目を開けると、彩花を満面に浮かせた早暁が目に飛び込んできた。首を捩ると、薄布に踊る木漏れ日が見える。 
 二度の瞬きで己の所在地を呼び起こしたカインは、二度寝への誘いを布団から蹴り出した。そのまま床に足を下ろし、空気を細く吸い上げる。 
「一人……か。」 
 睡魔の名残と共に、そんな言葉が吐き出された。何の気もなく発されたそれは、頭が回転し出すにつれてどんどん可笑しみを帯びてくる。 
 これまで無数に繰り返した凡庸な状況を、わざわざ言葉にするようなことだろうか? 
 大小二人の寝坊を寝床から追い立てるという朝の重労働が免除されたことは喜ぶべきことだ――物足りなさを夜着と共に脱ぎ捨て、シャツを片手にベッドを後にする。 
 天蓋から垂れかかる薄布を払うと、淡肌色に統一された室内の光景が広がった。長期滞在客を見越し、あらゆる調度品を備えた客室は、ややもすれば生家のそれより広い。事前連絡のない状態で、これだけの設備を人数分即座に充てがってもらえるとは、流石一年を通じて賓客の多い景勝地だけある。 
 窓辺に立ちはだかる遮光布が巻き上がり、朝靄が煉瓦を燻す香りが窓枠を伝い桟に滴る。 
 目の前に広がる水源の森は、清々しい朝日の輝きに彩られていた。トロイア城の建物は水源を抱き込む形に展開しており、上空から見ると水球を捧げ持つ手のような形をしている。ここ迎賓館は、ちょうど親指の先に当たり、旅人の目を絶好の景観で癒してくれる。 
 和やかな保養地気分をシャツで遮ったカインは、襟から抜け出た目線を今度は近間に落とした。ほぼ真下から続く外庭は、体操を行うのにうってつけと見える。麗しい気候の中、今日の体操は格別なものとなるだろう。靴紐を堅く結びつけ、扉を開ける。 
「おぅ、はよ。」 
 衝立となった扉の向こうから、辛うじて挨拶らしき体裁の大欠伸が聞こえた。 
「珍しいな。」 
「長寝するにゃ床があんまり上等過ぎらぁ。」 
 枕に整形された斬新な髪型を頭に乗せたエッジは、首を回しな再び欠伸をしてみせた。つい昨日まで自分と交代で使い回していた船室のベッドに比べ、貴賓室のベッドはややもすれば心もとなくさえ感じられてしまったのは事実だ。それにしても、王族らしからぬ言い様ではないか。 
「ンで、そちらさんはどちらへお出かけ?」 
「すぐそこだ。」 
 腕を交差させる体操の初動を見せ、毎朝恒例行事の消化を示す。頷くエッジの背後に、向かいの部屋の扉が開いた。静かな廊下に、扉の半分にも満たない小さな影が描かれる。 
「ポロム、おはよう。」 
 呼び掛けると、意識を半ば夢に置いたままのあどけない顔が上がった。 
「うーすポロ、よく眠れたか?」 
「おはようございますエッジさん、……カインさん。」 
 夜着の襟元を縒り合わせた少女は、普段と比べ物怖じしているように見える。原因は、この髪だろうか――カインは項を蒸す後ろ髪だけでもせめてと掴み束ねた。髪を下ろしていると強面三割増しとは、幼馴染のお墨付きだ。 
「良ければ一緒に体操をしないか? 目が覚めるぞ。」 
「っいいえ、仕事がありますから!」 
 一瞬で寝惑いを拭った少女は、ぱたぱたと気忙しい足音を立て廊下の果てへ消える。 
 取り残されたカインは溜息をついた。保養地気分に浮ついていた自分を恥じる。 
 元より真面目な少女だったが、仕事の手伝いを任った今、正に水を得た魚のごとしだ。昨日作業場を尋ねた際の、黙々と動く小さな手が目に蘇る。少女の様子は、呑気な見学者が迂闊な声を掛けて許される雰囲気では到底なかった――もしローザが気付いて声を掛けてくれなければ、危うく廊下をうろつく不審者となってしまうところだった。 
 少女が鬼気さえ迫る様子でいる一方、ローザの調子は普段通り、いや、普段より少しはしゃいだ感じでいたが、彼女とて別に暇を持て余していたわけではない。仕事をしているのは当然として、その後にも何か企みがあるらしく、ポロムについていくつかの聞き取り調査を受けた。今回の計画は応援を要する大掛かりなものではないようで、果たして何をするつもりかは教えてもらえなかったが――女性は得てして秘密ごとが好きなものだ。 
「駄ァ目だ、梃子でも動かねぇぞありゃ。」 
 回想の間に、エッジは唯一まだ開かない部屋から聞こえる高鼾の主の世話を焼きに行っていたらしい。 
「いいさ、ゆっくり寝かせておいてやろう。」 
 パロムをそのまま残すよう伝え、カインは踵を返した。 
 
 日常の中にぽっかりと空いた手ぶら時間は、作戦会議への招集を受け、ようやく終了を迎えた。 
 翼状階段を登って二階、突き当たりの大部屋。作戦会議室として設えられた部屋の内部は、よく見慣れたバロン城のそれを呼び起こした。壁に据えられた巨大な黒板と中央に置かれた樫の大卓。黒板の前では、事務官と思しき二人の女官がてきぱきと準備を整えている。 
 壁際の傍聴席を割り当てられたカインは、会議に参加する面子の把握にざっと視線を巡らせた。大卓を囲む席に着くのは二十人ほどの、当然ながら女性ばかりだ。構成年齢にばらつきは無く、平均して自分よりやや上といったところか。それぞれ襟に士官の身分を示す青樹冠徽章を飾っている。 
 ほどなく控え室の間仕切戸が開き、一際立派な枝振りの徽章を襟に結わえた年配の女性が現れた。議長席が埋まり、室内の空気が一変する。 
「これより、守護樹浄化作戦の最終確認を行う。」 
 来客二人の出席を確認し、議長が見目通りの凛々しい声で会議の開始を告げた。 
「まず、各隊の行動を模型にて確認する。」 
 事務官の手により、大卓上にトロイア城周辺を含めた大森林の平面模型が展開される。議長の指示に従い、トロイア城を示す積み木の門から、部隊を示す掌大の木箱を四つ出発した。色分けされた木箱はそれぞれ所定の場所へ配置される。守護樹の動脈である巨大な根が、地表付近に現れる場所を示した旗は計六本。守護樹の場所を掌として指を広げて伏せた手のような形に伸びている。北を零時とみて、第一隊が四時、第二隊が五時、第三隊が六時へ展開し、それぞれが動脈根二本ずつを受け持つようだ。 
「本隊は三時方向にある守護樹の元へ向かい、信号弾による指示を行う。」 
 議論の段階は既に終えているが、参加者は皆一言たりと聞き漏らすまいと真剣そのものだ。その表情は、彼女らが精鋭であることを雄弁に物語る。少なく見積もっても出席者の半数は中隊長格であるとして、この作戦に充てられた戦力はおおよそ一個師団にも相当する。精鋭の大部隊をもって当たる今作戦の重大さから、トロイアの民が守護樹に寄せる気持ちの大きさが窺い知れる。 
「守護樹は森の母、ひいては我らトロイアが民の母も同然だ。皆、気を引き締めてかかるように!」 
 喝を放った女性武官は、続いて、伸ばした掌の先に壁の二人を据えた。 
「なお、今作戦には、ミシディアよりの使者が二名、監査人として随伴することとなった。」 
 女性武官の言葉で、兵士達の眼差しが二人に集まる。 
「カイン・ハイウィンドだ。世話になる。」 
「エッジ・ジェラルダイン。よろしくな、淑女がた。」 
 二本指で庇を叩く気取った挨拶に、幾人かの唇から武人らしからぬ華やかな笑いが忍び漏れた。咳払いで場を引き締めた議長は、改めて二人に面と向かう。 
「お二人は作戦完遂義務を負わない。ご自身の安全を最優先に考慮し行動していただけるよう、お願いする。」 
「了解した。そちらもどうか我々の安全は気にしないでほしい、自分の身は自分で守れる。」 
 カインの返答に、議長は微かな笑みを浮かべる。 
「お二人は本隊に同行していただく。よろしいか?」 
「りょーかい。」 
 明快に応じるエッジに並び、カインも頷き異存なしを示す。 
 滞りなく会議を終え、解散する士官たちの足の間を縫って、パロムが部屋に飛び込んで来た。 
「何で起こしてくんないんだよ! オイラもカイギ出たかったのに!」 
「安心しろィ、お前の分までちゃんと聞いといてやったからよ。」 
 エッジがすかさずパロムの握り拳を肩車に捕まえる。エッジの肩上はすっかりパロムの定位置だ。エッジも心得たもので、両腕を遊ばせたまま苦もなくバランスを保っている。絶妙な調和の取れたその姿は、もはや肩装備パロム――いっそ、こういう形の生き物だと紹介されれば、うっかり信じてしまいそうな程の一体感を放っている。その名も、二身一体妖怪・ニンジャマドウシ。人々の家に入り込み悪戯をする、寝坊で大食らいの妖怪だ! 
「くだらん……。」 
 森林模型内に木箱を暴走させる遊びに興じる妖怪の横で、あまりに子供じみた想像をしたカインは目眩を起こす。 
「ミシディアの客人方、助力に感謝する。」 
 声の出処に振り返ると、議長を務めていた女性武官の頭が深々と下がっていた。カインは空咳一つで頭を切り替える。 
「いや、礼には及ばない。ところで、あなたは森に詳しいか?」 
「無論。我ら森の民、身も心も常に森と共にある。」 
 はっきりと言い切る彼女の声は揺るぎない誇りを帯びている。 
「もし良ければ、守護樹について何点か聞きたいんだが……」 
「何なりと。」 
 快い承諾を得、カインは会議中しまっておいた初歩的な疑問の類を引き出した。 
「樹齢はどれくらいなのだろう?」 
「確かな歳月は数えられないが、人がこの地に訪れるより古いことは疑いない。」 
「ってぇと?」 
 暴走木箱を空き地に休ませ、エッジも会話に加わる。 
「トロイアの建国が確か三百年前……とはいえ、国家としての体を成したのがそれだから、入植自体は更に数十年遡る筈だ。」 
 カインは諸国の歴史を説く教本の記述を記憶に起こす。エッジは目を丸くした。 
「守護樹が母ってぇなそういうことか……なるほど、トロイア大森林最古の樹ってわけだ?」 
 武官は子に接する母のような微笑を浮かべ、言葉を選ぶような素振りを見せる。 
「最古の樹は二本ある。母なる守護樹と、もう一本は北東の森、聖水をもたらした守護樹だ。彼と彼女は同じ土に寄り添い芽吹いた。」 
「それって、もしかして双子ってこと?」 
 エッジの肩装備が声を上げる。少年に優しい頷きを返しながらも、先に続く話があまり明るいものではないのだろう、武官は微笑を樟ませた。 
「此度の異変の発端は北東の守護樹……彼がダークエルフの呪いに冒されてしまったことに端を発するのだ。東南の守護樹が北東の守護樹を癒すために力を割いたその隙に、病が入り込んだのだろう。」 
「ダークエルフのノロイって?」 
 少年の無邪気な質問に、武官は憂いを頬に含む。 
「クリスタルを巡る争いが起こるより以前の話だ。ある夜、地を揺らし、海を血の光に満たし、ダークエルフが現れた。」 
 魔物の存在自体は知っていたが、出現時の様子は初めて聞く。その悪名に相応しい、随分と派手なお出ましだったようだ。 
「ダークエルフはクリスタルを奪い、磁力の呪いを撒き散らした。かの黒き甲冑さえ手を拱くほどの強力な呪いだ。」 
「ダークエルフってゴルベーザより強いんだ!」 
 武官の言葉に少年は目を丸くする。打って響いた言葉にカインは腕を組んだ。 
「そうだな……当時ゴルベーザの手勢には、自身を除きダークエルフに対抗しうる高位の魔導師がいなかった。多正面戦争の態を敷いてしまった以上、各拠点に貼り付けた上級将官は動かせない。そこで、ゴルベーザはセシルを利用し――」 
 それを立案したのは、他ならぬ自分――胸を炙る悔念を小息に吐き出す。 
「ふーん。じゃあさ、じゃあさ、それと樹とどういう関係があるんだろ?」 
 分かったのだか分からないのだか、少年は矢継ぎ早に問いを重ねる。カインに代わり、武官が再び回答役を引き継いだ。 
「ダークエルフの呪いは、磁力と共に土の穢れをもたらしたのだ。北東の守護樹は森を守るため、穢れを一身に集めた。代償としてその身は爛れ、体内を流れる樹液は毒に――大神官の手をご覧に?」 
 神官の手の甲を侵す赤い火傷痕がまざまざと目に蘇る。肌に炎症をもたらす類の草木は何種か知っているが、あれほどの外傷をもたらすものは記憶にない。 
「そっかー、まさに毒をもって毒を制すだね。」 
 どこで聞き覚えたやら、故事成語を口にしたパロムは尤もらしく頷く。 
「寄り添い芽吹いた永遠なる絆、二樹の結び付きは決して断たれない。彼は彼女の危機に瀕し、最後の力を振り絞って助けようとしている。彼の心を、彼女に必ず届けなければ……」 
 話のために時間を割いてくれた武官に礼を述べ、一行は会議室を後にした。 
「監査人と気取って暇してるわけにゃいかねぇな。」 
「ああ。」 
 作戦に掛けられた心意気を知れば、当然士気も違ってくる。聖水の効果を確認するという第一の目的はもちろんだが、成功率を少しでも上げられるなら、全力を惜しまず協力したい。 
「オイラ、シュゴジュの気持ちよく分かるなぁ。」 
 エッジの肩上で、神妙な面持ちのパロムが重々しく語り出す。常になく熱心に話を聞いていた少年は、何やら大いに思うところがあったようだ。 
「樹齢ン百年の気持ちが分かるたぁ豪儀じゃねぇか。」 
「だって、オイラもポロが困ってたら助けてやらなきゃって思うもんね。きっと毒の樹だって同なじなんだよ。」 
 比喩が功を奏したか、パロムはすっかりと守護樹に共感したようだ。 
「オイラ、明日はぜったい寝坊しないぞ!」 
 したり顔で早起きを宣誓する少年の肩を叩き、カインは窓の外に目を向けた。昼食の素材だろう果物や青菜を盛った籠を抱えた女官たちが、中庭を足早に過ぎていく。 
 
 一方その頃。 
 備品製作班のために、作業場の向かいの部屋に設けられた簡易食堂。一段落着いた者から順に席を立ち、暖かい食事で息抜きをする。 
 祈りの塔で親しんだ取り分け式の食事に戸惑うことはない。弟の野次に煩わされることなく、好物の木苺パイを心ゆくまで堪能したポロムは、香茶のお代わりと、木苺パイの残りを確認するため立ち上がった。 
「ポロムちゃん、もう食べ終わっちゃった?」 
 頭上から降る声に肩が竦む。目だけを上げると、彩り豊かな温野菜をふんだんに盛り付けたトレイの上に、穏やかな微笑が見えた。 
「席、空いてます。」 
 慌てて顔を下げたポロムは、パイのソースが斑模様を描く空皿を隠し、足早にすれ違う。 
「あ、ねぇ――」 
「妃殿下。」 
 背中に追い縋ろうとした声を、別の声が引き止めた。肩越しに様子を伺うと、陣中見舞いに訪れたのであろう大神官が膝を屈め、彼女と互いに挨拶を交わしている。 
「妃殿下にお手伝いさせてしまって……」 
「ずっとお世話になってしまっているのですもの、私でお役に立てるなら――」 
 彼女が足止めを食っている隙に、ポロムは食器の返却口へと急いだ。 
「お代わりはいかが?」 
「ありがとうございます、もうお腹いっぱいです。とってもおいしかったですわ。」 
 予定変更を決め、トレイを給仕に返してしまう。追加の銀皿に光り輝く焼き立ての木苺パイに後ろ髪を引かれつつ、ポロムは作業部屋に駆け込んだ。 
 開け放しの扉から、彼女に侍る賑やかさが漏れ聞こえてくる。人の大部分が食堂に移動している今、もうしばらくの間は作業の手を止めていても許されるだろう。ポロムは作業場の壁に向かい、聖水を溜めた大瓶の前に立った。 
 内部に充たされた清廉な水の色が、燭灯を反射しきらきらと輝く。陶器越しにさえ力強い命を感じるそれに半ば引き寄せられるように、水面に伸ばした手首が緩く掴まれた。 
「素手で触れるべきではありません。弱めてあるとはいえ、無害ではありませんから。」 
 手首を枷する手袋の甲に、火傷の跡が透けて見える。ポロムは慌てて手を引っ込めた。 
「……聖水は、ここにある分だけなのでしょうか?」 
 周囲に他の者がいないことを確認してから、ポロムは大神官と向き合った。大神官は裾に戻した手を縒り合わせ、静かに頷く。 
「彼が森のために遺した最後の力です。」 
 大神官の瞼に伏されたイメージが、少女の感覚に触れた。森に分け入り、しばらく先に見える、かつて豊かだった大樹の畔。生命溢れる光の景色は、一枚、また一枚と煉瓦が壊れ落ちるように、静かな死の風景へと入れ替わる。 
「北の守護樹さんは、死んでしまったんですか?」 
「いいえ、まだ辛うじて……しかし、そう長くは保たないでしょう。」 
 大神官の眼差しが、悲しい予感に揺らぐ。 
「助けてあげないんですか?」 
「叶うものならば。」 
 少女の素直な提案に、神官は穏やかながらきっぱりと首を振った。 
「滅びもまた森の循環の一部です。循環を一時緩やかにすることは出来ても、止めるほどの力を我々は持ちません。癒しの力を持つ貴女は、きっとお分かりでしょう。」 
 理解を促され、ポロムは項垂れた。 
 人に与えられた癒しの力は万能ではなく、ただ、進もうとする意志を後押しするだけに過ぎない。生きようとする体を後押しすれば癒しとなるが、朽ちた体を後押しすれば、滅びの方向へ――癒術の習いに添えられた文句が耳に蘇る。 
「浄化は病を枯らすでしょう。場合によっては同時に彼女の命をも……旧いものが去り、しかし新たな生がまた歩むのです。」 
 少女の髪を撫でると、大神官は軽く膝を折り暇を告げた。入れ替わりに昼食を終えた作業員たちが戻り、仕事を再開する。 
 今回必要である魔導具”エルメスの靴”は、手工芸の刺繍とよく似た要領で製作される。まず、着色された生糸に魔法文字を結い付け、次に魔力の揮発留めとなる貴石のビーズを通す――この段階で作業を止めれば、正反対の効果を持つ魔道具”蜘蛛の糸”となる――最後に、その糸を用い、玉繭から紡いだ正方形の清布に”反転”を表す魔導図柄を刺せば完成だ。 
 席に就いたポロムは、糸束と棒針を手にした。担当の青糸はもう僅かを残すばかりだ。通し順を違わぬよう、慎重に棒針を動かす。一本の糸に結べる魔力はおよそ二十目、直接詠唱に換算すると約一呼吸分となる。 
 新しい糸を引き出し、織り込んでゆく結び目に、先の神官との会話が纏わり付く。 
 大神官の言葉が正しいことは分かる。だが、釈然としない。滅びを無情に感じてしまうのは人の業だと、長老からも教わった。しかし――。 
 考え事に意識を半分取られているうちに、手元がぼやけてくる。ポロムは懸命に目を瞬いた。目を開けたままでいようと意識するほど瞼の重みが増す。まるでパイからジャムが染み出すように、手足の先からぽかぽかとした温もりが体全体に広がってくる。 
 ポロムは苛立たしく鼻を鳴らした。睡魔ときたら、昨夜は大きなベッドに恐れをなして寄り付きもしなかったくせに、今頃になって――三つの扉を何度か順に訪問したがどれも開けるに至らず、終いには荷袋を抱きしめてベッドに転がったものの、目を閉じたのは朝鳴き鳥の囀りを聞いた後だった。 
 降りかかる瞼を必死に巻き上げる努力も空回り、しまいには編み目と棒針が流し模様を描いて回り出す。そうこうしているうちに、頭上から降りた白く柔らかい光が、道具を指先からそっと剥がしてしまった。 
「少し休みましょ。」 
 ね、と同意を求める声に、顎が勝手に落ちてしまう。椅子から易々持ち上げられ、暖かい絹に包まれる。額にかかる髪を優しく払う指先が周囲の音を連れ去り、眠りはあまりにも素早く横たわった体を包んだ。 
 
 目を閉じていたのは、蝶の羽ばたきにも満たない時間――の筈だった。 
 肩を揺られ、はっと呼吸が詰まる。見開いた目に飛び込んでくるフードの下で、見覚えのある口元が微笑を浮かべた。 
「着替えたら中庭に集合よ!」 
 口早に湿した布を手渡される。礼を言う前に、大弓を結わえ付けた靭やかな背は廊下に消えた。 
 目元に蟠る睡魔を拭い、しっかり開いた目を室内に一周させる。あれほど作業員で賑わっていた部屋が、いまや人影どころか気配さえすっかり消え去ってしまった。 
 寝過ごしを悔いる暇もない。長椅子に設えられた簡易寝台から飛び降り、杖を引っつかみ、覆衣のボタンを留めながら廊下を走る。飛び出した内庭では、既に隊列を組んだ兵士の人数点呼が始まっていた。ポロムは林立する足の間に見慣れた姿を探す。しかし、思うように視線が通らない。合流を諦めかけたその時、ようやく聞き覚えのある声を捕まえた。 
「随分な大荷物だな。」 
 城門前広場の中央に完成した機材が積まれている。声はその向こうから聞こえてきているようだ。回り込んでみると、部品の傍らに歩み寄ってくるカインと、居眠りパロムをいつものように肩に乗せたエッジの姿があった。 
「エルメスの靴っても、靴の形してるワケじゃねぇのな。」 
「古代、これら魔法道具の製造は靴職人が手がけていたらしい。その名残だろう。」 
 カインさん――呼びかける声を遮るように、カインは背を向けた。 
「ローザ!」 
 大股に隊列に歩み寄ったカインは、隊列の最後尾に並んだ女官の傍らに仁王立つ。 
「何してる?」 
 抑揚を抑え付けた声に、浅緑の布下で澄ました唇がそっぽ向く。溜息と共にカインの手が閃き、フードをぱっと払い除けた。咄嗟に白い腕を翳すも空しく、高く結わえた豊かな金髪が背中に零れる。隊列の最後尾にひっそりと加わっていた女官の素顔に、周囲がざわめく。 
「……やっぱり、ダメ?」 
 成りすまし女官はそろりと世話係の機嫌を窺う。上目遣いの触れた男のこめかみがピクリと引きつった。落雷に備え、娘は素早く肩を縮こめる。 
「当たり前だ! 変装なんぞしやがって全く、何を考えているんだ……」 
 口火を切った直後から急激に気勢を失ったカインは、雪崩れ落ちんばかりの額を手で支える。腹を抱えて爆笑に噎せるエッジを横目に、深い溜息が漏れた。 
「装備を返して来い。」 
「分かったわよぅ。」 
 憤怒の彫像と化した男に、ローザの膨れ頬からぷしゅーと空気が抜ける。 
「いいか……前にも言ったが、お前はバロン王妃、国母なんだ。報恩を考えた結果だとは思うが、まず何よりも、お前には安全無事でいる義務があるんだぞ。お前に何かあれば、バロンのみならずトロイアも面目を失……おい、堂々と欠伸するな。別に謝らなくていい。あまり寝てないんだろう、着替えた後でゆっくり休め。とにかく、ローザ、くれぐれも、ここで、大人しく――」 
「集合!」 
 兵垣の向こうから留守の心得を諭す時間切れを告げる声が上がった。 
「カインさん!」 
 男の目が娘から逸れた隙に、ポロムは必死にその足下に駆け寄る。 
「ポロム、すまんがローザを頼む。目を離すと何しでかすか分からん。」 
 頭に被された掌と、何よりその言葉が少女を中庭に縫い止めた。 
 もう、彼の心に自分が入れる場所はないのだ――隊列が去った広場に、少女は一人立ち尽くす。 
 
 町を後にした隊列は、予定通り三手に分かれ森へと踏み入った。道を分かれて遠ざかっていく別動隊の列が、木立の合間に見え隠れる。振り仰げば、陽の光を受け輝く緑天井に透ける葉脈。生い茂る葉と葉の間に青く澄んだ空。耳を澄ませば、鳥や獣の声が風に入り交じる生命の響き。 
「森はいいねぇ~。」 
 エッジの言葉に異論は無い。 
 木立を伝う目に、計画植樹用の目印札が映る。森の民を自負する民の存在とその手があってこそ、この森は現在の美しい姿で存在する。大森林の存在は、この星に於ける、人と自然の最も美しい調和の形なのかもしれない。土のクリスタルの守護があるとはいえ、これだけの大森林を育て上げ、保っているのは自然の力ばかりではない。トレントの一生に、トロイアの民は何代にも渉って寄り添うのだという。 
 だが、その調和にべったりと染み着き、浸し、塗りつぶそうとするものがある――ステュクスだ。 
「あれ、ポロは?」 
 欠伸混じりの呑気な声が、カインの思考を遮った。寝ぼけ眼を拭ったパロムは、居並ぶ兜の下に片割れの姿を探す。 
「ポロなら城……うぉお!」 
 答えたエッジは、声の出所に気付き驚愕した。 
「お前どっから沸いて出やがった!?」 
「オイラずっとここにいたじゃん!」 
 妖怪ニンジャマドウシの内輪揉めを横目に、カインは唖然を飲み下す。てっきりパロムはまだ部屋で寝ているのだとばかり思っていた。百歩、いや千歩譲って、少年を肩に乗せた張本人が気付かなかったことは仕方ないとしよう。しかし、傍から見ていた自分までもが、少年の存在に気付かなかった事実は納得できない。 
「オイラ、今日は寝坊しないって言ったじゃん! シュゴジュの心を届けてやんなきゃ!」 
 えへんと胸を張って意気込む少年の処遇は、肩装備のままと定まった。追い返せる距離はとうに過ぎたし、何より、少年の気持ちに水を差すのは可哀想だ。 
「客人方。」 
 両腰に戦斧を差した武官が、先頭を副官に任せ歩みを緩めて一行と並ぶ。兜に髪が隠れているため分からなかったが、庇の下の顔を見れば、作戦説明をしていた武官のそれだ。 
「このような物々しい行軍の随伴としてではなく、穏やかな遊行としてこの森を楽しんでほしかった。この森は良い森だ。」 
 カインは頷いて同意を示す。いずれ機会に恵まれ再びこの森を訪れる時は、瑞々しい景色をゆっくり楽しみたい。 
 昼食を挟んで歩くことまだ暫く。森の地理を今ひとつ把握しきれていない一行にも、行軍が終点に近付いていることが感じ取れた。周囲の様子の明らかな変化――根付いた身を、僅かでも”それ”から離そうと、奇妙に捩れた姿と化した一群の木立。 
 枯れた葉や幹にべっとりと返り血を浴びたような赤班を浮かせたトレントたち。視線交わしに了承を得たカインは、間近な一本に近づき、幹をノックする。感触は枯れた幹のそれだが、内部の反響は生き腐れたそれのもの。見上げた枯れ葉は、苦悶に歪んだ人の表情をすら思わせる。 
「トレントってよりブラッドツリーってカンジだな……。」 
 エッジが声を潜め呟く。周囲に生き物の気配はない。まるで砂漠のような静けさだ。かつて緑が覆っていたであろう地面も、今は喪の灰を帯びている。 
 エッジ命名・ブラッドツリーの木立を抜けた先にあったものは、より奇妙で不気味な光景だった。 
 それが樹であることを予め知っていなければ、それが樹であるなど到底思い至らないだろう。樹頂から溶けた赤蝋を浴びたように、無数の病瘤に埋め尽くされた、醜悪な巨像。 
 部隊の面々が一様に息を呑む。かつての面影を胸に宿している分、変わり果てた姿は正視に耐え難いだろう。 
 部隊に陣形を指示した武官は懐中時計の盤面を確認する。カインの目算が正しければほぼ予定通りのはず。果たして、武官は確かに頷き時計をしまった。 
 静寂の空に、部隊の展開完了を知らせる花火が咲く。三部隊全てからの花火を確認。信号手が作戦開始の花火を上げると、ローブ姿の女性――神官が隊列を離れ、守護樹の根本に傅いた。 
「近付いて大丈夫なのか?」 
「ええ。守護樹は病に冒されてより、昏睡状態にあると。」 
 一行の興味の視線の先で、神官は手にした銀の音叉を振るい、根を叩く。すると、穏やかな低音が打ち響いた。 
「ああして、トレントの生命の流れを測るのだ。」 
 武官が説明を重ねる。 
 銀叉を耳の遠く近く手鐘のように打ち振るう様は、死の森にあって神聖をいや増して見える。門外漢に出せる手はなく、鳴り続く不思議な音色にただ耳を傾ける。 
 神官が前奏を終えた頃に、武官は懐中時計を再び見やった。三回目のエルメスの靴の発動が掛かった頃合だ。これで全ての聖水が予定通り注入されたことになる。 
 最初の兆候はすぐさま現れた。垂れ下がっていた瘤がかさかさと乾き、みるみる内に人の頭大から拳大にまで縮む。やがて乾いた表面に罅が走り、実が割れるように内側から裂けた。 
 一つ割れたを機に、病瘤は次々と裂果する。 
「こりゃあ……――」 
 予想以上の効果を目の当たりにし、エッジは口笛を吹いた。量産さえ叶えば即座に対ステュクス用決戦兵器となりうる威力を目の当たりにし、カインは息を呑む。武官は満足げに頷き、部隊の方々で喜びの声が上がった。 
 病瘤は今や無害な細片と化し、さらさらと花片のように降り積もる。砂時計を思わせるその音に紛れ――始めは木立のざわめきかと思った。だが、感覚が異常を鋭く警告する。頬に触れる風がないのに、葉が音を立てるほど擦れるはずはない。明らかに、聞き流して良い自然の環境音ではない。 
 囲まれている気配に、相棒と互いの背中をカバーする陣形を緩く形作る。トロイア部隊も同様に、近い者同士死角をカバーする陣形に構えた。 
 殺意のような確かな形を持たない不気味な予感。僅かな異変すら見逃すまいと目を配る。 
 地面を突き破り根が飛び出した。カインは素早くパロムを担ぎ上げ、足下から突き出す根を避ける。飛び出した根が凶爪と化し、地を切り裂きながら守護樹へ向かう。 
「拙い!」 
 即座に駆け出し、両側から根を挟んで回り込んだ二人が、異常事態に立ち尽くす神官を背に立ちはだかる。二人が振り向くのに一瞬先んじ、 
「凍えろブリザド!」 
 少年の腕に咲いた氷環が、大爪を霜柱に変えた。カインの槍、エッジの二刀と、遅れて駆けつけた武官の斧が霜柱を砕き、逃走経路を開く。 
 離れた場所に神官を連れ出し、振り返る。そこには惨状が広がっていた。 
 周囲から次々と守護樹めがけ押し寄せる根の大群。大地に根ざす支えを失い、幹や枝は成す術なく悲鳴を上げて倒れ伏す。獰猛に地面を掴み猛進する根に引きずられ、幹は傷付き枝は葉を散らす。 
 不運にも進行方向に居合わせてしまった者が下敷きになる。現場一帯は瞬く間に阿鼻叫喚の様相を呈する。矢を射掛けても斧で払っても怯まぬばかりかすぐに再生してしまう。 
 カインは舌打ちした。拙い状況だ。盾となり鎧となり、トロイア兵らを守る森。それが牙を剥いた。枝葉に溶け、木立を縫い、的確に敵を射抜く彼女らの弓も、森そのものが相手では力を失う。 
 襲い来る根を殴り振り払い、指揮官の元に駆け寄る。一瞬の決断をカインは躊躇わず口にした。 
「皆に渡河を命じてくれ!」 
「総員、対岸へ!」 
 息子ほども年の離れた青年の言葉に迷わず従う。今は学都ミシディアの使者だが、以前はバロンの伝統ある部隊を率いていたと聞く。そして何より、この未知の化け物との戦闘経験を持っている。戦況判断は確かだ。 
 撤退命令を受けた兵達は速やかに対岸に集合する。自力で渡れる者は負傷者に手を貸す。撤収に合わせ、前線を下げる。残存戦力と共に形成できるのは薄い防衛ライン。 
 最後まで前線に踏みとどまり、撤退する兵の後方を守っていたカインは、ようやく根の下から掘り出した負傷者を抱きかかえ、河を一跳びに越える。背後に迫る暴走根。だが、根は踵を掠めそのまま川面に落ちた。水を吸い上げている。河に撒き餌と同じ効果を予想し見事的中した。 
 しかし――カインは背後の状況を顧みる。大半が怪我を負い、満足に立っている兵は半数もいない。対岸ではトレントキメラ樹木がどんどん巨大に育っていく。数多のブラッドツリーで形成された異形の大樹。まるで森の骸で出来た巨大な墓標だ。 
「どうなってんだこりゃあ……」 
 苦々しく呟くエッジの横で、失意の表情の武官は首を振った。 
「浄化は確かに行われました。」 
 武官の後ろ、疲れきった兵たちの中から悲痛な声がした。 
「守護樹は子らを癒そうと……しかし、子らはあまりに変わりすぎてしまった。このままでは全て食い尽くされてしまいます。」 
 言って、神官は天を仰ぐ。 
「ってことぁ……要するに?」 
 エッジが肩越しに神託の共通語訳を求める。 
「守護樹の治癒能力で対処するには、寄生の段階が進みすぎていたんだろう。宿主ではなく、そのものとなってしまうのも時間の問題か……。」 
 カインは自分が理解した通りを伝える。目の前の河の水位が徐々に下がり、対岸はすっかり一面根のようなものに覆われて地面が見えない。 
「……一帯を焼き払うしかない。」 
 考え付ける最良にして最悪の手段。強固な反対を予想したが、実際に武官と神官の口から漏れたものは短い驟息ただ一つだった。 
 
 河の水を上流で塞き止めたり燃料用意して運んできたり準備をしなければならない。森に展開している部隊に引き上げを指示する花火を上げる。応答はすぐに返った。他部隊の担当区域では異変が見られないようだ。 
「伝令!」 
 城へ状況の詳細と要準備を伝えるため、火急に口切られる指示をカインが横から留める。 
「差し支えなければ、俺達に任せてもらえるか?」 
 地理不詳で川沿いの迂回路を走る不利を差し引いても、今この場にいる中で最俊足は自分たちだろう。伝令票を預かる。 
「エッジ!」 
「合点!」 
 揚げた手に荷物を投げ渡し、伝令票一つの身軽になった忍者が音もなく木立に溶ける。カインはパロムを背負い、後に続いた。 




LastModify : October/14/2022.