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 切り裂いた爪 4






 センユタムの都より南方、リュード城を目指すメザ軍。
 エリオンは、不安と共に馬車に揺られていた。積み荷に寄りかかっている。ホロのすぐ外にジャックの後ろ姿が見える。彼は馬車のすぐ近くで馬を歩ませていた。


 メザの兵は王を演じていたエリオンを怒っていた。

「私の傍を離れないように」

 そう言ったジャックの言葉に従いたくはなかった。だが、ジャックがハデリ王の籠っているリュード城を目指すと聞き、今度は必死に連れて行けと詰め寄った。母が心配で、なりふりを構ってはいられなかった。
「母さん……」
 エリオンが小さく呟いた言葉。ジャックはその敏感な聴覚で拾い、気の重い表情をした。
「君」
 ジャックはエリオンに声をかけた。まだ名前は知られていない。
「あれがリュード城だ」
 丘に建てられた城砦が目に入る。

 メザ軍は、麓から少し離れた円周を、包囲する布陣をとった。



 今夜は月がない。ジャックの金の毛並みも、目立つほど光りはしない。
 城北面の林から回り込み、城壁の低い所を見つけ軽々と登った。
(……!)
 すぐそこに人の気配を感じて、ジャックは身構えた。
 集団の気配。暗闇の外回廊を足音を潜めて動いている。
 だがジャックに気づいた様子もなく、彼らは城壁の方へ近づいて行った。決して音を立てぬよう、踏み台を設置し、縄を下ろし、彼らは塀を乗り越えていった。
(脱走兵か)
 沈黙の城内。遠くで賑やかな笑い声が聞こえる。脱走兵を見た後では、それも虚ろに感じた。
 窓から中の様子を窺いつつ移動していると、がらんとして誰もいない詰所がいくつもあった。脱走兵は彼らだけではないようだ。
 ジャックはその一つに入り込み、落ちていたセンユタム兵の服を取った。


 途中で出会った兵が、料理ののった大皿を持って運ぶのを、手伝うと声をかけた。宴の周りを警備中の兵さえ、おこぼれの酒を飲んでいる。
「できた皿を持ってきた。通してくれ」
 宴の中へ、ジャックは堂々と入った。メザで成り上がりと呼ばれるジャックは、センユタムの者にはまだ顔を知られていない。交友がないからだ。

(あれが、ハデリ王……)
 この中で一番豪奢な服を纏い、あの子と同じ髪と目の色をした男。
(全く……。色が同じだけだな)
 自軍にハデリ王と面識のある貴族を一人でも連れていれば、もっと早く簡単にあの子の正体を見破れたものを。二人はまるで違う。退廃という油に馴染んで沈んでいきそうなハデリ王に対し、あの子は瑞々しくて美味しそうな……。
(……いや、いかん。本能が)
 ジャックは唾を飲み込んだ。
 ちょうどこちらを見ていた将軍格と思われる男と目が合った。男はにやりと笑って、見せつけるように豪華な食事を口に入れたので、ジャックは苦笑いになってしまった。
(センユタムの軍など、もはや塵も同然)
 ジャックはこれ幸いと、料理に目を奪われているふりをして、辺りを見回す。どこから連れてきたのか、若い女達が宴を賑わせているが、あの子の親に相応しい年の頃の女性はいない。
 ちょうど「次の皿を持って来い!」と言われて、ジャックは広間を後にした。


 調理場に向う途中の廊下を、まだ行っていない方へ折れる。
 明かりのない廊下の奥、窓枠に足をかけている者がいた。
「あっ」
(また脱走兵か)
 その者はこちらに気づいて、急いで外に出ようとする。足をひっかけて頭から落ちそうになった。ジャックはとっさに駆け寄り、腕を掴んで支えた。
「焦らなくていい。私も城外へ向かうところだ。だがひとつ、聞きたいことが……」
 そう言いかけて、ジャックはその者の顔を見て、息をのんだ。
 相手もジャックが誰か、悟った。

 脱走兵ではなかった。
 女性の服の、裾を無理やり縛って動きやすくした格好の……、
「エーリシスの……」
 かつての政敵の妻だった。
 掴んだ彼女の手は、震えていた。恐怖によるものか、憎しみによるものか。
 二人は愕然としていたが、金属音をともなう足音に、ジャックが覚醒した。
「おい! あの女がいないぞ。見張りの兵が酔いつぶれていた。どこいった!」
 足音が近づく前に、ジャックは彼女の腕を引きよせ抱えあげた。
「いやっ!」
 彼女の抵抗などものともせず、ジャックは窓に手をかけ、外に飛び出した。
「静かに。見つかりたくないだろう」
 ジャックの言葉に、彼女は眼を見開き、唇を噛んだ。口は開かないまま、憎しみの眼をジャックに向け、爪を立てたのか、握った真っ白い拳から血を零していた。
 いまだ可憐な女性。国一番の貴族であるエーリシスを虜にしたのも頷ける。その顔が、鬼の表情に染まっていく。
 侵入路をそのまま戻り、ジャックは城外へ出た。


 リュード城下の街の主要部は、現在メザ軍が接収している。城の裏から大回りをして、街の方へ。
 街を見下ろす丘で、ジャックは抱えていたエーリシスの妻を下した。彼女はバッと、ジャックから距離をとる。
「スイルだったな。貴方達母子のことは随分探した。センユタムにいたとはね。何故この城に」
「理由を言う義理はありません……」
「そうだな。まあ、こちらももう捜索は切り上げている。すでにメザではエーリシスなどのことは昔の人間だ」
「……っ、手配書はいまだ有効のくせに。それであの子が、どんな苦労をしてきたか!」
「ああ、そうだったな。忘れていた」
 スイルは平手をジャックの頬に振った。だが、手首を掴まれ、それは当たらなかった。
「メザに戻ったら手配書は破棄してやる。だから、いくつか質問に答えろ」
 ジャックの声は冷静だった。苦しめられてきたメザの手配書を、ジャックならば簡単に破棄できる。スイルは唇を噛み、顔を背けて、
「……分かったわ」
 と答えた。

 ジャックは一番訊きたい質問をした。
「リュード城に貴方と同じ年の頃の女性はいなかったか」
「いいえ。若い子はいたけど」
「貴方には見張りがついていたようだが、城内で動けた範囲は」
「特に制限はなかったわ。見張りと一緒だったけど。脱出口を探して、ほとんどの部屋を見て回った」
 ジャックは首を傾げた。
(よく分からない待遇だ)
 捕まっていたようなのに、見張りをつける面倒をしてまで、自由にさせていたのか。
「私、亡くなったセンユタム太后―ハデリ王の母親と似ていたそうなの」
 ジャックの疑問を感じたのか、彼女は言葉を続けた。
(そういえばこの女も、ハデリ王と同じ目と髪の色だ。ハデリ王の母もこの色だったようだな)
「彼は、私を呼び出しては甘えてきた。敗走中だというのに……私の膝で、昼寝をしていたわ」
「ひどいな」
 あの退廃的な顔色をした男が、女の膝で甘える姿を想像し、ジャックは苦笑した。
「ひどい国王だ。身代わりの彼の気丈さに、似ても似つかない。センユタムが弱いわけだ」
 その言葉に、スイルはハッとした。
「そう……! ハデリ王を名乗っていた者は―、あの子はどうなったの!?」
 彼女が胸の前で組んだ指が、震えている。
「正体が分かったから釈放だ。だが、リュード城に彼の母親が捕らわれているらしく、今は軍と共にここに来ている」
「あ、危ないことは」
「危険はない。戦士ではないのだから」
 彼女はほっと、膝の力が抜けてへたりこんだ。
「知り合いか」
「……ええ。そう」
 スイルは口を閉ざし、思案した。
 十年前の敵。その妻はともかくとして、一人息子の存在は危険視されるかもしれない。『手配書を破棄する』という口約束、完全に信じるわけにはいかない。質問から察するに、ジャックはエリオンが何者か気づいていないらしい。誤魔化そうと思った。
「近くに住んでいたの。そう、あの子の母親も知っている。彼女はここに着く前に上手く逃げたわ」
「そうか、逃げたか」
 ジャックが思わぬ明るい声を上げて、スイルは驚いた。
「逃げてどこへ」
「そ、それは分からないわ。でも、危険はないはず」
「よかった。だが治安が安定していないからな。早く戦争を終わらせ、保護しないと」
 ジャックは軽い足取りで、街への坂を下りていこうとした。
「え、待っ」
 スイルが戸惑って声をかけると、ジャックは立ち止った。
「忘れるところだった」
(この男……ッ)
 おちょくられているのかと腹を立てたが、ジャックはどうも不自然に浮き足立っている。早く戻りたいというように、早口で言った。
「これからどうする。ここで解放してもいいし、センユタム首都まで送り届けても構わん」
「あの子と共にここで解放して」
「あの子とは」
「王の身代わりをしていた子よっ。母親も無事なのだから、もうここにいる理由はないでしょう」
 そういうと、ジャックは眉根を寄せた。
「あの子はまだだ」
「なっ」
(まさかエリオンの正体に気付いているんじゃ……)
「この戦いが終わったら、あの子はメザに連れて行く」
 その言葉は、嫌な予感の裏付けのようで、スイルは背筋が凍った。
「い、いや…殺さないで…」
「? ああ、そうではない」
 青くなっていくスイルに、違うというように手を振った。
「なら、何故」
 ジャックは、ふいと、眼下の街並みに向けた。
「彼は気丈で優しい。得難い子だ。私の傍で助けになってほしい」
「あの子が貴方の傍なんて、嫌がるに決まっているじゃない」
 ジャックはムッとした。確かに今は好かれてはいないが、それはハデリ王の身代わりと敵将として出会ったからだ。クーシー姿の自分はむしろ好かれている。これからお互いを知っていけば……。
「私は彼を、誰よりも大切にする。彼もそのうち私を好いてくれる」
 口にしてから、ジャックはしまったと、顔を赤くした。その様子をみて、スイルは青ざめた。ジャックのエリオンへの執着の元になるものに気づいたのだ。
(好色……)
 エリオンは親の欲目抜きにしても美形だ。だが、誰の目にも止まるというほどではない。
(どうして……、どうして、よりによって…この男に目を付けられるの)
「それでは。貴方が先に彼の母親に会ったら、メザ軍を介して連絡をとるよう伝えてくれ」
「待ちなさい!」
 スイルは、後ろを向けたジャックに食らいついた。



 リュード城下の町人達は、戦を怖れ戸を固く閉ざしている。メザ軍の出入りが激しい大通りでは、メザ軍に消極的なり積極的なりして屋根を貸す者や、一時的に町を離れる者などがいた。
 エリオンは、兵の行きかう大通りを見下ろし、丘の上のリュード城を見上げた。

 ジャックは宣言したとおり、エリオンを傍から離さないようにする。彼は富豪の家を宿舎にして、自分がいる部屋の続き間にエリオンを入れた。
 あの男に、身の安全を守られたくない。だが、一人ではどうしようもない。ジャックの部屋に続く扉に背を向けて、窓の外を眺めていた。唇を噛みながら。
「入るぞ」
 ノックとともに、廊下の方からあの男の声が聞こえた。そして、身構えたエリオンの目に映ったのは……。
「か……」
「よく無事だったわね!」
 心配したあの人が、エリオンに抱きついてきた。
「かあさ……」
 ―スイルさんと呼びなさい。
 エリオンだけに聞こえる声で、母は訳の分からないことを言った。
「知り合いのおばさんにそんなに抱きつかれちゃ、彼の迷惑だ」
 不機嫌そうな声で、ジャックが部屋に入ってきた。おばさんとはいったがスイルは今でも美人だ。ジャックは気が気でない。スイルはそれ以上に厳しい目でジャックを睨み返した。
「知りもしない男に抱きしめられるよりは、マシじゃないかしら」
 当てつけの言葉にジャックは苛立ち、二人を引き離そうと近づいた。
「!」
 スイルの体の陰に隠れていたエリオンの顔は、涙でボロボロだった。
「……う…っ」
「ほら、大丈夫。貴方のお母さんも、どこかで無事でいるからね」
「……うん…」
 母はまだ訳の分からないことを言うが、それ以上にエリオンは嬉しくて、素直に頷いた。
 ジャックは、素直なエリオンの様子を、じっと見ていた。溜息一つついて、今はこの部屋を後にする。
 静かに扉を開いたが、エリオンはぴくっと気がついた。
「あ……ありが、と……」
 ジャックはその言葉に驚いて、嬉しさに顔が綻んだ。
「よかったな」
 静かに、祝福して扉を閉めた。

「エリオン……、よく無事で」
「母さんも」
 お互い涙がこみ上げている。
「リュード城に捕らわれていたの?」
「ええ、潜入していたあの男に遭遇して。そう、あの男、私が旦那様の妻だとは知っているけど、貴方の事はまだ知られていないの。もう狙っていないとは言っていたけど、やはり不安で」
「それで息子ではないようなことを言っていたの」
 スイルは頷いた。エリオンも得心がいった。
「元気そうでよかった」
 お互い苦労は多かったが、食べ物には恵まれていたので、目に見えるやつれはない。
「じゃあ、今夜は休んで明日から王都へ向かおうか。馬車に乗れるといいけど……」
 エリオンは少し俯いて考える。自分一人なら歩いて行くけど、母を思うと、メザ軍に頭を下げて馬車賃を借りるべきだろうか。
「エ、エリオン……」
 スイルは少し震えた声で、
「あの男、貴方を解放する気はないわ」
 と言った。


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