矢印くん


 


 寿という字はめでたいという意味を持つ。
 福富がそれを初めて知ったのは小学生の頃だった。
 自分の名前の由来を親に尋ねるという宿題を出された福富は家に着くなり母親に訊いてみた。
 その問いに母親はにっこりと微笑んだ。福富の幼い手を取って掌に寿≠ニ指で書く。この字はとても縁起が良いのだと母は幼い福富に告げ、懐かしそうに福富がまだ母親のお腹にいた時のことを話してくれた。
 穏やかな昼下がり。彼女は椅子に座って微睡んでいた。
 ふと気が付くと髭の長い人おじいさんがすぐそばに立っていた。にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべて母の腹を撫でている。母は息を呑む。助けも呼ぶことも忘れておじいさんを見つめる。彼に後光が差しているように見えた。やがて、おじいさんは満足したように頷くと現れた時と同じようにいつの間にか消えていた。
 母はその話を帰宅した父に話した。父は大いに喜んだそうだ。それは吉兆だ。きっと神様が祝福してくれたんだ、と。だから、幸せな子。寿一と名付けた。
 得意気に語る母親に福富はふうんと納得した。
 だから、“アレ”が見えるのか。
 福富は母親の背後に見えるモノを凝視する。
 長さ三十センチほどの赤い矢印が宙に浮いている。それは真っ直ぐに右を指していた。福富は考える。
「台所か?」
 福富の呟きに母親が口を抑える。いけない、火を点けたままだった。そう言いながら足早に去っていく。福富はもう一度、宙を見上げる。そこには既に何もなかった。

 幼い頃よりそれは見えた。自分を助けてくれる赤い矢印。
 いつも唐突に現れては正しい道へ福富を導いてくれる。
 以前、こんなことがあった。
 小学校へ行く途中、矢印が現れた。道端で丸まっている猫を示している。
 白い猫は気持ちよさそうに眠っている。起こしては可哀想に思える。福富は困ったように矢印を見てみるが、矢印はちっとも動かない。それどころか、早くしろというように点滅までし始めた。
 福富は仕方なく矢印に従う。
 しゃがんでそっと猫の身体に触れる。柔らかい毛に手を滑らせる。
「にゃぁ」
 猫が薄目を開けて福富を見る。そして、ひとつの欠伸をするとまた目を閉じた。
「気持ちが良いのか?」
「にゃー」
 かわいい。
 福富は嬉しくなって夢中で猫を撫でた。
「福富じゃないか。ここで何してんだ?」
 しばらくそうしていると声が聞こえた。福富は驚いて顔を上げた。声の主を見る。いつも遅刻ばかりしているクラスメイトだったからだ。
 しまったと福富は焦った。すっかり時間を失念していた。
 挨拶もそこそこに福富は走りだした。今まで無遅刻無欠席でいたので、今日で終わりにしたくはなかった。
 幸いな事に通学路にはランドセルを背負った子どもが何人か歩いている。まだ間に合わないということはなさそうだ。
 福富はほっとしつつ角を曲がった。この先にある大きな横断歩道を渡れば小学校だ。
 その時、けたたましいサイレンを音がした。咄嗟に振り返ると白い車体の救急車が後ろから猛然と走ってきて、あっという間に福富を追い越した。
 ざわざわと胸騒ぎがする。
 福富は急いで横断歩道へと向かう。庭に大きな銀杏の樹がある家の前を通り過ぎて、白い犬に吠えられながらいつしか駆け出していた。もうすぐだ。息を切らして福富は足を動かす。
 横断歩道の前には大人たちが大勢立っていた。
 近づくと話し声が聴こえる。
「酔っぱらい運転だって」
「危ないわねぇ」
「誰も怪我しなくて良かった。通学時間だったのに」
 パトカーと救急車が停まっている。その傍で事故を起こしたと思わしき運転手が警官に頭を下げている。
 福富は考える。
 もし、猫を撫でていなかったら自分はここで事故に遭っていたのかもしれない。
 いや、おそらくそうだったのだろう。
 あの矢印がなければ福富は事故に遭っていた。
 車がぶつかってひしゃげた信号機を見つめて、福富はぞっとした。

 矢印はいつも正しい。
 だから、中学の頃。初めて新開と喧嘩した日も福富は矢印に従った。
 部活を終えた帰り道の事だった。
 最初は仲良く話していたのだが、練習のやり方について話していたら互いについ熱くなってしまった。気付いた時には激しく言い合っていた。
「寿一なんてもう知らねェ」
 最後に新開はそう言って何処かへ行ってしまった。
「オレだって。お前など知らん」
 負けずに福富は言い返す。かっかと頭から湯気を出しながら、福富は家へと向かう。
 あんな奴。口もききたくない。
 だが、歩くに連れてその怒りは徐々に萎んでいった。
 「寿一」とこちらを見て笑う新開の顔を思い出す。
 後悔が福富の胸を過る。
 新開の言うことも一理あったのでは。言い過ぎたのではないか。新開はオレを嫌いになったかもしてない。 
 ぐるぐるとネガティブな想像が頭を巡る。
――もう寿一なんかと走らない。
 脳内の新開がそう言い放った所で福富は足を止めた。ちょうど福富の家が見えた頃だった。
 謝りたい。
 福富は心からそう思った。だけど、どうすればいい。
 福富は俯く。友達と喧嘩するなんて生まれて初めて事だった。
 今更、謝りに行ったところで新開は口をきいてくれるだろうか。とっくに家に着いているだろうし、会ってくれないかもしれない。
 明日にしよう。
 弱気になって顔を上げると矢印が浮かんでいた。赤いそれは福富が来た道を真っ直ぐに指している。
――今すぐ謝りに行けと言うのか。
 福富はしばし矢印を見つめた。やがて、頷いた。
 恐くないと言えば嘘になる。新開に冷たくされたらと思うと心が痛んだ。
 だが、新開と走れないのはもっと辛い。
 オレは強い。オレは強い。
 そう言い聞かせて福富は勢い良く振り向いた。
「あ、」
「お前は?」
 すると電柱の影に隠れていた新開と目が合った。
「どうしてここに」
 福富の問いに彼はあー、とかうー、とか言いながら視線を逸らす。
「やっぱ、なんでもねェ」
 そう行って去ろうとする新開を福富は追いかけて肩を掴んだ。
「新開」
「寿一」
「すまなかった」
 新開の大きな目が更に大きく開かれる。
「少し言い過ぎた」
「オレの方こそ」
 くしゃりと新開の顔が歪む。
「ごめんな」
「新開」
「何か照れくさいな」
 へへっと新開が笑う。つられて福富も眉が下がる。すっかり元通りだ。
「せっかく来たんだ。ウチに寄って行け。お菓子くらいはある」
「マジ。良かった。腹が減ってたんだ」
 喜ぶ新開を尻目に福富はこっそりと後ろを見る。夕日に紛れるように矢印は既に消えていた。

 歳をとるごとに矢印が現れることは減っていった。その理由を福富は自分が成長したからだと考えた。きちんと分別がつくようになったから、矢印の出番も減ったのだろう。
 高校一年ではもう年に数回しか姿を見せなくなっていた。そんな中、自転車競技部の練習中だったあ。久しぶりに矢印が現れた。青空に浮かび上がった赤はコースの外を示していた。
 福富は先輩たちに休憩をとると言って集団から外れた。
 何もないはずがない。福富は確信していた。
 そして、その場面はやってくる。 
 自販機でドリンクを買って飲んでいるとガラの悪そうな声が飛んできた。
「てめェ」
 そう因縁をつけてきた男。その男こそ荒北だった。

 福富は矢印に逆らった事はない。逆らう必要がないからだ。
 矢印が示す選択は福富が嫌だと思うものはなかった。それならば試してみようという気になる。
 もちろん、矢印を無視すればどうなってしまうのだろうという好奇心もある。
 だが、曲がった信号機を脳裏に浮かべては思い留まる。あえて危険を冒す必要はない。
 赤い矢印は福富にとって神のお告げに等しい絶対的なものだった。
 そう。あの瞬間までは。

 福富は我が目を疑った。
 黄色いジャージが自分を追い抜いた時、その背に赤い矢印を見た。突き刺すように黄色い背中を指している。
 高校二年。インターハイ二日目のことだった。
 どういうことだ。何故。何をしろというのだ。
 福富は動揺する。そうしている間も黄色い背は遠ざかっていく。矢印と一緒に。
「待ってくれ」
 矢印はいつも正しい。矢印はいつも間違わない。矢印はいつだって裏切らない。
 太陽の光を反射して矢印が輝く。離れいくそれに福富は咄嗟に手を伸ばした。
――その光はオレの
 振り返る金城の姿がスローモーションのように見える。驚くその顔が視界に大写しになった瞬間、身体が宙に投げ出された。視界が一回転する。そして、衝撃。

 パチン。パチン。
 取り返しのつかない事をしてしまった。
 ロードレーサーとして許されないことを。矢印のせいではない金城のジャージを掴んだのは紛れもなく自分だ。
 自分の弱さが。負けを恐れる心が。招いてしまったことだ。
 パチン。規則正しく音は続く。
「何を考えている?」
 ベッドに腰掛ける福富の手をとって跪くように爪を切っていた男は手を止めた。
 ふぅと生温かい息を指先に仕上げとばかりに吹きかける。
 むず痒さに福富は吐息を漏らす。
「ん。お前のことだ」
 そう言うと彼は大きな緑の目をうっとりと細めて、見せつけるように爪先から手の甲までを舐めて見せた。健康的な赤い舌がちらりちらりとのぞく。いやらしい。福富は下半身に熱が集まるのを感じた。潔癖な男の痴態に煽られる。
「金城……」
 ピチャピチャと音を立てて自分の指をしゃぶっている男の肩に福富は手を置く。
「どうした。今日はしないんじゃなかったのか?」
 からかうように言うと男になんと返せばいいのか分からず、福富は相手を睨む。金城は苦笑してするりと福富の横に座った。
「本当にいいのか?」
 先ほどとは打って変わって理性の光を宿した瞳が囁く。
 ここまで煽っておいてそれは無いだろう。と思うが、金城は自分の魅力に無頓着なところがある。そこがまた堪らない。
 福富はその逞しい背に手を回して抱きついた。
「めちゃくちゃにしてくれ」
 肩に顔に埋めて呟く。恥ずかしい事を言っている自覚はあった。顔を見ては絶対に言えない。
 こいつは厄介だ。金城のお決まりの台詞と共にキスの雨が降ってくる。
 幸せな気持ちが心を包み込む。だが、同時に影のような後ろめたさが甦る。
 矢印はこうなる事がわかっていたのだろう。
 あの落車がなければ二人は結ばれることはなかった。
 矢印はいつも正しい。福富にだけ。

 その日の事は実はあまり覚えていない。
 ただ珍しく自転車に乗らずに二人で出かけようという話になったことだけは記憶している。
 目的地は遠かったような気もするし、近場だったような気もする。
 何にしろ、福富と金城はホームで電車を待っていた。
 人はあまり居なかった。向かいのホームではベンチで座った女子高生が携帯を弄りながら、呑気に欠伸をしている。
「のどかだな」
 同じく最前列で隣にいる金城にそう言うと苦笑された。
「この駅はいつもこんなもんサ」
「そうなのか」
 東京とは違うと愉快そうに笑う金城を福富は不思議な気持ちで眺める。こんな風に金城と笑える日がくるなんて未だに信じられない。
 それから、二人は他愛のない話をした。最近のロードレーサーの事や、友人たちのこと。その内にけたたましい音がホームに響いた。踏切が下りるのが見える。
「特急だからこの駅には止まらないな」
 そう言って金城が軽く伸びをする。福富はその仕草を何気なく見て、息を飲んだ。
 さっきまで何もなかった空間に赤い異物が存在していた。
 例の矢印だった。
 それはいつかと同じように突き刺すように金城の背を示していた。
――どういうことだ。
 冷たい汗が背中を伝う。
 もうすぐ特急がこの駅を通過する。矢印が福富に要求していることは明らかだ。
 踏切の音がガンガンと頭に鳴り響く。気が狂いそうだ。
――この男を線路へ突き落とせ。
 矢印はそう言っている。
 そんなことできるはずがない。
 福富は震える掌を握りしめる。
 だが、矢印はいつも正しい。
 これを無視したら何が起こるのだろうか。ひしゃげた信号機。新開と仲直りした夕焼け。荒北と勝負した道。
 導かれて辿った軌跡が目の前に甦る。
 福富は金城に気付かれないようにそっとその背後に移動する。まじまじとそこにに静かに佇む矢印を福富は見つめた。
 どうすればいい。
 列車の近づく音が聞こえる。
 どうすべきだ。
 容赦のないその音は速度を緩めることなく迫ってくる。
 福富は金城の背に手を伸ばした。
 突風を巻き起こして電車が通り過ぎる。一切の慈悲を感じさせないそれは処刑場の首切り台を思い出させた。
「金城」
 すまない。その言葉は声にならなかった。
 電車が通り過ぎていく。後には何も残らない。
「どうしたんだ」
 おいおい。と呆れたように金城は言った。彼のシャツを掴み、その背に縋る福富に。
「人前だぞ」
「構わない」
 優しい金城の声に涙が出そうになる。自分の選択は間違っているかもしれない。でも、きっと間違っていない。
 福富は目を開く。いつも通り矢印は消えていた。
 今までありがとう。
 小さくそう呟いた。

 それ以来、矢印は福富の前に現れなくなった。もう二度と会うことはないだろう。
 少しだけ寂しい気もするが仕方がない。
 福富に導きはもう必要はないのだから。
 正しいことも悪いこと。運命を自分で選び取っていく。そう決めた。
 誰に何を言われようと一緒に生きていきたい人がいる。
「福富」
 自分を呼ぶ金城の姿が見つけて、福富は微笑んだ。


【矢印くん】

2015/10/27