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 12. 一抹の不安






 アージュは変わらず、外回廊に立っていた。案内してくれた使用人は下がったのか、アージュ一人だ。護衛は柱を一つ折れた回廊に控えている。
「お待たせしました」
 リューはアージュに駆け寄る。
 アージュのすっと通った鼻梁が、リューに向けられる。
(このひとを、好きでいていいんだ)
 改めて見ると、さらに格好良く見える。
「お話しの時間をいただき、ありがとうございました」
「十分に話し合えたか」
「はい!」
 友だちとのお喋りはいくら時間があっても足りないけど、お互い気に掛かっていたことは聞けたから。
 アージュは体の正面をリューに向けた。リューはアージュを見上げる。
 外回廊に差す木漏れ日が、風に揺れた。アージュに落ちる葉の影がさやめく。
「頼みはあるか」
 アージュの方から、訊いてくれた。
「はい! あの―」
 リューがお願いする前に、アージュの手が、きつくリューを抱きしめた。
「……やはり、無理だ」
「アージュ様……?」
「一番になれなくとも、想ってくれているのは分かるから、それで……、それでいいと……。だが……できない」
(一番……。アージュ様でもなれないもの……?)
 抱き上げられたリューの耳に、アージュの唇が寄せられた。
「私のリュー……」
 鼓動が高鳴る。
―アージュ様の……)
 アージュの体温が、リューをめいっぱい包みこむ。
(ずっと、この腕の中にいたい)
 奴隷でも、持ち物の一つでもいい。こんなにぎゅっと抱きしめてくれるなら、お気に入りには違いない。
「はい。アージュ様のものです」
 幸せな気持ちで、リューは微笑みかける。
「……すまない」
 アージュはどうしてか、謝った。
(そうか。頼み、聞いてくれるって言っていたもんね)
 駄目なら仕方ない。サンドラへの手紙は諦めよう。そんなにいくつも我がまま聞いてもらうわけにはいかないもの。
 それに文字もいっぱい覚えないと書けないから、それもアージュに教わることになるのだ。
(ちょっと欲張りだった)
 アージュはずっとサンドラの話を嫌っていた。今回会わせてくれただけで十分だ。
 暗い顔をしたアージュに、
「構いません」
 と伝えたが、その憂いが晴れたようには見えなかった。


 外回廊を、二人で歩く。
「お天気ですね。暖かいです」
 なにより、繋いだ手が温かい。
「そうだな」
 アージュの手に力がこめられた気がして、リューは嬉しくなった。
「生垣、蕾がついています。僕、この子お世話したことあります」
「すごいな。こんなに蕾がつくものなのか」
 育ちやすくてこの城にいっぱいある花だけど、アージュには珍しいらしい。
「リューは花が好きなのか」
「はい。とても綺麗ですから」
 あんなに綺麗な花々が一番好いてくれるのが、ノームであるリューの手。見事に花開くたびに、心が満たされるのだ。
「ねえ、アージュ様。ガグルエにはいつ着くのですか」
「一か月程度かかる」
「すっかり春になりますね」
「ヴィーの背に乗れば四日の距離だが、国情を見ていくつもりだ」
 軍に随行してから距離の感覚が分かるようになった。ヴィーで四日は相当遠い。
「フィルド先生にいっぱい教わるんですか」
「それよりも赴任中の政務官が放してくれない。今を逃したら手紙も寄こさないと思われている」
「じゃあ僕はアージュ様のお手伝い……代筆できるくらい文字を覚えます!」
「さすがに一か月では追いつかせないぞ」
 アージュと手を繋ぎながら、とりとめもなくお喋りをする。それだけで、胸が幸福でいっぱいになる。
(春になったら……、アージュ様と緑の中お散歩できるかな)
 ロッダは何もない荒地と言っていた。
(荒地かあ)
 オールディーク山脈の高地に、とげとげの草が岩肌にへばりつくだけの場所があったが、あのような感じだろうか。
 想像の中でそこにアージュを立たせる。アージュが立つだけで、どこでも絵になる。リューは顔を緩ませる。
(楽しみだな)
 屋内に入るとアージュはすぐに仕事に向かったが、それまでとても素敵な時間を過ごせた。



「あ……」
 文字の復習を終え、アージュのベッドに座っていたリューは、窓の外を見た。すっかり暗くなっている。
「ベルニルの木……」
 様子を見にいくのを忘れていた。
「遅くなっちゃった」
 城内とはいえ夜の外出は危ない。明日にしよう。
 それとアージュなら、ベルニルの木を伐られないように指示できるかもしれない。頼んでみよう。
「アージュ様、遅いな」
 リューがサンドラに会うのに付き合って、仕事を中断したせいだろうか。
 そう思っていたら、扉が開いた。ノックせずにアージュの部屋に入ってくるのは一人。
「おかえりなさい。アージュ様」
 ベッドをぽよんと降りて、アージュに駆け寄る。
「ただいま」
 腕に抱きつくと、お風呂上がりでほかほかしている。


 今日は、春に咲く花や実る果物の名前の書き方を教えてもらった。
「ベルニルの実の旬は冬ですか」
「食べないからよく分からないが、年中ある印象だ。なぜ冬と?」
「冬の初めが美味しい気がするのです」
「味で判断できるのは、リューくらいだろうな」
 産地のガグルエでも、年中食べている者は珍しいのだろうか。
「今度誰かに訊いておく」
「ありがとうございます」

 リューが文字を練習している隣で、アージュは自分の仕事を振り返っている。リューが今日習った分を暗記して書けるようになった頃、アージュもノートを置いた。
「字が上手くなったな」
 リューの今日の成果を確認して、褒めてくれた。
「えへへ。アージュ様に少しは近づきましたか」
「ああ、筋が良い。そういえば今セブにいる政務官は達筆なんだ。あいつに手本を頼もうか」
「僕はアージュ様と同じ字になりたいですが……、アージュ様は達筆の方が好きですか」
 おずおずと訊く。アージュの字だと思うと、真似をするのに情熱が湧きあがるのだ。
「いや、……まあ、私の字でも問題はないだろう」
 良かった。リューは自分のノートと共に、アージュのお手本を大事にしまった。

 部屋の隅にあるランプに、アージュの魔力が触れる。
 灯りが絞られたら……。アージュの隣に寝転びながら、リューはどきどきしはじめた。
 灯りが、全て消された。
(あれ……?)
 テントではランプを消してしまうことも多いけど、ちゃんとしたベッドがある場所では薄暗くするだけのことが多い。アージュに翻弄されるリューを、仄かな灯りが照らすのだ。
 仄かに光るアージュの魔力が引っ込んで、室内は暗闇になった。
 隣でアージュが横たわる気配。上掛けを引き、リューにも掛けてくれた。
「…………」
 アージュは枕に頭を預け、そのまま動かない。
 今日、しないんだ。
「……おやすみなさい」
「おやすみ」
 アージュの返事を聞いて、リューも目を瞑る。
 心地良かったどきどきが、ざわざわと落ちつかないものになった。
(お疲れなのかな)
 今日は部屋に帰ってくるのが遅かったから。そう自分を納得させて、リューは寝ようとする。
(ベルニルの木のこと、頼んでいない)
 まだアージュは寝ていないだろう。今、訊けばいい。……けれど、口が開かない。
(明日にしよう……)
 眠ることにしたけれど、思考がぐるぐると回って、眠気がしない。
 アージュの体温が移ったふかふかのベッドが、やけに冷たくて硬いものに感じた。



 リューの不安をよそに、小春日和の翌日。
 アージュの髪が少し跳ねていたのが、リューの心をくすぐったが、侍従が何も言わず直してしまって残念だった。
 侍従はリューにも優美なローブを用意してくれる。
「あの、ヴィーのお世話をできる服装がいいです」
 庭仕事もできるような、というのは言わなかった。ベルニルの木のことが、どこから庭師にばれるか分からない。
 侍従は別の服を取ってきてくれた。
「昨日の服も、くるっと回るとふわっとなって楽しかったです。ありがとうございます」
 本当に気に入っているのだが、リューのつたない表現に、侍従は複雑そうな微笑みで返事した。
「そうだな。似合っていた」
 アージュがぽつりと零した呟きに、リューと侍従は敏感に反応する。
「ま、また今度着たいです!」
 リューが必死の形相でお願いすると、侍従も今度は満面の笑みで返事をした。

(今日もアージュ様優しい)
 抱いてくれなかったのは、リューが知らない原因があるのだろう。
「アージュ様、体調悪くありませんか」
「ああ、特には。リューはどうだ」
「僕は元気です。体力が取り柄ですから」
 リューは飛び跳ねてみせた。新たに用意してもらったズボンは、かっちりしつつ裾がぴったりしていて動きやすい。
「ヴィーや馬番に乗馬を習うといい。伝えておこう」
「わあ! 嬉しいです」

 喜んだものの、その日はヴィーに連れ回された。
 頼りない騎手を乗せたのを幸いに、好き放題走り回るヴィー。
「あっち、あっち行きたい!」
 リューの行きたい場所など聞いてくれない。
 夕刻になって、アージュの呼び声が聞こえてやっと、宮殿の方へ戻ってくれた。ずっとヴィーの首にしがみついていたリューの腕は動かなくなっている。
「ヴィーがひどいんです……」
 ヴィーの背中の上から救ってくれたアージュに泣きつくと、側にいたフィルドが、
「それに付き合ったリューくんの体力も底無しですね」
 と青い顔をして言った。そして申し訳なさそうに、
「リューくんが乗るなら普通の大きさの馬になりますから、ヴィーでは練習になりませんよ」
 と続けた。
「そういえばそうだな」
 とアージュが答える。
「…………」
 リューは体力の限界の中、気力にもダメージを受けて、アージュの腕の中に崩れ落ちた。





 アージュの声が聞こえる。
―リュー、起きられるか」
「……はい」
 なんだろう。全身がずきずきする。
「今日は徒歩は止めて馬車にしろ」
「馬車?」
「今夜の野営地まで平坦だ。その分速く歩くことになるからな」
「野営……」
 リューは起き上がって窓を見る。
 光―、朝になっている。セブの都を出立する日だ。

 昨日はヴィーに振り回され、昼食は食べられず、夜も眠ってしまったから、昨日の朝食ぶりのご飯だ。
「ベルニルの実を食べ損ないました……」
「……そう気にしなくていい」
「アージュ様に、いつでも抱いてもらえるようにしないと」
 今日の分の実を噛みしめる。
「一日食べないくらいでは変わらないはずだ」
「そうなのですか」
「食べる頻度は、ガグルエ王室に長く仕えている侍従長の経験で判断しただけだ。魔獣族でも私ほどの体格の者は記録にないから、とりあえず毎日一つ食べられるようセブに送っていたようだ。私の兄弟の相手は、体が馴染んだ後はひと月に数回しか食べないらしい」
 そんなに少ないのか。
「私の大きさはリューにしか分からないから、リューの判断でだんだん減らして……」
「好物なので毎日食べます!」
「……好きにするといい」
「あ、でも、きついとか緩いとか好みがあればアージュ様からも……」
「食べ終わったな! では着替えろ!」
「は、はい……!」
 アージュの声に押されて、リューは急いで衣装係の元に向かった。


 旅装に着替えたリューは、正面広場に向かい、ロッダの側に整列する。
(もうここには、戻ってこないんだろうな)
 ちらりと宮殿を見る。
 二階の窓に女性の姿を見つけた。
(サンドラ……)
 手を振っているサンドラに、こっそり手を振った。
(さようなら……)
 手紙も出せなくて、
 ―ごめん。
 そう唇を動かすと、通じたのだろうか。サンドラは微笑んで首を横に振った。
 ―ずっと、友だち。
 サンドラの唇が、そう動いた気がした。


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