異形の生物が招いたざわめきが高山の風に舞う。
依然として棒立ちのエッジからパロムの回収を終えたカインは、改めてモンク集団の頭領と面峙した。ゆったりとしたフォルムの下履きが朱の裾に風を蓄え、黄橙の留帯と見事に編み込まれた弁髪が踊る。そして、記憶にあるよりも量の増え立派になった口髭が、曇りの無い微笑を頌えた。
「カイン殿! いやはや、助かりました!」
ヤン・ファン・ライデン。先の戦に於いて、僅かな間ではあったが共に闘ったファブールの僧兵だ。現在はファブールの僧院を統括する大僧正、すなわち国王に就任したと聞く。
「いや、助けられたのはこちらの方だ。凄いものを見せてもらった……」
しみじみとした感慨を込めてカインは礼を返した。その一言で笑いの発作を再発させたエッジは、竜騎士に食ってかかる。
「カイン手前ェ、俺を笑い殺す気か!」
「何がおかしいんだ。」
どつきあう青年二人を朗らかな呵々笑が包み込んだ。
「驚かれるのも無理はありません、先の技は硬身勁というものです。」
「コウシンケイ?」
エッジの腕をぶらぶらと揺らす遊びに執心していたパロムが、聞き慣れぬ単語に声を上げる。
「其は呼気を断ちて五身流るる気の流れを集留し肉体を鉄壁と成す、我らモンクに伝わりし秘技の一つ。弐代目ファブール祭祀長が編み出し、ボムの大襲来より民を守り抜いたものと言われております。」
「プロテスと似ていますわ!」
カインの隣からポロムが声を上げた。
「ほう、気が付かれましたか! さよう、ミシディアが白魔導と我らモンクが継承する気勁の相似点に関しては、私も大変興味の赴くところ。」
「だからポロはすぐオイラの頭叩くんだね!」
弟の推理の正しさを行動でもって示した姉は、海を隔てた異国に伝わる術の相似を研究する男の次なる言葉に真剣な眼差しを向ける。
「白魔導が施しならば気勁は悟り、両者異なれど二面同一、其は人道の往生を顕す。我らファブールの民を眼下に見下ろせり巌城山、ミシディアの民を懐抱せり甍大海、二国それぞれに厳しき自然の相に峙たるは決して偶事にありますまい。」
拓智朗々と吟じていた僧は、ふと杖を抱いた聴講生の悶々顔に気付き、固く結んでいた腕を解いた。
「そうですな、つまり……我ら人の巧力は、大いなる自然の前には小さなもの。なれど、座して死を迎えるのは愚行、自然の理に背くも愚行、然からば、我らには唯守るべきものが御座る。我らに与わる双具、肉体と心、これら鍛え鍛えに鍛鋼の如く磨き上げし時に自ずから、守りの力、すなわち、ファブールには気勁、ミシディアには白魔導が現れたと……ふぅむ、今お話出来るのはここまでですな。まだまだ、勉強せねばなりますまい。」
「いいえ、素晴らしいです! えっとつまり、モンクの皆さまに手伝っていただければ、私も『こうしんけい』のような、すごいプロテスを掛けられるようになるということでしょうか!」
熱を帯びてはしゃぐポロムの言葉に、生まれも育ちも年齢も異なる男達の心は、今、一つになった。
――それだけはやめてくれ!
はらはらと話の行く先を見守る計三対の視線の先で、ヤンは微笑を頌えた顔を静かに振る。
「そう良いことばかりではありません。硬身勁は身を鉄壁と化す代わりに呼吸を奪う術。犠牲なかりせば巧力亦なかり。二面同一にして両者相容れず、白魔導こそ慈しみに在りて死を施すことなかれ。分かりますかな? ポロム殿。」
「申し上げる!」
説法が始まっちゃったよ、あれ長いんだよなぁ――囁きの波を背にして、一人の若僧が一歩前へ進み出た。
「ライデン大僧正、客人方は大層お疲れのご様子! 速やかに下山し、宿をお貸しすべきでは?」
部下からの進言を受けたヤンは、はっと表情を変え額に描かれた六星の入れ墨に掌を打ち付ける。
「これはしたり! 恩人方に何という仕打ち、面目次第も無い……!」
「ああいや、顔を上げてくれ、大変興味深く拝聴し――」
「ファブールまで同行させてくれっと有り難ぇんだがどうだい?」
辻説法を再開させかねないカインを言葉ごとどつき飛ばし、エッジは僧たちの配慮を請うた。
「おお、願ってもありませんぞ! 先の大戦にて共に力を合わせ戦った同胞をお迎えいたすに、如何な不都合がありますか!」
ヤンの快諾を得た一行は、晴れてモンク僧の隊列に加わることとなった。幸いステュクスと再遭遇することなく下山を終え、暮れ落ちる日が赤く染める草原で簡易宿営が円陣を組む。テントの設営や夕食の支度への助力を申し出るたび、有無を言わさぬ爽やかな口調で悉く断られたカインは、いよいよたき火番の末席に就いた。
「お前ね、ちったぁ大人しく座ってろっての。」
薪を火へ投げ入れる係が笑う。
「そうだよニィちゃん、お客さんはえっへんしてなきゃダメなんだぜ!」
薪を投げ入れる係に渡す係がしたり顔で言う。
「でも、ただ座っているのはやっぱり申し訳ないですわ。」
薪を投げ入れる係に渡す係に渡す係がフォローを入れた。
積んである山から薪を取る係は、溜息一つで忙しく食事の支度に動くモンク達に目をやる。
「お待たせしておりますな。もうすぐ出来ますぞ!」
もう支度に手は掛からないと判断したのだろう、ヤンが一行の向かいに腰を下ろした。
「ああ、そうだ。大僧正、忘れない内にこれをお渡ししておかなければ。」
カインはギルバートから預かった書状を懐から取り出す。両手でしっかと受け取ったヤンは、封を開け書状を開いた。
「城に到着次第、一番早い船を用意いたそう!」
橙灯の元、親書を読み終えたファブールの王はぐんと胸を張った。
「他にも御用あらば遠慮はござらん、このヤン・ファン・ライデン、全力全霊を以て協力いたしますぞ!」
「すまない……。」
力強い言葉を受け、カインは深く頭を下げる。書状を元通り畳み筒に収めたヤンは、一変懸念顔を爆ぜる火の粉に向けた。
「しかし、ステュクスとはまた奇妙な……。あのボムらも、ステュクスに寄生されたものでしたか。」
「これまでに見たことは?」
ヤンの態度からおよその見当は付くが、一応確認する。
「ありませんぞ! 先週も山修行に入りましたが、その時には通常のボムが居ただけでしたな。」
「そうか……」
やはり、思った通りだ。既知の敵であれば歴戦のモンクが遅れは取るまい。
「きっと、おっちゃんたちがキンニクダルマだからステュクス逃げちゃったんだ!」
「こら、パロム。」
これが真相だとばかりに声を上げる子供を窘めるカインに、ヤンの朗らかな笑い声が向けられた。
「ふむ、そうかもしれませんな! 優れた肉体は精神より災いを遠ざける強靱な盾となります!」
――これほど説得力のある言葉が他にあるだろうか。カインの脳裏で衝撃映像が再生される。あの光景を、自分は生涯忘れることはないだろう。
「しっかし、何だって寄生しやがんのかねェ奴さんらは?」
持ち前の鋭感によって腹筋の危機を感じたか、たき火に薪を投げ入れがてらエッジは話題を変える。
これまで共に異変の原因を探るべく歩んできた朋友が発した素朴な疑問に、カインは腕を組んだ。確かに、ステュクスの行動原因が分からないままここまで来てしまっている。これまでの戦いを振り返るに、何者かに統率されている感はなく、こちらと敵対する明確な意志のようなものは感じられない。
「仲間を増やしたいのかもしらんな……。」
飛空艇で戦った操舵士の体を離れ自分の足に伸びてきた触手の感触が蘇り、カインは足をさすった。火に炙られた皮靴の上からしっかりと足首を掴み、その形を確認する。
「なか……っげぇ、怖いこと言うねお前。」
「そうであっても、むざむざ仲間になるわけには参りませんな。」
ヤンの言葉に一同頷いた。
「しかし、寄生ってより融合だよなモンクの場合は……」
ぼそりとエッジが呟く。確かに――と力強く同意しかけ、カインは慌てて頭を振った。
心臓から打ち出される血潮の色そのままに、赤く輝く大胸筋。夕映えに染まる雄峰の如き三角筋。紅蓮の火花と弾ける上腕二頭筋。再生能力を手に入れた今、地上に最早敵は無し。地上最強の生物爆誕、その名もファブールモンク僧――頭痛と引き替えにしても、次々と浮かぶ妙な煽句を振り払ってしまわなければ、示しが付かない。
「エッジ! 失礼な事を言うんじゃない!」
「お前だって思ったろ? そう思ったろ、なぁ?!」
「っ、思っても言って良いことと悪いことがあるだろう。良いかエッジ、我々はミシディア長老の信任を受けてパロムポロムを預かっているんだ。常に子供達の手本たるべく、品行方正を旨とし公明正大を心がけ、」
「うむ? 子等の教育を悩んでおいでですかな?」
ヤンの目がきらりと光った。
「我らモンク僧、子の教育には秀でておると自負しております! 規則正しい生活を営めば、正しい心と強い肉体が自ずから身に備わりましょう!」
輝く瞳に射抜かれたパロムは竦み上がった。
「お、オイラは忍者魔導師になるんだ、モンクはならないもん!」
少年の口から新たなジョブの名が飛び出す。華麗に戦う忍者の印象は、少年の中で魔法と同じく力を表す固有名詞の一種となってしまったようだ。
「ふぅむ、それはまさしく偉業ですな。無論、無理にとは申しますまい。」
ターゲットから外れたパロムが胸をなで下ろしたのも束の間。
「ポロム殿は?」
「わ、私は、白魔法を極めなくては……」
そつなくかわすかと思いきや、ポロムの顔が思案の色に塗り変わった。
「あ、でも、ちょっと習うだけならいいかもしれないですわ……。」
「ポ、ポロがモンク魔導師なんかなったら、オイラの頭ぼこぼこになっちゃうよ!」
双子の姉のとんでもない決意に、パロムはひいっと声を上げる。
「ニ、ニィちゃんっ、隊長っ、ポロを止めてよ!」
小さな握り拳を交互に突き出しやる気を見せる少女と、保護者の間を必死に逃げ回る少年が草地にせわしない影絵を描き、たき火の炎に笑い声が揺れる。
夕食の後、夜稽古を見つめるポロムの熱心な眼差しに、パロムが震え上がったことは言うまでもない。
簡素ながらしっかりとした造りの野営用寝具で、快適な睡眠を得た一行の頭上を、薄雲が過ぎていく。日中に整備の行き届いた街道を進む隊列の進行を阻む敵も無く、ホブス山麓からファブールまでの帰路は順調そのものだ。途中に幾度か小休止を挟みながら、平原の真中に見える城へ向かい歩みを進める。
空を駆ける太陽と歩を揃え歩んできた一行の前にようやく城の全容が現れた頃には、すっかり日の色が橙に変わっていた。城を十重に囲む壁と、そのファブールそのものを二十重に囲む雄大雲に夕陽が食われ落ちてゆく。
渋朱に偉容を浮かばせる城塞都市ファブール。一人の僧が枯枝で築いたあばら屋を中心に、僧の教えに下りその元へと身を寄せた民を収容すべく外へ外へと増築が繰り返され、まるで山のような相を誇るに至ったと言われる。隣国との国境線が近づくに従い、ファブール城の進化は緩まりやがては停まり、最外郭を強固な石壁で覆う現在の姿となったようだ。カインはそびえ立つ巨大な壁を見上げる。飛空挺により行われた水平爆撃にも耐え抜いた壁だ。
間近に見るファブール城はまさに偉容と呼ぶに相応しい。バロン戦役以前はバブイルの塔に譲っていたが、異世界の民の存在が明らかになった現在、世界最大の建築物という冠は正しくこの城のものとなった。
城下町をその広い懐にすっかり呑み込んだ城を持つファブールの民は、生活に関わる一切を屋根の下で行うことができる。内部を貫く廊下は幅広く、天井は高く、建物内部であることを忘れてしまいそうだ。全ての家は壁を経て並び、広場や市は広間ほどの廊下に開かれている。
一行を中央広場の一角にある喫茶店のテラス席へと案内したヤンは、拳を相の手のひらに押し付けるファブール式の礼をした。
「只今、夕餉の用意を致しますのでな、しばしここでお待ちあれ。」
「精進料理ってやつ? イイねぇ、トウフっての、あれ美味いんだよなぁ。」
「ほほう! 流石エブラーナ王殿、よくご存知ですな!」
ヤンと共に、カインもエッジの博学に感心する。各地の名物に精通しているのはさすが国王の面目躍如というところだろうか。
ヤンと入れ替わりに訪れた店主が一行に茶を振る舞う。代金の受け取りを固辞する店主に、半ば執念でもって相応の硬貨を握らせることに成功したカインは、晴れ晴れしい気持ちで椅子に深く腰を下ろした。テラス席からは活気に溢れた往来がよく見える。
「エッジさん、トウフってどんなものですの?」
お茶を吹き冷ましていたポロムが、ヤンとエッジの会話に出てきた単語の意味を机越しに問うた。
「お、知らねぇか。トウフってなぁ、生成色でこういう形してんのよ。」
エッジの手が空中に立方体を描く。予想を裏切る形状に、実物未見の悩み眼が集まった。
「木の枠でな、こういう形にすんのよ。こう、ぎゅーっと固めてな。」
茶碗から立ち上る湯気を吹き払う勢いで、エッジの手はせわしなく立方体を描く。
「草をちぎって入れたやつも美味ぇんだわ、これが。」
「……それは本当に食べ物なのか?」
遂に耐えきれず、カインは素直な感想を口にした。エッジが手で描くその形、そして木の枠を使って固めるという製法から思い浮かぶのが、どうしても一つしかない。
「オイオイ何言い出しやがる、美味いんだって!」
「煉瓦しか思いつかん……」
脳裏に描かれた鮮やかな想像の中、喜色満面のエッジがフォークで串刺した白煉瓦を頬張る。普通の人間では歯が立たないだろうが、モンクやニンジャーなら分からない。
「待てオイ何で煉瓦食わなきゃいけねぇんだ、トウフと煉瓦を間違えるような奴ァな、それこそトウフの角に頭ぶつけて――」
「人殺し!」
エッジがファブールの成句を言い切るより早く、鋭い少年の声が穏やかならぬ突っ込みを入れた。一同の視線を集めたパロムはきょとんと目を丸くする。
「へ? な、なに?」
「人殺し!」
再び少年の言葉が響く。と共に、カインの後ろ背に鈍い殴打が叩きつけられた。
立ち上がり振り向いたカインの目に映るそれは、殺気にも満たぬ幼い怒り。
パロムと同じ年頃くらいの少年は、その腕と同じく細い枝――恐らく店の軒先に積んであった薪だろう――を再び振り上げた。
「マオ、よさないか!」
警句を発した店主がカウンターを飛び越え、背後から少年の腕を押さえる。騒ぎの気配が往来の流れを塞き止めた。
少年は自由にならない腕を力任せに振り上げ、棒の先で真っ直ぐカインを指す。
「こいつは人殺しだ、こいつが魔物を連れて来たんだ、こいつのせいで父ちゃんは、父ちゃんは――!」
少年の言葉の意味するところ。それは――カインは首を絞められたかのような窒息感を覚える。
回した視線は、周囲を取り巻き動きを止めた人々、そして、少年を抱き止める店主の目にさえ浮かんだ、微かな恐れの色を見る。広場の真中にぽかりと口を開けた時の淀みで、その中央に立つカインの両手に双子がそれぞれぶら下がった。幼い直感で押し潰すような雰囲気を感じたのだろう彼らの小さな手を、せめてもとしっかり握り返し、だがカインの視線は自然と落ちる。
――そうだ。
ヤンは旅を共にした仲だからこそ、辛く当たらなかっただけだ。この国は、かつて自分が侵攻し、陥落させた――。
「あー、その通り! こいつは人殺しだ。」
空気を切り裂いて凛と響く声。いつしかテラス席を取り巻く群衆の最前に移動していたエッジは、大仰に身を屈め足下に転がる瓦礫片を拾った。
「いくら王様の仲間だとは言え、到底許せるモンじゃねぇよな。そうだろ?」
固唾を呑んで事態の成り行きを見つめる人々の目の中で、黄褐色の瓦礫片が骨張った手のひらの上を舞う。
「どうだい、一丁こうしてやろうぜ。」
エッジの腕が弧円を描いた次の瞬間、カインの額にがつんと衝撃が走った。咄嗟に首を反らしたが、額からなま暖かい流れが溢れ出る。眉毛の上で一度は受け止められた流れは、呆然と瞬く瞼の動きに揺られ目頭まで落ちてきた。
子供の悲鳴が二つ、押し黙り閉塞する空間に響く。
「エッジさん、何てことを!」
「ニィちゃん血が出ちゃったじゃないか!」
「血が出たっくれぇ大したこっちゃねぇだろ、そいつは人殺しだぜ?」
なぁ?とエッジは観衆を振り返り、人々に余韻のざわめきを巻き起こす。
「ほれ、みんなもやろうぜ。どうしたい?」
威勢良く煽っても、後に続く気配はない。エッジは再び瓦礫片を拾い上げ、今度は先ほどより大きく振りかぶった。
横手に投げ出された瓦礫片に呼吸を止められ、膝から力が抜ける。崩れるように膝を付き背中を曲げたカインの目の前に、手のひらの半分にも満たない大きさの瓦礫片が転がった。鳩尾から背中まで鋭く突き抜けた衝撃を、こんな小さなものがもたらしたとは俄に信じがたい。
「やめろーーー!」
竜騎士が地に膝を付いた瞬間に、とうとうパロムが弾け飛んだ。腹に小さな拳の連打を受け、エッジはじりと一歩退く。
「やめろやめろ、ニィちゃんに酷いことすんな! ニィちゃんはみんなを助けるために頑張ってるんだぞ、仲間なんだぞ、何で石ぶつけたりするんだ!」
隊長と慕う男の豹変に脳の処理が焼き付いたか、制御不可能となった激情がパロムの瞳から溢れ出る。わんわんと泣きながら、それでも殴打を止めない少年を右肩に軽々担ぎ上げると、エッジは再び瓦礫片を選んだ。暴れるパロムに胸板を蹴られるがまま踵を回し、喫茶店主の腕の中で唇を噛みしめる少年の前に立つ。手首を取り上げ手のひらに瓦礫片を落とすと、灼熱に触れたかのように少年の体が震えた。
「ほれ、親父の仇だろ。その手でぶち殺してやんな。」
言い放つエッジの声に気圧されてか、少年を押さえていた男はその腕を解いて後退る。エッジの指が、支えを失い呆然と立ち尽くす少年に眼の正面を指した。
「あの、人殺しをよ。」
手にした石とエッジを交互に見つめる瞳があからさまに揺れる。やがてよろよろとエッジを押し退けた少年は、蹲るカインの元へ歩み寄った。
「やめて!」
萌葱の導衣が少年の行く手で大華と開く。蹲っていても優に二倍はあろう竜騎士の体を全て隠してしまおうと、少女は懸命に細い四肢を突っ張った。
潤んで燃える少女の瞳から逃れ足下へと顔を沈めた少年は、俯いたまま両手で石を振り上げる。衝撃に備え、ポロムはぐっと腹を据えた。どんな苦痛に襲われようと、ここから退いたりはしない。
覚悟を決めた少女の目の前で、カチンと氷の溶けて軋むような音が響く。
「――出てけ!」
瓦礫片を脇へ落とした少年は目頭を拳で擦り、路地の向こうへ走り去った。
寄せる波の洗う砂が夜風に揺らぎ、ささやかな声を上げる。冴え渡る円月の刃紋を映す大海は凪ぎ、喫水線の下に現れた船小屋の窓に掛かる遮光布の模様さえ、はっきりと分かるほどだ。
都市の南端から林一つ分隔たる、港の脇に立つ小さな小屋。食堂と呼ぶにはあまりに質素な、船を待つ客のために設えられた一室で、二つの人影が一つの鍋を囲む。
※滅相顔を対面に置いたまま糧に食らい付くのも気が引けるが、手を引き込めておくには目前の白豆腐はあまりに良い頃合すぎる。ふわふわと目の前を踊る湯気に、空腹は募るばかりだ。先んじる無礼の許可を得、エッジは鼻の先にぶらさがる好物に木匙をまっすぐ差し込んだ。
「面目次第も無い……!」
※頭いっぱいに打ち響いていた食の幸福を告げる大鐘が鳴り止む。ふと気付けば、臙脂の僧服が机の上にすっかり伏していた。痛烈な悔念を宿した顔に辮髪がちょろりと垂れる。
「おいおい止してくんな、謝られる謂われはねぇよ?」
木匙を椀の縁にかけ、エッジは苦笑する。快適な寝屋と豪勢な夕餉を振る舞われ、その上なお頭まで下げられてはこちらの面目こそ立たない。
「マオがあのような非礼な振る舞いを致すとは……!」
「何の、大僧正にそこまで恐縮されちまっちゃあこっちの立つ背がねぇや。」
実際のところ、危険な試みではあった。一年という時間が、憎しみ全てを洗い流すに足りるとは思えず、血が大衆を奮い立たせない保証はない。しかし、ファブールが礼節を厳しく己に課する国だという事実は、賭けるに値するものだった。
「で、そのマオはどうしたい?」
「僧の元で坐禅を組ませております。」
大僧正の眉根を曇らせる溜息が、伏された瞼を静かに震わせた。
「そりゃ厳しいな。」
「荒れた心は眼を曇らせます。……曇りの無い眼になって初めて、カイン殿の心の在処が見えましょうぞ。」
すまないの一言で夕食を断った竜騎士は、今頃あの扉の向こうでどんな顔をしているのだろうか。
『一生口利いてやんない』というオマケ付きの絶交を声高に宣言し、ばたりと大きな音を立てて閉まったままの扉にちらりと目をやる。同じことを思ったらしいヤンもまた、扉へと目を向けた。
「……今すぐにでも詫びさせたいところですが……。」
ヤンの深い溜息が鍋の上に漂う湯気を散らす。
「誤った足跡は自ら見付けなければ意味がありません。我らに為せるはただ、此度マオが道を正しくする機会を得られのだと願うのみ……。」
「ま、大丈夫だろ。」
木匙が湯の中で踊る白木綿を捕まえる。
「ああ見えてアイツは案外、巧いことやるのさ。」
もしこの先、少年が許したいと願ったならば、その想いに応える行いが必ず示されているだろう。そう信じられるからこそ、自分は今こうして夕食を満喫していられるのだ。
「ご馳走さん。」
※湯豆腐の欠片まで残さず放り込んだエッジは、空になった鍋に向かい神妙に手を合わせた。
卓上に据えた燭台の灯火を頼りに、皮紙の上をペンが滑る。
はたして、今日の出来事を如何に書き留めたものか、思案に飽いたポロムがふと顔を上げると、真横にカインの顔があった。
「あ、か、カインさん!」
ポロムは慌てて机に散った皮紙を回収する。
少女が流暢に文字を綴る様に感心していたカインは、誤綴を指摘するため伸ばし掛けていた指を体の横に戻した。
「覗くつもりじゃなかったんだが……すまん。」
「いいえ、お怪我は大丈夫ですか?」
「ああ、怪我と呼ぶほど大袈裟なものじゃない。」
カインはすっかり癒着した額の小さな傷を撫でる。出血こそあったものの、実際の被害は破片の角に表皮を軽く撫でられただけだ。
男の無事な様子に、ポロムは胸をなで下ろした。
「良かった……。」
「怪我がなくったって、オイラ、隊長のこと絶対許してやんない!」
ポロムの言葉と入れ替わりに、書机後ろのベッドで大の字になっていたパロムがばたばたと埃を立てる。
「絶対絶対ぜーったい! 許してやんないもんね!」
「エッジが悪いわけじゃない、あの時は、ああするより他に仕方なかったんだ。」
カインの言葉に、一際勢いよく埃を巻き上げパロムは跳ね起きた。
「しょーがなくなんかないやい! 仲間に石をぶつけるなんて、サイテーだっ!」
ぷんぷんと頭上で振り回された握り拳は、しかしぽとりと膝に落ちる。
「隊長のこと、信じてたのに……」
幼い双子にとって、エッジの行動は自分との決定的な仲違いに見えてしまったのだろう。いつもなら弟をたしなめるはずのポロムも口を噤んでいる。
エッジが何故あんな行動を取ったのか――自分は理解しているが、さて、それをどうやってこの幼い二人に納得させたものか。
――もし、セシルだったら。
人と人の心の間に生じる諍いごとを目の当たりにするたび、幾度となく浮かんできた言葉。もし、今この場にいるのが親友だったなら――人当たりが良く、人心の機微を捉える事に長じた彼だったら――もっと巧くやれただろうか?
もし今この場にいるのが自分ではなく、セシルであったならば、子供達は何の問題もなく楽しい夕食を囲んでいられたのかもしれない。
だが、それは考えても仕方のないことだ――己のつまらない想像に、カインはしっかりと終止符を刻む。
今こうして双子の前にいるのは、他の誰でもない、自分なのだ。そして、この幼い二人がこうして薄暗い部屋にいて、さぞ空腹だろうに――平地とは言え相当な距離を歩いたにも関わらず、彼らは軽い携行食とお茶しか口にしていない――夕食の席に付かないのは何故か。
彼らが、他の誰でもない自分を信じてくれているからだ。
カインは姿勢を正した。真っ直ぐな子供達の言葉を聞くのに、視線が縒れていてはいけない。しっかりと向かい合い、ぷっくりと頬を膨らませた少年の肩に手を置く。
「なぁ、パロム。パロムはニンジャー魔導師になりたいんだろう?」
必要なのは、どんな返答にも揺らがない覚悟の力。双子が納得出来る言葉を、今の自分は持たないかもしれない。だからといって口を噤んでしまえば、永遠に正解に近づけない。正解の言葉は会話の中で模索していくべきものだ。誰もが何度も試行錯誤を繰り返し、少しずつ近付いていく。
「忍者魔導師やめた! オイラ、ニィちゃんに竜騎士教わって竜魔導師になることにする!」
突拍子もない発想に出鼻を挫かれ、カインは早速言葉に詰まった。
とりあえず、竜魔導師とは具体的にいかなるジョブなのだろう。次の三つの中から選びなさい――脳裏に選択肢が表示される。
その1、竜に乗れる魔導師。その2、槍を使える魔導師。
「びゅーんてジャンプしてスタッて降りて魔法使うんだぜ!」
正解、その他。
言った本人の頭には明確な青写真が浮かんでいるのだろうが、聞いている側はさっぱり要領を得ない。魔法を使う直前に垂直離着陸を行うことに一体何の意味があるのだろう。
竜騎士自らが思うアイデンティティと、世間一般から見た竜騎士イメージとの乖離にカインは苦笑を浮かべるしかない。
「パロム、とても言いづらいことだが……竜騎士になると魔法を使えなくなるぞ?」
ひとまず、少年の初歩的な認識違いを指摘する。
「え!? 何で?」
もすもすとベッドで跳ねる少年の肩を押さえ、ついでに腰を落としたカインは、なるべく分かり易いように論理の積み木を組み替えた。
「幻獣召喚術と、それを扱う召喚士のことは知っているな? それと似たようなものなんだが……」
「でもさ、ショーカンシのリディア姉ちゃんは黒魔法使えるぜ?」
「ああ、普段はな。しかし、幻獣を呼びだしている間は、他の魔法を使えないだろう? 俺達竜騎士の、高くジャンプするための力や、飛んでいる間に姿勢を変えたりする力は、全部竜の力を借りている。つまり、竜騎士はずっと、竜を呼び出して戦っているのと同じなんだ。」
この説明で分かってくれただろうか。はたして、知恵の光をきらきらと宿す大きな瞳は、理解と引き替えに失望を浮かべた。
「竜魔導師だめなのか……でも、やっぱり忍者魔導師はヤメ! もう隊長っても呼ばない!」
新しく考えついたジョブへの道は閉ざされたものの、やはり当初目指していた忍者魔導師の道へ戻るつもりはないようだ。
カインは少年の瞳を真っ直ぐ見た。
「……パロム。セシルと初めて会ったときどう思った?」
口を付く親友の名。それが当然だと思えたことに自分でも少し驚く。
「セシル兄ちゃん? えっとね……」
腕組みをしたパロムはしばらくうんうんと考え、それから顔を上げた。
「えっとね、セシル兄ちゃんはいいやつだぜ! でも、最初の時はちょっとキライだったかも……だって暗黒騎士だし、ミシディアでひどいことしたんだ。でも、オイラはセシル兄ちゃんがいいやつだって分かったからいいよ!」
えへんと少年は胸を張る。カインは少年の頭をぽんぽんと撫でた。
「そういうことさ。」
「……って言われても、よく分かんないよ……。」
体よくあしらわれた風に話を切り上げられ、パロムはぐるぐると悩みを回す。その腹が、くぅと泣き声を上げて空腹を訴えた。
「うー……」
腹の虫と疳の虫の一大決戦場となった腹を抱え、少年はごろりと横になる。
「ほらパロム、絶交していたらエッジだって謝れないだろう?」
ベッドの傍らを離れ、部屋を横切ったカインはノブを回し押す。開いた扉の隙間から明かりと共に芳ばしい湯気が流れ込んできた。
「ポロムも。腹を空かしたままだと船酔いするぞ?」
カインの言葉に双子は互いの顔を合わせる。無言の合議は小さな腹に居座る空腹派に押し切られる形で決着したらしい。二人ほぼ同時に、それぞれ暖めていた場所から立ち上がった。
「カインさんは?」
弟と手を繋ぎ廊下に立ったポロムは、部屋の境界に立ったままのカインを振り返る。
「少し海の様子を見てくる。俺の分は残さなくて良いと伝えてくれ。」
伝言を託したカインは、双子が廊下を曲がるまで見届け、自身は部屋から桟橋の方へ通じる扉を開けた。
橋桁に寄せてくる波が小さなしぶきを手の甲にまで打ち上げる。桟橋の縁に腰を降ろしたカインは、遠く漆黒の海を眺めた。
パロムはみんなを救うためだと言ってくれたが、本当にそうだろうか? もしバロンの異変ではなかったら、傍観を決め込まないまでもこんなに真剣ではなかったかもしれない。父親を失った少年の許しを請うべくもないが、せめて、自分を庇ってくれた子供たちの思う通りの姿でいたい。
「うーっす。」
背後で木戸の開く音がし、軽く橋板を踏む音が近付いてきた。顔は向けず、手を上げて応じる。
「本当に飯いらねぇんかよ? つっても全部食っちまったけどな。」
「ああ、いい。携行食がまだある。」
ざぶざぶと橋桁を洗う波の音が響く。凪の彼方に耳を澄ませると、どこから吹き寄せるとも知れぬ風に乗って鳴き声が聞こえてきた。大笛のようなあの声は、首の長い海竜の口から発されるものだろう。
「船旅ばっかりは順風満帆といきてぇところだな。」
同じ懸念を抱いたのだろう、エッジの呟きが風に流れる。
「珍しいな、お前からそんな言葉を聞くとは。」
「かー! お前の時化っ面が伝染っちまったぜ。早ぇトコ寝よ。」
大仰にうんざり声を発したエッジは、潮風に吹き晒しの相棒に手を差し伸べた。
「ほれ、お前もな、こんなトコに座ってっと錆びちまうぞ。」
「ああ。」
素直に手を借り立ち上がる。引き上げた腕をそのまま頭の後ろに組み、くるりと踵を返した痩背に、カインは声を掛けた。
「エッジ。」
歩みが緩み、月の光が頬郭を白く闇に浮かばせる。
「嫌な役をやらせたな。」
すまない、と続きかけた言葉を遮るように、エッジはひらひらと手を振った。
「なに、この一連収めるにゃあまだまだお前さんの力が要る、それだけのこった。」
フッと笑みがこぼれる。彼はきっと、そう言うだろうと思った――括りから落ちた髪が海風に揺られる。昼の熱をすっかり失った湿気が、今は心地良い。
無人の桟橋に響く海竜の鳴き声は、やがて星の輝きと共に薄れた。