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 13. 繋いでいた糸






 平坦なセブの地を行き、今夜の野営地は平原の真ん中。
 筋肉痛が治ったリューは、意気揚々と設営を手伝う。できあがった寝床に、道中で採った良い匂いのするハーブを忍ばせる。水を手に入れやすい場所なので、体も十分洗った。
 もう二日も抱いてもらっていない。
(今夜こそアージュ様を誘惑する!)
 リューは両の拳を握って気合いを入れた。

 今日はリューの好きなものの名前を書いた。
「好きな食べ物は?」
「ベルニルの実です!」
 アージュの指がリューの頬をつついた。
「……他に」
「うーん。あ、一昨日出たピーマンのポタージュ好きです」
「分かった」
 ピーマンとポタージュの文字を書いてくれる。
(絵も描いてくれた。ピーマンとスープ皿だ)
 絵に描きやすいものは、おまけで描いてくれることがある。
 リューはにこにこしながら文字を書き、ついでに絵も真似して書いた。
「それは文字ではないぞ」
「……分かっていますよー」
 無表情のアージュは、冗談か本気か分かりにくい。
「花は何が好きだ」
「薔薇です」
「思いの外、華やかなものが好きなんだな」
 アージュは薔薇の文字を書いて、少し迷ってからチューリップの絵を描いた。リューはちょっと頬を膨らまして、薔薇の文字とちゃんとした薔薇の絵を描いた。
「上手いな」
 撫でてくれたので、頬が緩んだ。
「そろそろ文章を書いてみるか」
「文章……」
「私宛てに手紙でも書いてみるか」
「……! はい。じゃあ、あと……”格好良い”と”優しい”と”ふわふわ”、”もふもふ”、”寝癖”を教えてください!」
 リューが頼むと、アージュは手櫛で髪を梳かしはじめた。

 手紙はまた明日、自習時間ができたらということで、ランプの灯りが消される。
「…………」
 同じ寝床に入っているのに、アージュの手が伸びてこない。
 リューはごくりと唾を飲み、アージュに向かって手を伸ばす。
「アージュ様……」
 脚を開いて、片脚をアージュに絡める。片手はアージュの胸の上に。もう片手で、自らの下帯を下ろしていく。
「…………」
 鼓動が速くなっていく。この開いた脚の間に、いつアージュの魔力が伸びてくるのか……。吐息が熱くなる。
「しなくていい」
 アージュの言葉に、心臓が掴まれたかのように大きく鼓動した。
(どうして……)
 そこで、昨日気絶するように眠ったことを思い出した。
「……あの、もう昨日の疲れは取れました。大丈夫です。僕は……」
 訊く声が震えた。
「僕は、アージュ様の妾ですよね……?」
 沈黙。そして、アージュの答えが返ってきた。
「話しているだけで、十分私を楽しませてくれている」
 リューもアージュと話すのは楽しい。楽しいけど……。
「側にいるだけでいい……」
 その言葉は、リューの不安を拭ってはくれない。





 ガグルエへの旅程。
 毎日気候は春めいて、温かくなる。
 毎日風が渇きを増し、吹き荒れた。

 文字はいっぱい覚えた。
 けれどアージュへの手紙は全く進まない。
 ―ねえ、アージュ様どうして……。
 どす黒い感情が思考を邪魔して、何を書けばいいのか分からない。


 無くなっていく食欲。これではサンドラのことを心配する資格はない。せめて行軍の邪魔をしないようにしないと。
 少しくらい栄養が足りなくとも、リューなら行軍についていける。
 オーラリオに向かっていた頃、ベルトをクセのついている部分より緩めていった。けれど今、元の胴回りに戻っている。
(脱いでいないから、アージュ様は知らないだろうな)
 心配かけずに済んで良かったけど、とても寂しい。

 寝所は一緒のままだし、今も一緒に夕食だ。
(贅沢だ。大好きなひとと一緒にいられて、僕は世界一の幸せ者だ……)
 行軍中は食べられる分だけ出してもらっている。今日はベルニルの実一つ。
「その実より、もっと栄養があるものを優先して食べた方が……」
「ベルニルの実が好きなんです」
 主のアージュの気遣いを断ってでも、リューは毎日実を食べ続ける。
 ―いつでも抱いてもらえるよう用意しないと。

 足手纏いにならないよう毎日頑張っていると、アージュに言われた。
「リューは行軍にもよくついてきて、毎日設営を手伝っている。兵たちにもそう認識されているようだ。昼も私の従者として、私の目の届くところにいていい」
「はい!」
(やった。認められた)
 また一つ、アージュの側にいる理由を獲得した。
 リューは骨の浮き出した拳を握った。
「そこなら疲れた時、すぐに私に助けを求められる」
「大丈夫ですよ。体力には自信があります」
 次は何を頑張れば、アージュの閨の相手に戻れるだろうか。





 赤土の荒野が広がる景色。
 遠くに見えるあの河を渡れば、ガグルエ国内だ。
 明日か、明後日には入れそうだ。

 リューは久しぶりに気持ちが昂ぶった。
(アージュ様の国!)
 セブに比べれば岩っぽいけど、思ったよりも緑が溢れている。
「河が溢れている。今年の雨季は長いようだ」
 アージュを見上げると、深刻な表情をしていた。


 先に食べるように言われて、今日は一人きりの夕食だ。
「あれ」
 食事係がくれたのは、ベルニルの実とは違う果実だった。
 朝食と昼の軽食を思い出してみるけど、その時も無かった。
(このままじゃ今日食べられない)
 行軍中に他の兵に食事のことで我がままを言うことはできず、アージュが帰るのをじっと待つ。お腹が膨れてしまうから、この実には手をつけない。
 片づけの時間ぎりぎりまで待ったけどアージュが現れなくて、余った実は知り合いになった兵に食べてもらった。

 夜遅く、ようやくアージュがテントに入ってきた。
「今日、ベルニルの実が無かったのですが、食事係さんが忘れたのでしょうか」
「ああ、補給部隊から先程伝えられたのだが……」
 ベルニルの実の旬はリューの予想通り冬で、けれど広いガグルエならば常にどこかに生っているらしい。
「ただ、今の時期は一地域でしか採れない。長引く雨季によって、そこのベルニルの実りが悪く、小規模だが洪水もあり、しばらくは実が送られてこない」
「え……」
 ―ベルニルの実が、送られてこない。
「しばらくって、どのくらいですか……?」
「今年はもう採れないから、他の地域で採れるまで……、三か月ほどだ」
―……!」
 三か月なんて、きっとベルニルの実の効果が消えてしまう。
「ガグルエで手に入らないなら、他の国で買えないのですか」
「……あの実はガグルエでしか手に入らない」
「そんな……」
 聞いていたのと違う。ガグルエ以外でも……。
「本に書いてありました。ベルニルの育つ場所は結構広いそうです。輸入できないのですか」
「……。リューは文字を覚えたばかりだ。本などいつ読むことができた」
「本を読んだのはサンドラです!」
 はっと口を閉ざす。思った通り、サンドラの名前に、アージュは顔を歪める。
「なるほど……。あの元王女の言葉では、私には覆せないか」
「え、あ、えっと」
 アージュを疑ってしまった。図鑑の少ない情報を頼りに。リューにとって、アージュは一番正しいのに。
「たしかに他の国を探せばあるだろう」
「え……?」
 アージュが言うことを覆した。
 戸惑うリューの頬を、アージュが撫でる。
「いいんだ。食べなくて、もう……」
 ―もう……。
「ただ側にいてくれれば……そう」
 アージュが静かに笑った。
「ただ……私の友になれるか」
 リューは、何も答えられなかった。


 眠ったアージュの隣で、テントの梁を見つめる。
 横を見れば、リューの練習ノートがある。アージュのお手本をいっぱい挿んだ宝物。
(友……友だち……)
 アージュに嫌われたわけではなかった。それなのに、胸が痛い。
 サンドラに言われた時は、とても嬉しかったのに、アージュに言われた時は、……目の前が真っ暗になった。
(もう、駄目なのかな)
 アージュに抱いてもらえる愛玩奴隷。そうなれる奇跡が起こったのは、リューが実を食べていたから。実を食べられなくなったら、ただのリューになったら、アージュに興味を持ってもらえるわけがない。
 アージュの腕に擦り寄り、その獣毛の柔らかさを堪能する。
「アージュ様」
 もう寝てしまっているから、返事はない。
 その腕に脚を絡め、頬ずりしてしまっても気づかれない。
「アージュ様」
 寝顔を覗きこむ。
「大好きです」
 無防備な唇に口付けた。
「……―」
 詰めていた息を吐いて、久しぶりの口付けをじっくりと反芻する。

 そして、そっと寝所を抜け出した。

(三か月)
 テントの出入口をそっと閉める。護衛と目が合ったが、水汲み場の方向に向かうと、リューへの注意が逸れた。元々それほど行動を制限されたことはない。
(三か月なら、セブに戻った方が近い)
 護衛の死角に入ると、リューは小走りにその場を離れた。


 今日もロッダたちは、携帯食料を賭けてカードゲームに興じていた。
「おー、参加していくか?」
「ううん。あのね、お願いがあるの」
 皆が場所を空けてくれたので、そこに座る。
 リューは唯一持っている宝物を取り出した。
「ノート?」
「ノートと、挿んだ紙も含めて、アージュ様が描いた絵がいっぱいあるよ。これ全部と、皆の食べ物を交換してほしいの」
「陛下の絵……。すごいけど、これをどうしろっていうんだ」
「え……」
 皆が欲しがるものだと疑っていなかった。今だって、興味津々でめくっているのに。
「直接下賜されたなら嬉しいけど。お前がもらったものだからこそ、お前の宝物なんだろう」
 元のように丁寧にノートに挿んで返された。
「これじゃ、食べ物と交換できないの……?」
(どうしよう。僕、これしかない……。賭けじゃ勝てないし……)
 リューの目に涙が滲む。
「お、おい。そんなに欲しいのか。……分かったよ」
 ロッダがリューの前に携帯食料を置くと、他の皆も置いてくれた。
 そしてロッダがリューのノートを手に取る。
「ただし貸すだけだ。このノートは質。ガグルエ王宮に着いたらでいいから、食いもん、三倍にして返してくれよ。愛妾様の特権を使ってな」
「……うん。頑張る」
 リューが今していることは、アージュの寵愛を取り戻すための行動なのだ。絶対に、成功させる。
 食料を掻き集め、バッグに入れる。
「リュー、それ腹膨れるし、味も悪くなくておすすめだ。美味かったら陛下にねだってみろよ」
「……ありがとう」

 ロッダたちのテントを出て、リューは人気のない方へ歩き出す。
 誰もいない場所に出ると、バッグを背負い、肩紐を引き締めた。
 丘の上から眺めれば、闇夜に広がるガグルエの荒野。こんな時間でも灯りがぽつぽつと広がる豊かな国。
 それに背を向けて、暗黒の中へと走りだした。


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