日がややその色を増し、時計の短針は夕闇のニ段上で静かな昼下がりに寝そべる。 
 湖畔を渡る風が城の回廊をめぐり中庭に吹き溜まる。湖の清浄な水の香りが、ベンチに並んで腰掛けた旅装の少女と娘の間に座る。 
「あ! 今の見えた?」 
 雲の端に小さく咲いた花火を見留め、ローザは声を上げた。外の様子が少女の関心を引けるものではないと悟った娘は、すかさず話を切り替える。 
「ね、ポロムちゃん、お茶にしましょう?」 
「お一人でどうぞ。」 
 少女の言葉はひどく冷たい。今この場にこうして自分と座っていることが、少女にとってどれほど不本意なことかは想像に難くない――彼らの出発を見送った後、朝食もろくに喉を通らない様子だった。――だから、きっとお腹が空いているだろう。お腹が空くと頭の回転も鈍り、必要もなく悲しい気分になってしまう。 
 ローザはそっとベンチを立った。テラスへ続く階段を登る途中、少女の姿を肩越しに見遣る。フワフワとした栗色の愛らしい髪に埋もれ、その顔に浮かんでいるはずの色は影の中に沈んでしまっている。 
 中庭を吹き浚った風がテラスに差し掛かる枝を揺らす。ドレスの背に髪を下ろし、靴を履き替える。常日灯の光が陽光と混じり、ドレスの白い裾に影模様を描く。衣装ダンスの姿見に映された娘は、慣れた手つきで借り物服を畳むと、その横に置いた本の表紙に手を添えた。 
 肩で揃えた栗色の髪の愛らしい少女が、白いドレスの裾に色とりどりの花を広げ、トレントの腕に座っている表紙。蔵書室で一目見た瞬間、迷わず手にした一冊だ。トロイアに古くから伝わる民話――トレントと会話が出来る少女の逸話を、ふんだんな挿絵と易しい文章で書き下した、隅から隅まで可愛らしさに満ちた絵本。少女に読み聞かせるのに、これほど相応しい書は他にない。 
「はぁ……。」 
 目を上げた先の鏡に映る唇が、もどかしさにへの字を結ぶ。 
 少女は口を利くどころか、目も合わせてくれない。絵本の助力を借りても、少女の心を解きほぐすことはできそうにない。 
 少女の態度は頑なだ。まるで石のように――バロン城の廊下で会った時の姿と同じ、声をかけても届かない、答えてくれない。空の城から帰還した際、セシルが面通ししてくれた彫像。幼い献身と無邪気な残酷の結実――石化解除の魔力を頑として弾き返した冷たい石。 
 ポロムの怒りはよく分かる。顔を叩かれて、さぞ傷付いたろう。白魔導師の禁句を止めようとしたのだが、実際のところ、真っ直ぐな言葉で自己中心性を謗られたことに対する苛立ちが全くなかったとは言えない。 
「カインの気持ち……か。」 
 実の兄にも等しい男の名が口を突く。 
 久しぶりに見えた彼の姿が鮮やかに思い浮かぶ。エッジ、パロム、ポロムという馴染みの面々を伴い、ミシディアの使者という責任を背負った彼の瞳は、頼もしく誇り高い騎士の――自慢の幼馴染のそれだった。 
 自分はこの時の訪れを信じ、故に彼のいない故郷の土に涙を落とすことはしなかったのだと、はしゃぐ心を抑えられなかった。まるで昔の、暢気だった子供の頃のように――彼は大役を背負ってこの国を訪れたことを感じていながら。 
 大神官から伝え聞いたところによれば、彼はミシディア長老の名代として、ここトロイアの地に起きた災いをしてほんの一端とする大異変の真相を明らかにするため、この星の各地を回るのだという。その調査対象には、バロンの王――このところずっと様子がおかしかったセシルも含まれている。 
 幼馴染の旅がどれほど困難な道程か、想像して余りある。少女はそんな彼の支えを努めようと一生懸命だ。きっと、かつてクリスタル戦役の時の自分のように――深呼吸一つで気分を改め、ローザは手元の装備に目を遣った。可愛過ぎず質素過ぎずの揃え柄ティーカップが一式。ガラスポットの中は優雅に咲き踊る花茶。銀皿に散りばめられた、色も形もとりどりの焼き菓子。小皿には、整肌作用があると専ら噂の果実を干した菓子が澄ました顔をしている。そしてその傍らに横たわる、古くから親しまれ読み継がれてきた絵本。淑女が二人、水入らずで素敵な午後を楽しむために、これ以上の最強装備は無いだろう。 
 さらに抜かりなく、実は秘密兵器も用意してあるのだ――会話の着火剤となってくれるであろうそれを懐に忍ばせ、仲直りに向けて出陣の時だ。仕上げの星砂糖を盆に積み込んだローザは、いざと顔を上げた。 
「……ポロムちゃん?」 
 柵向こうの景色の異変に目を瞬く。ベンチに少女の姿がない。半ば取り落とした茶盆が卓にぶつかり派手な音を立てる。バルコニーから身を乗り出し、中庭を一望するが、木の幹の影にも草の陰にもその服の裾さえ捕らえることが出来ない・どこにも姿が見あたらない。 
「ポロムちゃん!」 
 思い詰めた少女がどれほどの無謀を厭わないものか、自分はよく知っている――戦慄に背を押され勢いバルコニーに手を付いたローザは、素早く裾を絡げ持った。口中で幼馴染への侘びを呟き、中空へ身を躍らせる。 
 中庭に降り立ったローザは、感覚を研ぎ澄ました。既に少女の気配は遠く掠れている。これ以上遠ざかれば見失ってしまうだろう――裾を括る一手間さえまどろっこしく、ローザは駆け出した。 
「ローザ様、どちらへ!?」 
 中庭を抜けたところで、門番の慌てふためく声が追いすがった。 
「あなた、ポロムちゃんを見た!?」 
「は、はい! ポロム様でしたら、周辺の散策に行かれると――」 
「じゃあ、私もお散歩!」 
 用向きを誂えたローザは全力を疾走に傾ける。 
「あの、お、お気を付けて……!」 
 走り去る娘の背から女官の声が振り落とされた。 
 
 燭台に火を入れる時刻を目前に控え、長針が宵の入り口を刺す。城門へ近づく人影に向けられた鏃の先に、伝令票が翳された。 
「取り次ぎ頼まぁ、緊急だ!」 
 神官との面会の間に通されたエッジがもたらした凶報に、水面の静寂を湛えていた城が一転波立つ。 
「ああ……何ということ!」 
「神官様!」 
 動揺のあまり姿勢の安定を失う神官を侍女がすかさず支える。 
「兵を中庭に集めなさい。」 
 閉じていた瞼を開いた大神官から発された凛とした声が動揺を打ち据えた。 
 城がにわかに慌しくなる。演台代わりに噴水の縁に立ったエッジは、整然と並んだ残留兵に状況を伝えた。さざめく広場に、次いでこれからの指針を投げる。 
「状況は悪いが、逆を返せば全ての病瘤が一箇所に集った好機と捉えることもできる。今、火を掛ければ、病を根絶やしにすることが可能だ――しかし。貴国トロイアの象徴である守護樹を害する旨、強いることはできない。故に、決断してくれ。俺たちはそれに従う。また、次善策があれば、遠慮なく言ってほしい。」 
 カインの作戦と意向を口調も準じて伝え、反応を待つ。兵士たちの頭が動揺のままに揺れ動く。ざわめきは遂に意見の形を成すことはなく、感情を伏せた瞳の奥に封じた大神官は重々しく命じる。 
「やむを得ません。あるだけの薪と火油を用意し、守護樹の元へ向かうのです。」 
 大神官の下した決定は、辺りを悲しい沈黙で満たした。延焼防止のための枝払い用に手斧を装備した一隊には忍び泣く兵の姿がちらほら見える。 
 火壇が焚かれ、松明に次々と火が移される。錯綜する兵士達の合間を見渡したエッジは異変に気付いた。『あの二人』がいない。これだけ城が大騒ぎになっている中、真っ先に出て来そうなものだ。 
「姉ちゃんらの姿が見えねえな?」 
 エッジの言葉に、女官の一人が鋭い悲鳴を上げた。 
「お二人とも、先ほど森へ……!」 
「おいおいマジかよ!」 
「エッジ!」 
 名を呼ぶ声が群衆を凛と裂く。エッジは二者間を塞ぐ兵らの頭上を蜻蛉一つで飛び越えた。 
「大問題発生だぜ!」 
 荷物と引き換えに報告を受け、カインの頭の芯を氷の針が突き抜けた。繕う冷静に凍る腕で慎重に背からパロムを下ろす。 
「今すぐ捜索隊を出します!」 
「いや、ステュクスの始末を優先してくれ。二人を連れて必ず戻る。」 
 伝言を託された女官は、怯んだように歩を下げた。 
 矢も楯もたまらず駆け出したい気持ちを殺し、けたたましく全身を駆け巡る大鐘音のような二人の名を鎮める――二人はただの娘ではない。共に優れた癒し手であり、また、ローザは熟練の弓兵でさえある――しかし、安心材料を幾つ並べてみても鼓動は落ち着かない。 
「ったく、困ったお転婆嬢ちゃん達だぜ!」 
※柄を鳴らしたエッジはお転婆娘の保護者を振り返る。が、そこにあるはずのうんざり顔が無い。女官たちの合間を早足に縫う男を慌てて引き留める。 
「カイン、待て待て待て!」 
 ※無策のまま飛び出そうとするのは珍しい 冷静沈着を身上とする男だが、やはり冷静ではいられないのだろう。 
「森は広いぞ、見当を付けねぇと――」 
「ニィちゃん、隊長、こっち!」 
 二人の足が止まった間をパロムが走り抜けた。 
「分かんないけど、オイラ分かるんだ!!」 
 行くべき方向を腕の伸ばせる限りに力強く指し示す。水先案内の少年を肩に乗せたエッジはカインを振り返り、先導する旨を目配せする。 
 深呼吸一つで槍の穂先を下げたカインは、既に遥か先を駆ける心を追い、走り出した。 
 
 夕暮れの残り火が葉の縁に燃え残り、群青の空に不吉な斑を描いて見える。複雑に編み込まれた枝々に繁る葉は幾層にも重なって頭上に覆い被さっている。緑豊かといえるミシディアにさえ、これほど深く、古い森はない。 
 草を踏む音に警戒したのであろう遠い獣の唸りが、少女の肩をびくりと揺らした。※周囲に注意を払う しばらく待って、大丈夫そう 再び歩き始める。心の底で望む方向と真反対に足を向ける。今すぐに、踵を返して逃げてしまいたい。だが、そうするわけにはいかない。辛うじて感じられる乏しい気配の方角へ向けて、ポロムは両足を追い立てる。 
※誰かに見られてる・後ろに誰かいるような気がする 怖い 畏れより生じた魔物の、先程まで野兎ほどだった体は、視界の隅に蟠る曖昧な暗がりを餌に瞬く間に見上げんばかりの巨躯と化し、鋭い角牙に覆われた恐ろしい形相を木陰にじっと潜めている。そして甘く囁く。 
※しかし、後戻りするわけにはいかない ポロムは歩みを早めた。※今この胸にあるのは二つとない名案だ 聖水の樹の様子をちょっと見に行って、もし可能なら枝を一振りでも取って来れれば大手柄 見に行くのは大した手間ではない 大神官のイメージから得られた情報では、そう遠い場所ではなかった 
※ちょうど彼女がお茶を持ちに席を外してくれたのは正に好都合だった。遠ざかる足音を充分に聞いてから城を後にした。彼女は自分がいなくなったことに全く気付かなかっただろう。もし彼女にどこに行くのか問われていたら、うまく誤魔化せる自信がなかった。行き先を告げたら、きっと彼女は付いてこようとしたに違いない。 
 人の気配に散らされた鳥の羽音が少女の運動を止めた。音の正体が空へ高く飛び去る影を確かめ、ほっと胸をなで下ろす。 
 しかし、次の瞬間――真の恐怖が胸を揺らす時、出せる声などないことを少女は思い知った。 
「ポロムちゃん!」 
 呼ばれた名が、掴まれた手首と胸に脈を戻す。 
 振り返す眼に映る、息を切らしたローザの姿。編み上げ靴は泥にまみれ、ドレスの裾には幾つものかぎ裂きが出来ている。 
「すっかり暗くなっちゃったわね。そろそろお城へ戻りましょう?」 
 ぷいっと顔を背けた少女は、そのまま顔をふるふる振って戻る意志のないことを示す。彼女には分からないのだ――彼らがどれだけそれを必要としているのか。 
「……そう。」 
 素っ気ない返事が彼女の口を付く。度重なる非礼に、いかな彼女とていよいよ気を悪くしたのだろう――前髪の下からそっとその顔を窺う。 
「じゃあ、私は少しお散歩しようかな! どうぞ、先に行って?」 
 ね、と軽やかに言葉を切り上げたローザは、優しい笑みをその顔に頌えた。 
 ポロムは無言で背を向け、歩き出す。ローザが後ろを付いてくることが、淑やかに草地を踏む足音で分かる。 
「あら、素敵な弓! ポロムちゃんも弓を使うの?」 
 ローザの声に慌てて背中の荷物を腹に回して抱えて隠す。花を無くしてしまった今、この弓だけが唯一彼から貰ったものだ。取り上げられてしまうような気がした――自分は贈り物を持つのに相応しくないからだ 
 ※後ろちらっ振り向きローザの様子伺い 汚れた格好をしていても、彼女の美しさは変わらない 彼女が足を進めるたび、長くて豊かで綺麗な金髪が滑らかに揺れる。彼女のそれと引き換え、自分の髪は悲しいほど煤けた茶色で、肩で切りそろえた髪型はあまりにも幼稚だ 
※白魔導の使い手で、弓も使えて――美しい大人の女性。連れて行くなら、誰もが彼女を選ぶに決まっている。 
※そう――彼が彼女を選ぶのは当然のことだ。 
※カインの様子を思い出す 彼女は現れた瞬間から彼をすっかり独り占めにしてしまった 作業場に来た時、二人で楽しそうに談笑していて、自分の入る場所なんかどこにもなかった そして出発前、彼はもう自分を見てさえくれなかった 自分は到底彼女に叶わない 思う気持ちなら、きっと彼女に勝てるのに 
※ローザ様なんか、いなくなっちゃえばいいのに――背中を見守ってくれる彼女の存在が、森の様子を全く変えたと分かっているのに、そんな嫌なことを考えてしまう。 
 根拠の無い苛立ちから逃れるように、ポロムはさらに足を早めた。彼女を妬ましく思うたび、自分の顔が醜く変わっていく気がする。青年が髪に花を挿してくれた愛らしい少女は、水面の奥底に沈んでしまった。今ここにいるのは、ゴブリンみたいに醜い子供だ――。 
 
 深い木立の狭間を、大神官との会話中に得られたイメージに従い縫ってゆく。やがて森が拓け、明るい満月の白い月光に照らされた空間が拓けた。中央にぽつんと取り残されたような古木。一体どれほど腕を伸ばせば、その幹を抱えることが出来るだろうか。雷に打たれたように根本だけ焼け残ったような形だ。 
 ポロムはがっかりと肩を落とした。生命力のほとんどが失われた瀕死の樹精には、最早語りかける力さえ残っていない。一縷の望みを賭けて、周囲をぐるりと巡ってみる。幸いにも根本の方に枯れかけてはいるが葉を付けた枝を見付けた。ポロムは根本に跪き、マントを外す。 
「ごめんなさい。どうしても、必要なんです。」 
 少女の祈りに応え、それはただ僅かに枝を下げた。ぺこりとお辞儀を返した少女は、マントを枝に巻き付け折り取る。 
 瞬間、地面が物凄い勢いでぶつかってきた。とっさに枝を抱きしめ、為す術なく地面をごろごろと転がる。一体なにごとか――肩越しに振り返り見た光景に、草地ですりむいた頬の痛みが吹き飛んだ。 
 視界を遮るローザの背中――ドレスの布地と紛うほど白く華奢なその背中が、ピリピリとした険気に包まれている。 
「ローザさま――」 
「走って!」 
 追い立てられ振り返る眼差しに、踵から靴を抜いて手に握りしめる動作が映る 
「早く!!」 
 白いドレスが閉ざした向こうに感じる気配 
 早く行かなきゃ言うとおりにしなきゃ、心臓どきどき足が鉛のように動かない 目の前の出来事がまるでスローモーション ローザの腕が撓り、飛び掛ってきた獣をヒールハンマーでぶん殴り倒す しかし、茂みから飛び出してきたもう一体がローザを突き倒す 突き倒されてなお、ローザは抵抗を諦めない 開いた獣の大口にヒールごと腕突っ込み 
「最後の食事、よく味わって!」 
牙の食い込んだ白い腕から流れ散る血が、ドレスにも草地にも赤い小花を咲かせる 
靴を食わされた獣が奇妙な唸りを喉から発する ブラスターでローザの腕が文字通り弾け飛ぶ 
同時に、ポロムの硬直が解けた 
杖振りかざし魔力を紡ぐための最初の一振り。魔力が白熱し、しゅっと音を散らす 瞬間、ローザと目が合う 
「――エアロガ!!」 
少女の声と共に、杖の先端に集った魔力が開放された。風が威力を増し、少女の決意そのままに渦巻く。逆巻く風の轟音が「逃げて」というローザの叫びを吹き散らす 
豪風に弾き飛ばされた獣はしかし、木の幹を巧みに蹴って地面に降りた。新たに現れた獲物に向かい、姿勢低く荒れ狂う風に逆らい突進してくる。 
護風を裂く獣の咆哮が頬を叩く。猛吠が背筋を凍らせる。だが、それを上回る悔念が少女の両足を地面に焼き付ける。 
 
彼女などいなくなってしまえばいい――そう思った。その言葉が示すことの意味が、今ここにある。”いなくなってしまう”というのがどういうことなのか? なぜ、白魔道の誓いがそれを戒めるのか? その答えが今目の前にある。 
――私のせいだ 
 ぐったりとしたローザの体 徐々に血の気を失っていく 
 激情に駆られた自分が禁忌を犯さぬよう戒めてくれた。謝れない自分を気遣い、いつも笑顔で話しかけてくれた。 
 彼女はとても優しかった。 
――私のせいで…… 
 ぼろぼろになった綺麗な靴、綺麗な腕 もしもあの時、愚かな意地を通したりせず、その手に弓を渡していれば、彼女は容易に獣を退けられたかもしれない。彼女は弓の名手だと聞く。こんな怪我を負うこともなかっただろう。 
 自分を凶牙から救うため、彼女は迷い無く自分自身を番え放った。だから、今度は自分がそれをする番だ。 
※旋巻く風の壁を切り裂いた長く鋭い爪が鼻先を掠る。ケットシーの身体は細く、風壁をすり抜けてしまう。 
エアロガではだめだ――決定打にならない。エアロより威力の高い攻撃手段といえばホーリーだが、発動に時間がかかる。動きの早い相手は詠唱完了を待ってくれまい。――何れにせよ、いつまでも魔力は続かない。 
※獣は、魔力が無尽蔵でないことを知っているのか、立ち去ろうとしない 
※ならば、力尽きるまで彼女を守る 
 
 瞬間、上空に雷が閃き、風を切り裂いた。力強い腕が体を包む。驚き顔を上げた先に、澄んだ力を宿した雪解けに霞む青空が映る。※逆巻く風を切り裂き降り立つ蒼雷 
「凍て付けっ、ブリザガ!」 
耳に馴染んだ少年の声が肩越しに白い防護壁を立て、飛びかかる獣を弾く 
※風の防護壁逃れた一体がカインに向かい 彼は槍を抜かなかった 獣の横面を篭手でぶん殴り倒す どぅと地に落ちた獣 エッジがすかさず蜘蛛糸で絡め取る。だが、地を掻きあがく獣の執念が、体を絡める何本かの蜘蛛糸を千切り飛ばした。 
「しつこい奴ァ嫌われんぞ――」 
 忍者が舌打ち一つで次の策を懐に探るより早く、頭上が動く。 
「グラビデ!」 
 少年の手から放たれた重力波は、生き物のように獣の体を覆い地面に貼り付けた。 
「行け!」 
 殿の号令に頷き、カインは草地に崩折れたローザの体を抱き上げる。 
「ポロム、走れるか?」 
「ハイ!」 
 ポロムの手を引き駆け出すカイン。 
 
 水の絶えた支流の河面を生木を燻すような匂いが流れる。※ローザをそっと草地に下ろす。 
「ローザ様!」 
 癒しの術に長けた少女は、息を整えるより早く負傷者の傍らに駆け寄った。やわらかい草地に横たわったローザは完全に気を失っており、呻き声一つ上げることもない。※ポロムの癒術により出血は止まり、ある程度は回復した 安静にしている分には問題ない だが、ブラスターで深く損傷した筋肉組織の再形成や、とりわけ骨の再結合には時間が必要で、腕が完全に機能を取り戻すには更に時間が必要だろう。当分の間お転婆は打ち止めだ。 
※青い顔で横たわるローザ なぜか手にヒールを握っている 歩きづらくて大嫌いだといつも言ってた踵の高い靴 彼女はこの粗末な鈍器で最後まで戦うつもりだったのか 
「無茶しやがって……。」 
 運よく城へ引き返す兵士に会い、簡易担架にローザを乗せる。 
「様子はどうよ?」 
背後から掛けられた声に背筋が冷えた。いつの間にか背後に歩みを寄せていたエッジの姿を認める。 
「出血は止まった。だが、神経麻痺の治癒には時間がかかる。」 
 カインは女官の手により慎重に運ばれていく担架と、それに付き添うポロムを見送る。 
「行かねぇでいいのか?」 
「俺がいたところで何の役にも立たん。」 
 言って、カインは踵を返す。 
「守護樹の様子が気になる。行こう。」 
 異存を曲げた唇に宿したままのエッジは、留帯に空き手をぶら下げ後に付く。 
「ローザ姉ちゃんの方がすっごく気になってるくせに、変なの。」 
「聞こえてるぞ、パロム。」 
「聞こえるように言ったんだい!」 
 パロムは憤然と組んだ腕をエッジの頭に乗せ、青年を見下ろす。肩車の上下間で交わされる陰口を牽制するつもりが、藪をつつく結果になったカインはしかし、出てきた蛇に背を向けそのまま放置を決め込む。 
 他に会話もなく木立を抜ける。現場では、既に後かたづけが始まっていた。女官達が忙しなく動き、伐採した生木を片づけている。 
「ミシディアの!」 
 手伝うために腕まくり上げたと同時に声が掛かった。傍らの副官に現場任せた指揮官は、二者間に横たわった木の枝をひらり飛び越えた。 
「首尾は?」 
「問題ない。貴方の指示のお陰だ。」 
 変異し牙を剥いたといえ、かつて愛する森であったものに火を放つのが断腸の思いであったことは想像に難くない。感謝を口にする指揮官の煤頬には、拭い切れない悔恨がくすんでいる。視線の向こうに元は守護樹だったものが立っている。静かに燃え崩れるモンスターツリーを光源として、宵の空を不気味な橙が照らしている。生木の燃えくすぶる匂い。 
「……とても礼を言ってもらえるような状態じゃない。」 
 カインは目を伏せた。聖水による浄化はうまく機能していたはずだ。そこから先の展開を読み切れなかった事を、仕方がないと片付けてしまうには惜しい。もしもっと早期の段階から作戦に関わることができていれば、違う対応を考えることができたはずだ。 
 結局、守護樹を救うという主目的は潰えてしまった。自分の策が招いたのは、焼けただれた酷い有様の森の姿。カインはふぅと溜息を吐く。落ち込む青年に、武官はその顔に穏やかな笑みを刻んだ。 
「森は慈悲であると共に脅威でもある。我々は時に森と戦わなければならない。自分たちを守るために。」 
 武官は表情をくすませていた煤を拭う。 
「あなたがたは我々に命を守る術を与えてくれた。どうか胸を張って感謝を受けてほしい――助力をありがとう。」 
「オイラたち、心を届けてあげれたかなあ……」 
パロムが心配顔を覗かせる。 
「ええ、無論。」 
 武官はにっこりと力強く応じる。満足のいく回答を得、パロムは胸を張った。 
 
 旅立ち前の大神官と謁見。守護樹木は失ったが、 
「彼女の灰は新たな命が芽吹く床となる。そうやって森の大いなるサイクルは回る。ここは森の国だから。」 
 侍女戻って来て 
「チョコボの手配が終えました。用意が出来ましたら中庭へどうぞ。」 
 侍女は一礼して控える。旅立ちを目前にした一行に、大神官は立ち上がり深く礼をした。 
「皆様が木立の息吹と共にあらんことを。」 
大神官に礼を返して退室した一行は、ポロムを呼びにローザの病室へと足を向けた。貴賓室の扉を開けるとポロムがベッドの脇にいる 
 カインが覗き込む気配に応じてか、ローザの瞼がうっすらと開く。その目がくるりと回って室内にいる一同の顔を確認する。ベッド脇のポロムを確認してぱっと安堵の笑顔を浮かべる。その唇が少女の名を紡ぎ、シーツの山がもぞりと動いた瞬間。 
「痛った――たたたた……」 
「ローザ様!」 
 ローザの盛大な叫びにポロムは慌ててシーツの足下に取り付く。 
お転婆娘を放っておけば無理に矢理を立てかねない。カインはローザを介助して、その上体を縦に起こしてやる。もっふり枕に背中を預けたローザはふぅと満足を吹いた。カインの口から地の底まで潜り込まんばかりの深い溜息が出る。今回は十分以上に痛い目を見ただろうから言わずにおこうと思ったが、もう一言二言釘を刺しておくべきかもしれない。 
「安静にしていろ頼むから。なぜお前は大人しく待っていられない――」 
「ごめんなさい!」 
予想外の方向からの謝罪がカインの説教を止めた。 
「私がいけないんです! ローザ様ごめんなさい、ひどいことを言ってしまってごめんなさい、嫌な態度を取ってしまってごめんなさい、私のせいで、本当にごめんなさい……!」 
布団に伏したポロム。長い間胸にわだかまっていた迷いをやっと吐き出せた少女の、ぐすっと洟を啜る音と、包帯の上に滴る嗚咽。 
ローザの噛んだ朱唇から細く息が抜ける。 
「……私もね、ずっと考えてたの。」 
 言ってローザは、少女の手の甲にそっと温もりを重ねた。 
「自分勝手、ほんとにそう! 私、自分のことばっかりだわ。カインの気持ちも考えずに……。」 
ローザの申し訳なさ気な視線を浴びても、カインはただ首を傾げるしかない。 
「ごめんなさい、カイン。」 
改まった謝罪を突然述べられても、とりあえず小言を続けられる雰囲気ではないことの他に何も分からない。そもそも、何故その話の流れでローザの口から自分の名前が出されたのか皆目見当が付かない――戸惑いをそのまま曖昧な音にして返したカインは、傾ぐ首を立て直す。 
「叩いたりして、痛かったわよね。本当にごめんなさい、ポロム。」 
ローザはカインから少女へと視線を移した。 
「無事で良かった……!」 
 悲しいほどに力のない腕が、暖かい胸にポロムを抱き寄せる。 
「……そうそう、カインに渡したい物があるのよね?」 
 浮かんだ涙の一滴をそっと白い指先に移したローザが少女を促す。ポロムはおずおずとローザの元を離れると、鞄の蓋をまくり上げ、中から筒型の小箱を取り出した。 
「カインさん、これを……。」 
ポロムから手渡された小箱の中身を改めたカイン。美しい細工の施された硝子の筒に入った青白い液体。余剰分はない筈だったのだが。 
「これは……!」 
事情通らしい二人の顔を交互に眺める。ローザはただにこにこしている。無言に誘導される形で、カインは少女に視線を止めた。 
「貰ってしまっていいのか?」 
「はい。ミシディアにも一瓶送っていただけるそうです。」 
カインは恭しく聖水を小箱に戻す まさか、少女らはこれを取りにわざわざ危険を承知で森へ出掛けたのか。 
――何てことだ…… 
身勝手だとばかり思っていた彼女らの行動の真意を知り、ため息しか出てこない。 
「ありがとう、ローザ、ポロム。」 
片膝を付いて姿勢を落としたカインは、少女の肩に手を置きまっすぐその顔を見据える。 
「しかし、頼むから今後こんなことはよしてくれ。寿命が縮んだ。」 
 険しささえ滲ませた青年の表情に、ポロムは肩を震わせた。 
「で、ですが、それがあれば、ステュクスをやっつけられるでしょう? わ、私、お役に立ちたくて……」 
 手放しで喜んでもらえるものとばかり思っていた――少女の顔が如実にそう告げる。そんな少女を、カインはよく諭す。 
「無論助かる。だが、お前と引き替えにしてまで欲しいものなど、何も無いぞ。」 
青年の嘘偽りない真摯な眼差しが、少女に呼吸を忘れさせる。二度三度大きく瞬き、はっと我に返ったポロムはぺこりとお辞儀を取って付けた。 
「は……はい! ごめんなさい、……もうしません、絶対!」 
 反省しきりなのだろう、耳まで真っ赤に染め、神妙に胸を押さえて俯く生真面目な少女の頭を撫でやったカインは、視界の端で起きつつある異常に姿勢を直した。ふっと腹筋に呼吸を入れ、凭れた姿勢を立て起こそうと画策する娘の腕をそっと押さえる。もうため息も涸れた。 
「何をする気だ?」 
「何って……出発するんでしょう?」 
 行動を妨害された娘はしかし、目敏い世話役にここぞと会心の無邪気顔を見舞った。 
 不意を突かれ、咄嗟に言い返す言葉を失う。背後の中庭に羽ばたく黒い翼の音が降りた。 
「見送りもせずここで寝ていろなんて、そぉっっっんな酷いこと、まさか言わないわよね、カイン……?」 
 清らかな乙女を絵に描いたような表情。その円らな榛に光がうるうると潤む。カインが顧みる先で、仲間の顔が次々と明後日の方向へ逸れていく。よもやまさかの孤立無援――常なら援護してくれるはずのポロムでさえ、ローザの傍らから自分の顔を見つめて何か言いたげでいるようでは、勝負を降りるしかない。 
「……好きにしろ。」 
「はーいっ♪」 
まんまと許可を取り付けたローザは、サイドデスクから手に取った絵本を胸に両足揃えて床に下ろす。ポロム肩貸し中庭へ 
 中庭で黒チョコボ三匹どうどう。育成官一人同行。 
エッジとパロム同乗。エッジ育成官に手綱の捌き方教わり 
ポロムを抱き上げて先に乗せたカイン 
「カイン。」 
 ローザが一歩近寄り。 
「あの子達を置いていかないでね、絶対に。」 
 ※子供の頃から「待ってよカイン」と言われ続けてきた 自分のせっかちをよく知るローザからの忠言に、カインは苦笑する 
「せっかちなのは自覚した。もちろん、なるべく子供達の足に合わせて歩くように――」 
「そういう意味じゃなくて……もうっ!」 
 さっきまで殊勝な顔をしていたかと思えば、今は憤然としてふくれている。その様子は、いつまで見ていても飽きない――カインは手綱を取る。許されるならばずっとこうして、彼女のくるくると変わるその表情を見ていたい。だが今、それは叶わない。 
 三歩下がり緩く手を振るローザ。案の定、はっと表情を変えた。 
「ちょっと待って!」 
 焦り駆け寄るローザに、カインは慌てて手綱を引きチョコボの頭を上げる。 
「どうした?」 
「ポロムちゃんにこれ……これ、これっ!」 
焦りに焦った娘は抱えていた本を押し付けてくる。カインがポロムに絵本を渡そうとすると 
「あぁっ違うのそれじゃなくて――」 
 青年の手を書見台の形に設えたローザは、絵本のページをばらばらと必死にめくる。挿絵が高速で過ぎ去っていき、やがて森の様子を詠んだページの真ん中に、小さな栞がぽつんと現れた。 
 一瞥して、その手工芸品が娘の作であることが知れる。※留めリボンが弓兵独特の結び方 長期の使用に耐えうる作りの良い品 
「きれいに出来てるな。」 
 カインからの高評価を得、ローザは胸を張って、手工芸品を少女に差し出す。 
 差し出された栞に押された花を見、ポロムはあっと声を上げた。あの日カインに髪に挿してもらった花が、ローザの手によって永遠に枯れることのない姿になって戻ってきた。背負い鞄を回し、呪文書の間に大事に挟み込む。 
「ありがとうございます!」 
「気を付けてね。」 
 優しく繋ぎ合った手が離れ、チョコボの翼がふわりと浮き上がる。 
「旅の無事と幸運を!」 
 傷痛に負けじと張り上げる祈りの声。森の木立を吹き抜けた風が、寝着の裾を白く可憐な花と咲かせる。 
「ローザ様ぁー!」 
 やがて、草原に咲いた黄金の一滴の輝きが見えなくなるまで、ポロムはその手を振り続けた。 




LastModify : October/14/2022.