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 切り裂いた爪 二章 5






 父エーリシスの死の話を、エリオンは静かに聞いていた。オレニオがあまりに辛そうで、時折声を掛けそうになったが、黙って頷くだけにした。

 ジャックの用意した舞台で、煙幕の中、エーリシスとその腹心は殺されたらしい。
(キブルさん……)
 彼のことは覚えている。よく庭で、部下を熱心に指導していた。子供のエリオンには大きすぎて怖かったが、いつも誰かに囲まれていた。
 オレニオの様子を見る。
(目が赤い)
 彼の、とても大切な人だったのだろう。

 館にいた頃を思い出す。優しい両親と使用人。友達ものんびりした子が多く、春の陽のように暖かな世界――。
(それが無くなって)
 冷たい世界へ――。
(あ……)
 けれどエリオンには母がいた。ジャックのことは心から憎んでいるが、決してエリオンにも憎めということはない。危険だから避けろというだけだ。
 家や血筋のことは言わず、これからのことばかり教えてくれた。
(そうか)
 オレニオは恨みに生きてきたのだろう。今も生々しく目を濡らし、力を込めた拳は血管が浮かんでいる。これからのことを共に考える相手がいなかった。大切な人が奪われて……。
(私は……)
 温かな、あの毛並みを思い出した。

 キッとオレニオを見る。
 エーリシスを敬愛するこの人を理解してあげたい。だが今一番考えないといけないことは、この人が今手をつないでいるのは、キシトラーム王国ということだ。
(奪わせない)
 ジャックはエーリシスの命を奪った。間違いなく敵だった。
 だとしても、
(あの人が幸せに生きられる可能性を、奪わせはしない)
 エリオンはあの獣人の味方なのだ。そこに誰が紐づいていたとしても。
「あなたたちやキシトラームは、どのような用意をしているのですか」
 オレニオははっとエリオンを見つめた。濡れた瞳が輝いている。
「はい! 我々の人数は五十人ほどですが、キシトラームの資金はふんだんにあります。現在具体的に働いている貴家は二つですが、あなたの意志と資金があれば八つの貴家が動きます」
 エリオンはその家の名や、他に協力している官人がいないか、熱心に頷きながら聞く。





 ジャックの執務室で、エリオンを見張らせていた兵が跪く。
 先に助けを求めにきたスイルは、城内にいた親戚のベシルに引き取らせた。
「馬車に追いついて彼を奪還することは叶わず……、おそらくキシトラーム大使館に入りました」
 服に血が広がっている。怪我の手当てをするように言って下がらせた。
「どうして、エリオンが……」
 ジャックの弱点であるとは、目の前にいる腹心たちでさえ知らないはずだ。
「もしかしたら……」
 ミシオが呟いた。
「なんだ」
「少々お待ちいただけますか」

 ミシオはいったん退室し、しばらくして一枚の紙を持ってきた。
「王室の系図です。ここに先王。この印は追放処分をした者達です」
 こうしてみると相当な数の王族を追放したものだ。国内に残る王族は、血がよほど遠いか、ジャックに協力的な者だけだ。
「それがどうした」
 そう言った後、ジャックははっと気付いた。
 エーリシス……メザで最も権威のあった貴族。エリオンがその嫡男であるということは……。
「注目すべきはこの姫君。彼女は四十年ほど前に降嫁して……」
 ミシオは筆でその女性の下に系図を付け足す。
 一つ下にエーリシス、その下にエリオンを。
「……近いな」
「はい。臣籍とはいえ今国内にいる者では、もっとも王家の直系に近いことになります」
(入国の許可を出すのではなかった)
 この不安定な政局に、彼を巻き込んでしまったのか。
「エリオン殿が大将軍の厭っていることは自明です。反対派に与しやすいと思われたのでしょう」
 父を殺されているのだ。エリオンがジャックの反対派に回ることは疑うべくもないだろう。
「探すぞ。ただしまだ表立ったことはできない。キシトラーム大使館を相手にするには、メザ貴族のエリオンが誘拐にあったという確証が必要だ」





 街の片隅、男たちが声を潜めて話している。緊張した面持ちで、無意識のうちに武器の柄に手が伸びている。
「何か儲け話か」
 声を掛けられ、男たちははっと警戒した。そこには精悍な姿の黒髪の男がいた。いかにも腕が立ちそうだ。
「剣の腕が必要ならどうだ。俺も混ぜてくれよ」
 男たちは迷った様子だ。黒髪の男は軽くため息をつく。
「数日はあの飯屋に入りびたってるよ」
 ぞんざいに手を振って、小洒落た店構えの料理屋に入っていった。

 黒髪の男は、店員に会釈をし、一人で個室に向かった。入口の見張りが敬礼するのを、抑えるよう手で合図する。
 個室の中では一人の初老の男が食後のお茶を飲んでいた。トネロワスン帝国宰相オルフィネだ。
「異国人の物見遊山のふりをしてあちこち回っていましたが、どうも……、数時間前から妙にピリピリした者たちを見掛けます」
「数時間で……」
「急な反応です。早ければ今日のうちに、何か起こる気がして……。オルフィネ様はもう少し安全な場所にいてほしいのですが、今から移動するなら慎重になった方がいい」
「逃げたくはありません。西への足掛かりとして、この国は重要です。キシトラームと手を切りたがっているジャック宰相の後押しをしたい」
 男は苦笑した。ジャックにとってはトネロワスンの介入も歓迎しないものだろう。
 オルフィネは苦笑を別の意味にとったのか、
「……もちろん戦になればあなたの判断に従いますが」
 と男の顔色をうかがった。今度は影のない笑顔で、
「そうなれば、オルフィネ様の護衛を最優先しますよ」
 と答えた。





 オレニオが席を外した隙に、エリオンは部屋の窓を開けてみる。壁の豪華な装飾を足掛かりにして降りられそうだ。
「よし……」
 水路の美しい庭は見晴らしがよく、建物から誰かに見られそうだが、ちょうど西日が差していて、どの窓も帳が下ろされている。
 エリオンは靴を手に持ち、音を立てないように駆けぬけた。
 ただ、塀は乗り越えられそうにない。通用口も錠が掛けられている。
「……しかたない」
 正門に回り、顔を布で隠し、目だけ出すようにした。オレニオから聞きだした貴族の名を出し、使いの振りをすると、門番は少し不審そうだったが通してくれた。顔を見せられない客が多いのだろう。


 坂道を駆けおりる。宮殿に行くには一度丘を下り、街を貫く河を渡り、また丘を登らないといけない。急な丘を下る道は蛇行していて、もどかしく長い。
 日没が迫っている。エリオンはジャックの館がどこにあるか知らない。
(ジャックが宮殿にいるうちに……)
 坂が終わり、店が立ち並ぶ街中に入る。
(走りにくい)
 混雑した道。そして橋――、巨大な橋だが、溢れる人々によって狭くなっている。これを渡らないとたどり着けない。
「エリオン様!」
 オレニオだ。追いつかれた。
 エリオンは人にぶつかりながら、何とか渡りきったが、オレニオは細い欄干を地面を行くように走り抜け、
「……!」
 宮殿への丘を登ろうとしていたエリオンの腕を掴んだ。オレニオの形相が恐ろしい。
「あなたは……、どうして!」
 川岸にボートが寄せられている。オレニオと一緒にいた男たちが上がってくる。
 エリオンは観念して、懇願した。
「……お願いです。この国は、安定しようとしている。……このまま、国を出てはくれませんか」
 オレニオは苦しそうに表情を歪める。
「あなたが都に来ると知って、ジャックを打倒するのは今だと……」
 エリオンは首を横に振る。
「私たちの間に確執がなくなったから、この国に来ることができたんです」
 掴まれた腕が、鋭く痛んだ。暗い……けれど強い目で、オレニオはエリオンを見おろしている。
 オレニオが剣を抜き、群衆がざわめく。
「皆聞け!」
 高く剣を掲げ、オレニオは叫んだ。
「この方は亡きエーリシス様の血を引く、エリオン様だ」
「え……」
「ジャックの独裁を許さず、今、王として立つ!」
 おおっ! と声が上がる。群衆に紛れているが、オレニオの仲間だ。
 それに押され、周りがどよめく。いつのまにか、鎧姿の者たちが増えている。





「何だ……」
 エリオンの捜索をしていたジャックは、どこかに移動する武装の集団を見掛けた。馬を慎重に操り、その後を追うと、川岸の広場に出た。
 他の集団と合流している。数が多い。
「まさか」
 メザを掌握するジャックの、許可を得ない武装の集団。それがこれだけの数、表立って出てくるということは――。
「エリオン……っ」
 中心にはエリオンがいた。一瞬胸が痛んだが、
(違う。エリオンの意志ではない)
 エリオンが後ろの二人の男に抑えられていることに気がついた。
(だとすれば、本当の核は)
 さらに目をこらす。少し離れた場所にいる男が、皆に指示を送っているようだ。
(一旦、正規軍を統制しに戻ろう。エリオンは奴らにとって玉だ。危害は加えない)
 統率なしに軍が街中で交戦する方がまずい。
 ジャックは馬首を返そうとした。

 その時、集団から叫び声が上がった。
 見ると、大柄な男……いや、巨大な異形種がエリオンに向かって突進している。
「貴族の血がなんだ! ジャック様の邪魔をするな!」
 エリオンの周りを取り囲む者たちが次々に吹き飛ばされる。
「鬼人族だ!」
「他にも獣人がいる!」





 エリオンは呆然としていた。
 大人の倍の巨体がこちらに向かってくる。
「エリオン様!」
 オレニオは獣人に囲まれている。容赦なく斬っているが、数が多い。広場から雪崩をうって民衆が逃げ出し、そして次々に武装者が乱入してくるのだ。

「エリオン!」
 ――!
 ひと際、大きく、声が聞こえた。
 丘の方へ振り返る。
「――……え」
 ジャックが必死に馬を走らせている。急坂にへばりつく店の屋根に飛びうつり、少しでも早くこちらに向かっている。
 エリオンを抑えつけていた男たちは逃げてしまっている。
 エリオンはジャックに向かって走りだそうとした。
「ィ……ッ!」
 鬼人族が片腕でエリオンの腰回りを掴み、宙に持ち上げた。
「あっあ……」
「お前さえ……いなければ……」
 鬼人族でもやはり傷を負っていた。突き刺さった剣……。力を込める腕から、ドクッと血しぶきが……。エリオンを睨みつける目と、内臓を押し潰される痛み……。
「やめろ――!」
 血走った目の鬼人族には、ジャックの叫びも届かない。
 ジャックはようやく坂を下り広場に入った。人々を轢き殺しそうな勢いで馬を走らせる。
「助け……」
 そう言おうとしたエリオンの喉首を、鬼人族の手が掴んだ。
(息が……それ、より……)
 首をへし折られる――。
 苦しくて、涙の溢れる目でジャックを見る。
 彼は、遠い。
(間に合わな……)

 その瞬間、ジャックの姿が金色に輝いた。
 隼のように飛んでくる。
「……!」
 衝撃に押され、視界が回る。
 地面に倒れ、鬼人族の手が緩んだところを、
「あっ……」
 ぐっと襟首を引かれ、持ち上げられる。
「金の、狼……」
 周りが囁き合い、ざわめいている。
 エリオンは、襟を咥えられていて振り向けない。
 視界の端に、金色のしっぽが見え、ぞわっと体が震えた。
(また、会え……)
 背に感じる荒い呼吸。
(助けて……くれた……)


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