ」
 暗闇より声が響く。
「そいつといる限りお前は不幸になる」
 神託を告げるような厳かなさだった。
 しかし、金城は無視して福富のたてがみを撫でた。見た目より硬くしなやかな感触がする。
「喩えそれが本当だとして不幸になるのはオレだけだろう」
 福富が不幸にならないのならばいい。
「何故だ。そいつを殺せばお前は助かる」
「約束したんだ。絶対に傷つけないと」
 脳裏に新開の微笑みが浮かぶ。
「それだけ理由で」
「それだけあれば十分だ」
 虚をつかれたように背後の声は止んだ。静かになった事で闇がより深くなったように錯覚する。
 まだ油断してはいけない。
 金城は周囲を見ないように福富の顔だけを見つめていた。
 けらけらけらけら。
 その時、奇怪な鳴き声がした。空気が震える。
 けらけらけら。
「お前は不幸になる。不幸になる」
 けらけらけらけらけらけら。
 どうやら笑い声のようだ。不気味だが害はなさそうだ。
 金城は改めて福富に向き直る。まず、福富を元の姿に戻さなければならない。
 おそらくこの怪異の元凶は背後の存在に間違いないだろう。奴が解き方を教えてくれれば話は早いのだが。
「不幸になる。不幸に」けらけらけら。
 今は同じ言葉を繰り返すばかりで会話できそうにない。
 福富が不安そうに金城を見る。こうして見ると大きいだけで猫と変わらない。金城は目を細める。
「大丈夫だ。必ず助ける」
 金城は奴と交わした会話を思い出そうと試みる。そこに解決の糸口があるかもしれない。
 道中、福富を模しているせいか無口だったが奴が饒舌に話した事がある。二つの童話だ。金城を怖がらせる目的だろうが、違和感を覚えるほど楽しそうに話していた。
「童話か……」
 まさかな。そう思いながら、金城は福富の顎の下に両手を差し込んで上を向かせる。
 お伽話の定石。悪い魔女にかけられた呪いは――
 金城はゆっくりと金色の光る獅子の額へ唇を落とした。
けらけらけらけら。
 けたたましい笑い声が一際大きくなる。同時に福富の身体が更に輝き始めた。それはあっという間に目を開けられない程の強さになる。反射的に金城は顔を背けようとして、奴の方を見てしまった。
 そこにはまだ闇があった。赤い光が浮いている。それは目のように二つ並んでいた。
「お前は不幸なる」
 そう聴こえた瞬間ぐにゃりと歪む。何かを言う間はなかった。光の奔流がそこにも溢れてきて、金城はそのまま意識を失った。

 目を覚ますと星空が見えた。
「ここは」
 状況が把握できず、金城はぼんやりと空を見る。どうやら自分は仰向けに倒れているようだ。穏やかな風が頬を撫でる。
「金城」
 福富の声が聞こえる。身体を起こす気力もなく、金城は寝転がったまま応えた。
「本物のか?」
「お前こそ」
 金城は口の端を上げた。声のする方角を見る。そこには地面に座る人間の福富の姿があった。その近くには灯りの点いたままの懐中電灯が転がっている。
 どうやら元の場所に戻って来られたようだ。
「あれはなんだったんだろうな」
 独り言のように福富が呟く。金城にも答えはわからない。だが、今はそれよりも大事な事がある。
「見ろ」
 金城は手を伸ばして空中を指で指す。
 複数の淡い光が瞬いては消え、そしてまた瞬いて闇を照らす。
 福富の驚く顔が見える。金城は微笑んだ。
「蛍だ」

 何時間も森の中を彷徨っていた気がしていたが、現実では一時間程しか経っていなかった。何もかも腑に落ちないまま金城たちは宿への道を辿る。
「信じられるか。オレはライオンになっていた」
「あぁ。立派なたてがみだった」
「目覚めた時、二本足で立とうとしたができなくておかしいと思ったんだ。自分の身体を見ようにも眩しくてよく見えない。おまけに」
「おまけに?」
 福富が金城を睨む。
「お前が怪しい人間と歩いているところが目に入った」
「顔を見たのか」
 金城は唾を飲み込む。ずっと一緒にいたにも関わらず金城は見ることができなかった奴の正体。
「はっきりとは見えなかった。だが、目が赤く光っていたんだぞ。怪しいだろう」
「それは、そうだな」
「だから、オレはお前を助けようと駆け寄ったんだ。だが、お前は逃げた」
「悪かった」
「心配で死ぬかと思ったぞ」
「生きていて良かったな。お互い」
 ふと金城は教えられた福富を殺す方法を思い出した。あれは本当なのだろうか。
「福富」
「なんだ」
 力強い瞳が金城を捉える。鍛えられた身体と相まってその姿は生命力に満ちている。
 すぐに金城は考え直した。この男が金城に何か言われたくらいで死ぬはずがない。
「あれは悪い夢だ。ただの夢」
 獅子に追われた時の傷つけた足が痛むが黙殺することにする。
 福富は何か言いたそうな顔をしたが、結局は黙っていた。
 早く忘れよう。
 金城の言葉に福富は静かに頷いた。

 翌朝、隣の布団で寝ていたはずの福富がいなくなっていた。
 金城は慌てて布団から起き上がり、客室を見て回す。畳の上に福富の鞄が無造作に置かれている。だが、恋人の姿はどこにもない。
「福富」
 金城は上着を羽織って部屋の外へと飛び出した。
 ロビーを通りかかると昨夜金城に懐中電灯を渡しくれた女性の従業員に出会った。金城は迷わず声をかける。
「すみません。オレの連れを見ませんでしたか?」
「福富様ならここの裏の――。露天風呂へ行く道の近くで見ましたよ」
「そうですか」
 居場所がわかって金城はとりあえすほっとした。
「そういえば、露天風呂はどうでしたか?」
 昨夜の出来事を知らない従業員は無邪気に問いかけてきた。
「中々素敵だったでしょう?」
「温泉は」
 金城は曖昧に微笑んだ。
「あら、何か引っ掛かる言い方ね」
「そういうわけじゃ」
 言い澱む金城に従業員はしつこく追及してくる。早く福富に会いたい金城はどうせ信じてもらえないと思いつつも、昨夜の事を話し始めた。
「帰りに妙な石像を見たんです」
 この地域の守り神ですか。金城が尋ねると従業員は驚いたように頬に手を添えた。
「もしかしてあなたたち、“出来損ないの神様”に会ったの?」
「出来損ないの神様?」
「私も詳しくは知らないんだけど」
 そう断りながら従業員は記憶を掘り起こすように話してくれた。
「お祖母様が言っていたのよ。あの温泉の近くには神様になり損ねた出来損ないが住んでいるって」
 金城は奇妙な像を思い出す。地蔵に似たあれはその神の姿なのだろうか。
「それで、時々人間にちょっかいかけるのらしいの」
「人間を動物に変えるとか?」
「そう。でもね、悪い存在じゃないの。イタズラ好きの子どもみたいな。童話とか昔話が好きで話してあげるとお礼に未来を予言してくれたりするのよ」
 だから。言いにくそうに彼女は告げる。
「露天風呂に行く人たちには一応言うようにしてるの。何か起きた事はないけど。“出来損ないの神様”に会ったら何でも良いから童話でも話しなさいって」
「オレたちは言われていない」
「そうね」
 彼女は金城から視線を逸らして髪を弄る。
「そうね。ごめんなさい。大丈夫だと思ったの。“出来損ないの神様”に会うには条件があるから」
「条件?」
「カップルであること」
 小さな声で彼女は言った。
「だから、温泉でいちゃつかないでって男女のペアには言うの。神様に見られているかも知れないから」
 ねぇ。怪訝そうな顔をして彼女は言った。
「あなた達、温泉で何をしたの?」
 金城は引きつった愛想笑いが浮かべながら、その場を後にした。

 露天風呂へと向かう森の前で福富は立っていた。
 金城が近寄ると福富は振り返った。
「どうした。心配したんだぞ」
「金城」
 そう言ったきり、福富は再び森へと視線を戻した。
「昨日の事が気になるのか」
 金城は福富の肩に手をかける。すると、唐突に福富が動いた。反応する間をなく、福富に抱きしめられる。
「福富。誰かに見られたら」
「金城」
 たしなめようとする金城を無視して福富はぎゅうぎゅうと胸に顔を押し当ててくる。
「何かあったのか?」
 思い出したんだ。呻くように福富が呟く。
 金城は宥めるように福富の髪を撫でて、先を促す。
「何を思い出したんだ」
「お前は」
 福富が顔を上げる。切羽詰まった表情をしている。
「オレと一緒にいると不幸になるのか」
――お前は不幸になる。
「聞こえていたのか」
 確かに聞こえていてもおかしくはない。あの場に福富もいたのだ。
「福富、あれは夢だ」
「金城。オレは」
「全部、夢だ」
 優しくそう言いながら金城は福富の頬に手を添えた。
 先ほど聞いたばかりの従業員の声が耳に甦る。
――童話とか昔話が好きで話してあげるとお礼に未来を予言してくれたりするのよ。
 あの時、金城は“出来損ないの神様”に確かに話をした。
 あの不吉な予言は脅しなどではなく本物だったのではないだろうか。
「金城」
 顔を赤くした福富が目を伏せる。
「今度は額じゃなくて」
「わかっている」
 軽く笑って金城は震える唇にキスをした。
 幸せだった。世界で一番幸せだと思えた。
――不幸などならないサ。
 強い風が吹いた。
 金城の耳に樹々のざわめく音が聴こえる。
 けらけらけらけらけら。

【くらいみち】

2015/10/26