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 切り裂いた爪 5






 エリオンは明かりのない暗い部屋で、何かに怯えるように、じっとしていた。
 あの後、ジャックと数人の兵がきて、スイルは別の部屋で休むよう連れて行かれた。
「もう、私たちはここにいる理由などないだろう」
 エリオンが若干焦りながら言うと、
「スイルは好きに出ていけばいい。王都まで足が欲しいなら、城を落とす数日待て。その後ならばメザ軍が送ろう」
「私も彼女と共に王都に……」
「……君にはまだ訊きたいことがある。解放はまだだ」
 いまさら何を訊くというのか。ジャックの答えは、スイルの予測を裏付けるかのようなものだった。
『あの男……、貴方を……』
 エリオンは身震いした。
(やだ……嫌だ……っ)
 ベッドに顔をうずめ、震える体を抱きしめた。
 ジャックのエリオンを見る目は、始めとは随分変わった。ハデリ王への嫌悪が解けただけではなく、好意的なものが含まれているのは気づいていた。だがそこに、不穏な熱が込められていることは、決して気付きたくなかった。
(怖い……!)
 父を死に追いやった男。母の苦労の元凶。
 ささやかな今の幸福のために復讐は諦めたが、恨みは消えることはない。だが、彼に力ずくでこられたら敵うことがないのが分かっている。何度か抑え込まれたことがあるのだから。
(……助けて…)

 コツンと、外から音がした。
「あ」
 沈んでいたエリオンの瞳に、パッと光がさす。窓に駆け寄り全開にした。
 二階であるにも関わらず、軽々とエリオンのもとまで飛びかかってくる金色の影。
「ここまでついてきてくれたの!」
 クーシー族の彼だ。彼の勢いで床に押し倒されながら、嬉しくて彼の首にしがみつく。
「遠くて疲れなかった?」
 彼は首を横に振る。目を合わせると、彼の口がエリオンの唇に軽く触れた。
(! そうだった)
 大人の彼は、こういうことをしてくる。かあっと頬が熱くなった。その頬を彼に舐められた。
「うぅ……」
 そんなことされるとはずかしい。体がぽーっと火照ってしまう。戸惑った目で彼を見ると、彼がじっとこちらを見つめている。異種族とはいえ、これだけ近くで見つめ合うと、慈しんでくれているような表情が伝わってくる。
(優しい顔……。でも)
 彼の視線にも、それだけではすまない熱がある。そう気づくと、体がゾクゾクした。ジャックの時に感じた恐怖ではない。いや、怖いけど、もっと感じていたい感覚。
 上に乗る彼の熱い体温。体重をかけないようにしてくれている。柔らかい毛の下のがっしりした筋肉が、呼吸する度、エリオンの肌を圧す。心地よさにうっとりとして何も考えられない。
(せめてはじめては)
「貴方に抱かれたい……」
 クーシーが息を飲んだ。はっと、エリオンも自分が口走ったことに気づき、真っ赤になって彼の下から這い出た。走って部屋の奥に行こうとして、ベッドの前で追いつかれ、ゆっくりとベッドに押さえつけられた。
「あ、あの」
 熱に浮かれて混乱するエリオンを、彼はくるりとベッドにうつ伏せにした。
 エリオンを抑えていたクーシーの手が、異質なものに変わった。
「……抱いてもいいのか?」
 人型になった彼が言葉を発した。温かさに溶けそうだった体が、ビクッと強張る。
「! すまない。怖がらせる気は」
 エリオンは違うと首を振る。
(ジャックのせいだ……!)
 男性の声が怖くなってしまった。
 エリオンを掴んでいる手が離れ、彼の重さと温もりが離れていくのを感じた。
「……っ」
 泣きたいような悲しさを感じた。
「いやだっ、お願い」
「どうした」
 泣き声で叫んだエリオンに、クーシーは戸惑った。嫌そうだから離したのに、離したとたん嫌がる。
「……抱きしめていて」
 ベッドに顔を押し付けて、か細い声で言った。クーシーはふっと笑った。優しくエリオンの髪を撫でる。
「抱いてほしいって、そういう意味か」
「ち、違う。その、それは…、まだ、まだ早いよね……」
「いつかしたいとは思っているんだな」
 エリオンは耳まで真っ赤にした。後ろから見ているクーシーにも分かる。クーシーが嬉しそうに笑った顔は、エリオンには見えなかった。
「早いとは思わないが。確かに、まだ焦る時期ではないと思っているよ」
 頭を撫でる手が、とても優しい。ほのかに温かい感触が、後頭部に当たる。多分、彼の唇だ。エリオンの胸はまたドキドキしてきた。期待と、だけどまだ恐怖がある。
(素敵な声なのに……)
 自分の耳が嫌いだ。何故、好きな人の声とジャックの声を、男性の声としか聞き分けられないのだろう。ポタッと涙がシーツに落ちた。
「泣くな。ゆっくりでいいんだ。いくらでも待つから」
 こんな優しい言葉、きっとあの男は言わないのに。
(そうだ……。きっとジャックは待たない)
 今日は無かったけど、きっと戦が終わったら、あの男に蹂躙される。
「君がしたいと思うまで、傍にいるだけでいい」
 戦が終わったら、メザに連れていかれる。

 今は、彼の傍にいられる最後の時間なのかもしれない。

「……クーシーの姿がいい」
「え。なんだい」
 穏やかな声で訊きかえしてくる彼に、胸がギュッとなる。
「クーシーの姿で抱いてほしい」
 それなら声を聞かないで済むから、怖くない。
(体格が違うから、体は少し、辛いかもしれないけど)
 だが、心は受け入れられる。
 彼は呆気にとられていた。
「クーシーで……だと」
「クーシーが本来の姿だと言っていたでしょう」
 とたんに、エリオンの体がベッドから浮いた。ぐいっと彼の腕の中に引き寄せられる。
「いいのか。人にとっては、……獣だろう」
 彼の胸に、ギュッと抱き込まれた。彼の声が少し、震えている。その声に、とくんと胸が熱くなった。
「人型でしかしないつもりだったの?」
「ああ」
「私のために?」
 答えは沈黙だった。多分、正しいのだろう。涙がまたポロッと、今度は彼の腕に落ちた。
「貴方は…私をとても思ってくれる。そういうところ……大好き」
 彼の手を取って、指に口づけした。
「好き。貴方の金色の毛並みに見惚れて、声に…ドキドキしていたの」
「……好きだ」
 そう返す言葉が聞こえた瞬間、握っていた彼の手が、毛に被われ爪が固くなる。
 ベッドに仰向けに転がされ、かぶさってきた金色の獣に、瞳を奪われながら唇を奪われた。


 最中はひどく幸せだった。

 彼の体は大きくて、エリオンの体を際限なく埋め尽くしてしまう。そのせいで悲鳴を上げても、それは、幸福に浸かりきった声。
 平らで小さな胸は、彼に触れられただけで、いっぱいになってしまう。
 満ちて震える液体が、エリオンから零れおちそうになった時、彼の熱くて温かい液体が、エリオンに注がれた。



 暗闇の窓から、一点の陽の光が現れ、少しずつ広がっていく。
 クーシーの体に背を預けて、どこか遠くを見ていたエリオンは、パッと目を輝かし、うとうとする彼に声をかけた。
「きれいだね」
 と嬉しそうに言う。だが、窓には近づかない。朝は寒いからクーシーの温かい体から離れたくなかった。

 彼の体温が心地よくて、うとうとしてくる。一晩中彼に揺さぶられて、限界なのだ。寝言半分に、エリオンは口を開いた。
「私の名前、呼んで」
 クーシーの耳がピクッと動いた。頬にすり寄り聞き逃すまいとする。
「…リ…ンだよ」
 眠さゆえに舌が回らない。ちゃんと喋れと、口の中を彼の舌で乱暴された。
「ん……あふっ……あん……エリオンだ」
 そう言った途端、クーシーの動きが止まった。
「ね、呼んでみて」
 そう言いながら、少しずつ意識が遠のいていく。背後で支える肉体を覆う深い毛がなくなり、人型をとったことを薄っすら感じた。
「エリオン」
 彼の声だ。あの声が耳元で呼んでくれている。エリオンは頬をほころばせた。
「エリオン……」
 深く低い声に引き寄せられるように、眠りに誘われていった。
「……エリオン……」
 大好きな声が呼ぶ。
「愛している……」
 幸せな睦言。
「すまない」
 エリオンはすでに夢の中だった。



 臨時の執務室に戻り、ジャックは書類を漁った。十歳ぐらいの少年の人相書きが載った一枚を手に取る。
「は、はは」
 右の肩甲骨の下にほくろ。
 文字で示されていた特徴は、昨夜ジャックが見つけて、何度も吸いついた場所だ。あまりに美味しい肌に、つい牙を立てて痕をつけてしまった。たしか乳母にでも訊いたのだった。手配書の特徴はとても詳しく書かれている。
 昨夜初めて知ったと思ったのに、十年も昔に知っていたのか。
「エーリシスの子か……。……許されるはずがない」
 拳を握り締めて、うなだれるしかなかった。
 ジャックとエーリシスの争いは、潰し合いだった。どちらが悪いという事もない。だがエーリシスが彼の父で、それをジャックが殺したというのは紛れもない事実だ。
(これが人の私を憎悪していた理由か)
 あの日、馬車を撃った時はエーリシス派上部の者の車だとはわかったが、女子供の家族とは知らなかった。
(思えばあの子は、子供の頃から私が嫌っていた)
 無垢な目を必死にいからせて、ジャックを睨みつけていた。
「エリオン……。それでも……」

「将軍! 全軍整いました!」
 扉の外からイオニスの声がかかる。
「分かった」
 マントを身に着け、兜を被りジャックは扉を開き外へ出た。

 リュード城を囲むメザ軍全軍、すぐにでも戦闘指示に従える状態だった。
 城の諜報活動は既に済んでいる。堅城だが守備軍がザルだ。裏からも同時に城内を狙えばすぐに入り込める。日が中天にいく前に正門は開くだろう。
「ハデリ王の生死は問わない。此度は決して逃がすな」
 厳粛な軍に、ジャックの声が高らかと響き渡る。
「行け!」

 予想通り、その戦いは長引かずにメザの勝利となる。ハデリ王は捕縛された。


 遠くから戦笛の音が鳴る。センユタム首都落城の時も聞こえたものだ。多分メザの勝利の音なんだろう。
 エリオンは母と二人の部屋で、その音を聞いていた。
「……良かった。母さんが生きていてくれて」
「……エリオン」
 母は心配げにエリオンの顔をみつめる。
「大丈夫だよ。殺されるわけじゃないんだから。ジャックが飽きるまでだよ。母さんが……お婆ちゃんになる前には……帰ってきて、ちゃんと」
 声が弱弱しくなってしまう。力をもらうために、決心するために、彼に愛してもらったのに。
「逃げましょう。エリオン」
 母は力強く言った。
「だって、私さえ行けば……」
「エリオンが行けば、私はセンユタムで一人ぼっちよ。いくらメザに怯えることがなくなるとしても、そんなの嬉しくないわ。さあ」
 スイルはボンと、目の前に荷作りした鞄を置いた。
「センユタムまでの食料とその他」
 準備万端ぶりにエリオンは驚く。元からスイルにエリオンを行かせる気はなかったようだ。
「旦那様と私の大事な子ですもの。さあ、行きましょう」
「……はいっ」

 城への総攻撃のため、宿舎には最低限の人数しかいない。メザ兵の目を盗み、裏口を開いて出ようとした瞬間、
「あっ」
 エリオンの手が掴まれた。相手を見れば、ジャックだった。ジャックはエリオンの持っている鞄をちらっと見た。その意図に気づいたようだ。
「逃げる必要はない」
「離せっ……」
「君をメザには連れていかないことにした」
 エリオンは息をのんだ。
「何故、急に……」
「男を思うなど、一時の気の迷いだったんだ。戦で気が高ぶっている間のな」
 ジャックはそう言い、エリオンの手を離した。
「戦は終わった。だが敗残兵がうろついているこの辺りを、母一人子一人で首都までいけるとは思わないことだ。大人しくメザ軍が動くまで待て」
(気の迷い……)
 ジャックの冷めた声に、ずきんとエリオンの胸が痛んだ。ジャックはそのまま去っていく。
「何よ……。散々エリオンを脅しておいて……」
 スイルはへたりこんだ。口ではジャックを非難しながら、安堵の色が濃かった。
 エリオンは棒立ちになっていた。耳に、ジャックの声が反響する。
「……大丈夫?」
 母の心配する表情に、ぎこちなくも頷き返した。
「センユタムまでは、どうする?」
「メザ軍についていこう。もしかしたら馬車に乗せてくれるかもしれないし。盗賊に襲われる心配がないだけでも随分楽だから」
 スイルはこくんと頷いた。

「元通り、暮らせるのね」
 二人の顔にほんの少し笑顔が灯った。
「エリオンには、怖い思いをさせたけど」
「もう大丈夫。それにね、それほど怖くなかったんだよ。力になってくれた人がいるんだ。あ、人……ではないけど」
 言葉を濁したエリオンに、母は微笑んだ。
「そう。会いたいな」
「うん。来たら紹介するね。すごく格好良くて、優しいんだ」
 今夜にでも、きっと会いにきてくれる。
(……。……きてくれるのは嬉しいけど、どうしよう)
 昨日のことを思い出して、エリオンは真っ赤になった。もう会えないと思ったからあんなことしたのに。
(次もまた、するのかな)
 上から覆いかぶさった彼に、腰を押さえつけられて、ぐっと……。
(早すぎた……かも)
 エリオンは幸せな悩みに悶々とした。



 軍中。
 ハデリ王と残存軍を片づけたメザ軍は、晴れやかだった。
「私はまっすぐメザに戻る」
 ジャックは副官イオニスにそう告げた。
 先ほど、センユタム首都に統治官が入ったと連絡がきた。将軍のジャックの仕事はここまでだ。
「ミシオは統治官と協力して、このままセンユタムに駐留させる。イオニス、お前は一度センユタム首都で彼と合流し、駐留軍と帰還組を編成し直してからメザに戻れ」
「かしこまりました」
「それと、これは個人的な依頼なのだが」
 ジャックは言いにくそうに、
「エーリシスの母子を、無事センユタムの都に届けてやってくれ」
 と頼んだ。
 あの二人はハデリ王の被害にあったただの民だ。イオニスはすぐに承知した。
「ありがとう」


 風吹く平原。
 浅く萌える野の草を踏みしめて、軍団が一つ、砦からまっすぐ西へ。メザに向かう。
 もう一つの軍団は、北へ。センユタムの都へ。

(エリオン)
 ジャックが跨る馬首は西へ向いている。だがジャック自身は、北へ向かう彼へ、心を奪われざるをえない。

 だが、もう二度と会いに行く気はない。
(叶うことない願いだが……)
 ジャックは耐えがたい思いを振り切るように、視線をまっすぐに戻した。
―君と、愛し合いたかった)
 少しの間、目を瞑った。

〈終〉


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