人気の無い廊下を大股に歩み行く影。オイル汚れと灼けた鋼鉄の匂いで周囲から浮き立って見える壮年の男は、近衛兵の制止をはねとばし、謁見の間に通じる扉のノブをがっしと掴んだ。
蹴り破らんばかりの勢いで扉が開け放たれる。物思いから覚まされた王が言葉を発する前に、乱入者の先制パンチが放たれた。
「こぉりゃセシル!! やつらを牢に放り込むとは何事じゃあ!」
大音声がその場に居合わせた全ての者の鼓膜を叩く。彼を取り押さえんと肩にくっついていた近衛兵は、哀れにも意識を飛ばされ崩落ちた。
勝手に失神した若い兵士を部屋の外に追い出し、男は玉座の間近まで迫り寄る。危うく額冠を取り落とすところだったセシルは、安堵と緊張の入り交じる笑みで闖入者を迎えた。
「やあ、シド。そういえば、会うのは久しぶりだ。」
シド、と呼ばれた大柄な男は、顔の半分も覆う剛髭を揺する。
「ふん、挨拶なんぞどうでもいいわい! ワシなんぞより余程久しぶりの再会を不意にしおったそうじゃな!」
幼い頃より第二の父として、実子に対すると何も変わらぬ態度で接してくれた男の糾弾に、若き王は表情を陰らせる。
「……情報が早いね。」
「ベイガンの小倅が城内をうろついておったから、警護はどうしたとしめあげてやったんじゃい!」
父の汚名を晴らすべく懸命に仕える近衛兵の身に降り懸かった悲劇。ハンマーのような腕で、文字どおり首を絞め上げられた青年の姿を思うと涙を禁じ得ない。
「ベイガンも可哀相に……」
セシルの呟きはシドには届かず虚空に消える。
怒りと幾ばくかの酒気を帯びて真っ赤になったシドは、オイルの染みた太腕をセシルの両肩に振り下ろした。
「若造から話を聞いてみれば、何というザマじゃ! お主、いつから親友すら信じられんような情けない男に成り下がりおった!?」
「別に信じていないわけじゃ――」
「言い訳なんぞ聞きたくないわい! 大体お主、ここ一ヶ月ばかりおかしいぞい。他国からの訪問者は門前払い、国内から他国への旅行も禁止、挙げ句の果てに戒厳令……信じられんわい。」
セシルはシドの腕を下から持ち上げて外し、肩に残った熱を払う。と、シドはセシルの瞳を覗き込んだ。
「お主、偽物じゃなかろうな?」
大真面目な顔で途方も無い想像を吐き出すシドに、セシルは苦笑する。
「まさか。僕は僕だよ。」
「いや、わからんぞ。操られとるのかもしらん。」
シドはなかなか引き下がらない。
「あのね……偽物だったり操られてるんだとしたら、本当の事言うはずないじゃないか。」
半ば呆れてセシルは答える。腕組みをしたシドは大げさに肩を落とした。
「むぅ、どうやら本物のようじゃな。……いっそ偽物であってくれたほうが良かったわい。」
「ひどい事言うね……。」
捨て台詞紛いの文句にセシルは眉を顰める。その手の悪口は本人のいないところで言ってもらいたいものだ。
言うだけ言ってすっきりしたのか、幾分険の取れた顔つきになったシドは大きく腕を広げた。
「のうセシル、お主は王じゃ。じゃが、その背に負うのはバロンであって、孤独ではないぞい。」
微笑を含み、王は目線を外す。
「素直に話してみい。皆喜んで力になるはずじゃ。」
「分かってるよ……」
シドは踵を返した。固い筋肉を鎧のように纏った背中が床を踏みならして遠ざかり、扉の向こうに消える。
「分かっているから……言わないんだ。」
どこからか漏れだす水滴が石畳の隙間に溜まる。バロン城地下に設けられた罪人留置所は外堀の真下という素敵な位置にあるため、湿気と悪臭に事欠かない。蝋燭の薄明かりと不規則に滴る静寂のリズムは、ただでさえ憂鬱な気分を更に演出してくれる。
カインは苔生した石畳に深いため息を落とした。彼の右腕に背中を預けたパロムは、靴の踵を交互に蹴り上げ不満を露わにする。
「これからどうなっちゃうんだよー!」
「危害を加えられるような事はないと思うが……。」
思案顔のカインは、牢の奥に据えられた粗末なベッドに目を向けた。両膝の間に組んだ両手を置いたポロムは、気遣うカインに疲れた笑みを返す。
世話役にすっかり放り置かれた形となったパロムは、持て余す苛立ちをカインの右腕にぶつけた。手首を掴み、大きく左右に振り回す。
「なーんでそんなこと分かるのさあー!」
「おいおいパロム……」
物思いから無理矢理引き戻されたカインは、暴れる少年を胡座の上に据えた。地べたに比べて幾分か居心地の良い椅子を手に入れたパロムは、しばらくの間大人しくしている程度に機嫌を直す。
対面の壁に凭れ、結わいた後ろ髪を解いていたエッジが会話の続きを拾った。
「何でかっつーとな、俺様やお前らはまがりなりにもエブラーナとミシディアの代表な訳だ。いくらバロンといえど二国相手に戦争する気はなかろうよ。補給線の維持が難しいし、何より戦争してまで欲しいもんはねえ――」
緻密に編み込んだ飾り紐は必要以上に固く髪をくわえ込んでいる。エッジは舌打ち、爪を立てた。
「まー、カインはもしかしたらヤバイかもなあ。」
「そんな! だって、カインさんはセシルさまの親友じゃないですか!」
エッジの軽口にポロムが反応する。単調な作業に飽き始めていた男は、手を休め顔を上げた。
「わかんないぜぇ~、もしかしたらセシルは裏切った事をすげえ恨んでるかもしんねえよ~。」
「ひどい事言わないで下さいませ!」
憤慨した少女は大きく跳ねる。ベッドに寝ていた埃が舞い上がった。
「おい、ふざけるのもいい加減にしろ。ところで、エッジ。」
「あん?」
神経を使う作業に従事していた男の気が逸れたを好機に、カインはかねてからの疑問を口にする。
「お前ともあろう者がバロンへ来てから異様に静かなのは何故だ? 転送酔いがそんなに酷かったのか?」
「異様って、あのなぁ!」
心配と侮辱紙一重の言葉で作業再開の出端を挫かれたエッジは、大袈裟に肩を落とした。
「っとまァそれはさておき、騒ぐのは得策じゃねえかんな。」
「何か知っているのか?」
パロムと顔を並べ、カインは大きく身を乗り出す。エッジは白目がちな瞳で竜騎士の真摯な表情を舐め、それから手元に視線を戻した。
「んな大層なこっちゃねえ。バロンが国境封鎖してんのは知ってたけどな。」
執念すら感じられるほど頑固に結いこまれていた一房がようやく解ける。飾り紐を手早く指に巻き付けたエッジは、追求を受ける前に先手を打った。
「まあ、小っさい国だからよ。情報の遅れが命取りってやつ。」
「怖いな……。」
極小の島国に、港が開いてなお独立を維持せしめた一端を見たカインは、素直な感覚を口にする。東西南北場所を問わず、首領であるエッジの目となり耳となる人間が存在する――それは、飛空艇に勝るとも劣らぬ強力な武器だ。
「さってっと――」
作業を一段落終えたエッジは、中途半端に解けた後髪を背中へ流した。
「お客さんがおいでなすったぜ。」
留置所入り口の頑丈な掛け金が受け金を噛み、気障りな鳴き声をたてる。八つの瞳が鉄格子の向こうに集中した。
柔らかい革をなめした帯鞋の足音が近付く。赤錆びた縦じま越しにずんぐりとした影が壁を這い、次いで毛むくじゃらの男が姿を現した。
「シド!」
カインに名を呼ばれ、四方八方気ままに伸びた束子のような髭が笑う。
「久しぶりじゃの!」
「シドのおっちゃん!」
パロムは格子に飛びついた。
「シドさん、お久しぶりですわ。」
スカートの端を摘み、ポロムが優雅に一礼する。
「よぉ、まだまだくたばりそうにねえなあ~。」
エッジは二本指をこめかみから前に投げ、親愛のサインを刻んだ。口々に述べられる挨拶に、シドは重戦車のような体躯を揺する。
「皆元気そうで何よりじゃ!」
真っ先に駆け寄ってきた少年に触れようと差し入れた腕が、手首で進退極まった。重刑で逮捕された者を監禁しておくためのこの牢は、通常の牢より格子の間隔が狭い。
「……むぅ、感動の再会には全くそぐわん場所だわい。」
鉄格子にがっちり腕を掴まれたシドは、忌々しい邪魔物を蹴りつけた。
「良く面会の許可が降りたな。」
思わぬ再会に表情を緩めながらも、カインは疑問を口にする。囚人に面会するには、前日までにその旨を陸兵団詰め所へ申告する必要があった筈だ。法改定されたならともかく、投獄されたその日に面会人が来るなど、通常考えられない。
「うむ。牢番のバカ者が、許可の無い人間は通せんなぞと抜かしおった! 横っ面張り飛ばしてやったわい!」
おそらく陸兵団の兵士があたっているであろう牢番の身に降りかかった悲劇。鉄槌の一撃を喰らわされ、文字通り壁まで飛ばされたであろうその光景を思うと涙を禁じ得ない。
「……牢番も可哀相に……」
カインの呟きは直滑降で床に落ちる。シドは胸を反り返し、大仰に溜息を吐きおろした。首を振るたびに機械油と熱のこもった匂いが散る。
「全く、世界を救った英雄がこんな場所にぶちこまれるなぞ――」
嘆きの言葉に鼓膜を掻き毟るような音が重なった。重厚な扉を開け訪れた靴音は甲高く、鋲打ち靴の牢番とは明らかに違う。新たな来訪者をいち早く目に留めたシドは、格子の間から力任せに手を引き抜いた。
「おう、小やかましいのが来おったわい……」
「ポレンディーナ技師長、こちらにおいででしたか。」
面会規則違反を咎めるでもなく、訪問者は一定のリズムで足音を刻む。やがて、格子の向こうに青い儀礼服を纏った青年が現れた。短く刈った金髪をやや右寄りに分けており、その顔はエッジより幾分か幼く見える。
「貴卿は?」
「お初にお目にかかります、ハイウィンド卿。」
銀の飾針で留めた淡草色のマントを肩先で払い、青年は一礼した。
「何か見たことあるぞ、この兄ちゃん……」
爪先立ちで青年を見上げていたパロムは、既視感に首を傾げる。少年の視線を拾ったシドは、横に並ぶ青年の後ろ背を無遠慮に張った。
「こやつはベイガンの小倅じゃ。」
バロン戦役の際打ち倒した魔物と、目の前の青年との血縁関係を教えられ、パロムは目を丸くする。
「えっ、あのリザード怪獣の!?」
「こ、こら、パロム!」
驚きに呑まれていたせいで弟の失言を止められなかった。ポロムは慌ててパロムの足を踏みつける。青年は軽く俯けた首を振り、鎮む笑みに翳りを注いだ。
「陛下の寛大な処置で、近衛兵団末席に籍を置くことを許していただきました。父の行いは許されるべきではありません……ですが、私は汚名を雪ぎたい。父と同じ道を歩むことで――」
醜悪な魔物と化した心弱き者を、それでも父と呼んだ青年は、襟元に落としていた陰を拭い肩を竦める。
「とは言え、まだまだ力不足で、ハイウィンド卿のようには到底及びませんが……。」
「当ったり前じゃわい、目標が高過ぎじゃあ!」
シドが青年の肩を勢いよく張り飛ばす。危うく鉄格子と衝突しかけた青年の額を押さえやり、カインは曖昧な笑みで濁した。彼に先達と認められるだけの価値が自分にあるだろうか。
カインに礼を言って姿勢を正した若き近衛兵は、略式礼で雰囲気を改めた。
「貴殿らの処遇が決定いたしましたのでお伝えします。――王命に背いた罪は許し難いものですが、陛下のご盟友である貴殿らの身分を考慮し、三十年の禁固刑に減刑となりました。貴殿らの身柄は明朝六時をもって東監獄へ移送いたします。」
「バカな、決定が早すぎるぞい!?」
シドの驚愕が石壁に乱反射する。口を噤むカインの両腕に、顔面蒼白となった双子がそれぞれぶら下がった。
囚人の顔から視線を外し、非情な伝令は言葉を続ける。
「陛下から伝言を賜りました――先月投獄したエブラーナの間者を真似て、旧水路へ続く通路を探り、脱走しようなどとは努々思わぬよう。」
青年は懐に手を入れ、外傷用水薬の小瓶を取り出した。下手投げで放った小瓶は格子をすり抜け、ベッドの足に当たり砕ける。窮屈な容器を脱した液体は床に広がることなく、敷石の隙間に吸われた。
「陛下の目の届く場所に留まる限り、貴殿らの安全はない――以上です。」
「一つ良いか。俺の槍はどうなっている? 父の形見なんだ。」
話の切り上がりに被せ、カインは押収品の行方を聞く。今この場で返却される可能性は薄いが、せめて相応の扱いを望みたい。青年は少し考える素振りの後、早口に付け加えた。
「……貴殿らの武具は全て地下宝物庫に納めてあります。」
伝達事項を告げ終えると、青年は格子の間から手を伸べた。カインは双子の手からそっと腕を外し、握手に応じる。
「ご武運を。」
「ありがとう。」
ほんのわずか口元に微笑を滲ませ、青年は踵を返した。来た時と同様、規則正しい足音を刻んで視界から消える。
青年の背を見送ったシドは、大仰に溜息をついた。
「ローザが側におらなくなってから、セシルは何か苦しんどるようじゃ……。」
呟きに混ざった幼馴染の名。未だ慕情の断ち切れない自分に蔑笑しつつ、行方を聞かずにはいられない。
「ローザはバロンにいないのか?」
「うむ。トロイアに行っておるよ、親善大使という名目でな。……のう、言うまでもないかもしれんが、セシルを信じてやってくれい。」
若き王の身に心を砕く男の真摯な眼差しを受け止め、カインは瞑目する。
「……ああ。」
自分はセシルを信じている。だが、セシルはどうだろう。自分を恨んでいないと言う保証はない。
「ったく、マジメすぎんだよどいつもこいつも。」
冷水と温水を同時にかけられた心持ちでカインは我に返った。反射的に背後の声を振り返ってしまい、慌てて正面に向き直す。
「シド!」
似合わぬカインの大声に、持ち場に戻ろうとしていたシドが首をねじ曲げた。
「何じゃ?」
「昨日、ミシディアに赤い翼が現れた。セシルから何か聞いていないか?」
格子に取り付いたカインは簡潔に疑問を延べる。呆けていたせいで情報収集を怠っていた。事情通であろう人物にこのまま去られてしまっては冷静沈着の名が廃る――だが。
「何じゃと!?」
カインの言葉に、シドは血相を変えた。大地を揺るがす勢いで引き返し、カインの手の上から格子を掴む。熱の増した機械油の匂いを間近に据えたカインは、予想外の反応に眉を顰めた。
「知らなかったのか?」
バロン空軍所属飛空艇を一手に総括するシドが、先日のミシディア遠征に関わっていない訳がない。だが、一本気なこの職人が嘘を吐くとは思えない。ならば――一体どういう事情になっているのか。
「赤い翼が飛んだのは知っておったが……そうか、ミシディアに……。」
疑念を浮かべる眼差しの先で、シドは大きく息を吐く。
「むぅ……先月から技師長とは名ばかり、デッキに入れてもらえんのじゃ。」
身を切られるような告白に、カインは息を呑んだ。
「おいおい、おっさんから飛空艇を取ったら陸に上がったサハギンじゃねえか!」
シドとは付き合いの浅いエッジですら目を剥く。飛空艇の発展に情熱を注ぎ、命を賭けると豪語している人物が、情熱の対象から引き離されるとは。
「のぅ、赤い翼はどうなった?」
救済を求める幼子のような瞳に、カインは躊躇った。よりによって彼に、あの悲惨な末路を伝えていいものか。
「俺らも分かんねえのよ。赤い翼が出たってんで、慌ててこっちへ来ちまったからな。その内ミシディアから正式に連絡が来ると思うぜ。」
エッジがすかさず後を引き継ぐ。弁の立つ忍者の言葉を疑問無く受け入れたシドは、安堵と悲哀の入り交じる吐息を漏らした。
「そうか。しかし、よりにもよってミシディアとは……お前達に信じていろと言ったばかりじゃというのに、ワシが挫けそうじゃわい……。」
「元気を出して下さい。セシルさんは自分の闇さえ克服した方ですもの。きっと、大丈夫ですわ。」
格子に歩み寄ったポロムは隙間から腕を伸ばし、力無く垂れた太い指に触れる。小さな淑女の励ましに、シドは僅か口元を解いた。
「うむ……レデエにこんな悲しそうな顔をさせちゃ色男失格じゃな。ありがとうよ、元気百倍じゃ。」
「その意気だぜ、おっちゃん!」
パロムはガッツポーズで姉に便乗する。幼い二人に絶望の淵から引き上げられたシドは、慈父の笑みを浮かべた。
「良い子たちじゃ……ありがとうよ、もう大丈夫じゃわい!」
普段の調子を取り戻した男に、双子も揃って笑顔を返す。
びしゃりと頬を叩いて髭を引き締めたシドは、カインに拳を向けた。
「カイン、と後ろの若造、この子達を泣かせたら承知せんぞ。バロンのことは任せておけい! 出来る限り調べを入れてみるわい。」
「かーっ、調子の良いオヤジだぜ。」
頭を反らしたエッジは、やれやれと肩を竦める。生涯現役を貫く技師の無鉄砲さを良く知るカインは苦笑した。
「頼む……だが、無理はするなよ。」
「心配無用じゃ! 危なくなったらとっとと逃げ出すわい。」
呵々と笑い、シドは踵を返した。石床を打つ平編革靴の音が遠ざかり、扉の軋む音と共に絶える。
騒々しい客人の帰った後に、沈黙が訪れた。嘲笑めいて鳴く錠の音が、何とも言えぬ暗い余韻を一同の上に広げる。
と、喉の奥に溜めるような笑い声が雰囲気を破った。六つの瞳の先で、少年が無邪気な笑い声を立てる。
「どうしたよ?」
少年の横隔膜に痙攣を起こさしめた理由が分からず、エッジはパロムの顔を覗き込む。腹を抱えたパロムは、ちらと目を上げエッジを見ると、更に深く腰を曲げた。
「シ、シドのおっちゃん、そっくりなんだモン。」
「はあ? ……何が。」
小さな手がエッジの頬をぴたんと叩く。
「隊長とさあ~、そっくり。”レディーに悲しい顔させちゃ色男失格”って、同なじみたいなこと言うよね。」
「なっ……!」
心外な指摘を受けたエッジは目を剥いた。その隣で、仏頂面の竜騎士が感慨深げに頷く。
「言われてみれば、リディアと初めて会った時も同じような事を言っていたな。」
「ほら、やぁっぱり。隊長、おっさんになったらあんな風になるんだ!」
少年の零す無邪気な笑いが、カイン、ポロムにもさざ波のように広まった。
「バっ、バカ言うな! オレサマはなあ、もっと、こう、洗練された渋いオヤジになるに決まってんじゃねーか!」
楽しげな笑みに三方囲まれたエッジは必死に反駁するものの、まるで効果がない。解きかけの髪をがしがしとかき混ぜ、将来を勝手に決定された男は最終手段に出た。
「ったく、おら! お子様はとっとと寝やがれ!」
言うと同時に双子をそれぞれすくい上げ、ベッドの上に並べて置く。枕に頭を押しつけられたパロムは掛けられた毛布を蹴りのけた。エッジの腕に往復びんたを喰らわせ、憤然と起き上がる。
「バカにすんなよ! 脱走――」
「しっ!」
横に並んで座るポロムが、人差し指を口に当てた。
「声を落としなさい。誰かに聞かれたらどうするの。」
しっかり者の姉に諫められ、パロムは肩を竦める。
「バカにすんない。脱走計画練るんだろ? オイラだって知恵を貸すぜ。」
腰に手を当て上体を曲げたエッジは、勝ち気な少年と目線を会わせた。藪睨み眼に、少年は一瞬ひるむ。
「バカになんかしてねぇよ。いいか、……ここの先客が国へ帰って来てねえ。てことはつまり、脱獄には成功したが、旧水路とやらで何かあったって事だ。」
「その事なんだが、」
カインが口を挟んだ。話を中断されたエッジは、上体を起こし顔だけ振り向ける。
「旧水路は何十年も前に封鎖された場所だ。今はどうなっているか見当が付かん……出来れば避けたい。テレポかデジョンは使えないか?」
カインの提案に、双子は俯いた。しばらく互いの顔を窺い会った後、ポロムが口を開く。
「デジョンは物質に僅かな歪みを生じさせる魔法ですから、壁を抜けられるだけですの。運良く見つからずに城の入り口まで行けたとしても、橋が上がってしまっていたら逃げられません。テレポは……この城の壁材に混じっているミスリルに反射されて、目的地が定まらないんですの。すみません、お役に立てなくて……。」
「そうか……。」
沈黙から察してはいたが、カインは肩を落とす。
「ま、楽は良くねえってこった。」
明るく切り返したエッジは、改めてパロムの肩を叩いた。
「つーわけで、魔力を回復しておけや。お前らの魔法、頼りにしてんだからよ。」
「むむ~、……分かった。」
依然不服の色を残してはいるが、頼りにしているの一言に押されたのだろう、未来の大魔導師その1は靴を床に落とし、ベッドに転がる。
「それでは、少し休ませていただきます。」
丁寧にお辞儀をし、未来の大魔導師その2も弟の隣に身を寄せた。
「良い夢を。」
カインは首元の紐飾りを解き、毛布の上になめし革のマントを重ねる。
「これも頼むぜ。」
肩鎧を外したエッジがカインの顔に向けマントを放った。僅かな手間を惜しむ相棒に眉を顰めながらも、カインは一塊りの厚布を受け取り幼子に三重の防寒を施す。
余程疲れていたのか、パロムはものの数秒で寝息を立て始めた。
「カインさん……。」
踵を返したカインを、呟きにも満たない声が引き留める。名を呼ばれた男は回れ右でベッドの傍らに寄った。
「どうした? 寒いか?」
寝心地を気遣う言葉に、ポロムは首を振る。
「いいえ、暖かいです……。あのっ――」
その瞬間、毛布から飛び出た少年の腕が彼女の顔面を直撃した。全くの不意打ちに、少女は声を失う。
「だ、大丈夫か?」
「パロムったら、もうっ!」
鼻を真っ赤に腫らしたポロムは、暴れ狂う弟の腕をひっつかみ、力ずくで毛布の中に押し込めた。患部を押さえ涙ぐむポロムの頭を撫でてやる。
「あまりにパロムが暴れるようであれば、俺のところへ来ると良い。床より少しはマシというだけだが……。」
少女が満足な睡眠を取れない可能性を鑑みた保護者は、新たな寝場所提供を申し出た。ポロム程度の体重なら、抱えていても苦にはならない。
が。先ほど打たれた鼻以上に頬を真っ赤にしたポロムは、髪が振り乱れるほど首を振り、毛布の中に沈没した。
「いいえっ、いいんです! お休みなさい!」
「あ、ああ……お休み。」
結局、何故呼び止めたのかを聞けずじまいだった。きっと大した用では無かったのだろうと自分を納得させ、カインはエッジの対面に戻る。
「罪作りだよなァ~。」
飾り紐を解き終え、今度は止め紐に取りかかっていたエッジが、ふと歌うように呟いた。
「何か言ったか?」
どこか笑いを含んだ音に意味を拾えなかったカインは聞き返す。手元の作業に神経を費やす男は顎を横に振り、ただ喉に溜めるような笑いを漏らした。
会話が途切れ静寂が下りる。片膝を立てたカインは、利き手で顎を摘み視界を閉じた。柔い闇の向こうに、微かな音が感情の色を伴い表れる。
双子の寝息。無償の信頼を寄せてくれる彼らに応えなければ。
不定期に落ちる水滴の音。セシルの真意は何だ。気苦労の絶えない親友は、また心配の種を自らに蒔いたのか。それは――やはり、飛空艇に起こった異変と関係しているのだろうか。
忍者の指先から発される微細な作業音。彼の真意がいまいち測れない。確かに、国王として玉座に構えていられるような男ではない。だが、不用意に国を空けるほど考え無しではないはずだ。
薄く開けた視界の中で、エブラーナきっての風来坊は飾り紐を裂き分けていた。朱と碧に黄を混ぜた綾紐が、色ごとの糸に分けられる。そうして出来た三色の糸をいったん床に置いたエッジは、結い癖のついた髪を解した。ぐしゃぐしゃと棒状の髪の中を探っていた指が、やがて白い太紐を探り当てる。
飾り紐と同じく太紐も糸に分けたエッジは、足の裏を合わせて糸の端を押さえると、白糸と色糸を幾本か束ね、編み始めた。目を交互に休めながら、緻密な綾紐を織っていく。
「……そんなに量があったのか。」
歯車のような模様が作られていく様をぼんやり眺めていたカインは、心に浮かんだままを口にした。
「は?」
意表を突かれたらしく、エッジの声がひっくり返る。眠たげな竜騎士の顔と自分の手元を交互に見比べた忍者は、編み上がったばかりの綾紐を摘み上げた。
「あー……これか? これは咬煌(かみきり)っつってな~、」
「いや、髪だ。」
「ああ?! …あのなあ……」
根を詰めて精密作業していたせいで怒る気力もない。綾紐を膝に落としたエッジは、頭の後ろで腕を組み、壁にもたれかかった。水を差されたついでに休憩を取る事にする。
「セシルは何故、ミシディアに飛空艇を寄越したんだろうな……」
ろくでもない指摘でエッジの気力を萎えさせたカインは、罪悪感皆無で別の話題に転じた。
「国交断絶の通告だったんじゃねえーの?」
「ふむ……。」
やさぐれ気味の適当な返事に、これまた気のない答が返る。思考の海で気ままに揺蕩うカインに見切りを付け、エッジは天井を仰いだ。首の後ろに張り付いた鉛が一枚一枚剥がれていくようだ。
「……何故俺だったんだ?」
「はぁ!?」
何の脈絡もなく始まった会話に、エッジは再度意表を突かれた。間抜けた表情で凍り付く相手に一向構わず、思案顔のカインは話の先を続ける。
「身を寄せる場所など他にいくらでもあったろう。何故、試練の山を選んだ。」
「ああ、俺がって事か。……お前さん、そーやって主語ぼやかすのやめてくんねぇ?」
腕で壁を押しやり姿勢を正したエッジは、肩先に垂れる髪の三つ編みを始めた。
「ま、敢えて理由付けんなら気まぐれってヤツさ。お前ンとこが一番退屈しなさそうだったからな。」
「本当にそうか?」
「あん?」
真偽を問われ、手元に気を残したままエッジは顔を上げる。
「三ヶ月の間に少しだけ理解した。お前は一見してバカだが、少なくとも急を要する判断でなければ、未来を見ず選択するほどバカじゃない。」
「本人の目の前で二度もバカとか言うかぁ?」
淡々と言葉を紡ぐ男の太々しさに半ば感心しつつ、エッジは編み上げ髪に通した飾環を肩先に払いのけた。
「ま、甘ちゃん王子よかマシかねぇ。」
前回の旅の道中、事あるごとに言われた台詞を引き合いに出し皮肉る。軽い牽制でカインの注意を促したエッジは、ぐいと身を乗り出した。
「ところで、俺も少ぅしだけ理解したぜ、お前のことさ……思ったほど利口じゃねえってな。」
「どういう意味だ。」
思考の海を漂っていた意識がほんの少しこちらに寄ってくる。カインと真っ向から瞳を合わせたエッジは、顔をくしゃと崩した。
「教えてやんネェよ! バカなんつった報いだぜ。」
胡座に組んでいた足を宙に放り、横様に身を投げる。作業途中の紐類を足で一カ所にまとめたエッジは、大欠伸しなしな仰向けに転がった。
「よぅ、交代で休み取ろうぜ。次の巡回が来たら起こしてくれや。」
「……ああ……。」
釈然としない表情のカインを振り切り、エッジは夢の世界へ降りていく。穏やかな寝息の中、水滴が波紋を広げた。
青白い常夜灯が廊下に沈殿する静寂に綾模様を描く。刻一刻と滲み入る闇の中を足早に乱す影は、手にした蝋燭の細い明かりを頼りに地下へ降った。
主無き玉座。前王の御霊が出没するという噂のあった場所は、そう呼ばれている。薄く延ばした紫銀の髪を掻き上げ、影は朧な光を掲げた。名の由来となった古い玉座が照らし出される。
「嫌な思いをさせて、すまない……」
燭台を床に据え、影は玉座に近付いた。両の肘掛けを握り、左肩を背もたれに押しつける。足で地を掻くと、玉座がわずか後じさった。
「僕はもう二度と――」
誰が聞くでもない言葉を、影は吐き続ける。身の内に溜めた痛みに身じろぐ獣のように。
「あんな思いはしたくないんだ……!」
玉座の真下に現れたハンドル。額を拭い、影はハンドルを回す。床下で金属片の噛み合う音が鳴った。真横の壁の向こうに轟音が落ちる。
影は玉座を戻し、踵を返した。燭台のもたらす明かりを足下に向け、一段一段照らしながら階段を昇る。
長い闇を引き地上へ戻る影の瞳で、赤銅色の光が跳ねた。