ブラシで乱暴に擦りつけたような掠雲の下、真白い帆は風をはらみ、群青の中心を船が揚々と進む。 
「よぅ、お客人がた、乗り心地はどうだい!」 
 船縁に立つカインとポロムの元に、一際光るファブール徽章を襟に飾った大柄な男が一人、歩み寄ってきた。 
「結構、揺れますわ……」 
 ポロムが怖々と感想を述べる。優美な船姿とは正反対の無骨な船長は、右へ左へ揺られる少女の頭に無骨な掌を力強く被せた。 
「揺れるのはな、お嬢ちゃん、こいつがうんと早く走ってるからさ!」 
 半ば強引に持ち上げられたポロムの頬を、船の蹴立てる波飛沫が叩く。 
「どれくらい早いんですの?」 
「どれくらい、だってぇ? そうさなぁ~……」 
 大仰に腕を引き上げ、短く刈られた顎髭を撫でる船長の態度は、待ってましたと今にも叫び出しかねんばかりだ。案の定、その表情はすぐさま不敵な笑みへと塗り替わり、風切り音を伴なって両腕が大きく広がった。 
「これまでの船がそよ風なら、こいつは大嵐だ! シードラゴンだって追いつけやしねえ、ファブール最新高速戦艦様たぁ、こいつの事よ!」 
 船長の大見得に気圧され逸り返る少女を抱き留め、カインは鼻先を湿らせる風を緩く吹いた。出航前にヤンから聞いた話では、クリスタル戦役時に起きたリヴァイアサンによる海難事故を受け、海上交通手段に掛ける予算を増額し、ファブールーミシディア間を結ぶ最長航路の更なる安全性向上が計られたのだという。且つ、戦後行われたバロンとの技術交流により、新型の高速戦艦建造さえ実現させるに至ったのだそうだ。 
 思い返せば先々週、ミシディア市街へ買い出しに出掛けた際に、ファブールの新型艦が外洋走行試験を無事終了した報は噂に聞いていたが、まさか自分がその船の処女航海に乗船できようとは思いもしなかった。 
「さあさあお客人がた、風さえ向けば明日の朝、いや、今日の夜、いやいや! 今すぐにでもミシディアに着いちまうぞ! 船旅を楽しむなら今の内だ!」 
 旅の安全を力強く請け負い、船長は高笑いと共に踵を返す。船長の自信を裏付けるだけの仕様を誇る船だと知りつつも、カインは懸念顔を波間から引き上げることが出来ない。 
 一方、甲板上を所狭しと走り回るパロムを肩車に捕まえたエッジは、縁からやや距離を取って心配性分の背中に声を掛けた。 
「夜通し鳴いてりゃさすがに寝てんだろ。ま、一頭きりてぇ保証はねぇが。」 
「ああ……。」 
 曖昧な音で答え、視線を海に泳がせる。船縁の格子に小さな両手をしっかりと固定したポロムは、潮風に晒される唇を結んだままのカインをじっと見上げた。 
「隊長、船の中! 船の中見に行こうぜ!」 
「へいへい了解しました、パロム様。」 
 専用の自走式展望台を手に入れたパロムは、船旅にすっかりはしゃいだ様子だ。一等席に陣取る客に景気良く頭を張られ、エッジは口を捻曲げる。仲直りと引き替えに一日何でも言うこと聞きます権を与えてしまったのは失策だった。 
「まずは食堂へトツゲキだー! お菓子をもらって、ニィちゃんたちの分ももらって、それからそれから――」 
「ってぇコラ暴れんな、海に落っことしちまうぞ!」 
 少年の暴れ足を押さえつけ、エッジはくるり方向転換する。 
「カインさん、私たちも中へ参りましょう。」 
 船室へ続く扉に向かう賑やかな肩車を見送ったポロムは、もう一人の保護者の手首にそっと触れた。 
「ここはちょっと寒過ぎますわ。」 
「ああ……そうだな。」 
 海風の時化を吸い冷えた少女の指先が控えめに袖口を引く。その手の微かな震えは、竜騎士が船出から握り続けた懸念の紙帯をようやく手放させた。 
 甲板上でどれだけ熱心に足踏みしたところで、船足が速まるわけではない。舵を預かる相手を信じ、快適な船旅を楽しむことこそ、客として尽くせる最高の礼儀ではないか――船室へと続く扉を指した爪先はしかし、波飛沫に混じり響く咆哮に押し止められた。 
「右舷前方、二時方向より未確認物体接近! 距離千三百!」 
 マストに登った見張りが、迫り来る危険を示す。その一声で、甲板上を流れる空気が一変した。増援の見張りが矢のように甲板を駆け抜け、マストに飛び付く。 
「そうは問屋が卸さねぇってか!」 
 慌ただしく行き交う船員たちの間を縫い、エッジはパロムともども船縁まで引き返した。右舷側船縁に集合した一行は、見張りの示す方向に視線を揃える。しかし、未だ水平の下に潜む敵は、甲板上からでは確認出来ない。 
「相手は何だ!」 
 荒い潮風に船長の緊と張りつめた声が抗う。 
「種別シードラゴン、一頭!」 
「巨大な個体です! 全長二十七……いや、三十メートル!」 
 新たに二人加え、計六つとなった眼が次々と情報を甲板に投げ降ろす。船縁の一行が荒くなり始めた波足に平衡を崩され姿勢を保つのがやっとでいる間にも、着々と本来この船のあるべき戦闘艦の体が成されていく。 
 熟練した船員達が見せる統制の行き届いた動きは、カインにバロンの精鋭・飛空艇部隊のそれを思い起こさせた。人の自由にならざる世界、海と空の違いはあれど、そこを進む『船』の術が似通うのは至極当然と言えようか。 
「こりゃあ出る幕ねぇかもなぁ。」 
 エッジの言葉は安心半分拍子抜け半分といった風だ。しかし、船上戦闘が発生する可能性が皆無となったわけではない。カインは荷から得物を抜いた。足場の揺れる船での戦闘には不慣れだが、船員達の手煩を幾つか減らすくらいならばこの槍でも叶うだろう。 
「船長ォ!!」 
 直後、見張りの絶叫が甲板に降り注いだ。 
「どうした!?」 
「サーペントです! ドラゴンじゃない、シーサーペントだ!」 
「背面に鋸歯状帆確認! 間違いありません!」 
 新たな情報が甲板にざわめきを巻き起こす。 
「シーサーペントだと!? まさかこんな場所で……!」 
「バカな、有り得ない!」 
 船員たちの動揺は、竜騎士である自分の比ではないだろう。兵学校陸兵科で掻い摘む程度の基本生物史でさえ、シーサーペントの住処は深海であり、海面にまで上ってくることはないことを常識として教える。大嵐の過ぎた後などのごく稀な条件下で、死んだ個体が漁網に掛かった例はあるが、生きた――しかも、熟練の見張りが、一見竜と見まがうほど巨大な――個体との遭遇となると、数多記された航海史をくまなく当たったところで前例を見付けることはまず不可能だろう。 
 それはつまり、この不幸な遭遇の起こりうる可能性が奇跡にも等しい確率であり、かつまた、奇跡の遭遇から生還した人間など一人もいないという事実を示している。 
 一人も? ――いいや。 
 カインの背筋を嫌な汗が伝う。巨大なシーサーペントとの海上遭遇――自分は、被害者が生還した奇跡を、たった一例知っている。だがそれは、船乗りの間で忌まわしき伝説と語り継がれた――恐らくは、同じ予感に行き着いたのであろう船長は、自身も懐から取り出した単眼鏡を伸ばし、水平線の向こうへレンズを向けた。 
「船長、逃げましょう! あいつにゃ……勝てっこねえ!」 
「バカ言うんじゃねえ、願ったり叶ったりの弔い合戦よ! 客人方にこいつの真価を見せてやれ!」 
 部下の泣き言を叱りとばし、船長は空き手で後方に控える航海長に合図する。航海長の指揮の元、数人で組みとなった船員達が、大広間に敷かれた絨毯よりも巨大な帆を見事な手際で折り畳んだ。 
「螺旋推進器、起動!」 
 航海長の号令に応じる船員たちの声が海風をなぎ倒し、次の瞬間には轟と響く重低音が甲板を揺るがした。 
 突然の速度変更に、エッジはあわやひっくり返されかけた姿勢を辛うじて柵に繋ぎ止める。 
「何事だぁ!?」 
 保護者の手を離れてしまった少年の首根を素早く捕まえたカインは、船の両側面に高く聳えた水壁より飛来する潮粒に目を細めた。 
「この船が最新鋭と呼ばれる所以だ……恐らく。」 
 カインの脳裏で、出航直前目にした船体図が鮮やかに広げられる。水面下深く貫く可動ブレードと、船尾間近に据えられた一対の末広筒。末端が大木ほどもあるその筒に収められた幾枚もの羽が回転し、信じられないほどの洋上高速機動を可能にする――これぞ、バロンの誇る飛空艇推進装置・多翼螺旋推進を船舶装備へと転用昇華させた代物だ。飛空艇と同じく可載燃料の都合により短時間に留まるとはいえ、平均帆走速度のおよそ二倍にも達する自由機動力は、特に戦闘のような局面では多大な優位性をもたらす。 
「面舵いっぱい!」 
 船長の号令を受け、操舵手が舵輪横に据えられたハンドルを回す。カインとエッジはそれぞれ子供をしっかりと抱き込み縁の格子に捕まった。急激な方向転換に、甲板が軋みながら大きく傾く。 
「海上戦闘準備!」 
「左舷砲、準備よし!」 
 潮風に紛れ、金属と火薬の匂いが立ち上った。砲門蓋を弾き飛ばす勢いで突き出された左舷船首側の三連砲台は、冷たい黒鉄の火を放つその瞬間を虎視眈々と待つ。 
「よぅポロ。」 
 徐々に肉薄する危難を前に、エッジは腰に差した剣の柄を鳴らした。 
「レビテトってなァ海の上でも効くもんかい?」 
 問われた少女は、緊張に高鳴る胸に一際強く杖を抱き込む。 
「はい。……ですが、水はとても不安定ですから、集中して魔法をかけ続けなければなりませんわ。」 
「お一人様限定ってこったな。いっちょ予約頼むぜ、」 
 エッジは顎をしゃくった。 
「そこのへっぽこ竜騎士によ。」 
 耳の隅に聞いていたやりとりの締め句に名指しされた男はしばし面食らった。確かに、船に乗り合わせた中で最も重く、かつ着脱の困難な装備である自分にとって、水中への落下は命取りに直結する。 
 しかし、せっかくの厚意だが、それが報われるような事態にはならないほうがいい――右旋回を終え航路をやや外れた船の左舷側、甲板に立つ者の目にも敵の姿が徐々に見え始めた。 
 青磁の波柱に入り混じる澄んだ水色の輝き。目を細め、波間に霞むその全容を補正する。 
 足底から頭の天辺まで一息に貫くような咆哮が、甲板上にある全てを揺るがした。白炎のように海が噴き上がり、大顎を開いた青い海蛇が空を舞う。尾から伸びる長い鰭が、上質な紗のように風を抱いて揺らめいた。 
「様子が変だな……。」 
 海蛇と共に喫水線から現れた違和感を、カインは口まで昇らせる。 
「そりゃあ、奴さんとてこんな場所くんだりまで出て来てぇわけじゃなかろうよ。」 
 空中でくしゃりと結ばれた蛇の体は、片端から引き解かれるようにするすると紺碧に吸われ、再び盛大な水柱を立てた。それはまるで子供が綾紐を繰るかのような、ある種の優雅ささえ備えて見える――しかし。 
「とっても苦しそう……泣いてるみたいですわ……。」 
 カインの胸中を占める感覚を、ポロムが素直な言葉に置き換えた。命の理を司る白魔導師の所感は恐らく正しい。問題は、果たしてそれを船長に具申して良いものか。 
 迷いを抱いたまま、蛇の舞踊をただ見つめる。今はまだ掌中に収まるその姿。だが実際は、尾の一振りで容易に船を転覆せしめるほど巨大な、海に於ける最大の脅威なのだ。 
 海は人の自由が利く世界ではない。最新鋭の高速戦艦とは言え、本質的には水面に浮かべただけの器同然――それは、たった一度の大波にさえ足を挫かれることのあるほど脆い――には変わりなく、また、螺旋推進装置をもってしても機動能力の差は比べるべくもない。大砲による攻撃射程の優位があって尚、或いはそれでも、打ち倒すには多少の犠牲を覚悟しなければならないだろう。 
 そんな状況で、先手を取れる機会を捨てさせるのは、非常に危険な賭けだ。 
 逡巡する間にも彼我の差は着実に狭まる。船の行動を決定するには、最早一刻の猶予すら無い――相手の懐と言える距離に入ってしまってからでは遅すぎるのだ。 
「後片付けなら手ぇ貸してやんぜ。」 
 視線を回した先で、相談の前に答が返った。 
「オイラの魔法でやっつけちゃうもんね!」 
「カインさん!」 
 ポロムがこっくりと頷く。もし最悪の結果となったとしても、始末を付けるために助力してくれる皆がいる――後押しを受け、カインの足は船長の元へと動いた。 
「船長、攻撃を中止してもらえないか?」 
 突拍子もない申し出に、単眼鏡から剥がれた眼が真円に見開かれる。大僧正より直々に特別の待遇を頼まれた客人の顔を、船長はじっと矯めた。 
「妙な事を言ってすまん。だが、あのサーペントはこちらを恐らく見ていない。針路を逸らせば回避できる。」 
「おい、自分が何言ってんのか分かってんのか? あいつは――」 
 船乗りの忌語であろうその名を口にすることは躊躇われたか、船長は捻曲げた唇の端に声を濁す。カインはもう一歩身を乗り出した。 
「無論承知の上だ。先手を取らなければ万に一つも勝機は無いだろう――だが、交戦せずに済むならそれに越したことは無い。違うか?」 
 真っ直ぐに前を見据えるカインの眼差しに吊られ、船長もまた船嘴の先へ顔を戻す。 
「間もなく射程! 距離四二○、三九○……三三○、」 
 遠望鏡を手にした航海長が、艦砲有効射程到達までのカウントダウンを始める。 
「バロンの竜騎士さんよ。」 
 刻々と迫る最終期限を目前に、船長は再びカインの顔を見据えた。 
「その判断、ここに居る全員の命を賭けられるってんだな?」 
「いいや。」 
 予想外の即答を受け、潮に灼けた眉間がぴくりと動く。 
「皆の命を預かったりはしない。不始末の責任は全て俺が取る!」 
 周囲に霧なす波飛沫を薄月に切り裂き、白氷の穂先が煌々と掲げられた。 
「責任って、あいつを相手に……その槍でか!」 
「そうだ。」 
 竜騎士の声は揺るぎない。真円眼を瞼で二度拭った船長は、やがて厳つい顔の隅々にまで豪笑を充たした。 
「さすがはライデン大僧正の朋友、いい度胸だ!」 
 さっと立てられた無骨な手が、航海長の読み上げを止める。船の風向き変更を察した航海長は、素早く待機を下令した。 
 呼吸さえも躊躇われるほどの緊張が、しばし船を支配する。およそ二百五十メートルの距離を保ち、海蛇と船が並ぶ。巨体の起こした波が船を煽り、膝を崩され甲板を滑った船長は、間一髪竜騎士の腕により確保された。 
 大きく盛り上がった左舷の向こう、メインマストの半ば以上にも達する海蛇の体が過ぎていく。体色と同じ青い光の膜に覆われた姿――その詳細を目にした全ての者から声が失われた。 
 優美な流線型を描く輪郭からは想像だにし得ない惨状。一体どんな悪意が働けば、この優麗な生物の体を拵えの悪い螺子回しでこれほど滅茶苦茶に穿てるものか。鱗は剥がれ落ち、黄白色の肉や、ところによっては骨さえ剥き出しになっている。 
 今もまた、苦毒に煮える体内から騰々と沸いた気泡が、僅かに残る鱗の数枚を非情にも捲り上げた。太管を力尽くに引き千切るような不快音が響き、幼い少女は遂に耐えきれず両手で顔を覆う。 
 生きながら蟲毒の海を泳がされるその姿――虚ろに開かれた顎に雪崩込んだ海水が、破れた喉から糸滝となり迸った。 
 甲板に居合わせた遍く視線を集め、青白い蛇はただ無心に滅びを舞う。 
「……最大船速!」 
 時の失われた幻のような光景を、戦域離脱の号令が打ち砕いた。速度を増した船尾と、燦々に鰭の抜け落ちる蛇の尾が、音もなくただすれ違う。 
 言葉を失くした一同の見守る船の後方、長い首の中途が段違いに折れ、命の燃え尽きた燈籠花のように頭が落ちる。先に沈んだ首を追い、ややもせず煌めく破片と霧散した体もまた波間に完没した。 
 
 丸窓を四つに区切る桟の向こうで水平線が揺れる。星夜の闇に裏張りされ鏡と化した厚硝子に、窓の張り出しに腰掛けた青年の姿が映る。壁付け二重ベッドの下段で寄り添い丸まった双子の寝息が響く室内に、一条の灯線と果実酒の匂いがもたらされた。 
「うお、暗っ!」 
 急激な明度差に目眩ましを食ったらしいエッジの口から驚きが漏れる。 
「声が大きいぞ、子供達が起きる。」 
「へいへい。」 
 戻った早々小言の歓迎を受け、宴酔気分を吹き飛ばされた男は肩を竦めた。 
「ったく、ちったぁ寛容になったかと思やァすぐこれだ。ほい、パス!」 
 銀水筒が鈍い光の放物線を描き、カインの手元に吸い込まれる。中身はエッジが食堂で胃に収めてきたものと同じだろう。水筒の頭を捻ったカインは、今度こそ小言に代わり通路の光を背に立つ男に土産を持つ手を軽く掲げ、略式の乾杯を示した。 
「明朝にゃ航路へ復帰できるとよ。」 
 軽く頭を傾け返礼を示したエッジは、空いた手を下衣ポケットに押し込み左肩を戸枠に預ける。 
「一緒に来なくて正解だぜ。あれが何かなんざ、お前こそ知りてぇわなぁ。」 
 船員たちに怪奇の解明を望まれ、口の立つ彼であればこそ巧く誤魔化したのだろう。カインは嘆息とも何とも付かない曖昧な呼気を鼻先に蟠らせる。 
「海竜の生態ならばまだともかく、幻獣ではな……。」 
 間近と言えるほどの距離で見て、確信を持つに至った。溶けゆく総身の苦痛に弄され、なおも揺るがぬ威相を鏃の如き鱗に纏ったあの海蛇は、群青の波を統べる海洋の王――リヴァイアサンの、恐らく眷属にあたる存在であることは間違いない。あるいは――考えるともなし、直感から浮かぶ推測が心を暗くする。幻獣王に比べはるかに小型な体と浅い体色――あのサーペントは、まだ幼生体だったのではないか。 
「ほい。」 
 エッジの手から再び放られた緩い球形がなだらかな放物線を描く。捕らえた掌でしゃらりと涼音を鳴らしたそれは、炒った木の実の詰め合わせだろう。 
「お前さんはもう当分の間お仕事してんだろ……ってぇオイ、ガキども固まって寝ちまったのかよ。」 
 ああでもないこうでもないと、昼の出来事を上下左右にひっくり返す相棒を煩わせる心算の無いことを早々に宣言し、ベッド下段を覗き込んだエッジは、そこに一塊の小さな丸まりを発見したようだ。 
「上を使え。」 
 ベッドを明け渡してしまえば、上級士官室とはいえ一般的な戦艦のそれよりはるかに狭い室内で、他に身を横たえられる場所は無い。だが、自分は幸い槍を支えに座して眠る事に慣れている。そして、そういえば彼には一つ貸しがあった――船上戦闘の発生に備えていた時、重装備の自分にレビテトの優先権を与えてくれた事だ。 
「おう。そんじゃ、礼としてこいつをくれてやら。」 
 これで貸し借り無し、と続けようとした矢先、枕が投げ寄越される。さすがに三度目ともなったら言うべきだろうか――投擲術を披露するのは戦闘時だけにしろと。 
 筒の半分を空ける頃、ようやく蝋燭の穏やかな明るさが視界に戻ってきた。爪先の向こう硝子を隔てた海面を見ながら、塩気を利かせた木の実を口に放る。 
「寄生されてたってぇわけじゃねぇよなぁ……。」 
 独り言じた声が仄宵の端にぽつりと置かれた。 
「ああ。そもそも、幻獣に寄生することなど不可能だ。」 
 舌の上に残る木の実片を酒で流し、会話に応じる。 
 幻界、いわば常夜の国に住まう幻獣は、この世に出る際の定まった体を持たない。召喚士の喚び出しを受けた幻獣は、境界を越えた瞬間に一種の魔力として仮定され、その後憑代を得て初めてこの世に確定する――とは、幻界で見た書物からの受け売りだ。 
 幻獣たちの怒りを恐れずに言うなれば、この世に出現する際の彼らは、試練の山に見られるレイスやスピリットのような残留思念体、生命の残像とでも呼ぶべき類に近しく思われる。つまり、ステュクスが寄生しようにも宿り先が無いというわけだ。 
「”避難”の理由はこれかねぇ?」 
「だろうな……。」 
 眠り星の災禍――自らも幻獣の血を引く召喚士の、預言めいた言葉が蘇る。既に狂ってしまった幻獣もいるのだと彼女は言った。だが、あれではまるで――カインの思考はそこでふつりと途切れた。あの壮絶な光景を形容するに足る言葉を自分は持たない。 
 そして、何よりも心を錨する問い――強大な力の具現たる幻獣にあのような惨状をもたらしたものの正体は、そして――それは、果たして自分たちに太刀打ちできるものか? 
「まぁ――」 
 衣の擦れるさやかな音が室内に響く。 
「避難したてぇなら原因はこっちの世界にあるってこったかんな。他人様の庭心配する前に、手前の庭掃除しにゃぁ。」 
 喉に逆らう言をよくぞ代弁してくれる。闇の向こうにある相棒の背に、カインは苦笑を向けた。彼こそ、幻獣に関わることを誰より案じているのだろうに――或いは、彼は真実、曰く手前の庭掃除を必ず終わらせることが出来るという自負を持つのか。 
「そうだな、お前の言う通りだ。」 
 空になった水筒と、口を結んだ木の実袋を並べて机に置く。上等な酒のもたらす心地よい怠気は、目を閉じさえすれば直ちに荒れる思考の波を均してくれるだろう。 
 枕を背に当て槍を支えに、胡座を組んで静寂に凭れる。衣擦れも絶え、残るのは波音と穏やかな揺らぎ。広大な海の中、元の岸も寄る辺も知らず、ただ波に揺られているわけではない。立ち止まって見えても足を止めないかぎり、きっと前進しているのだ――この船のように。 
 必ず岸へたどり着く、それを信じて、まず目の前の波を越えることだ。 
 
 ミシディア港。 
 波の穏やかな真昼の入り江に、細身の船が軽快な足取りで滑り込む。幻獣との遭遇以降は大事もなく、風にも恵まれ、ここにファブールとミシディアを結ぶ航路の最短記録を半日も繰り上げる偉業が成し遂げられた。 
 桟橋に横付けされた船は悠々と波の安楽椅子に腰掛け、幾つもの積み荷と旅人が無事水揚げされる様を見守る。 
「いちばんのりーっ!」 
 渡し板の最後のステップを一飛びに越えたパロムは、揺らぐことのない故郷の大地を思う存分踏みしめる。 
「こらパロム、一人で勝手に行かないの!」 
 弟の後を追い桟橋に降り立ったポロムは、駆け出そうとする服の裾を杖の先端で絡げる。 
 船長以下乗組員に篤く礼を言い別れた一行は、旅の間に増えた荷物を手にゆっくりとした足取りで町の中心、祈りの塔へと行き先を向けた。 
 久しぶりに見るミシディアの町並み。学識の都に相応しく、杓子定規に肩を並べる学者然とした白壁が、今は相好を崩して見える。石畳に温められた暖かな町の匂いに、カインは自然胸を膨らませた。 
「あーっ!」 
 突如上がった甲高い叫びが、肺一杯に充たした陸の空気を残らず叩き出す。勢い喉元まで迫り上がってきた咳をどうにか押し戻したカインは、おろおろと挙動不審な少年に声を掛けた。 
「ど……どうした?」 
「じっちゃんにおみやげ買うの、すっかり忘れてた!」 
 弟の言葉に、ポロムも小さく悲鳴を上げる。 
「ど、どうしましょうカインさん、港へ戻ってお買い物できますでしょうか?」 
 双子の焦燥ぶりに、カインは己の不手際を思い知った。バロンを出てよりこちら、故郷の異変で手一杯になり、現在世話になっている恩人の存在を失念したのは、言い訳の許されない失態だ。意図ではなかったとはいえ、結果的にこれほど遠出の旅路に大切な子供達を連れ回しておきながら、土産の一つも持たずに面会など叶うわけがない―― 
「待て待て落ち着け、わざわざ買いに行くことぁねぇって。」 
 元来た方向へ慌てて爪先を回す二対の平靴に、忍者の両腕がどっさりと覆い被さる。 
「エッジさん、長老様はバロンのお菓子が大好きなんですの!」 
「じっちゃん、きっとすっごく楽しみにしてるんだよぉ! どうしよう……」 
「エッジ、もしやお前、どこかで土産を買っておいてくれたのか? ああそうだ、カイポで渡砂船を待つ間に――」 
「まぁ、まぁ、まぁ。」 
 口々不安を言い募る三人にそれぞれ落ち着けポーズを示したエッジは、改めて双子の頭に掌帽を被せた。 
「爺様への土産ならちゃぁんとあんだろ、ここによ。」 
「? それはどういう――」 
 意図を掴みかねる相棒に向け、両手に収まる小さな頭を軽く揺らしてみせたエッジは、笑みを浮かべた顎をひょいと煽る。 
「ほれ、おいでなすった。」 
 いつの間にか丸く開けた広場の中央、真後ろに薄く作られた人垣が静かに割れ、夜闇の色に染められたローブが現れる。ミシディアをして最高位の魔導学者と認められた者のみに着用を許された名誉が着崩れるも構わず、付き従う白黒魔導師たちさえ置き去りに、ミンウの名を継ぐ老爺は一行の元へ真っ直ぐ駆け寄ってきた。 
「パロム! ポロム! おお……よくぞ無事に戻った!」 
 便りの絶えている間、どれほどの祈りがこの町の空に捧げられたことだろう。大いなる光の確かな慈悲を授かった長老は、旅装の双子を両の腕に固く抱きしめる。 
「ただいま戻りました、長老様!」 
「うわー! くすぐったいよじっちゃん!」 
 喜びに充ちた再会劇を目の当たりに、舞台袖で並ぶ相棒は無言で片目を瞑ってみせた。 
「土産、か……。なるほど。」 
 和気藹々と互いの無事を喜ぶ声に、口元が自然綻ぶ。道中ずっと背負ってきた大きな責務の一つが、確かに降りるのを感じた。 
――だが、まだこの肩にある全ての荷が降りたわけではない。 
 両手に子供達の手を提げた長老が立ち上がり、保護者二人へと向き直る。カインは一歩前へ進み出、深く頭を下げた。 
「老、長く沙汰を無くして申し訳ない。」 
「信じておらねば預けぬよ、大使殿。……して、バロンはどうじゃった?」 
 手ぶらを告げ難く、カインはただ首を振る。 
「そうか……こちらにも連絡なしじゃ。」 
 留守班もまた、生憎を告げ表情を曇らせる。 
「しかし、詳しい話は明日にしようかの。今日のところはゆっくり休むが良いて。」 
 長老に促され、その日は祈りの塔で旅の疲れを癒すこととなった。 




LastModify : October/14/2022.