くらいみち


 


旅は人を開放的な気持ちにさせるらしい。
「福富が露天風呂に行きたい」と言ったので旅館の畳に座っていた金城は驚いた。
 本館から少し離れた山奥にある露天風呂はさっき食べた山菜の天ぷらと共にこの旅館の名物のひとつだ。そういえば、この旅館に着いた時に福富は施設の説明を熱心に聞いていた。
 金城は顎に手を当てる。たまにはいいかもしてない。
「あぁ。行こう」
 頷くと福富は少しだけ嬉しそうな顔をした。
 ふたりが準備を終えると浴衣姿で部屋を飛び出した。
 旅館の外の露天風呂へと続く道の前まで着いた時、従業員に呼び止められた。
「山道は暗いでしょうから」そう言って彼女は懐中電灯を手渡してくれた。
「ありがとう」
「今日は他に行くお客さまもいないようですから、貸し切りですよ」
「それはいいな」
 金城が相好を崩すと彼女はぽっと顔を赤らめた。
「帰り道には蛍が見えるかもしれません」
 それでは、ごゆっくり。
 そう見送られて金城たちは温泉を目指した。

 山道と行っても道はそこそこ整備されており、どちらかというと平坦で歩きやすかった。更に親切なことに電灯がちらほらあるので、懐中電灯の出番はほとんどなかった。道の両隣は林が広がっていた。
 二人は露天風呂について話しながら、先を進んだ。
 夏の盛りは過ぎていたが、べっとりとした蒸し暑さはまだ残っている。金城は背中に汗をかきながら、これでは帰りもまた汗をかきそうだと思った。 しばらくすると激しく水が流れる音が聞こえてきた。二人は顔を見合わせる。
「あれか」
 福富が指を指す。その先には白い飛沫を上げて流れる小さな滝が見えた。手前に岩を積み上げて作られた風呂がある。近くまで青々と緑が生い茂り、月明かりに照らされたそれは背後の滝と相まって風情を感じさせる。
「すごいな」
「あぁ」
 感嘆のため息がでる。
「早く入ろう」
「あぁ」
 景色に見入っている様子の福富に苦笑しつつ、金城は彼の淡い青の浴衣の裾を摘む。
「金城?」
「まずは服を脱がないと」
 木でできた脱衣所を手で示すと福富はようやく歩き始めた。

「生き返るな」
 半透明の湯に浸って身体の伸ばす。
「まったくだ」
 向かいにいる福富も気持ちよさそうに息を吐いた。白い肌がほんのり桃色に染まっている。日焼けした部分とのコントラストになんだか見てはいけないものを見た気がした。
 金城は背後の大きな岩にもたれた。空を仰ぐ。宝石のような星々が方々に散らばって、それだけで心が洗われたような気分になった。
 思い切って福富を誘って良かった。しみじみと金城は思い返す。
 福富と付き合い始めてそれなりの時間が過ぎたが、いまいち恋人らしい雰囲気ではなかった。
 付き合って顔を合わす機会は格段に増えたのだが、何せ二人とも自転車の事で頭がいっぱいなのだ。会えばロードの話をして、共に走った。爽やかな交際と言えば聞こえは良いが、要は友人だった頃と何ら変わっていない。
 そこで、金城は福富との仲を深める為にこのツーリング旅行を計画した。日常から離れて二人きりで過ごせば何かが変わるのではないかと思ったのだ。
 金城は目を閉じる。背後から流れる滝の音が心地よい。こうしているとそうした日常の悩みなどちっぽけなものに思える。
 今日、福富と思う存分走れて楽しかった。それでいいじゃないか、と思う自分がいる。焦る必要はない。自分たちはこれでいい。急いで変わる必要はない。
 それがわかっただけでもこの旅行に来た意味があった。
「金城、寝てしまったか」
 福富の声が聞こえる。金城はなんとなくまだこの夢心地な気分に浸っていたかったから、聴こえない振りをした。
「金城」
 ちゃぷんと水が揺れる音がする。どうやら福富が近づいてきているようだ。これは起きた方が良いだろうか。金城が迷っているうちに福富の気配はすぐ側まできていた。
 彼のじりじりとした視線を感じる。
 どういうつもりだ。金城はその意図を計りかねる。
「金城」
 滝の音に紛れた掠れた声が妙にはっきりと聞こえたと思うと、唇に柔らかいものが触れた。
 驚きで金城は目を開く。すると耳まで赤く染まった福富の顔が目の前にあった。
 あ、と金城は言葉を失う。そんな金城に福富は困った顔をして不機嫌そうに呟いた。
「寝たふりは卑怯だぞ」

 脱衣所を出ると夜の闇は更に深くなっていた。
 滝の音を名残惜しく思いながら二人は温泉を後にする。
「気持ち良かったな」
「あぁ」
 宿への道を辿りながら金城は福富の顔を盗み見る。
 温泉であんなに大胆な事をしたというのに悔しいくらい平然としている。こちらの動揺が馬鹿みたいだ。
 それとも。
 金城は考える。ああ言った事は慣れているのだろうか。巻島が以前“箱根学園のチャリ部はモテるらしいッショ”と嘆いていた事を思い出す。
 彼の友人たちのような派手さはないが福富は男前だと思う。主将でもある。言い寄られた経験も少なくないに違いにない。自転車以外に興味がありませんという顔をしていたって福富も男だ。その中の誰かと付き合った事があってもおかしくはない。
 金城は暗闇に浮かび上がる福富の白い首筋を見る。浴衣からのぞくそれはいつもより色気を放っているように感じた。
 腹の奥で暗い情念の火がつく。
 悔しいと思った。
 それはこの肌に触れたかもしれない誰かへの嫉妬なのか。男として先を越された事への悔しさなのか。
 どちらだとしても、金城は狭量な自分に呆れた。こんな一面があるなど一生知りたくなかったものだ。
「金城」
 少し前を行く福富が急に振り返ったので金城はどきりとした。
「見ろ、蛍がいる」
 福富が道の外の森の奥を指差す。小さな丸い光が幾つか浮かんでいるのが見えた。
「本当だ」
「綺麗だな」
 なぁ。と福富は無垢な目をして言った。
「もっと近くまで行ってみないか」

 電灯に照らされた道から外れると途端に心細く感じた。金城は借りた懐中電灯のスイッチを入れる。
「気をつけろよ」
 蛍に夢中な様子の福富に声をかければ「わかっている」と返された。捻れた樹の根で盛り上がった地面は歩きにくく、おまけに蛍がいる場所まで少し距離があった。
 慎重に歩を進める金城に対して福富はどんどん先へと歩いていく。その様はまるで迷いがなく堂々としていた。
「慣れているな」
「中学の頃、新開とこういうところを探検していた」
 懐かしむように福富は言った。
「楽しかったな。蛇に出会って慌てて逃げたこともあった」
「今も蛇がいるぞ」
 逃げるか? 金城が笑えば福富を取り巻く空気がふっと緩んだ。
「逆だ。ようやく捕らえたそいつが逃げ出さないかいつも心配している」
「福富」
 金城が衝動的にその肩へ手を伸ばそうとした時、福冨が突然立ち止まった。
「あれは何だ?」
 その視線を辿ると立ち並ぶ樹々に紛れて幼い子どもの背丈くらいの物体があった。金城は懐中電灯の光を向ける。
「地蔵? いや違う」
 それは石でできた像のようだった。姿形は地蔵に似ているが顔が決定的に違っている。通常は穏やかに閉じられているその瞳が禍々しく見開かれている。
「気になるな」
 福冨が近づく。金城も後に続いた。
 近づいてよく見るとその石像は酷い状態だった。
 薄い緑の苔が全身に生え、そのうえ雨ざらしの場所に置かれているためかざらざらと削れている。長い間、人が手入れしていないことは明白だった。

 金城は改めて地蔵もどきの顔を照らす。見開かれた目は置いておいて他の部分も地蔵と異なっている。口元は微笑んでいるように見えるが、それが見開かれた瞳と相まって不気味な雰囲気を醸し出していた。
 嫌な気配がする。この像を見ていると不安な気持ちになる。得体の知れない者と向い合っているかのような。
 隣を見れば、福冨も固い表情をしている。それが既に良くない影響を受けているように金城には思えた。
 早く蛍を見に行こう。金城がそう言いかけた時、像を見ていた福冨が息を飲んだ。金城は咄嗟に振り返る。
――なっ」
 像の瞳からぎらぎらと異様な赤い光がほとばしっている。
 なんだこれは。
 目が、逸らせない。
 そう思ったのを最後に金城の意識は遠のいていった。

 湿った土の臭いがする。金城はゆっくりと目を開けた。
「ここは……どこだ」
 光が見えない。金城は暗闇の中に倒れていた。混乱する頭を抑えながら慎重に身を起こす。
 福富と温泉に行って帰りに変な石像を見つけて……。血の気が一気に引く。
「福冨ッ。どこにいるッ」
 叫ぶとすぐ近くでうめき声が聴こえた。誰かが金城と同様に身を起こすのがぼんやりと見えた。暗闇に目が慣れてきている。
「そこにいるのか」
「……あぁ」
 金城は安堵のため息をついた。
「無事で良かった」
「金城。何が起きた? ここはどこだ?」
「わからない。気がついたらここにいた」
 金城は辺りを見回す。樹々らしき影が見える。さっきの森の中にまだいるのは間違いないようだ。だが、いつの間にか頭上で輝いていた星空はなかった。代わりに朧気げな闇が空を覆っていた。帰り道の方角さえわからない。
「蛍も飛んでないな」
「そうだな」
 呑気な福富の言葉に金城はぶっきらぼうに応えながら、腰を屈めて地面を探る。
「何をしている?」
「懐中電灯か、荷物を探しているんだ。お前も探してくれないか」
「わかった」
 空気が動く気配がした。恐らく福富が動いたのだろう。
 再び金城は地面に手を置いた。視覚が使えない以上、触覚に頼るしかない。だが、いくら探ろうと掌に触れるのちくちくと柔らかい草先の感触ばかりだ。
 一体、どうなっているんだ。
 次第に心の中に焦りが生まれる。
「福富、何か見つけたか」
 金城は福富に呼びかけた。気配でいることはわかるが、姿が見えないとどうも落ち着かない。
「ないな」
 あっさりと福富は行った。人型の影が上半身を起こすのが見える。金城も身を起こして影に向き直る。
「どう思う?」
「妙な事ばかりだな」
「あぁ。荷物が見つからないということは、オレたち以外の人間がここにいるということだ」
 単に天然ガスなどのせいで二人同時に倒れたのならば、荷物は近くにそのまま落ちているはずだ。誰かが持ち去ったか、金城たちが他の場所へ運ばれたかだ。
 金城は腕を組む。
 相手の目的は何だ。どうやって金城たちを眠らせた。そもそもあの像は何だったのか。
 わからない。情報が足りない。
 だが、ここにこのままいるのも危険に思えた。その得体の知れない人間が戻ってくるかもしれない。
 金城はどこかに宿へ戻る手がかりがないかと改めて辺りを見回した。
 その時、目の前の草むらが揺れたように思えた。
「何だ?」
 金城が目を凝らそうした瞬間、巨大な光の塊が飛び出した。圧倒的な光量に辺りが一気に明るくなる。金城は眩しさに耐えながら翳した手の指の隙間からその光源を覗き見る。
――嘘だ」
 そこには信じられない光景が広がっていた。三メートル程の身の丈をした雄ライオンがたてがみを揺らしてこちらを睨んでいる。全身から光を放つその姿は神話に出てくる聖獣のように神々しかった。ライオンというより獅子といった風格だ。
 金城は一歩後退った。
 嘘だ。ありえない。こんなことは。
 だが、それを合図としたように獅子が吠えた。心の底から震えるような恐ろしい咆哮だった。そして、大きな口からのぞく人の骨など容易く噛み砕いてしまえそうな鋭い牙。
 金城は弾かれたように獅子に背を向けた。走りだす。
「逃げるぞ、福富」
 すぐに福富の足音が金城の後に続く。
 右も左も判別つかぬまま金城は必死で走る。背後から怒るような獣の声が聴こえる。どうも相手はあまり目鼻が良くないようだ。そうでなければとっくに追いつかれている。だからといって立ち止まるわけにはいかない。恐怖だ。恐怖が金城の足を突き動かす。
 速く。速く。どこかへ。だが、どこへ。どこへいけばいい。
「金城、右だ」
 背後から福富の声が耳に飛び込んできた。金城は無言のままそれに従う。力強く大地を踏みしめる。
――ッ」
 その時だった。おそらく太い樹の根だろう。足を取られて金城の身体が空中へと投げ出される。一瞬の浮遊感、一気に地面へと叩きつけられる。その衝撃は予想より一秒遅くやってきた。金城は痛みに呻く。どうやら、転んだ先がちょっとした崖になっていたらしい。すぐにその後、福富らしい影が上方より降りてきた。
「大丈夫か」
「あぁ」
「しばらくここでじっとしていよう」
 福富の提案に異存はなかった。足がもう限界だった。二人は息を潜める。
 八つ当たりのような破壊音を撒き散らしながら、獅子の気配が近づいてくる。金城は逃げ出したい欲求を必死で堪えた。心臓が激しく鼓動し、抑えようとしても呼吸が自然と荒くなる。 
 不意に音が止んだ。しんと辺りが鎮まりかえる。虫の音さえ聴こえない。
――あぁ。
 視界に微かに光が混じる。
――アイツは今、オレたちの頭上にいる。
 金城は想像する。爛々と輝くあの目で自分たちを探す奴の姿を。ひくひくと鼻を動かす様を。やがて獲物を見つけて歓喜するその顔を。
 だが、現実はそうはならなかった。
 大きな雄叫びが空気を震わせた後、地響きを立てて獅子は去っていった。
 その音が完全に聴こえなくなった頃、金城は大きく息を吐いた。ようやく生き返った気がした。
「これからどうする」
 そんな金城に福富が尋ねる。その声が平静そのもので金城は驚いた。
「どうしてそんなに落ち着いてられるんだ。光るライオンだぞ。信じられるか」
「信じられなくともこれが現実だ。どうしようもない」
 それとも、と淡々と福富は続ける。
「これは夢か」
「そうであって欲しいものだ」
 金城はこめかみを抑える。夢にしてはリアリティがあり過ぎる。たちが悪い。
「とにかく安全な場所まで行かないと危険だ」
 ここが見つかるのも時間の問題だ。
「待て」
 歩き出そうとする金城に福富が声をかける。
「どうした」
「さっきここに降りた時に足を挫いたようだ」
「なんだって」
「一応、歩くことはできる」
「オレの背に乗れ」
 金城は即座に腰を下ろそうとしたが、福富はそれには及ばないと言った。
「お前に負担をかけるわけにはいかない」
「そんな事を言っている場合ではないだろう」
「大きな声を出すな。奴に気付かれるぞ」
 金城はむっと押し黙る。こういう時の福富は厄介だ。絶対に譲らない。
「ではどうする。ここに残るつもりか」
 いや、と目の前の影が首を振る気配がした。
「オレの手を引いて歩いてくれないか。それで随分楽になる」
「そんなこと――
 お安い御用だ。金城は手を差し出す。
「すまない」
 その手にひんやりとした福富の手が触れる。
 大切な宝物を扱うように丁寧にその手を握り、金城は先頭を切って歩き出した。手を引かれて福富が後に続く。
 ポキポキと自分たちが小枝を踏む音だけが辺りに響いた。
「そうだ、金城」
 思い出したように福富が囁く。
「なんだ」
「絶対に後ろを振り向かないと約束してくれるか?」
 こんな姿、情けなくてお前に見られたくないと福富は健気に訴える。
「振り返ってもこの暗さじゃ何も見えないサ」
「それでも約束してくれないか」
「福富?」
 しつこさに金城は首を傾げる。だが、それもこの異常な状況では仕方ないのだとすぐに思い直す。気丈に振舞っているだけで福富も相当精神を消耗しているのだろう。
「わかった。約束しよう」
 ついつい金城は頷いた。
「ありがとう、金城」
――絶対に振り返ってはいけない。
 何故か、背後の福富が微かに笑った気がした。

2015/10/26