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◇◆ The back side of a smile ◇◆
「あれはやり過ぎだろ? 俺の立場も考えてくれ!」
「そうは言うが、私に連絡が出来るということは、君の立場は安泰のままだろう?」
「フン、まあいい。しかし、あの件でSIU全体が動くことになった」
「ほお、それは素敵だね。では、ようやく呉埜が指揮を執るのかな?」
「いや、あいつは相変わらず動かない」
「……ならばこちらからおびき出そう。切り札は手の中にあるからね」



『香里、元気か?』

 望月さんからのメールが届いたのは、彼が店に現れなくなってから数週間後のことだった。
 突然の転勤で関東を離れることになり、それを私に言い出せずにいたとのこと。
 転勤先でも相変わらず胃の痛みに耐えているようだけれど、それはそれで彼らしいなどと、 無事でいることがわかってほっとした。
 それから毎日、店に現れていた頃のような他愛もない会話を、彼とメールで交わすようになった。
 そして今は、毎晩11時前後の数十分間だけ、メッセンジャーで彼と繋がっている――

「な〜んか最近、香里ってば楽しそうだよね?」
 大きな瞳を極限まで細めて、上目遣いで私を見ながら仁美が言い出した。
「別にいつもと変わらないよ?」
 グラスを光にかざして汚れがないかと確かめながら、仁美と視線を合わせず言えば
「ふ〜ん。じゃ、グラスに恋してるんだ?」
 私の口元を指差して、更に目を細めた仁美が言う。

 仁美に指摘されてようやく気がついた。
 どうやら私は、無意識のうちに今流行の恋の歌を口ずさんでいたらしい。
 愛だの恋だのというフレーズが満載のその曲を、なぜ口ずさんだのか私自身が戸惑った。
 だから慌てて苦し紛れな言い訳を、ムキになって言い返す。
「最近よく店で流れるから、覚えちゃっただけだってば!」
 けれど、そんな歌詞とは無縁の時間を過ごしてきたと知っているだけに、仁美の猜疑は止まらない。
「香里って、本当にわかり易い女だよね……」

 望月さんと、最初のメールを交わしたときに約束したこと――
 ある日突然店に現れて、みんなを驚かせたい。
 だからこのことは、誰にも内緒の2人だけの秘密にして欲しい。
 そんな約束を了解してしまっただけに、誰にも彼と連絡を取り続けていると話せなくなった。
 そして今日もまた、こうして私の様子を怪しむ仁美に、結局何も言えないままでいる。
 けれど意外にも、『2人だけの秘密』という言葉に嬉しさも抱いていた……

 早々と後片付けを終わらせて、いそいそとパソコンを立ち上げる。
 メッセンジャーにサインインして、彼が居るかどうかを確かめて
「あ、もう居た」
 独り言を放った後、唇を噛みながら照れくさそうに笑う。

『香里? お疲れ様^^』
 すぐに彼から話しかけられた。
 いつもと変わらぬ最初の言葉に、いつもと同じく心臓がトクンと波打つ。
『今日の香里の一日はどうだった?』
『仁美に、すごく疑われて困ってます。もう秘密は限界かも……』
『あはは! それはダメだよ。俺が一番驚かせたいのは、仁美ちゃんだからね』
 何気ない彼の文字に、小さな棘がチクッと胸に刺さる。
 そんなに仁美を驚かせたいなら、仁美とメッセをすればいいじゃない……
 ひねくれた想いが頭を過ぎり、返事を躊躇うけれど
『それよりも、香里の一日が聞きたい。今日は何かあった?』
 続けて送られてきた彼の文字を見て、気分はまた裏返る。

 私の心は、ここのところの天気の様に、彼の言葉でコロコロ変わってしまう。
 彼に恋をしているから?
 仁美じゃないけれど、私もそう思わずにはいられない。
 会っていた頃は、何とも思わなかった彼。
 なのに文字で繋がり始めてから急激に、こうして感情が揺さぶられる。

『香里? 今日はちゃんと笑った? それとも、嘘で笑った?』
『正真正銘、バッチリ本気で笑いました!(笑)』
 そんな楽しげな文字をキーボードで叩いているのに、胸が苦しくてたまらない。
 なぜこんなことで泣き出してしまうのかが私自身でも解らないまま、彼との会話は夜更けまで続く――

 愚図ついた空模様の夕暮れ前、珍しく仁美のパパが店に現れた。
「いやぁ、今日は暇だね。暇すぎて眠くて仕方ないから、元気の出るお茶を淹れてくださいな」
 こめかみに走る白い髪に、スマートな会話と柔らかい笑顔。
 記憶にある私の父親は、いつも眉間に皺を寄せて鋭い視線を向ける人だっただけに、 そんな仁美パパの父親像は憧れでもあり、不思議なことでもあった。
「そうですね。こんな日は、ミントで気分をスッキリさせましょうか?」
 ペパーミントとレモンバーベナのドライハーブを取り出し、事後承諾に近い確認を取る。
 親指を軽く立てて了承しながら、仁美のパパが笑顔で切り出した。
「仁美のやつが、作業場でブツクサ言っているよ? 香里に新しい男ができたって」
 色付けに少しだけハイビスカスを加えたところで手を止め、呆れ果てたように言い返す。
「作業場でもそんなことを言ってるんですか?」
「うん、言ってる。それは恐ろしい顔で、香里が抜け駆けしたってね」
 仁美そっくりの顔と仕草で、意味もなく手を振り回すパパにおかしさがこみ上げて
「叔父様からもなんとか言ってくださいよ。疑われ続けて疲れちゃう」
 笑いを堪えながら答えれば、変わらぬ笑顔で仁美のパパが切り返す。
「でも香里ちゃん、お付き合いをしていた男性がいなかったかい?」

 予想外の言葉に、ナイフを突き立てられたような鋭い痛みが走った。
 けれど感情を悟られないように注意しながら、そっと蒸らしたお茶をカップに注ぐ。
「両親が亡くなって、色々ゴタゴタしていて……その時に別れちゃいました」
 もう時効だとばかりに、最後を軽く笑顔で答えてみたけれど
「そうだったのか……君のお母さんから話を聞いていたうちの家内が、 君たちの仲人をやる気満々でいたものだからね。辛いことを思い出させてしまったようで、逆に申し訳ない」
 隠し切れなかった私の動揺を、見逃さなかった仁美のパパにそう謝られた。
 それから数十分、話題をうまく切り替えた仁美パパと穏やかな会話を続け、 私の心とは裏腹に、気分爽快になったと言い残して仁美パパは仕事場へ戻っていった――

 それからの記憶は余りなく、ノートパソコンを片手に、いつもより早めに部屋に戻った。
 何をするわけでもなくフラフラとクローゼットに近づいて、 その奥深くに眠る小箱を取り出し、何度も躊躇いようやく蓋を開けた。
 小さい頃の写真や、家族との思い出が詰まった箱。
 捨てることのできなかった、深い蒼色の布に包まれた物が眠る箱。
 毛羽立たせるようにビロードを逆撫でると、色褪せることなく輝き続ける銀色の指輪が床に転がった。
 指輪を拾い上げ、手のひらで包み込む。
 冷たい金属の感触が、私の記憶に波紋を描くように広がっていく――

 ハーブに触れるうちに、『薬』というものに興味を持ち始めた私は、薬学の道に進んだ。
 職場体験と名打つ実習で、いつまでも体験先の決まらない私を見かねて教授が推薦してくれた病院。
 それが防衛医科大病院だった。
 実習と言っても、足手まといにならないように見学しているのが関の山で、 薬剤師さんたちの無駄のない機敏な動きに圧倒されながら佇んでいるだけの毎日。
 昼休みの院内食堂で、溜息をつこうとした私の隣から先に流れる深い溜息。
 驚きながら隣を見やると、私の視線に気がついて照れ笑いを浮かべる男性が
「死体解剖を朝からずっと行っていたんだ。だからその、どうも食欲が沸かなくてね」
 赤面しながら、私に向って懸命な言い訳をしてきた。
 その理由があまりにもリアルだったから、苦虫を噛み潰したような顔で彼を見つめれば
「あ、ご、ごめん……そんなつもりじゃなかったんだ!」
 ますます赤面しながら動揺する彼に、同情心が芽生え
「大丈夫です。わ、私なら食べられますから!」
 変な返答をして、彼を唖然とさせた。

 その日からの実習は、溜息をつくことがなくなった。
「お疲れ様」
 何度も彼とすれ違い、その都度彼がそっと耳元で囁いた言葉。
「香里の今日の一日はどうだった?」
 寝る前に必ずくれた電話で、決まって彼が私に聞くセリフ。
 そんな毎日は実習を終えてからも続き、病院外でも度々会うようになっていった――

 同大学の医学研究科で法医学を専攻していた彼は、当時26歳だった。
 学費や入学金を徴収されない代わりに、防衛庁職員となり自衛官としての訓練も受けていて
「俺の家は裕福とはほど遠いから、普通の医大には金銭面で行けなかったんだよ」
 そうやって茶化していたけれど、普通とは違いすぎるハードな毎日を、 愚痴一つ言うことなく突き進む彼に強く惹かれた。
「心が折れないように、潰されないように、歯を食いしばって笑うんだよ」
 そんな口癖を毎回言いながら、穏やかに笑う人だった。
 彼の微笑みの裏側に隠された、悲しみを嗅ぎ取ることができたなら……
 そんな女性になりたいと、心から願った。

 付き合い始めてから2年が経ち、彼は大学院を無事卒業して同病院内で研修医として働き始めた。
 相変わらず私の隣で眠る彼の胸元に、重なり合う2つのIDタグ。
 名前や血液型、そして宗派などが彫られた楕円形のそれに手を伸ばし、彫られた文字を指でなぞる。
 けれど何気なく裏面を見て時が止まった。

〜 Dear Aroma 〜

 誰かに宛てたその言葉。初めて湧き上がる嫉妬心に戸惑えば
「香里だからアロマ。アロマが好きな香里」
 肩肘をついて私の髪を指で梳かしながら、そっと彼が囁いた。
 心の中を、彼に見透かされてしまった様で恥ずかしくて
「だ、だから何? 別に私は何も……」
 俯き頬を膨らませてそう言えば、声なく微笑む彼に胸の中へ強引に引き寄せられて
「愛してるよ――」
 ただその一言で、なにもかも忘れてしまう私。

 彼の匂いと温もりと、その全てが永遠に続くと信じていた。
 初めて誰かの為に何かをしたいと強く想える恋をして、初めて誰かの腕の中で目覚める時を過ごし、 彼の全てが愛しくて、狂うほど愛しくて……

 けれど突然彼が消えた。
 約束の時間に訪れた彼の部屋は空っぽで、誰のものなのか解らない指輪だけが、無造作にポツンと転がっていた。
 携帯も、ポケベルも繋がらず、思い余って病院に電話してみたけれど
「そのような方はこちらにはおりません。お掛け間違いではないでしょうか?」
 パニックに陥って、心当たり全てに問い合わせてみても、答えはこれと同じものだった。

 両親が亡くなった直後の出来事。
 唯一彼と面識のあった母も、もうこの世にはいない。
 全てが私の幻想と、独りよがりの空想だということ以外、 彼がそこに居たという全てが跡形もなく消えてしまっていた。
 せめて理由を聞かせてくれれば、諦めと言う名の心の整理ができたのに……
 結局私は、彼の笑顔の裏側に何が隠されていたのかを知ることができず、 宙ぶらりんな想いを抱いたまま、こうして今を生きている――


 指輪がまた、私の手のひらから小さな音を立てて落ちる。
 悲しい夢から覚めたときのようにビクっと体を震わせて、意味もなく部屋の中を見渡した。
 ノートパソコンが目に留まり、それが思い出とともにクルクルと頭の中で回る。

 私は望月さんに恋をしていたのではない。
 いつも決まった最初の文字に心が揺さぶられた理由も、文字の端々に垣間見ることのできる優しさも、 望月さんと彼を重ねて見ていたに過ぎないだけ。
 二度と帰らない、誰かを何かを待っているだけ――

 思い出に浸り、溢れて止まない涙を流してしまおうと思い立つ。
 シャワーを浴びて、雫が滴る髪をタオルで覆いながら冷蔵庫を開ければ、飲みもしない缶ビールが鎮座する庫内。
 いつの間にこんなものを買ったのかと考えて不安になり、何も取り出さずに扉を閉めた。
 彼の好きだった銘柄のビール。
 当たり前のように買い置きして、今のいままで気づかずにいたのだろう。
 いつか彼が帰ってくるかもしれない……
 そんな儚い夢を馳せた無意識下の私の行動は、ビールだけに留まらない。
 いつまでも彼との思い出を引きずり続けている自分が、たまらなく惨めだった。

 そんな自分の気持ちに気づいてしまったら、あれだけ楽しみにしていた望月さんとのやりとりが急に怖くなり、 メッセンジャーにサインインすることが出来なくなった。
 それでもパソコンを立ち上げて、いつものようにアウトルックを起動させる。
 そしてお得意様へ丁寧に返信した後、1つの新しいアドレスの受信をクリックして固まった――

『I miss you.  Musk』

「私がアロマなら、あなたはムスクね。若行は麝香。麝香はムスクだもん!」
 陽気に笑う過去の自分の声が、頭の中でこだまする。
 私だけが呼んだ、彼に呆れられたあだ名。
 誰も知るはずがない、たとえ知っていたとしても使わないあだ名。
「ただの偶然の悪戯に決まってるよ」
 そう言葉に出し自分に言い聞かせながら、続く同じアドレスの受信を震えながらクリックした。

『PS.  ビールはもう冷えた頃かな?』

 そして私は、背後の冷蔵庫を振り返った――
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photo by ©Four seasons