朝日を逃れた暗闇が揺蕩う小径の終点、木戸で仕切られた空間が、ほの揺らぐ人工の灯りによって充たされる。 
 ミシディア祈りの塔・地下蔵書室。書棚の林を抜け、遠征部隊四人が定位置に付いたところで、これから開かれる会議の長さを予想してだろう、長老は茶葉の缶に湯瓶も並べて机に据えた。 
「ったく、様子を探るも何もねぇや、着くなり牢屋へぶち込まれちまってよ。」 
 口火を切ったエッジは、無愛想極まるバロン城石牢の居心地を思い出したか、椅子に張られた緩衝材の座り具合を何度も確認する。 
「ふぅむ……、バロン王殿がよもやそのような強硬な態度を取ろうとは……。」 
 長老は意外を顕わに髭を撫でた。たった一年で、あの心優しい青年を変えてしまったのは一体何ものか――聖光に隠された闇の正体を見据えるかのように、知性を頌えた泉が細められる。 
 その隣で、顔の半分以上も机に埋もれた少女の髪がぴょこぴょこと跳ねた。 
「セシル様、絶対に何か知ってらっしゃるのですわ! それで、誰にも言えずに、お一人で悩んで……!」 
「ああ、そうだろうな。」 
 アイツは昔から――続く言葉が舌の根で凍り付く。故郷に背を向けていた自分が、友の人となりに関して何を言える立場ではない。 
「セシルが悩んでるってのぁ同意すんぜ。だからったって、それじゃあそっとしておきましょうってわけにゃいかねぇ事情だが……。」 
 言って、エッジは垂直に立てた皿を滑車のように回した。まだ少しも口を動かさない内から、彼の舌休めにと盛られた割り当て菓子が空になったことを示すために。 
 くるりくるりと優雅に回転する花模様を横目に、カインは腕を組む。朝食は一時間前に摂ったばかりだ。一体、隣に座った痩身のどこにそんな大容量食糧貯蔵庫が備わっているのか非常に気になるところだが、討論すべき問題を山と盛った皿の上に、そんな下らない興味を乗せる余地は無い。 
「バロン他、ダムシアン、ファブール領内に於いても、ステュクスが生物に寄生した例を目撃し、後二件に関しては、民の周知の問題となっていました。また、これは別件の可能性もありますが……幻獣界にも何らかの影響が及ぼされているようです。」 
 努めて簡潔に、赤く血の色に塗り替えられた地が既に複数あることを議長に告げる。心の揺れを受けてか、賢老の閉ざされた瞼が微かに震えた。 
「……このミシディアに関しては、大使殿らが早急に手を打ってくれたおかげで、市民は平静を取り戻しておる。この国の民は元来あまり他国の様子を気にせんからのう……じゃが、」 
 もしこの先、ステュクスの存在が公に認知されるような事になれば、国家の体をも揺るがすほどの大混乱を巻き起こしかねない。学究を極め魔道をのみ一心に歩む徒とは言え、人に寄生する怪物の存在を目の当たりにしては、その歩みを乱さずにいられないだろう――こと、それがバロンと因縁浅からぬと知れた日には。 
「大使殿、これはミシディアの長としてではなく、私的な頼みなのじゃが……今しばらくの間、ステュクスの調査を継続してはもらえんか?」 
「ねねね、それって、またニィちゃんたちと一緒にボウケンするってこと!?」 
 話の輪に加わろうと試みるたび姉の鉄拳を見舞われていたパロムが、満を持して声を上げた。 
「こらパロム、お話の邪魔をしないの! というわけで、カインさん、エッジさん、ふつつか者ですが、これからもよろしくお願いいたしますわ!」 
 弟を窘めつつ、ポロムはしっかり自己宣伝を忘れない。 
「おっと先に言っとくぜ、国へ帰れだぁ? 嫌なこった! 毒を喰らわば皿までよ!」 
 素早さを身上とする忍者もまた、先制攻撃を終え満足げに笑う。かくして、長老から指名を受けたリーダーが返答を選んでいる間に、すっかりと調査隊の再結成が完了してしまった。カインは茶器を燻らす温靄に小さな嘆息を吹きかける。 
「願ってもありません、老。むしろこちらから、調査継続の許可を願おうと思っていたところです。」 
 長老が頷くのを待ち、カインは継句を解放した。 
「……また、エッジ、パロム、ポロムの三名についても、共に調査に当たることをお許しいただきたい。」 
 現実に、依然として正体の掴めぬ敵との対峙が確実な旅となる以上、これまで得られた対ステュクス戦の経験は強力な武器となる。そして何より、この雰囲気の中で単独行を言い出せるような強情は、多分、持たなくて良いのだ。 
「それで、今度はどちらへ参りますのっ?」 
 少女の無邪気な問いに、大人三人は揃って深く唸った。 
「そいつを今から決めるとこなんだなぁ~これが。」 
「闇雲に動き回っても埒があかんだろうからな。ひとまず、これまで得られたステュクスに関する情報を纏めよう。」 
「うむ、ここからが本題じゃな。」 
 記憶の薄れない内に、新たに遭遇した変異体の描き出しも行っておかなければならない。長老の手により無地の皮紙が机上に用意され、議論に先行してまずは楽しいお絵描きの時間となった。 
「いっちょ頼むぜ、巨匠!」 
 形容詞から詳細な写実画を描きあげることの出来る黄金の左腕に、エッジはうきうきと発破を掛ける。 
「分かった……が、お前も描け。互いの記憶で補完しよう。老、筆をもう一本貸していただけますか。」 
 長老の二つ返事を得たカインは、筆立てから取った青い柄を問答無用と突き出した。筆の尾で鋭く胸を刺されたエッジは、あからさまに顔を顰める。 
「マジかよ……。」 
「マジだ。描け。」 
 きっぱりと即答する仏頂面には異を挟む一分の隙さえ見えない。半ば投げやりに覚悟を決めたエッジは、渋々ながらペンを手に取った。 
 ざらつく皮紙の上を筆先で耕していると、嫌でも幼い頃の記憶が発掘される。あれは、まだ登城さえ許されなかった年の頃――きっかけが何だったかはもはや朧だが、当時親しくしていた同じ年頃の友達と一緒に、それぞれの保護者の顔を描いた時のことだ。 
 自信作を目の前で広げた際にじいやが見せた反応は、自分の絵心の程を伺い知るに充分なものだった。長い沈黙を経てようやく口にされた、「とても若君らしい絵……絵、ですかな?」という台詞。 
――無理に褒め言葉探すくらいなら、下手ってハッキリ言いやがれ! 
 改めて、力一杯そう思う。しかも多分――じいやは未だに、ご丁寧にも立派な額縁に入れて自室の壁に飾り付けたあの紙が、他ならぬ彼の肖像であるなど夢にも思っていまい。 
「おら!」 
 描き上がった絵を押し付けたエッジは、懐かしい思い出の再現を味わう羽目になった。一旦大きく見開かれた後、薮の向こうを探るように、見開かれたり絞られたりを繰り返す眼。生真面目な竜騎士は恐らく必死に見極めんとしているのだろう――その紙に描かれた何らかの正体を。 
「だぁーーーから苦手だって言ったじゃねぇかっつー……」 
 まさかこれほどまでとは――ぶつぶつと煮立つ不満の声を紙一重の向こうに聞きながら、カインは己の読み誤りをとくと思い知った。 
 エッジの手によって生み出された、あまりに斬新で先鋭的な芸術の世界。紙の中心部からほうぼうへ無作為に伸びる曲線と、陽炎に炙られた如き歪な円が織りなすこの図画は、好事家あたり喜んで篦棒な高値を付けるのではないか。 
 紙の中に取り込まれかける視覚をすんでのところで逸らすことに成功し、視線の流れるまま隣席の様子を窺う。大作を描き上げた男は不貞腐れきった表情を頬杖に乗せ、噛み潰した苦虫を茶で押し流していた。どうやら絵の才については本人重々自覚……どころか、相当気にしていたらしい。 
 掛けるべき言葉を失うカインの手から、不意に紙が消え失せる。机を横断してきたパロムは、手にした絵を燭台の光に高々と掲げた。 
「オイラこれ色塗りしていい? 隊長の描いた怪獣、すげーかっこいい!」 
 前衛芸術の魅力にすっかり囚われた大きな瞳がきらきらと輝く。この期に及んでよもや心からの賛辞を聞きつけ、エッジは小さな評論家を力強く抱きしめた。 
「お前っ見る目あんなぁ~~~さすが天才黒魔道師!」 
 感激の抱擁を受け、早速座席へと舞い戻った少年は、一抱えして余りあるほどの絵具箱を音高らかに開き胸を張る。 
「えっとね、タデ食う虫もスキズキって言うんだぜ、隊長!」 
「何だとパロムてめぇ!」 
 持ち上げて落とすをまんまと喰わされたエッジが、スケッチの所有権を巡り少年とじゃれあう様を賑やかしに、カインは新たに三枚の図を描き上げた。 
 バロン地下水路の雷魚、ダムシアンの砂蟲、ファブールのボム――ここにバロン空挺団の兵士を加え、寄生症例は四件となる。初遭遇から以来、行く先々で悉くステュクスによる被害を目にした。このまま順調にいけば、既にバロン大陸東部を染めた鮮血が、瞬く間に各地へと滴り溢れることは想像に難くない。後手を打たざるを得ない状況でこれ以上の被害を食い止めるために今成すべきは、敵から可能な限り多くの未知を剥ぎ、真の姿により近付くことだ。 
 机上に広がる七枚のスケッチをとくと眺める。人間、雷魚、砂蟲、ボム――種族も棲息地もまるで異なる、これらに共通するものは何か。 
「ステュクスに寄生された生物……宿主の特徴として最大のものは、やはり肉体再生能力と凶暴性増加の二点だな――殊に、後者の理由としては、食欲に由来する可能性が高いように思う。」 
「ってぇと?」 
 結局は少年に前衛画の彩色を任せたエッジが相の手を入れる。 
「ステュクス自体の目的は仲間を増やす、つまり他の生物に寄生した時点で完結していると仮定して、俺達人間を初めとする他の生物を襲うのは副次的なものではないかと思うんだが。」 
「宿主となっても本来の食嗜好が残るってことだな? 雷魚と砂蟲は元々肉食、雷魚に関しちゃ実際に損壊死体も見てる、異論はねぇ。が、ボムに関しちゃ、ちと苦しいか? あいつらの餌ァ、地熱がどうたらだった気がすんな。」 
「ボムに限らず、肉体再生の異常な速度からみて、伴う飢餓感は相当なものであると予想できる。餌を多量に必要とするならば、当然縄張りは拡大する。結果として、食嗜好の如何に関わらず、我々の生活圏と抵触し会敵戦闘の発生機会が増える……と、ここまではいい……。」 
 カインは思案の顎に手を当てる。煮え切らない言葉の意図に応じ、エッジの指が操舵士のスケッチをつついた。 
「宿主ってぇ大枠での行動原理がブレちまうのはこいつの存在があるからなんだよなぁ……人間は雑食、強弁すりゃあ肉食と言えねぇこともねぇが、しかし、どんなに腹空かしてても同じ人間の、しかも頭カチ割って中身食おうたぁ思わねぇわな、フツー。」 
「飢餓感の増大という条件が有効ならば、寄生下で正常な判断力を有し得たとは考えられん……。」 
「頭がイカレちまって、食えそうなモンなら手当たり次第ってか? それなら尚のこと……何てぇんだ、もっと食うに易い部分がいくらでもあンだろうって話でよ。」 
 己の発した言葉に不快感を禁じ得ず、エッジは口をへしゃ曲げる。返す言葉を見付けられず、カインもまた押し黙った。 
 被寄生体の行動原理をごく原始的な生存本能、食欲に基づくと仮定する際、避けて通ることのできない二つの問題。エッジの指摘によるそれがまず一つ、そして、前段に強弁をこじつけたとしても残ってしまうもう一つ――船内のどこにも戦闘の形跡が見られなかった以上、各員声を上げる暇すら許されぬほど短時間の内に無力化されたと考えなければならない。操舵士たった一体でそんなことが可能だろうか? 答えは、考えるまでもない――否だ。 
 揃って推理の袋小路に立った青年二人は、長老の挙手に視線を上げた。 
「意見を良いかの? この屍が、補食された犠牲者ではないとしたらどうじゃろう。種子に寄生されて間もない状態であった可能性は考えられんかな?」 
 長老の手によって、船室の死体と操舵士が並べ置かれる。その上を、節くれ立った指が左から右へ横切った。 
「屍同様の状態から、時を経てこちら……操舵士の状態へと移行するとは考えられんじゃろうか。」 
「言われてみりゃあ、どっちも頭がぶっ飛んでらぁな。」 
 欠損部分の確かな類似を認めたエッジは唸る。机上の論に穴を成す個所を、いっそ論から切り分ける――単純だが、英明な解決だ。※つまり、頭蓋骨は外から割られたのではなく、内側から破裂したのだということに 
「時間の推移による状態変化……そうか、これも範疇ならば――」 
 眼下で静かに肩を並べる二枚の不気味なスケッチが、カインの脳裏に飛空艇で目にした光景を否が応にも呼び起こした。 
 頭蓋を無惨に両断された死体。その傍ら、器より零れて尚、生を渇望するかのように蠢く脳。パロムに石化を頼まなければ、ややもせず完全な変異を遂げ、空となった体へ舞い戻っていたのかもしれない。血の糸に操られた魂亡き骸――脳内で流れる記憶の再現が雷光のように閃いた。腐蝕毒による斬撃に器を壊された種子が最後に取った行動、それは宿主交換――脹脛から沸いた嫌悪が一気に項まで駆け上る。 
「とすると、他の宿主から種子の移動によって人間へ感染が!?」 
 勢い机上に身を乗り出すカインに、長老はその首を緩やかに振って応じた。 
「その点は恐らく大丈夫じゃ、大使殿。一度寄生した種子が再び根を下ろせるのは、元の宿主と同じ種族にのみではないかの。他の植物と同じく、一度根を張ったならば、同じ種類の土壌にしか植え替えは利かない理屈じゃ。」 
 静かな声がささくれだった気分を宥めてくれる。落ち着いて記憶を渡ってみれば、長老の推理に信憑性を与える事柄をカインは思い出すことが出来た。 
「確かに、種子の移動を見たのは飛空艇の操舵士戦だけか……。」 
「ダムシアンの被害報告にゃあ寄生された人間の情報も無かったしな。爺さんの推論に論拠有り、だ。」 
 当事者二人による確認を得、識者は更に推理を続ける。 
「話を聞く限り、ステュクス本来の、植物として備えておった性質そのものは変わっておらんように思うのじゃ。成体は種子を成し、種子は根を伸ばす。根を伸ばす先が大地ではなく、他の生命に変じてはおるが、営みそのものに違いは無いじゃろう?」 
「ってぇと、俺様とポロムの活躍で成体は倒しちまったし、ひとまず安心ってコトかねぇ。」 
 相棒の皿から摘み出した黍糖漬をしがみつつ、エッジが鼻を鳴らした。仲間の手柄を腐すつもりではないものの、カインは腕を組み替える。 
「……しかし、寄生ボムが出現した以上、」 
「他の成体がまだ確実にいるってぇわけだ。そいつを何とか……出来るにしろ出来ねぇにしろ、見付けねぇとな。」 
 いつになく真剣な眼差しの忍者は、操舵士の絵を肴に温まった茶を啜った。 
「成体を捜すにしても、移動能力を備えているとなると……やはり、ステュクス自体の情報が少なすぎるのが痛いな。」 
「うむ。大使殿らが留守の間に蔵書を調べてみたのじゃが、なかなか思うように調べが付かぬでのう……。」 
 溜息と共に肩を落とした長老が、細かい文字を書き付けた二枚の皮紙を机上に滑らせた。カインとエッジはそれぞれ手近のものを取り上げる。 
「ここにある蔵書から得られたのはそれだけじゃ。」 
 力の及ばぬ歯がゆさに、口元の髭がもふりと膨らむ。 
「老、ダムシアン君主より書簡の類が届いてはいませんか?」 
 カインの問いかけに対し、長老の首は横に振れた。 
「俺らよか早く手紙は来ねぇだろ、飛空艇やらデビルロードやら使わねぇ限り。」 
「それもそうか。」 
 当然至極の突っ込みを受け、カインは書類に目を戻す。手元にある内容は、飛空艇の事件が起こった翌日、長老が示した古文書”古植物図鑑”にあるステュクスに関する記述を抜粋したもののようだ。 
「何じゃこりゃ、ステュクスの煮付けだぁ?」 
 本文に目を落とした途端、隣で頓狂な声が上がる。とにかく見てみろと押し付けられたカインは、懇切丁寧な調理法の記述から形容しがたい気分を味わった。 
「それは、”凶作時の食糧危機対策”より抜粋したものじゃな。他に調理法を記したものが無いということは、……まぁ、推して知るべしじゃ。」 
 衝撃の献立をどうにか飲み下し、カインは白紙を二枚手元に引き寄せる。古植物図鑑の記述と挿絵、そして、調理法を記した書類の半分以上をも埋める下ごしらえ部分から、古代のステュクスの輪郭を掴むことが出来そうだ。現在のステュクスとの間に何らかの外見上の相違点があるならば、異変を解明する手がかりになるかもしれない。 
「お、描き起こしすんのか?」 
「大体の形だけだがな。どれだけ正確に近づけられるかは、ギルバート王の情報次第――」 
 カインが言い切る直前で、部屋にノックの音が響いた。入室を許可され、白魔導師のローブを身に着けた女性が書筒を手に一礼する。 
「長老、ダムシアン君主ギルバート様より書簡が参りました。」 
「おお、噂をすればじゃな!」 
 ありがとう、と受け取った長老は封を破り、広げた巻き紙の上下端に重りを乗せた。 
 砂漠の王の人柄そのままに柔らかい筆跡で綴られた手紙は、『言霊の夜』叙事詩原典からステュクスが著された部分を丁寧に抜き書きされている。本当ならば全てをお伝えしたいのですが、なにぶんとても長大な詩なので……と綴られた字面から、彼の申し訳なさそうな笑みが透けて見えるようだ。 
「うへぇ……こりゃ駄目だ。」 
 天地逆転した紙面を一単語ずつ追っていたエッジが、五行目にして早々に呻いた。 
「芸術的過ぎて頭に入って来ねぇや。じぃさん、要約頼まぁ。」 
「心得た。」 
 古文書解読を任された長老は片目を瞑ってみせる。一方、古文書の常である過飾記述に悩まされながらも、カインは二枚の輪郭図に各々それなりの描き込みを加え完成させた。うち一枚――古代のステュクス成体は、現在のステュクス成体と同様、砂蟲によく似た姿をしている。水瓶を逆さに被せたような頭部から、太さを変えずに伸びる波状の括れを持った長い胴。砂蟲との明らかな違いは、胴の中央、接地面となる個所に『人の指ほどの太さ』の触手が、『ほぼ無数に』生えていること――エッジ曰く、しょげしょげもばもばって感じ――だ。 
「わっ、じっちゃんみたいな髭が生えてる!」 
 塗り絵筆を転がして再び机を横断し、カインの手元を覗きに来たパロムが声を上げる。姉に足首を引かれずるずると下がっていく観客が散らした紙束の中から、カインは飛空挺内で遭遇した種子の絵を取り上げた。まだインクの乾かぬ新たなスケッチの二枚目、古代のステュクス種子を傍詩にあった記述から復元した図と並べて、やはりこちらも変化は見られない。四方に触手を伸ばした血膿――ステュクス種子は、ただ不気味な姿を白紙の中央に横たえる。 
「大使殿、よろしいかな?」 
 カインの手が止まった頃合いを見計らい、叙事詩の読解を終えた長老は声を掛けた。 
「叙事詩の大半は、赤き砂蟲……ステュクスに捧げる”鎮めの歌”を見付ける過程に割かれておるのう。して、鎮めの歌を吟遊詩人グレゴリー=ミューアが、動物の胸骨に弓弦を張った楽器、恐らくリュートの原型じゃろうかの、にて巧みにつま弾かば、砂蟲たちはみなその調べに魅入られ、動きを止めた……とある。」 
 鎮めの歌とは、砂蟲との戦いでダムシアン王が披露してくれたものだろう。卓越した吟遊詩人によって紡がれる完全なる無音。それは恐らく、人に聴くことが出来る範囲を越えた場所に在る旋律か。 
「そういやありゃあ、どういう理屈でステュクスに効くんだ?」 
「さすがにそこまでは……。」 
 エッジの素朴な好奇心に、カインはお手上げを示した。 
「推測じゃが、鎮めの歌とはこのようなものではなかろうかな。」 
 言って、長老は手近な白紙の隅に上弧と下弧を組み合わせるように描く。青年二人の視線の先に、子供がいたずらに描く魚を連ねたような形が現れた。 
「この世のかたち有るもの全て、そのもの固有の波、『脈』を持つのじゃ。ステュクスの持つ脈が上の線のような形であるとして、鎮めの歌の旋律は下の線のような形を成しておるのではなかろうかの。全く同じ弧を描く正反対の脈を当てると、それらは互いに打ち消しあうのじゃよ。」 
「スロウやストップといった、動作制御魔法の原理ですわ!」 
 脇からポロムが補足を試みてくれる。魔導理論の応用による説明を受け、門外漢二人は皆目顔を見合わせた。 
「飛空艇の操舵士が、酷い頭痛と目眩を引き起こす攻撃を仕掛けてきたんだが、それがその……脈、と、関係があるんだろうか?」 
「まさしくそれじゃよ、大使殿。」 
 控えめに手を挙げた生徒の理解を認め、長老は微笑む。 
「……とにかく、鎮めの歌ってなぁ俺達にゃ到底真似できねぇ芸当だってこったよな?」 
「残念ながらその通りじゃ、エブラーナ王殿。仮に楽譜を借り受けたとしても、奏でるにはダムシアン王殿と同じ技量が必要じゃろうからのう……。」 
 脱線魔法教室にエッジが締めを括る。笑み眉を一転引き締めた長老は、残る巻紙を手操った。 
「さて、言霊の夜じゃが、元となった実際の事件は、大量のステュクスによる水源の襲撃じゃな。脅威となったのは単にその数……倒すではなく鎮める、つまり、鎮めの歌によって退かせることで解決したようじゃ。」 
 長老の要約によって、叙事詩の主眼がステュクスに置かれていないことが明らかとなる。数の多さに手を焼いたという記述からは、まさに雲霞の如く大群を迎えたことの他に、或いは再生能力を示唆しているようにも思えるが、確証には至らない。 
「ステュクスこそは星の糧、全ての血に流れ受け継がれる――叙事詩の締めはそのような文句になっておるよ。存知の通り、ダムシアンは砂海化が最も早く現れた場所じゃ。星の糧たるステュクスが、その身を命の土壌とするため大量出現したとしても、おかしい道理ではないのう。」 
 総括を述べた長老は、手紙を元通り丁寧に巻き置く。 
「星の糧とは、どんな意味だろうな?」 
 謡言葉に纏わる疑問に、長老はふむと唸った。 
「須く動植物の食料であると示しておるのではないかな? 成体は朽ちて植物の養分に、種子は動物の生きた血肉となる。おおよそ全ての生物に等しく、ステュクスは決して害毒とはならんようじゃ。」 
「毒じゃあなくても酷ぇ味っと。」 
 エッジの手で調理法を記した紙がひらひらと踊る。 
「酷いというか、無味無臭だな……食感もともかく。」 
「その気であれば生食さえ可能なようじゃよ。」 
 新事実の露見に目を剥くカインの手元に、”凶作時の食糧危機対策”と題された古書が滑り込んできた。先ほどエッジが見ていた書類の出典元に挟まれた付箋を手繰り、頁を開く。紙面の半分すら埋められない程度の調理手順もさることながら、何より大使館料理長の目を引いたのは、食材名の真下に小さな文字で記された一列の文章だった。 
――あなたがこの生物を口にするのは、あなたの他に生あるものが最早存在しなくなった時です。 
 慎重に古書を返し、題名と奥付を確かめる。幾度見直したところで、題名が”凶作時の食糧危機対策”であり、歴とした行政刊行物である事実は揺らがない――ということはつまり、この文書は決して、糧を失った民の最後の希望を打ち砕くために著されたわけではない、筈だ。 
 丁重に古書を元の山に積み、空いた手に本来の議題を取り戻す。集められた資料はどれもがステュクスが元来無害な存在であると説いている。それを事実と裏付けるのは、決して多くない資料の数そのものだ。人間に対する脅威ではないが故に、植物図鑑や調理指南や叙事詩のような学芸書の僅かな記述の他には情報が残されていないのだろう。実際、爪や牙、あるいは外殻など、身を守る術の一切を持たないステュクスは、戦闘能力がほぼ皆無であるとさえ言える。 
 そんな生物を現在脅威たらしめているのは『寄生』と『再生』という二大要素だが、これらはある日から――特に、寄生能力は確実に――突然備わったものとみて間違いないだろう。 
「まるで反乱だな……。」 
 頭に浮かんだ感覚に、二文字の熟語が覆い被さる。 
「反乱たぁ言い得て妙、これまで狩られる一辺倒だった側が、一転狩る側を乗っ取りにかかったワケだ。」 
 ステュクス料理の真の恐ろしさを知らないエッジは、脳天気に膝を打ってみせた。 
 会話の一段落を迎え、三人は一糸乱れぬ同じ動きで茶碗を口元へ運ぶ。一息ついたカインは、ふと重大な不手際に気付いた。 
「しまった、これまでの会話を記録しておかなければ……」 
「はいっ!」 
 紙を得るため巡らせた視線に元気な両手が飛び込んできた。弟の絵の具に脅かされる陣地を守り抜いた少女は、高らかに一枚の皮紙を掲げる。 
「皆様のお話、私がちゃぁんと書き留めておりましてよ!」 
 角の丸まった愛らしい文字で半分ほども埋まった紙が、旗のように誇らしげに靡いた。 
「さぁっすがポロム、しっかりしてらぁ!」 
 エッジの手が机を越えて伸び、少女の頭をわしわしと撫でる。時折混じる幼い言い回しや、意味が取りきれなかったのであろう言葉の誤綴はあれど、ほぼ完全な議事録を前にカインは感嘆した。 
「こんなにきちんと纏めてくれていたとは……とても助かる、ありがとうポロム。」 
 深々と頭を下げる竜騎士に照れ笑いを返した少女は、新たな紙を手にきりりとペンを構える。思いがけない優秀な書記と、新しい茶菓子を揃え、議論再開の準備は万全に整った。 
「さてと、気合い入れて反乱軍のねぐらを炙り出すとしますかねぇ。井戸の水が悪くなったら水源を辿れ、ってな。」 
 いよいよ、これまで後手後手に甘んじていた状況をひっくり返す時だ。各地へ拡散した彼らの動きを河の下流と喩えるならば、その源、つまり発生場所で何らかの手がかりが得られる可能性が高い。また、ステュクスの足跡を突き詰めていく過程で、見落としに気付くなどの新たな閃きにも期待できる。性急に確定を下すことなく、自由に仮説を立てた上で消去法による選別を行うのだ。 
「あいつらが話せりゃ楽なんだがなぁ……と愚痴ってもしゃぁねぇ、植物図鑑の記述によると、バロンがステュクス目撃の最後の地となってるが、変異体の目撃時期では今のところダムシアンが一番早ぇのか? 同心円状にファブールやバロンに感染が広まったとしてその中心、砂漠の何処かってことになっかねぇ?」 
「しかし、ミストは感染空白地帯だろう。短期間の滞在だったが小さな村だからな、何か異変があれば宿の女将の話題に上っていた筈だ。」 
「ミスト山脈伝いに海岸到達、水路経由でバロン侵入ってなぁどうよ? 空はどうやら飛べねぇようだが、浅瀬くれぇなら渡れるんじゃねぇか。」 
「海側の水路出口は崖の中途にあり、警備が二人、三交代で常に付いている。海から水路への逆行は相当不自然だからな、否が応でも目に付くぞ。」 
「その不自然が起こって警備兵が被害に遭ったとかよ? そんで外からの攻撃を警戒して国境封鎖したてぇなら筋が通る。デビルロード侵入時の大袈裟な連行にもな。」 
「外からの攻撃を警戒しているとするなら、第一等整備士であるシドへのデッキ立入禁止は有り得ない。国家緊急時に飛空艇ほど有用なものはないからな。国境封鎖はやはり内から外への流出防止と……、」 
 右へ左へ推理の振り子を揺らす作業の途中で、錘を保ったままカインは一度会話を止める。 
「ああ、論の立ち位置を明確にしていなかったな。俺は、バロン領内に発生源があると見ている。論拠は、先にお前が言った通り、最後のステュクス目撃地だからだ。絶滅が確認されてはいない以上、どこか人目に付かない場所で生き延びていた可能性は捨てきれない。」 
「そりゃ考えたんだがよ、実際飛空艇がここまで飛んで中にステュクスがいたってこたぁ、バロン国内、どころか城内に侵入したのぁ明白なわけだ。他所から海渡って水路経由じゃねぇとすりゃ、お前……最悪、城ン中で生まれたことになっちまうぜ?」 
「接見時の態度からして、セシルはステュクスの存在を知っているが、国内に対して隠蔽しているのではないかと思う。何故なら、俺たちを即投獄しただろう、飛空艇の消息の情報源であるにも関わらず……だ。そして、ミシディアにも一切使者の類を送って来ない……」 
 乾いた唇から淡々と紡がれる言葉をどこか他人事のように聞きながら、カインは机に目を落とした。 
 自分は、今回の異変への親友の関与を疑っている。それは真に、状況から起こした推測だろうか? ――どれほど『論理的』に考えているのか怪しいものだ。様々な理屈を弄して、結局は親友の名誉を貶めたいだけなのではないか。 
※ 悪意からでなければ、現バロン王がよもやステュクスをミシディアに送り込もうとしたのではないかなどという疑念が浮かぶはずはない。自分はまだ、心のどこかでセシルを憎んでいるのか―― 
「オイオイ勘弁しろよ、城で飼うにゃあ趣味悪過ぎんぞこんなモン~」 
 辟易に声を腐らせたエッジは、インクで描かれた禍々しい巨体に腹癒せの裏拳をくれる。 
「……そして、城の全兵士に箝口令を徹底できるわけもないしな……。統治がどんなに徹底していたとしても、騒ぎが起こらないわけがない。そして、バロンで騒ぎがあれば、当然、ミストやダムシアン辺りに噂が広まるだろう……。」 
 相棒が投げ出した錘を自ら取り上げて揺らし、カインは苦渋と共に茶碗を傾けた。 
「できたーっ!!」 
 直後、少年の歓声が祝砲のように鳴り響き、一口分の熱い香茶を全て気管に落とし込む。 
「パロム様の大傑作、完成! ニィちゃん、隊長、見て見て!」 
 彼岸の手前でようやく咳を鎮め、無事な生還を果たしたカインを、彩り鮮やかな絵の具の匂いが出迎えた。 
「あ……ああ、上手に塗れたな……。」 
 曰く、かっこいい怪獣の絵という名の前衛作品を恭しく受け取り、カインは無難な評を下す。続いて塗り絵を手にしたエッジは、さもさもしく腕を伸縮させ、矯めつ眇めつ顎を撫でた。 
「こいつぁ……どう贔屓目に見ても、エブラーナ国宝級ってトコだな。」 
「コクホウってなに?」 
「ものすげぇお宝ってこった。ヤベェな、こんな所で伝説級の名画が生まれちまうとは……。」 
 初めは子供の成した仕事を大袈裟に褒めてやっているのだと思ったが――カインはエッジの眼差しを確かめる。間違いない、本気だ。彼は本気で、自国の宝物庫にその絵を収蔵するつもりでいる。 
 後世のエブラーナの民は果たして、城の宝物庫で発見されたこの絵画をどう評価するだろうか。自由奔放をまさに絵に描いたインク線と、それに輪を掛けて自由に塗り付けられた、真っ赤な絵の具の合体作品――じっと見ていると紙面から赤い絵の具が溢れ出し、絵の中に引きずり込まれてしまいそうだ。 
 その瞬間、卓上に散らばっていた難解なパズルが、曖昧ながらも確かな完成形を見せたような気がした。 
「……赤。」 
「ん?」 
 呟きを聞き止め、エッジが注意を戻す。たった今見えたパズル完成図の青写真が消えない内に、カインは急ぎ一枚のスケッチを掬い上げた。 
「皆、聞いてくれ。」 
 カインの手により、飛空艇内で遭遇したステュクス成体の図がゆったりとその身を揺らす。 
「俺は、こいつが今まで見た中で最も早い時期に寄生された宿主だと思う。」 
「そりゃそう――いや、待てよ? そいつぁ宿主じゃなくて、ステュクス成体じゃねぇのか?」 
 つくづく、話術に長ける相棒は上手く喰い付いてくれるものだ。微かな笑みを返し、カインは早速切り込む。 
「発想の逆転だ。俺達はこれまで種子に寄生された生物しか見ていない。種子に寄生された段階では宿主の姿が色濃く残っているが、更に先の変化があるとは考えられないか? 実際に、先に長老が仰った、船室の死体から操舵士への変化、『成長』が起きた可能性は濃厚だ――では、もしこいつが、ステュクスそのものではなく、寄生された宿主が行き着く最後の姿……ステュクスに寄生された生物の完全成長体だとしたら?」 
 船室の死体と肩を並べた操舵士の横に、手にしたスケッチを着地させる。皆の注目を一巡し、カインはいよいよ本題を舌端に乗せた。 
「結論から言おう。俺は、この宿主こそがバロンの兵士ではないかと思っている。パロム、ポロム、主亡き玉座の間で話した事を覚えているか?」 
「あのつまんねぇ怪談話か?」 
 エッジの相槌が、記憶発掘の役割を巧妙に果たしてくれたらしい。冷気の滴る陰鬱な空間で起きた奇妙な事件の顛末を蘇らせた子供達は、揃って息を呑んだ。 
「あの時も言ったが、兵士の失踪は実際に起きた事なんだ。」 
 現場に居合わせなかった長老のために、話の概要を簡潔に繰り返す。クリスタル戦役の僅か前、巡回の兵士が『赤い腕』によって壁の中へ引き込まれ、消えた――誰かが徒に広めた空談ではなく、バロン城から一人の兵士が忽然と消失したという事実。 
「その日のうちに全軍を動員し、三昼夜に渡って領内くまなく捜索が行われたが、ついに兵士を見付けることは出来なかった……屍はおろか、鎧の一部すらもな。事態を重く見たカール陛下は、事故の再発を防ぐため、捜索の打ち切りと共に主亡き玉座の間の封鎖を命じられた。以来、あの場所は巡回経路から外され今日に至るわけだが――もし、兵士を連れ去った『赤い腕』が、ステュクスの種子だったとしたら?」 
「すまねぇ、一つ確認いいか?」 
 推理部分へ移行する直前で、エッジが挙手を示した。カインは頷き、相棒の問いを促す。 
「『赤い腕』が見張り兵を壁に引き込んだってぇ情報の出所は?」 
「当日、失踪した兵と対を務めていた者、唯一の目撃者の証言だ。いや待て、もう少し正確に思い出そう……突如壁から湧き出した赤い腕のようなものが、背後から兵の顔面を捕らえ、その体を引き倒した。敵襲を疑った対の兵は、すぐさま詰め所へ戻り応援を呼んだ――報告書の記載は、確かこうだ。」 
 情報が脳に送られていることを示すかのように、深緑の眼が重々しく瞬かれる。 
「……そうだな、当日の動きに関して、俺が覚えている限りも話しておこう。まず、事件が起きたのは夕刻だ。詰め所に巡回兵が駆け込んで異常を報せ、当番の者が総出で第一次捜索を行う。同時に、異常事態発生の報が司令部へと上げられ、全陸兵団員に召集がかけられた。陸兵団員が城内の捜索及び緊急警備網を敷く間に、次いで俺達を始めとする全団に召集令が下り、領内全域の捜索を開始する。俺達竜騎士団は、捜索範囲外縁である国境付近に派遣された。知っての通りバロンの国境線は平野部にあり、視界は極めて良好だ。加え、人間を凌ぐ鋭敏な五感を備えた竜も伴っていた以上、……バロン竜騎士団の旗に誓って言うが、行方不明となった兵士が、少なくとも陸路で国外へ逃れた可能性は無い。」 
「ンで、領内至るところ総兵動員かけて埃一つたりと見落とせる筈がねぇ、か。」 
「ああ。……だが、捜索網の穴は、あったんだ。一個所だけな――」 
 牢から脱出する際偶然にも発動した、玉座の間から旧水路へ降りる大仕掛け。それは、幼い頃から城に出入りしていた自分でさえ知らなかったものだ。 
 当時、現場である玉座の間は特に念入りな調査が行われた筈だが、捜索の目は主として床に向けられ、また、城の構造に通じているというバロンほぼ全兵に共通する自負が目隠しとなってしまったのだろう。 
「兵士が連れ去られた……正確には、倒れ込んで消えた先が、鉄扉のあったあの場所だとすれば謎が解ける。地下水路の捜索は当然行われたが、よもや玉座の間と旧水路を直接結ぶ経路があるとは思っていないからな……。」 
「しかし、玉座の間の地下だってなら、感染は雷魚の方が早ぇんじゃねぇか?」 
「雷魚の感染時期については、大まかだが絞り込める。これから説明するが――まず、旧水路が封鎖されたのは兵士失踪よりも更に遡る。従って、俺達が雷魚の異変の第一発見者となる……? 否、だ。雷魚の異変に、俺達より早く気付いていた者がいる。」 
 着々と論の絡操箱を展開していく薄氷の眼が、質問者の元に定まる。 
「お前の部下、投獄されたエブラーナのニンジャー。彼が変異した雷魚の犠牲となったのは確かだ。本来の雷魚はあれほどの凶暴性は持たないし、また、雷魚程度ならばニンジャーの実力で退けられないわけがない。……どうだ?」 
 エッジは頷きで肯定を示した。カインの推察通り、確かな実力の持ち主でなければ単身他国逗留を任されはしない。 
「ニンジャーが脱獄を試みたのは、死体の腐食状況からみて二巡週前後となるだろう。ということは、雷魚はその時点で既に寄生された状態だったということになる。そして、旧水路が封鎖されて以降、地下水路内に立ち入った者は、俺の知る限り八人しかいない。俺達、エブラーナのニンジャー、そしてもう一団――」 
 片手の指が全て開いたところで言葉を切るカインの双眸に、双子の姿がそれぞれ映り込む。注視に気付き、パロムはお絵かきの手を止めた。 
「ニィちゃん、なに?」 
 察しの悪い弟の頭をぽかりと鳴らし、ポロムは机に身を乗り出す。 
「もう、鈍いんだから! 旧水路に入ったのは、私たちですわ! セシルさんたちと一緒に!」 
「えー?! オイラあんなとこ行ってないぜ、あんな気持ち悪い魚、見たことないもん!」 
 パロムの証言を得、カインは再びエッジに目を戻す。エッジは大きく頷いた。 
「従って雷魚の感染時期は、クリスタル戦役後からおおよそ先月までの間となる。そして、この……エッジ曰く”しょげもば”宿主の感染時期は更に早い。時系列はこれで繋がったか? 怪談話の種明かしだ――バロン戦役の少し前、見張り兵はステュクス種子に寄生され、玉座の間の壁の中、つまり俺達が通ったあの場所へ引き込まれる。その後、クリスタル戦役期間中に完全成長体へと変化を遂げ、種子生成能力を獲得して旧水路の雷魚に種子を蒔いた。」 
 パズルの破片をそれぞれの位置まで誘導し終えたカインは、机に戻したスケッチに掌を重ねる。未だ浮いた状態にある破片を、型に押し込む最後の一手―― 
「そして……こんなものが、どうやって騒ぎを起こさずに飛空艇内へ侵入したか? 俺の推理通り発生源が旧水路ならば、可能な経路が一つある――俺達が脱出に使った経路だ。」 
 脱獄道中に通った広場が何であったか、ここにきてようやく思い出した。あれは、シドの為に設えられた城内試験船渠――旧水路から、恐らくは脱獄した忍者と入れ違いに城内へ昇ったステュクスの完全成長体は、見張りの無い玉座の間からダクトを伝って船渠へと到達し、運悪く入渠していた飛空艇内に潜伏したのだろう。エブラーナ囚の脱獄とシドの作業場立入禁止時期が近いことからも、そう的外れな推理ではない筈だ。 
「うぉ、城へ持ち込んじまったのは俺の部下かよ……」 
「あくまで仮説だ。それに、おかげで俺達が異変を察知することが出来たという見方も出来る。」 
 きっぱりと言い切るカインに片手で謝意を示し、エッジは傾げた椅子を漕ぐ。 
「しかし、その仮説が正しいとして、宿主が失踪兵士だとすりゃ、最悪バロン国内で既に他の感染者が出ちまってるか?」 
「かもしらん……だが、宿主が種子を生成できるまで成長するのには少なくとも一年以上掛かる筈だ。セシルが国境封鎖や、特に戒厳令を発布したのが、感染被害の拡大を警戒しての事ならば……。」 
 若き聖騎士王は、誰にも頼らずたった一人で問題に立ち向かおうとしているのか――それとも、何か目的があって、ステュクスの存在を隠蔽しているのか。 
 瞼裏に浮かぶ親友の表情が迷いをかき消す。セシルは――アイツは、昔からそうだ。一人で何でも抱え込み、手出し無用と笑ってみせる。そんな男がよもや悪しき企みを心に宿したというのなら、それがはっきりした時改めて問えばいい。 
 例え、自分にそんな資格は無いとしても――自嘲を茶碗の縁に含ませ、カインは議論に戻る。 
「勿論、宿主が他から侵入した全く別の生物である可能性や、そもそも宿主ではなく、純粋なステュクスの成体である可能性も決して小さくはない。出来ればそうあってほしいが……」 
「少なくとも、水棲生物でないことは確かじゃのう。バロン沿岸に寄せる海流は、ここ、ミシディアと繋がっておる。漁獲量に変化が見られんということは、海洋には未だステュクス感染が及んでおらんということじゃ。」 
「その他旧水路の生物だとしても鉄扉を開ける術が無ぇ、城へは到達出来ねぇと。それでも、行方不明の兵士が骨まで残さず食われちまった可能性は捨てきれねぇが、どのみち発生源が旧水路だとするお前さんの論への反証たり得ねぇ。ステュクス成体の飛空艇到達ってぇ最大の点を押さえなおかつ、バロンの内部事情を汲んだ最も整合性のある仮説がそれ……だな。」 
 書記の手に握られたペンの尾が、小さな円をくるくると描き連ねていく。紙とペン先から生み出される音を頼もしく聞きながら、カインは今後の指針決定へと段階を進めた。 
「本当に旧水路が発生源で、セシルが問題を認識しているとすれば、俺達にできることはあまりないかもしれんな……各国に対策を周知するくらいか?」 
「事態はそう単純じゃねぇかもしれねぇぜ。」 
 忍者の鋭い言葉が、締めに掛かっていた会議の延長を告げる。 
「どういうことだ?」 
 確実な疑念を抱き発された警句に、カインは真っ直ぐ向き合った。 
「いやな、そもそも、何だってステュクスが反乱、つまり生物に寄生なんぞするようになっちまったのかってとこなんだがよ。」 
「それは……ステュクスに変異を促した直接の原因までは量りかねる。誰か植物学に詳しい者を当たって――」 
「そう、元々いた奴の突然変異ってのが一つ。だがもう一つ、外から持ち込まれた全く別の生き物だって線はねぇか?」 
「持ち込む? 一体誰が……!」 
 思わぬ指摘に身を乗り出す。椅子を大きく一漕ぎしたエッジは、両足を床に据え姿勢を正した。 
「兵士の失踪はクリスタル戦役のチョイ前なんだよな。バロン王は何故事故現場から人払いをした? 俺なら逆に、失踪現場の警備は厳重に敷くがな。」 
 意図を測りかねてか口を噤む相棒に、エッジは問いを重ねる。 
「よぉ、カイン。玉座の間から人払いをしたバロン王は、『本物』か?」 
 忍者の言葉が暗に示すもの。それは、警備が万全なバロン城に、巡回の穴となる個所を作ることで、明確な利益を得た存在―― 
「そうか、ゴルベーザ……いや、ゼムス……!」 
 肩が揺れた拍子に手の甲とぶつかり、空皿が小さく音を立てる。新たな方向からの論軸を立てたエッジは、皿を跨がせた左肘をどかりと机上に預けた。 
「バロン王の暗殺時期は不明、遺骸がねぇと聞いたんだがよ、場所がな……ほれ、王様の残留思念体があの部屋に出たろ? 何でかって、あの場所で殺されたからってのぁ考えられねぇかね? 例えばだ――ステュクス種子を革袋にでも詰めちまえば、果実酒とでも偽って荷改めを誤魔化せやしねぇか。領内へ侵入しちまえば後は容易い、奴さんらにゃ転移魔法がある。城ン中に直接飛べはしなくとも、地下水路なら入り口の見張りをやり過ごせるだけの距離で構わねぇ。」 
 言葉の繋がりに空いた僅かな隙間に、干し果実を一片素早く口に放り込む。 
「ひかふいろにゃ大した敵はいねぇ、悠々城まで辿ってアルチルギ……あー、玉座の間にある仕掛け部分に種子を仕込み、巡回を待つ。首尾良く兵士を引っかけりゃあ、もうこっちのモンだ。城ン中で行方不明なんざおおごとだからな、捜索やら緊急配備やらに割かれる分、城内警備は必然薄くなる。捜索の連中が部屋から退きゃあ、後は王手を指すだけだぜ。近衛連中は厄介だろうが、腕は立っても数はいねぇ、増援呼ぶにもこの事情なら手間が掛からぁ。――城詰め連中の目が揃って外を向いてる間に王様の素首すげ替え、事故の再発防止と尤もらしい理由で以て現場を封鎖、証拠隠滅、かくして青き星全滅計画の橋頭堡一丁上がり、と。」 
 実際こんなに巧く行ったかは定かじゃねぇが、と付け足し、エッジは話を切り上げた。 
 警備の万全なバロン城で、何故王を人知れず入れ替えることが出来たのか。長く解決を見なかった疑問だったが、こんなところで解決の糸口を見るとは――カインは愕然と項垂れる。 
 事件、事故、脱走、様々な観点が錯綜し、あの日、城内の誰もが浮き足立っていた。混乱は冷静な判断を緩ませ、付け入られる隙を生む。王の身辺警護に当たっていたのは近衛の強兵揃いだが、その長たるベイガンが魔物に変えられていたことからしても、エッジの説はあまりに整然と筋が通ってみえる。 
「特に異論無しってこた、あたら山勘ってわけでもなさそうだな? ――で、お前さんが最初に言った、ステュクスの目的は寄生することだってぇアレな。奴さん……ゼムスの目的は、この星の生物全てを滅ぼすこったろ? さぞ都合良いんじゃねぇかね、餌は水と光だけ、手当たり次第何でも同化していくステュクスって奴ぁよ。この星の生き物が残らずステュクスになっちまやァ、弱点突いて一網打尽だ、手間も閑も掛からねえ。」 
 無言を肯定と受け、忍者の王は滔々と論拠を置いていく。 
「作戦てのぁ、二重三重の保険を掛けとくのが定石ってもんだ。バロンへの侵入口を作るだけのつまらねぇ道具として使わせ、その実それは時限式発破だった……なんてな。ゴルベーザが万一改心したとして、展開した作戦の子細を一々報告する義務もねぇし、こちとら使われた道具を一々吟味する暇もねぇ。そして――」 
 推論の終端に意味深く一呼吸置いたエッジは、二枚のスケッチを手元に引き寄せた。ステュクス成体の再現図と完全成長体の図が、よく似た姿を斜に繋ぎ合わせる。 
「こいつら、砂蟲に似てると思やァそう見える――が、月の館を訪ねる途中に、こんなの居なかったか?」 
 言って、エッジは掌を返した。蝋燭の火に透かし出された鏡像が凍り付いていた鐘を溶かし、ピンと澄んだ音を打つ。 
 深閑とした月の大地を貫く岩窟、そこに蠢く異形――高弾性を備えた半透明の皮膜は斬撃を撥ね付け、小さな傷ならば瞬く間に塞がり『再生』してしまう。特定の属性魔法のみでしか傷付かず、内部の核を潰した瞬間、砂像のように溶けた――プロカリョーテ、ユカリョーテ、月の民を統べる老がそう呼称したという異星の生物。 
 体色こそ違え、ステュクスと記憶の中のそれらが三面鏡を成す。 
「リディアの預言、眠り星は眠る民の星、即ち月を示すってなぁどうよ? まぁそりゃあこじつけすぎだとしても――」 
「月の民を尋ねる価値はある……か。」 
 衝撃醒めやらず、カインはただ息を吐き下ろした。 
「現時点でバロンに再度乗り込むわけにはいかねぇしな。何らかの有益な情報が得られる可能性は高ぇし、奴さんらにゃ関係ねぇってだけでもいい。寝てるじいさんら叩き起こすのァ忍びねぇが……」 
「しかし、……月へなど、どうやって?」 
 ようよう呻く青年の視線の先で長老が首を振る。唯一月へ渡ることの出来る船は再び海溝に沈み、深い静寂の眠りに就いた。現在この星にある技術の粋を集めたとしても、魔導船に匹敵するものを作り出せはしないだろう。 
「心当たりが無ぇこともねぇ。」 
「本当か!?」 
 最早この先、相棒の口からどんな酔狂が飛び出して来ようとも今以上に驚けまい。 
「んにゃ、これも山勘な。バブイルの塔、月から巨人を転送したろ? ああいうモンは大抵双方向なんじゃねぇかね、デビルロード然り。」 
「……つまり、」 
「こっちから月へ何か送ることも出来んじゃねぇか? 原理としては。」 
 エッジの提案に、一人ポロムは机下の両手を固く握り合わせた。目線を机上に這わせ、取り巻く大人たちを順に見てゆく。 
 ミシディアの長老――世の遍く叡智を羅し、豊かな経験を備える賢者。 
 エブラーナの君主――多彩に渉る才を有する、柔軟な機知に富む識者。 
 そんな彼らでさえ、バブイルの塔にある次元通路の動作方法は知らない――ポロムはとうとう、残る一人に視線を留める。燭台の光を背にする男の金糸は淡く輝き、その顔に冥い陰を落とした。 
「問題は二つある。第一に、バブイルの塔が今でも動くのかってトコだが……。」 
 少女の儚い願いを断ち切り、非情な議論は先へ進む。 
「……巨人降臨後も、ゴルベーザは塔の機能を停止させてはいなかった筈だ。ただ、エネルギー源となるクリスタル無しで、現在どれほどの機能を維持しているかは疑問だが……。」 
「動くなら早めにするに越したことぁねえってわけだ。で、残るは――」 
 思案顔を頬杖に沈ませるカインに、エッジは大仰な手の振りを示した。 
「俺ぁリーダーの決定に従うぜ。どうよ? カイン。」 
 どこか空々しく明るい声にちらり目を流したものの、腕を組み一同の注視を遮ったカインは細く長く息を吐く。 
 嫌だと、たった一言口にさえすれば、この状況を終えることは容易い。 
 会議は何事もなく代替策を模索する道へと進み、この場に座る誰一人として拒否した自分を責めはすまい。――例え、バブイルの塔最上階にある次元通路こそが、現在この星に唯一残された、月へ到る確実な道であっても――調査隊として名乗りを上げた誰もが、苦難の道をあえて歩くことを厭いはしないだろう。 
――だから逃げ続けるのか。俺はこうして、一生……? 
 これまでずっと、過ちの記憶をなるべく思い出さないように努めてきた。忘れることで、無かったことにしようとしていたのだ――そして実際に、記憶は風化しかけていた。強い忘却の風を必死に扇ぎかけ、平穏な日々に声を塞ぎ――だが。 
「カインさん……」 
 少女の頼りない声が、弱いながらも確かな光の在処を示してくれる。 
 どんなに悩んでみたところで、結局、この胸にある決意を揺らがせることなど出来はしない――カインは、机に埋もれてしまいそうな少女の眼差しにフッと笑みを向ける。 
 光から完全に背けるほど、自分はまだ強くない――そう思っていられる間は、光を目指して歩いて行ける。目指して歩いていくなら、いつか必ず到達できる。 
 山の頂で空に翻るバロン国旗を見たあの時、自然と拳を固く握らしめたこの心は、安寧に落ちるその時を迎えてはいない。 
「任せておけ。記憶力には自信がある。」 
 明瞭な言葉で告げる決断に、居合わせた皆の顔から曇りが払われるのが、確かに見えた。 
「っしゃ! 手始めにクリスタル集めだな。」 
 快哉を叫んだエッジが景気付けに拳を打ち鳴らす。 
「他国にステュクスの浸食が進んでいるかどうかも気になる。老、よろしいか?」 
「調べてくれと頼んだのはワシじゃよ、大使殿。どうか、よろしく頼みますぞ。」 
 カインの申し出に、長老は深々と頭を下げた。 
「ファブールとダムシアンへはワシから連絡するでの。大使殿らにはトロイアと地底をお願いしたい。」 
「了解しました。だが、地底か……」 
「地底へはエブラーナのバブイル経由で行きゃあ良い。とりあえずトロイアから廻ろーぜ。じぃさん、二国への書状は?」 
 移動の難を一閃に解決した忍者は、便宜を求め議長を仰ぐ。 
「うむ、今宵の内に用意しよう。トロイアへ赴くなら、ダムシアンへ戻る船に寄ってもらうが良かろうて。」 
 明朝の船出を約束し、会議はこれにてお開きとなった。 
 
 割り当ての客室に戻り、カインはすっかり縮こまった四肢を存分に伸ばす。一方、外套を羽織ったエッジは、この後の予定を休息で塗りつぶした相棒に明るい声を掛けた。 
「要りモンがあんなら小遣われてやんぜ。」 
「酒瓶一本と引き替えにか……そうだな、少し待ってくれ。」 
 交渉に応じ身を起こしたカインは、旅に必要な消耗品を書き出す。しばしの後手渡された目録の長さに、エッジは眉を顰めた。 
「遠慮ねぇなオイ、一回じゃ運び切れねぇぞ……金足りっかぁ?」 
 共有財布のギル硬貨を数えるエッジを横目に、ベッドの上で胡座を組んだカインは、何とは無し口を開いた。 
「……月の民は協力してくれるだろうか?」 
「五分五分ってとこだな。まぁ何とかなんだろ。」 
 一聴楽観に尽きる言葉だが、彼に限って確実に切れる手札があってのことだろう。 
「バロンのために……すまない。」 
「おいおい何だ止しねぇ、バロンのためじゃねえよ。」 
 とっぷりと顔を俯け肩を落とした生真面目竜騎士に、エッジは盛大な嘆息を聞かせる。 
「悪ぃが、俺はお前ほどセシルを信じられねぇんでな――裏で月の民と繋がってる可能性があるんじゃねぇかと思ってよ。」 
 驚きに顔を上げると同じくして、エッジの目が脇へ振れた。 
「洗脳がどういうモンか、お前さんよく知ってンだろう。ゴルベーザも然り……それに、そもそも月の民の爺さんからして完全にこっちの味方だとは言えねぇ。月の民は月の、青き星の民は青き星の、それぞれの道理で動くのが当然だ。異なる互いの道理が利害一致する方が稀だろうさ。」 
 月の民と完全対立する可能性をも示唆され、カインはしばし瞬きを忘れる。よもや相棒がそこまで計算していたとは思いもしなかった。 
「……俺達は、もしかしたらとんでもねぇモンに喧嘩を売ろうとしているのかもしれねぇ。だが、これが俺達の道理だ、貫くまでよ。」 
 濃紫の髪に立てられた五本指が、言い切りの余韻をがしがしと掻き散らす。 
 それじゃあ行ってくらと早口に残して相棒が部屋を去った後、カインは再びベッドに体を倒した。床に着いていた両足を引き揚げ、シーツの隅々まで四肢を伸ばす。 
 穏やかな日の差す窓から顔を背け、薄生成の壁に反射する柔光からも目を閉ざせば、それでも、温もりが見える。目の前から続き、遠くなるに従い薄れる、それは、真っ直ぐな一本の道だ――誰に強いられたわけではない。自ら選んで自分は今、この道の前に立っている。そして、エッジ――いや、彼だけではない。この旅に同行すると決めた幼い二人でさえ、一歩を踏み出すその刻を信じて待ってくれている。 
 ならばこの先に何があろうと、進んでゆくまで―― 
「……杞憂だな。」 
 引き戻した腕に頭を乗せたカインは、呟きを軽く吹き払う。生来決して勘が良いと言われたことのない自分が、今回も読み外しを願ったとて何ら可笑しいことはない。 
 平坦な道を散歩がてらに、ただ歩いていくだけだ。その路傍には何の心配もない――言い聞かせつつも結局、槍の穂先に映る研磨布を手にした自分の姿に苦笑を向ける。 
 直感の的中率には自信が持てない自分だが、予測となれば話は別だ。すなわち、部屋に戻ってきた相棒の第一声は―― 
『寝てねぇんなら手伝いやがれ!』 
 声調、抑揚、速度に至るまで、完璧に計算できる。この予測は決して外れるまい。 
 
 果たして一時間後、カインは自分の予測に絶対の信頼が置けることを確認した。 




LastModify : October/14/2022.