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 水辺に風が吹き 2






 石牢の中に突き飛ばされる。後ろ手に拘束されたまま、ドッと荒い石床に叩きつけられた。扉が閉められ、灯りが細くなっていく。扉に打ちつけられている鉄板がガシャンと鳴った。
「……おじい、ちゃんを……よくも……」
 声は擦れて呻き声にしかならない。
(どうなるんだろう……)
 牢に連れてこられて正気に戻った。軍人によって軍の牢に入れられたのだ。
(なんて言ってたっけ、……間者? どうして、そんな)
 思いの外すぐに扉は開いた。後ろの縄を解かれ、
(間違いと気づいたんじゃ……)
 と思ったが、頑丈そうな手枷に替えられただけだった。
「来い」
 手枷に付いた縄を引っ張られる。

 連れてこられたのは、先ほどの石牢と似た部屋だった。だが、置かれている拘束具や鞭棒から拷問を行なう場所だと分かった。兵は、怯えるフウを天井から下ろされた鉤に吊るした。
「僕……間者なんかじゃ……」
 兵の拳がフウの腹に叩きこまれた。
「あれだけ抵抗しておいてよく言う」
「――ッ……」
 痛みに目が霞む。
「何か吐いたか」
「いえ、まだ」
 誰かが入ってきた。暗い室内で、ぼんやりした像がはっきりとしてくる。
「……イグス様」
「あの時の――」
 イグスは目を見開き、そして何か考えこんだ後、兵に向き直った。
「本当にこの子が間者の仲間で、逃亡を手引きしたというのか」
「!」
 信じてくれるかもしれない。
「僕は違います! 間者なんて知りません」
「こう言ってますが、こいつは間者を追っている隊に舟を貸さず、果ては暴れて岸から離れて逃走したんです」
(あの時、軍の仕事だったんだ)
「間者を追っていたって知らなかったんです」
「軍人とは知っていたのか」
 イグスが訊ねた。前に会った時より、口調がずっと厳しい。
「はい……」
「断った理由はなんだ」
 拷問器具に囲まれながら詰問され、声が震える。
「……いつも……代金を払ってくれないからです……」
 イグスはフウを見据えている。フウも見返すが、彼の表情が恐くて、視線がうろついてしまう。イグスの後ろにいる兵が、ニヤッと嫌な笑いを浮かべた。
「イグス様、こいつの言っていることはでたらめです」
「何故言いきれる」
「あの河で聞き込みをした者から……あ、来ました。彼らが証人です」
 室内に入ってきた三人の男――フウと同じ、ローサ河の船頭だった。彼らが言った。
「ドラ様はちゃんと船賃を払っていましたし、乱暴することもありませんでした」
「え……」
 理解できなかった。
「そのフウとかいう男は、二か月程前にこの岸に来ました。新顔です」
「二か月……逃げた間者も、その頃砦に勤めはじめていたな」
(どうして……)
 フウは呆然と船頭たちを見るが、彼らはフウと目を合わせようとしない。入口の影からこちらを覗いているドラに気づいた。ドラは楽しげに笑った。イグスは気づいていない。
「僕は違う! ずっとローサ河にいたじゃないか! どうして――」
 パアンッと耳と頬に衝撃が走った。
「もう嘘はやめろ」
「…………」
(今の……)
 イグスの手が、叩いたのだ。
「知っていることを吐かせるぞ。特に、まだ他に潜伏している者がいないかをだ」





「……ッ……あッ」
 兵に棒で打たれる。イグスは部屋の隅でじっとしている。黙りながらも、怒りの感情が見てとれる。
「やめて……違う……」
「まだ言うか」
 兵がより大きく棒を引いて叩きつけようとした時、
「待て」
 イグスから声が掛かる。
「いつ他の間者が撤収するか……、時間がない。私がやる」
「はッ」
「お前たちは全員、間者がこの街にいた頃の行動を調べ、関わりある者を洗いだせ」
 フウの前に、イグスだけが残る。
「名はフウというそうだな。それは本当の名か?」
 答える気にならない。
(全部……本当の……。嘘は、皆の方……)
「フウ」
 イグスの声が優しくなった。
「知っていることを全て話せば、この国での暮らしを世話してやる。間者など辞めるんだ。話してくれないか、フウ」
 呼びかけは、いたわるように穏やかになされた。
「…………」
 けれどフウは応えなかった。
(嘘が、本当なの?)
 イグスの顔など見たくなかった。
(僕が嘘にされるの? 味方がいない……一人きりだから……)
 うつむいた。
「答えるんだ」
 また厳しい声になった。
「フウ!」
 怒鳴りつけられて震える。答えられることなどないのだ。それに、本当のことを言って、フウの頬を打ったのはイグスではないか。
(……もう、一度だけ……)
「イグス様……」
「! 何だ」
 イグスの声は、微かに喜びを含んでいた。
「僕は、間者の仲間じゃありません……」
 恐怖しながら伝えた。けれどイグスは……、険しい表情に戻った。
「いいだろう。言う気になるまで、私の手で……」
 イグスが棒を握る。フウは絶望した表情でそれを見ているしかなかった。
 背に棒を打ちこまれた。引きつった喉は声も出せず、目尻から涙が散った。





 牢と拷問部屋を往復して、数日が過ぎていった。
 拷問はイグスが来る夜の間だけだったが、石牢で寝転んでいる間も、体中の傷にうなされた。
 また、石牢の扉が開く。フウは身を竦ませ、ガタガタと震えた。
「立て」
 イグスの声が掛かる。体の力を失っていたが、イグスが恐ろしくて、壁に縋りながらどうにか立とうとする。手枷で不自由な手、爪を剥がされた指先を壁に這わす。
 フウの動きの遅さに焦れたのか、イグスが腕を掴む。フウは体を硬直させ、怯えた目でイグスを見上げる。ローサ河で楽しそうに舟を操っていた若者の姿は、見る影もなかった。
 腕を引かれて拷問部屋に連れていかれる。
「……ッ…っ」
 痛いと訴えたら、またどれだけ酷いことをされるか……。フウは押し黙るしかなかった。

「間者が頻繁に出入りしていた家に踏み込んだが、住人は逃げた後だった。――お前が早く喋っていれば……」
 吊られたフウをイグスが睨む。
「イグス様、私たちが替わりましょうか。もう五日経っています。その間、牢にいたこいつに、イグス様自ら問いただすほどの情報は残っていないでしょう」
 控えていた兵が言う。フウには、どちらももう関係なかった。ただ、彼らの会話が終わってから行なわれる暴力に怯えるだけだった。
「いや、私がやる。下がれ」
 兵が出ていき、二人きりになる。イグスがフウの方を向いた。体が勝手に震えだす。
「拷問に掛けなければいけないのならば……」
 イグスが棒を振り下ろす。フウは鈍い呻きをあげる。
「他の奴にされるのは見ていられない」
 もうフウに思考する力は残っていない。傷から血を滲ませる人形だった。
「私の手で……」

 夜が更ける。吊るされたフウには時間の感覚が分からない。
(早く……終わって……)
 そう思いはじめて何度打たれただろう。
「痛みでは話す気にならないのか」
 イグスが離れる。やっと今日が終わったと思い、フウの心は切実な安堵に占められた。
 だが、ガチッと金属音が鳴ったと思ったら、イグスがまた近づいてきた。
「鍵を閉めてきた」
「…………」
 イグスがまだ出ていかないと分かり、頭が絶望一色になる。朦朧としたフウの意識は動物のように痛みと恐怖の反応しか返さなくなっていた。
 イグスの大きな手が、フウの胸元を撫でる。服は擦り切れ、上半身が剥き出しになっていた。
「別の恐怖を与えてやる」
 イグスが両手でフウの服を掴み、音と共に引き裂いた。吊るされた姿で裸体を晒す。フウは呆然としている。
「フウ……、もう一度言う。話してしまえ」
 イグスは苦しげに言った。
「水上でのお前は見事な腕を持っていた。いくらでも贔屓にする。河を渡るときも、それ以外でも。この街で……、いや、都に帰っても舟を利用する場所がある。その腕を貸してくれないか」
(…………)
 何もかも、フウの耳を通り抜けていく。
 何も知らないフウが何か知っているという、“嘘”からできたこの状況で掛けられる言葉に何の意味があるのだろう。
 イグスがどれだけ待っても、フウは何も答えなかった。
「……君は――君の忠誠は、他の者に向かっているんだな」
 イグスの美しい顔が近づいてくる。その表情は、とても暗い。フウの耳に口を寄せる。
「犯してやる」
 吐息のような声。耳にイグスの唇が柔らかく触れる。抱き寄せられて、鉤に吊られていた腕を外された。
(犯…し……)
 何だっただろう。柄の悪い客の話にあったと思うけど、あの時は意味を掴めなかった。酷いことのような気がしたから、あまり考えないようにしたのだ。
(酷いこと……)
 また他の恐ろしい拷問をされるのだと震える。
 フウを抱きしめていたイグスは少しの間、目を伏せた。そして目を開けるとフウを抱き上げ、部屋の端の机に向かう。机に載った拷問具をガラガラと落とし、足で除けた。
 フウは机台を背に寝かされた。足は宙に浮いている。その足をイグスが持ち上げて開かせる。
「……っ…」
 股間をイグスに見下ろされている。
(こんな……)
 みっともない格好だ。フウを裸にして恥ずかしい格好をさせて傷つけるつもりなのか。片足をイグスの肩に乗せられ、さらに足を開かされた。
 体はイグスが恐ろしくて動かない。涙が込みあげた。
「――……ッ」
 イグスは動揺してフウの足を下ろした。
「くっ」
 ガツッと、机に拳が振り下ろされた。そしてきつく抱き寄せられる。傷だらけのフウの体には、悲鳴を上げるほどの衝撃だった。イグスの腕は緩まない。
「――ひとめ惚れだったんだ!」
 フウは痛みに呻いている。イグスはそれを知りながら、さらに力を込めて抱きしめた。
「あの日、水から軽やかに上がってきた君が……頭から離れなかった……。砦内の問題が片付いたら、君の船を貸し切って、一日中一緒に過ごしてもらうつもりだった。二人きりで、舟上で……仲良くなれたら、もっと……」
 声にならない悲鳴を上げるフウの顎に、手を添える。イグスの片腕が緩まって、フウは一旦息を吹き返す。イグスはフウの顔を見つめる。その目には涙が滲み、瞳の真ん中にいるイグスの姿は歪んでいた。唇はわなないている。
「フウ……」
 イグスは目を強く瞑った。そして眉間に寄った皺をゆっくりと緩め、フウに唇を近づけた。

 ドンドンと、扉が叩かれた。イグスははっとしてフウから離れる。
「誰だ」
「俺だ、ベドアだ。話したいことがあるんだ」
 外から男の声がする。イグスは自分の上着をフウに着せ、床に座らせて足を閉じさせた。
「一体何だ」
 イグスが扉を開けると、上級と思われる軍人がいた。彼は奥にいるフウの姿を見て辛そうに眉を寄せてから、イグスに耳打ちした。ベドアの話を聞いて、イグスの目が見開いた。
「――!」
 そしてフウを見て、唇を噛んだ。今度はイグスの方が怯えているような表情だった。
 ベドアを押しのけて外へ走っていく。残ったベドアは、ゆっくりとフウに近づいた。
「……お前への尋問はしばらく中止だ」
(中止……)
 フウは糸が切れるように崩れ落ちた。





「ほら、お前たち」
 フウは誰かの声に目を覚ました。
「ちゃっちゃと動いて早く退散しよう」
 いつのまにか拷問部屋から牢に移されていた。声は扉の外から聞こえる。鍵の開く金属音。ギッっと扉が開けられて、フウは身を竦めた。
「ああ……、酷いな」
「……!」
 入ってきたのは軍人ではない。豪農の旦那だった。時折舟に乗せたり、荷を頼まれる。その後ろには夜遊び好きの息子もいる。
「息子が最近フウを見掛けないと言っててな。フウみたいな頼りになる船頭はなかなかいない。病で寝込んだりしてないか様子を見に行ったら……」
「どうしてフウが疑われたんだろうな。爺さんの代から岸の皆知ってるのに」
「…………」
「随分と弱っている。話は後だ」
 二人に両側から支えられ、フウは牢を出た。





 豪農の旦那が街中に持っている別邸で休ませてくれた。
 数日し、ようやく起き上がれるようになった頃、軍人が訪ねてきた。フウはガクガクと震えてしまい、会える状態ではなかったので、ちょうどいた坊ちゃんが用件を聞いてくれた。
「これ、お詫びの金だって。うちにも別に医者代やらもらったから。親父が立て替えてたの気にしてただろう。これでチャラになったからな」
「……はい」
「それとな……」
 軍人はベドアと名乗ったそうだ。
『ドラはもう二度とあの子の前に現れることはない。絶対にな。……あいつは俺の弟で、それを利用してイグスに取り入っていたんだ。俺とイグスは士官訓練生の頃からつるんでいたから。……俺が、家の恥を黙さず、ろくでもない奴だとはっきり教えていれば良かったんだ。すまない……』
 そう伝えるよう頼まれたらしい。

 翌日、フウはまだ痛みに軋む体を無理矢理動かし、身支度をした。
「ありがとうございました」
 不安そうな表情の坊ちゃんに笑顔を返し、河原に向かった。



「――……」
 数日前まで住んでいた小屋が、木屑になっていた。
 青くなって舟置き場に走る。怪我した手足を上手く動かせなかったが、必死に走った。
「……そん、な……」
 繋いでおいたフウの舟が、無残な姿になっていた。恐る恐る舟の中を覗くと、底に穴が開いたのか、浸水している。
「おじいちゃん……」
 初めての一人で漕いだ時、おじいさんが彫ってくれた、
“ローサ河と共に”
 の文字。船首にあったのに、船尾に板切れとなって落ちていた。
 地面にふらふらと座った。全身の痛みが辛くて、横になって、そのまま瞼が重くなる。

 ――フウ……!
 意識が遠のく、その直前、誰かの声を聞いた気がした。





「…………」
 目を覚ますと、柔らかいベッドの上に横たわっていた。
 首だけ動かして、天井から部屋の様子へと視線を彷徨わす。豪農の旦那の屋敷よりも、もっと広く、調度品も豪勢だ。
「どこ……」
 扉がノックされる。フウはびくっと身を竦めた。扉を凝視するが、開かれる気配がない。
「……はい」
 恐る恐る返事をすると、扉がゆっくりと開いた。
「……――!」
 喉が引きつって、声にならない悲鳴をあげる。
「痛いところは、ないか?」
 イグスだ。
 フウはシーツを胸に抱え、激しく震えた。
(また、拷問……される)
 イグスは震えるフウを見て、辛そうな表情をした。
「……すまない。君は、何もしていなかったのに、あんな……。本当に、ごめん……」
 イグスが前に踏み出す。
「やぁッ――!」
 フウはベッドから転がり落ちた。シーツにもつれながら逃げようともがく。
「だ、大丈夫か!? どこか打たなかったか!」
 大声を上げてイグスが近づき、フウを抱き起こす。
「フウ……?」
 イグスが顔を覗きこんでくる。こんなに近くに、イグスが……。フウはどうすればいいか分からず、ただ震えていた。
「…………」
 イグスは何かを言いかけたが、口をつぐんだ。
「っ……」
 引き寄せられたと思ったら、抱き上げられる。
「離して!」
「ああ」
 すぐにベッドに下ろされた。上掛けが優しく掛けられ、イグスは離れていった。
「医者を呼んでくる」
 彼はうつむきながら、早足で部屋から出ていった。





 医者に、塗り薬をつけて数日すれば治ると言われた。骨や靭帯に損傷はないらしい。
(こんなに痛いのに、信じられない)
 拷問することに慣れた者は、最低限の損傷で強烈な痛みを与えるらしい。
(拷問に、慣れて……)
 イグスのことがさらに恐くなった。

 医者が帰ると、また扉が開く。
「……っ」
 緊張したが、入ってきたのは同じ年頃の少年だった。少し警戒を解く。食事を持ってきてくれたようだ。包帯の交換など、身の回りのこともしてくれる。
「よく寝なね」
 少年が汚れた包帯とガーゼを持って、部屋を出ていく。
 一人になったフウは、何時間も寝たはずなのに体が重く、再び深く眠った。
 扉が開かれたが、気がつかない。
「忘れてた。これイグス様から……」
 部屋に入ってきた少年は、フウが寝ていることに気づいて、言葉を止めた。そっと枕元に近づいて、棚にコップを置き、引き返して出ていった。
 置かれた素焼きのコップは、ひび割れを修復した跡があった。


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