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 14. 愛するひと






 昼夜を問わず走り、時折歩いて休む。ガグルエ兵に見つからないよう、大きな道を避けて。
(僕、どうして走っているんだっけ)
 風を避けられる岩場に隠れ、仮眠を取る。もう春なのに、冷たい空気。リューは身を縮こまらせる。
(アージュ様、いない……。どうして……。僕……、捨てられたのかな)
 意識が薄れていく瞬間が怖い。


 関所に着いたタイミングで、都合良くノームの巨大商団に遭遇し、紛れ込んだ。
 戦争を終えたばかりで、まだ警戒中のガグルエ支配領域は、武器を取り扱うノーム商団が行きかっている。
「百十五人だな」
 関所の兵士が通行証の人数を読み上げたのを聞いて、リューの心臓はばくばくと鳴った。
 けれど兵士たちは、積み荷の中はじっくり覗いても、ノーム族をいちいち数えなかった。リューと目が合っても、ハーフノームと見るや他を調べる。ノーム族やエルフ族は政治や軍事に関わることがほぼないため、逃してはならない逃亡者などいないからかもしれない。
 商団のハーフノームには、見知らぬ顔とばれたのか不審げに見られたが、純血ノームに気に留められなかったので、特に何も言われなかった。
 無事関所を越えて、商団からそっと離れ、また走りだす。


 足の動きが鈍くなってきた。草むらに座り、ロッダたちにもらった食料を口にする。二日で一つ食べている食料の残りを数える。
(十日目……)
 もう半分の道程はとっくに過ぎている。
(この体……、どのくらい実の影響が薄れたのかな)
 アージュの兄弟の相手は月数回の間隔だと聞いた。そうだとしたら、もう……。
 リューは立ち上がって、また走りだした。


 平坦だが草の丈の高い地方。足を取られないよう、リューは道を走るしかない。ガグルエによる整備はまだ小さな道におよんでいないので、大きな道を走る。
「……!」
 遠くに二騎の兵士を見て、リューは道の脇の小屋の陰に隠れた。
 馬が駆けていく音がする。その音が小さくなって、リューは道に戻る。やり過ごせたようだ。
 あの兵士たちがリューを知っているとは限らないけど、見つかったらどうなるか……。
(あ……)
 セブの城で幼い頃から、奴隷が入るたびに一緒に言い聞かせられた、逃亡奴隷への罰。それを思い出して身が竦む。
(僕……、今、何てことをして……)
 実を手に入れることしか考えていなかった。何も、考えられなかった。
 奴隷なのに、主に行先も告げず一人で遠くに。
「戻っ……」
 道を振り返る。
―……」
 先程までガグルエの荒野を眺めていた気がするのに、けれどもう、緑の生い茂るセブにいる。

 一本道の上で、道に迷ったかのように左右を見る。
 セブの城に戻る……。アージュの側に戻る……。
 背負ったバッグには、もう水筒しか入っていない。
(……あの森、水の気配がする)
 目に入った森に足を向ける。セブ城の方向に。

 この道をガグルエに向かいながら毎夜書いてもらった、リューの宝物のノート。それはもう手元にない。
 交換で手に入れた食料も、もう食べきった。

(あの場所に着けば……)
 リューが種から育てた、あの実がある。あれさえあれば……またアージュに愛してもらえる。





 ようやくセブ城に辿りついた。
「どうしよう……」
 庭園に入るには、朽ちた通用門を使えばいい。そう思っていたけど、修復されている上に見張りの兵士までいる。
 他にも塀が壊れている場所があったことを思い出す。向かったら、そこは紐で塞がれているだけなので入れた。どうやら城の敷地を縮小するようで、この場所は敷地ではなくなるようだ。この辺りと王宮の間に、塀ができつつある。

 塀の周りには兵士たちがいる。気づかれないよう気を配りながら、リューは移動する。土木作業の騒がしい声の合間に、馬の嘶きが聞こえた。
「……ヴィー?」
 声が似ていた気がした。普通の馬よりも低くも澄んだ声。ここにいる訳がないから、他の馬だろうけど。
 リューは懐かしさに胸を締めつけられるのを感じながら、ベルニルの木が植えてある場所へと向かった。





 春の温かい日差しが、木々の間から零れる。
 歩くたびに、足元の草から朝露が零れ落ちる。
 緑の生命力に満ちた森の中。
「そんな……」
 リューのベルニルの木は、ほとんどの葉の色をくすませていた。たった一つ、小さな実をつけるだけ。
「一つだけじゃ足りない……」
 獣除けとして周りに植えた野薔薇は繁殖しているのに、その中心のベルニルの木は、葉が細り、その頼りない幹を露わにしていた。
 感覚の無くなっていた足が、棘の付いた蔓に取られた。リューが崩れ落ちた振動で、最後の実が落ちる。慌てて受け止める。
 ひらひらと舞う野薔薇の赤い花弁。棘の先からぽつりと落ちる血。
 手の中の小さな、小さな黄色い実。
「……え……ぅぐ……っ」
 ボロボロと涙がとめどなく零れ落ちる。
「アージュさまぁ……」
 実が無くては、戻れない。愛しいあのひとの元へ。

 草が揺れる音がした。
「リュー……?」
―……!」
 大好きな声がして、振り返る。
 赤い四つ目に、黒い獣毛。
「どうして……」
 思い浮かべていた、もう会えないと思った愛しいひとが、ここにいる。
 ―いる……。

「リュー」
 アージュが足を踏み出した。
 その後ろから、ヴィーが駆け寄り、アージュより先にリューに近づこうとした。だが急に足を止める。棘の囲いにその巨体が阻まれたのだ。
 その横を通り、アージュが棘に構わず踏み越えた。土の上にへたりこんだリューの前にしゃがむ。
「大丈夫か……。こんなに痩せて……」
「…………」
 リューは手を伸ばし、アージュの服を掴んだ。
「アージュ様……。ベルニルの実、一つしか採れませんでした……」
「実……?」
 アージュはリューが持った実に目をやった。
「これは、小さいがベルニルの実か。何故ここに……?」
 リューの涙がまた溢れる。
「僕、ノームなのに……、枯らしてしまいました……。種から、何年もかけて育てたのに……」
 小さな芽を出した、生まれたての頃から大事にしてきたのに。顔を下に向ける。
「僕は、何もできない……」
 アージュの服を掴む手は小さく、アージュとは比べものにならない。
「ごめんなさい……。アージュ様のお手本、食べ物と交換して、その食べ物ももうなくて……。……っ……、何も持っていない……」
 今は、立ち上がる体力さえも……。

 リューは幸せなはずだった。体力自慢で、文字も覚えだして、友だちもできて、アージュの隣にいることを許されて……。
 けれどそれは崩れ去り、本当は、こんなちっぽけな存在だ。

「それでも、どうしても諦められないんです……」
 アージュがどれほど素敵なひとか、どれだけの人がアージュを慕っているか知っている。
「僕には、不相応な優しさをくれて……でも、友だちは嫌です。……本当は……、本当は、妾も嫌……」
 アージュが、ぐっと口を引き結んだ。
 リューは顔を上げて、涙でいっぱいの目をアージュに向けた。
「アージュ様に、たった一人の結婚相手として迎えにきてほしい……」

 ―ずっと憧れていた。
 現実に好きなひとが現れてから、現実を見て、心に蓋をした。奴隷、ペット、妾……その道を選ぶしかないのだと。リューが幸せになる道は、アージュと一緒にいるための道はそこにあると。
 ……けれど育ってしまった心。
 どれだけ好きになっても、アージュに優しくされるたび、気持ちはさらに膨れ上がっていく。

「僕に……、できることがあれば、なんでもします。……だからお願いです」
 もう、祈ることしか……、
「アージュ様を……ください……」
 願うことしかできないけど……、アージュが欲しい。
 掴む手になけなしの力を込める。けれど感覚の無い手は、かえって滑り落ちようとして―、アージュの手に掴まれた。
「やる」
「アージュ様……」
 微笑みと、潤んだ赤い目。
「リューにやる。私は、……リューのものだ」
 リューの細くなった体に、アージュの手がそっと触れ、抱き上げた。
 涙と土埃に汚れたリューの頬を撫でて、
「愛している」
 こつんと額と額を合わせた。
 リューの見開いた目から涙が零れ落ちる。
「アージュさま…っ……、好き……。……あいしてます……」
 唇が近づき、優しく触れた。
 温かくて柔らかい感触が、弱っていた心を解す。目を瞑って口付けに浸った。

 リューの体から力が抜け、蕩けるようにアージュにもたれかかった頃、唇がそっと離れた。
 ほんのりと血色が戻ったリューに、アージュは微笑んだ。
「リューだ」
 涙の溜まった目尻にも口付けされる。
「見つかってよかった」
 安堵の言葉に、罪悪感で胸が痛くなる。
「……黙って出てきて、ごめんなさい」
「ベルニルの実を採りにきたのか」
「はい」
「そうか……」
 アージュの手がリューの頭を撫でる。
「では私も一緒に迷惑掛けた者に謝ろう。私が食べるなと言ったから、自分で採りにきたのだろう」
「僕が迷惑を掛けただけで、アージュ様は何も……」
「いいんだ。リューと私は二人で一つと思われるようになる。そうなりたいと願ったんだから」
「ええっ。そんなこと」
 そんな大層なこと―、……そういえば願った。けれど、そんな具体的に考えては……。
 戸惑うリューを、落ち着かせるような口付け。一瞬触れただけなのに、リューはすっかり静かになる。
「私はリューの、たった一人の愛するひとになりたい」
「愛する、ひと」
 リューは頬が……、体中が熱る。
「私だけを愛してくれ、リュー……」
「……はい」
 涙目を、アージュにまっすぐと合わせた。
 不思議だ。奴隷と主という関係だったアージュに、こんなに素直に気持ちを話せるなんて。
「アージュ様だけを愛しています」
 それを、甘く蕩けそうな表情で聞いてくれるなんて。
 ぎゅっと抱きしめられ、耳元で震えた声がした。
「嬉しい……」
「……―」
 アージュが喜んでくれて、リューの涙はまた止まらなくなった。


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