小説目次へ



 切り裂いた爪 二章 4






 デニエの愚かな計略はすぐに露見し、養子に家督を譲っての隠居を命じられた。
 ジャックに対しては多少嫌な噂がたったが、すぐにそれを忘れてしまうような大抜擢がなされる。


 ―数日前。
 エーリシスはいつもの通り、城内の執務室にいた。
 薄暗くなり、仕事も片づいたため秘書たちを下がらせる。だが彼らが帰る前にランプの用意をさせ、自身は執務室に残った。机の引き出しを開け、中から取り出した数枚の書簡をめくる。
「これだけか……」
 養子に来る前のジャックの経歴を調べさせたものだ。時間が少なかったとはいえ、宰相だからこそ使える密偵に調査させてこれでは、デニエが何も掴んでいないのも無理はない。


 そこには傭兵として各国を転々としてきたことが書かれていた。まだ二十そこそこの若者とは思えなかった。周辺国を網羅した戦歴はベテランでも滅多にない。各国を渡り歩く足取りは辿り難く、時をさかのぼるほどに情報は曖昧になっている。出生地はおろか、兵士になれる年齢以前の様子が全く掴めなかった。
 キシトラームでは傭兵から正規兵に取り立てられ、出世コースに入っていたようだ。
 そしてその一年後にメザに移ってきた。


 思ったよりも、キシトラームで伸ばした根は浅いように見える。
(これならば)
 机上のベルを鳴らすと、助役が入ってくる。
「ジャック殿はまだいるか。いたら夕食に誘いたい」
 窓辺に見下ろす城下は、暗闇に多くの灯りを浮かび上がらせている。


 ジャックの返事はすぐきた。エーリシスは騎乗して城を出る。
 煌びやかな街から少し奥まったところに、広い敷地を持つ料亭があった。

「物心がついた時には軍団基地の小間使いをしていました。軍団の移動に何度か随行したため、出身地は覚えておりません」
 エーリシスの探りに、ジャックは淡々と答えた。
(そうか。恐らくは基地の傍で生まれた孤児だろうか)
 殉死をした兵の子か、基地を取り巻く民家の子か。エーリシスは納得した。
「キシトラームで戦功を立て、国王が何でもお授けくださると。そこで貴族の称号を望んだところ……」
ジャックは皮肉気に笑った。
「メザの貴族の家を用意されました」
 どの国にもいえることだが、特にキシトラーム王国は家柄にうるさい。傭兵上がりのどこの誰ともつかぬ者に貴家をやるわけにはいかないが、何でもやると口にした手前、頭を悩ませ、メザに押しつけたのか。

 頃合いを見て、エーリシスは給仕を呼んだ。料理の皿が下げられ、給仕は二人の前に茶を用意して下がった。
「頼みがある、ジャック」
 改まった声に、ジャックはカップに落としていた視線を上げた。
「左将軍の任を受けてはくれないか」
「左将軍、ですか……」
 大軍を動かすことのできる地位だ。
「君にそれだけの能力があることは承知していたが、今日話して決心がついた。君に任せたいんだ」
「……喜んで」
 ジャックは恭しく礼をとった。


 しばらくして、料亭の前に馬車が用意された。だが、
「だーかーらー、乗れるといっているだろう」
 ジャックは呆れ顔で首を振った。
 どう見ても酔っているエーリシスは、自分で馬に乗ると言ってきかない。仕方なく乗るに任せたが、やはり今にも落ちそうな動きをしている。エーリシスの家臣が手綱を持って先を行くが、幾分も増しにならない。
「代わろう」
 そう言ってジャックが手綱を持つと、不思議と馬は静まった。
「送っていきますよ」
 家臣は礼を言うと、道案内に先に立った。
 街燈の揺れる街に、小気味良い蹄の音が響く。ジャックの馬もいるが、よく躾けられていて、エーリシスの家臣に任せても、まっすぐジャックの歩く後ろをついてくる。

「んー。ジャック……?」
「もうすぐ着きますよ」
「お前、女と一切、事がないらしいな。それに男色もしないというし」
 エーリシスはついぽろっと調査書の内容を喋ってしまう。だがジャックも調べられて当然だと思っているのか、たいして気にしていなかった。
「結婚してみろ。子供はいいぞー。天使をこの手に抱っこできるんだ。エリオンはさらに格別な愛らしさだがな」
「…………」
 ジャックが憂鬱気に視線を下げたのを、エーリシスは気づかない。

「着きました。こちらの屋敷です。あ、坊ちゃん」
 玄関の階段に座って、エリオンが頬を膨らましていた。
「エリオン様、冷えてしまいます……」
 メイドが懸命に中に入るようになだめていた。
 愛息子の顔を見つけると、エーリシスは軽やかに馬から下りて、彼を抱きあげた。
「ただいまー」
「……、ふんっ」
 ぷいっと顔を背けたその頬に、エーリシスは口付ける。それでもエリオンは返事をくれなくて、エーリシスは悲しげに眉を下げた。
「どうした」
 様子を窺って、エリオンが握りしめている紙に目をつけた。
「エリオン、私を描いてくれたのか? 上手だ」
 拙いが人らしきものが描かれている。
「酔ってる人の言うことなんか聞かないもん!」
 エーリシスに見せたくて待っていたくせに、時間が立ち過ぎてへそを曲げてしまったようだ。
 だが酔っているエーリシスは気を回せず、ひたすらエリオンの笑顔が見たくてまとわりついた。酔っ払いに絡まれるエリオンがいたいけで、
「明日、酒が抜けてからにしてあげてください」
 とジャックはエーリシスを引き離し、家人に預けた。
 そして、エリオンの前にしゃがむ。
「ごめん。今日は私がお父上をお借りしていたんだ」
 優しく笑いかけると、不機嫌だった目がぱちりと開いた。
「ジャックさん?」
「ああ、私の事を知っているのかい」
「うんっ。ジャックさんとだったら、きっと大切なお仕事だったんですね。悪い女性と遊んでたんじゃないんですね」
「あ、ああ」
 その言葉に、主人が帰ったというのに先程から奥方が姿を見せないのに気づき、薄ら寒く思えた。
 エリオンは無邪気な笑顔を振りまく。すっかり機嫌は直ったみたいだ。
「それじゃあ、もう遅いから戻りなさい」
 ジャックが促してくれたおかげで、家人達はほっとして、エーリシスを抱えつつ中へ入っていった。
「おやすみなさいー」
「おやすみ」
 エリオンが小さな手を振るのに答えてから、ジャックは振り返って自分の馬の手綱を取った。



 青いマントを翻して歩む青年将校の姿は、メザの人々の心を浮き立たせた。王国の最たる実力者であるエーリシスの後押しで大軍を任され、各地で戦勝をあげた。
 次代を担う若者が見いだされ、国の未来は明るいかに見えた……。

「近頃は珍しい品を随分と目にするようになったな」
 エーリシスは屋敷に商人を招いていた。幼い息子はすぐに背が伸びるので、服を新調するのだ。布地や型の種類が数年前と比べて増えている。
「キシトラームの品が多く入ってくるようになりました。国内での生産も手掛け始めているようですよ」
 商人はエーリシスの前に生地を広げる。
 ジャックは財政に関する才能もあるようだ。キシトラームにいた頃の伝手を活かし、いくつもの貿易商を盛り立てた。自身の領地が少ないため、重商主義にならざるをえなかったのかもしれないが。
(彼に与える領地を考えようか)
 だがそれには―。



 屋敷の広場ではエーリシスの私軍兵が訓練をしていた。屈強な男の剣に押され、新兵らしき男が吹っ飛んだ。
「オレニオ、まだだ」
「はいッ、キブル様」
 オレニオと呼ばれた新兵はすぐに起き上がり、重心を低くしてまた向かっていく。先程より重くなった剣を、キブルは容易く受け止める。そして鋭い一撃を叩き落とす。
「……!」
 オレニオは今度は吹き飛ばされず受け止めた。
「よし」
 お互いに剣を収める。
「ご指導ありがとうございます」
「ああ」
 キブルがオレニオの肩を叩く。
「よくやっている」
 それだけ言って、屋敷に戻っていく。オレニオは嬉しそうに拳を握った。

 屋敷の窓から見下ろす視線に気づいた。今の打ち合いを見ていたようだ。美々しい青いマントの男。
「ジャック将軍だ」
 キブルが教えてくれ、窓の方に礼を取る。向こうも礼を返した。
(目を引く容姿だ)
 彼がエーリシスの期待を背負っている。そう考えると、オレニオは少し不機嫌になった。
(同じ軍人なら)
 キブルを見上げる。
(逞しい……)
 エーリシスを守る、メザ最強の盾。オレニオは彼に、心から憧れていた。

 半刻後、ジャックは屋敷を後にした。オレニオはエーリシスに用があり、応接間前の広間にいたため、彼が出ていくのにすぐに気づいた。
 先程見た美しい顔立ちに、穏やかな笑みを浮かべ挨拶された。何故か、寒気がした。
(拳を、握りしめている……?)
 力を押し込めるように拳を震わせ、ジャックは屋敷を後にした。

 翌日、メザとキシトラームの領地交換が公表された。
 メザはキシトラームとの国境沿いの狭い地域を手に入れた。
 引き換えに、ジャックがキシトラーム内に持っていた山麓の小さな村が、キシトラームのものとなったらしい。
 オレニオの目には、何ということなく映った。国外の家の後継になり、使いにくくなった領地を、上手く合理化したと思った。恐らくエーリシスがキシトラームと交渉したのだろう。
(さすが我らが殿だ)
 ジャックはきっとエーリシスに感謝するだろう。



 それから数年、ジャックの活躍は目覚ましかった。
 そして、エーリシスから離れていった。


 王家は、王家を凌ぐ力を持つエーリシスを良く思っていなかった。だがそれを表にはできず、エーリシス派を重用せざるを得ない。ジャックはエーリシス派の皮を被って、重職に次々と任命され、やがて、皮を脱いだ。
 たった一人の青年のつくった波が、エーリシス一人に委ねられていたメザ宮廷を変えたのだ。





 エーリシスは久々に国王と直接話す機会を得た。
 王の私空間である離れに通される。
 連なった大きな窓は開け放たれ、テラスから緑の香りが漂ってくる。
 褐色の美しい顔立ちの少年がお茶を入れる。耳まで隠れる大きめのターバンを着けた、異国風の少年だ。
(たしか、ジャックの側で見たことがある)
 この会話を、監視しているのか。
「陛下」
 王はエーリシスと目を合わそうとしない。
「人払いをお願いいたします」
 王は目に見えて怯えた。少年従者の方はにこりと笑って、一礼すると、廊下につながる扉から出ていく。他数人の警護兵も続く。
 部屋には王とエーリシス、テラスにキブルが立っている。庭の噴水の向こう、豆粒のようにオレニオたちエーリシスの私兵がいる。
 穏やかな風が吹く。纏めたカーテンを揺らせない微風。
(この緑の香りは……)
 棚の上で香が焚かれているのに気づいた。
「分かっているでしょう」
 エーリシスが話しはじめる。
「ジャックはすでに我々の傘下ではない」
 王は浅く椅子に腰掛け、身を縮ませている。
「次の朝議で、ジャックの息が掛かった者は退任してもらいます」
 コッと、王が茶器を机から落とした。
「あ……」
 転がる杯を追い、王は暖炉に近づく。
「そのようなもの放って……」
「閣下!」
 キブルが呼びかけた。振り返ると、テラスに男が立っていた。
「ジャック……」
「宰相……」
 テラスから室内に入ってくる。キブルが警戒するように後ろを移動している。
―私たちはもう、同じ道は歩めないようです」
 頬に笑いが浮かんだ。
 背後でガタッと音がなる。王がいない。そして、暖炉の蓋が閉まっていた。
(あの中か)
「だったら邪魔なだけだ。お互いに」
 ジャックが腰の剣を抜き、向かってきた。
「ばかなっ!」
 エーリシスは後ろに下がる。ジャックの攻撃は鋭いが、調度品の位置が動きを遮る。
(今、王により近いのはジャックだ)
 それなのに、どうしてジャックは一人で乗り込んできたのか。
 キブルが剣を抜き、
「くっ」
 ジャックはその剣先を寸前でかわす。
 王が隠れている暖炉を見やる。暖炉の蓋を内側から簡単に閉められるように用意していたようだ。
(用意できた……。ならば何故、キブルを遠ざけなかった)
 キブルはジャックを追い詰めている。しかし、ジャックが香炉を倒すと、大量の粉じんが舞い上がった。
「うっ……」
 部屋が真っ白になる。キブルは布で口を覆い、目を細め、ジャックの位置を確かめる。

「あの村は……」
 ジャックの声が聞こえる。
「あんたたちは生産性しか考えていないのだろうが」
 キブルは声の方向へにじり寄る。
―あの村は、俺たちの理想郷だったんだ」
 悲痛な声だった。
「……ジャック?」
 キブルはジャックの姿を見つけた。鋭く剣を突きだし、
「ぐあっ……!」
 ジャックの心臓を貫いた。
「閣下、お怪我はありませんか!」
 キブルはジャックから剣を引き抜きながら言った。キブルの剣を血塗れにしながら、ジャックが床に落ちる。
「閣下?」
 返事がない。
「足元だよ」
―ジャックの声がした。
 キブルは、ぎこちなく視線を落とした。足元に倒れているのは、やはりジャックだ。
 だが、ジャックに見える男が手にしている剣は、エーリシスが刀工に対になるよう作らせ、一振りをエーリシスに、もう一振りをキブルがもらったものだった。
「あ、……あああ……―」
 床に這いつくばるキブル。
「あ……あ……」
 それを殺すのは、赤子の手をひねるより簡単だった。



 駆けつけてきたエーリシスの私兵の相手は、潜んでいた王兵に任せ、ジャックは一旦、王を非難させる。王の乗る馬車の後ろを、騎乗のジャックが行く。
「おっと」
 風に吹かれ、後ろに乗せていた褐色の少年のターバンが乱れる。尖った耳が覗いたのを、誰の目にも止まらぬうちに直す。
「あの香……ダークエルフの薬はすごいな。力の差を、簡単に覆した」
「これで国ごと覆せる?」
「ああ」
 ジャックは真っ直ぐ前を見た。
「やってやる。容易く踏みにじられる隠れ里ではない。異形の民の国を造るんだ―」


目次