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 切り裂いた爪 3






 夜更け。
 窓をたたく音に、エリオンは目を覚ます。
「あっ」
 先ほどのクーシー族が窓の外にいた。大きな体は申し訳程度の狭いテラスには降りられず、欄干の上に身軽に座っている。
 エリオンが窓を開けると、スッと入ってきた。奥に行くクーシー族に続いて、エリオンは窓を閉めて戻る。ベッドに腰を掛けて、四つ足のクーシー族と目線の高さを合わせた。
「宮廷から出て行かなかったの」
 質問すると、クーシー族はエリオンの腕の包帯の辺りを、優しく舐めた。
「もしかして私が心配で戻ってきた? だったら悪いことをしたね。もう何ともないよ」
 違う、と言うように、クーシー族は首を横に振ると、今度はエリオンの頬を舐めた。そして鼻をすり寄せてくる。
「……もしかして、私を好いてくれたのかな」
 そうだ、と言うように、エリオンの顔をじっと見て、顔を近づけてきた。
「ん……」
 エリオンの口に彼の口が触れ、柔らかい髭の感触がくすぐったい。長くて大きい舌が、エリオンの唇を一舐めする。
「うん。分かった。嬉しい」
 エリオンはクーシー族の顎の下を撫でながら微笑んだ。
「でも人型になれるのなら、すり寄らなくても、言葉にしてくれれば……、人型……」
 エリオンは急に真っ赤になった。
(ひ、人型だったら……今のは口付け……?)
 恐る恐る彼を見つめる。
「あの、君は女の子……?」
 クーシー族は一瞬息を飲み、大きく吐き出すように首を横に振った。否のようだ。エリオンはほっとした。
(男性か。だとしたら親愛の表現だよね)
 クーシー族に視線を戻すと、彼は何故か不満げだ。

「そうだ」
 重要なことを思い出した。
「あの、私が王ではないことは誰にも言わないでほしい」
 エリオンの必死の目を、彼はじっと見つめ返してくる。
「お願い……あっ」
 クーシー族は飛びあがり、一瞬でエリオンの背後に回った。エリオンが振り向こうとすると、さっと何かに捕まり動けない。
(この感触……)
 背後から、エリオンの目を覆い、腰に回される人の手の感触。がっしりと抱き寄せられて固定された背に感じるのは、体格のいい男の体の熱と堅さ。
「どうして君がハデリ王の振りをしていたのか、教えてくれ」
 穏やかな声を、耳にした。エリオンよりずっと大人の男性のようだ。じんとくる素敵な声で、格好良い顔を想像してしまう。顔を見たかったが、目隠しをされたまま振り返れない。
「ハデリ王はすでに首都を離れて逃亡しています。その時を稼ぐため、容姿が似て貴族のたしなみもある私が囮にされました」
「された、ということは、君は積極的に王に加担しているわけではないのだな」
「母が……」
 エリオンは唇を噛んだ。
「……母が、王の兵に連れていかれたのです」
 後ろで、一瞬息を止めたのが分かった。クーシー族の男はエリオンを抱きしめる腕に力を込めた。
(わあ……)
 温かさが心地よい。不安の中与えられる温かさは、涙の蓋を開けてしまいそうだ。
「王のこと、私が探ってみよう。大丈夫、きっと無事だ」
 エリオンの目を隠していた手は外され、今度は頭を撫でた。体を固定され、まだ振り向くことは許されない。首だけ振ってみても避けられてしまう。
「お顔、見てはいけませんか」
「……すまない。人の世界の私は、クーシー族ということを隠しているから」
(言ったりしないのに……)
 エリオンは少し気落ちする。
 暗い窓を見てみる。ガラスの鈍い反射は、エリオンの後ろにいる男がエリオンより頭一つ分大きいことしか伝えてくれない。

「もう行くよ。―その前に、君の本当の名を教えてくれないか」
「お顔を見せてくれたら教えます。貴方の名前も知りたい」
 エリオンは少しすねていた。それにもう少し、引き留めたい気持ちがある。
「それは……、困ったな」
 戸惑いを含んだ声が、息となってエリオンの耳にかかる。恥ずかしくなって腰を引いてしまった。だが後ろにはクーシー族の体があって、そこにすり寄っただけだった。
「……っ。駄目だよ。男に腰を擦りつけるようなことしたら、勘違いしそうだ」
「? どのような勘違いをするんですか」
 しばしの沈黙。
「ところで、なんで急に敬語を使うんだ」
 急に話題を変えてきた。
「年上の男性ですから……」
「クーシー本来の姿でも年上の男だが」
「でも、口をすり寄せたり、唇を舐めたり、子供っぽいスキンシップをするじゃないですか。あれは人間にするのはやめたほうがいいですよ。勘違いしてしまいます」
「子供っぽくなどない」
「ん……っ」
 また、耳元で低くて格好良い声がして、エリオンは身を震わせた。
「大人の触れ合いだ」
 不意にエリオンの体を押さえていた腕が外れた。すっと、金色の毛がエリオンの前に現れる。獣の姿に戻っていた。
 そして、エリオンの口に彼の口を触れあわせ、離れた。
 彼は強い眼差しでエリオンを射抜くと、踵を返してひらりと窓の外へ出て行った。
「え、あ、あれ?」
 エリオンの胸は高鳴って休まらなかった。



 夜明けの光が差し込む。寝台に横になってはいたが、結局眠れなかった。
(大人の触れ合い……? 口を付ける……。大人の……)
 思考がそこでぐるぐる回り続けていた。柔らかく温かい毛の感触と、格好良い声を思い出しては、身悶えする。

 そろそろメザ王からの返書が来る頃合いだ。
 それまでにここを逃げ出す算段をつけなくてはならない。母を救う者は自分しかいないのだから、むざむざ死ぬ気はない。
(なのに……)
 彼に抱きしめられる心地良さを思い出しては、何も考えられなくなる。
『王のこと、私が探ってみよう』
 あの言葉は、頼っていいのだろうか。

「入るぞ」
 その声に、エリオンはバッと反応した。ジャックが一人で、扉を開けて入ってくる。
(あ、なんだ……)
 クーシーの男の声を思い出していたせいか、同じ年頃の男の声に反応をしてしまった。
 エリオンはいつも以上に不機嫌になって、ジャックを睨みつける。
「……。ハデリ王は、二年前、刺客に襲われ胸を刺される重傷を負っていた。貴殿は覚えているか?」
 ジャックの質問。
 エリオンは戸惑ったが、顔には出さないよう努めた。
(重傷を負ったならば忘れるはずないが……、こいつ、疑っている……!)
 この質問の内容自体が嘘だった場合、真、と答えればエリオンが偽物であることがばれる。
「知らぬな。刺客など下賤の輩を、いちいち我が脳裏に置かん」
 唾棄するような強い口調。高慢な態度で真偽を掃き捨てようとした。

「記憶は消えても、傷は消えまい。調べさせてもらう」
「なっ」
「服を脱いでくれますか」
「ぬ……!」
 エリオンは慌てた。
「脱ぐわけないだろう!」
「では私の手で」
 ジャックの手がエリオンの方へ伸ばされた。腰に止めてある帯を掴まれ、
「あっ」
 見る間に取られてしまう。上下が繋がった服のため、胸を肌蹴さすには、足元からたくし上げることになる。ジャックが軽くかがんだ。エリオンは後ろに下がって逃げようとする。
「転びますよ」
「……っ」
 後ろにあったベッドの上に、エリオンは尻もちついた。
 ちょうどいい、とばかりにジャックはエリオンをベッドに押し付け、足に触れる。
「やめろ…っ……」
 さっと裾が腹までめくられる。
「失礼。引っかかっている」
 ジャックは、服の内側、エリオンの下帯のみの腰を持ち上げた。
「やめ、やめろ!」
 裾をとっさに胸の下で抑える。
 傷を調べられるのを恐れたのではない。羞恥がエリオンの手を動かした。
「見せなさい!」
「う……、く」
 胸元で裾を上げようと下げようと、二人の手が争う。

「将軍、大丈夫ですか。ご助力しますか」
 エリオンが暴れ叫ぶ声に、外の兵士が声をかけてきた。
「結構だ。このくらいの体格の者に、私がてこずるわけないだろう」
 確かに、軍人にしても背が高いジャックに、エリオンは完全に組み伏せられている。兵士はすぐに了解して、扉を開けはしなかった。



「……ないな」
 エリオンの服は脇下までたくし上げられ、エリオンの胸板はジャックの前に晒されていた。
 それどころか、下半身には下帯しかなく、暴れたため少し緩くなっている。
「ハデリ王の胸の、ここの辺りには、刺し傷があると王付きの医者が言っていた」
 右胸の中心辺りを、ジャックの無骨な手が触れた。
(知られた)
 傷の話は本当のことだったようだ。
(どうすれば……。王等から何の連絡もない。都を出た時点で囮の役目は終わっていた? それなら母上は……)
「君」
 ジャックはエリオンの服の裾を下げた。腰帯を拾って手渡す。ジャックの顔が、少し赤い。
「君は王に囮にされただけなんだろう。悪いようにはしない」
 ジャックの手が、エリオンの頬を撫でた。
「私を信じてくれ」


 パシッと、エリオンがその手を払う。
「誰がお前など……」

「注進!」
 勢いよく扉が開く。そこから二人の兵が飛び込んできた。
「陛下からの返書が届きました!」
「南方のリュード城に、軍団が籠っている様子! 貴人を守っているそうだが、それがハデリ王との情報。ど、どっちが本物でしょう!」
 二人同時に報告する。
 かなりがっちりと鎧で身を固めているため、上のクラスの軍人だと分かるが、慌てて浮ついていた。
―ちょうどのタイミングだったな」
「将軍? う、わわわ! すいません。とんでもないタイミングでお邪魔したようで!」
「は?」
 上官がベッドに誰か押し倒している。相手は整った顔立ちで、服は帯が取れ、乱れていた。
 二人は大慌てでバタン! と、部屋を出ていった。


 センユタム王宮、正門ホール。メザ兵達がきびきびと動き、中央には総大将であるジャックがいた。
「馬鹿者が……。私が昼間からセンユタムの者を手込めにしているとでも思ったのか」
「申し訳ありませんっ!」
 ジャックに睨みつけられ、二人は頭を下げた。焦げ茶色の髪がイオニス、明るい赤茶の髪がミシオだ。

「リュード城の軍を攻略する。イオニス、先発してハデリ王と思わしき者を逃がさぬよう包囲しろ」
「はっ」
「この都はミシオに任せる。食料の問題は落ち着きはじめている。住居、孤児、仕事と、順次手をつけていけ」
「承知しました」
「それと」
 ジャックはイオニスを近くに寄らせ、耳打ちした。
「ハデリ王と逃亡している兵等が、四十歳前後の女性を連れていたら保護する。そのように言い含め、間者を潜り込ませろ」
「一体誰ですか……」
「ハデリ王がとった人質だよ。―同じ手口を使っているかもしれない。戦いが始まる前に、敵軍中にいる非戦闘員を把握しておけ」
「はっ」

「ハデリ王を名乗っていた青年はどうなさいますか。今までの彼の態度に、将兵が腹を立てておりますが」


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