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 水辺に風が吹き 1






 大河の側らに、砦を備えた街がある。王国の重要都市ローシルク。そして河の名はローサ河という。
 ローサ河をいくつかの舟が行きかっている。河幅が広すぎることと、軍事上の判断から、橋は架けられていない。人々は舟で渡っていた。

「春だなあ」
 一艘の小舟の側で、青年が呟いた。岸には花が咲きだしている。ただ、青年の目は、今しがた客を乗せて岸を離れた舟を見ていた。
「待っている舟が少なくなった。そろそろお客さんが来るぞ」
 雪解けで各地の道がひらけ、人々の往来が増す。舟渡しの青年フウにとって、春はそういう季節だった。



 フウは、ローサ河の舟渡しだった老人の手伝いで、六つから舟に乗った。十三でその育ての親であるおじいさんを亡くし、早めの独り立ちとなった。以来この河で旅人を乗せている。

 客はそれとなく、頼りになりそうな船乗りに声を掛ける。経験の長そうな親父、若くても逞しい体つきの者。若く細身のフウには、なかなか客が回ってこないのだ。見掛けでいうと、フウの日に焼けた肌は正しく船乗りのものなのだが、誰もそこまでは気づかない。
 それでも、おじいさんから受け継いだ、船着き場の良い縄張りと、技術によって食べていられた。


「おーい」
 水面から視線を上げると、少し離れた場所にいる駅馬貸しのおじさんが手を振っている。
 その隣には背の高い男がいた。
 身なりからして貴族か高級官吏のようだ。従者と思われる男が二人いる。
「はーい」
 フウは手を振りかえした。馬貸しが馬を返されたついでに舟を紹介することはよくある。
 男がこちらに歩いてくる。
(格好いい人……)
 その歩く姿に見蕩れる。広い肩を自然に張って―、彼から漂う威厳に目を奪われた。
「頼めるか」
 重厚で、耳に心地良い声だった。
「は、はい」
 緊張して声が上擦る。見慣れない美しい男性に、心が浮きたっていた。
「少し河を上った場所に着けてほしいのだが」
「ジタラ通りの辺りでよろしいですか」
「ああ、ちょうどいい」
 先払いで船賃を告げると、少し多めにくれた。
「どうぞ」
 フウは片足を岸に、片足を舟に乗せて手を差しだしたが、男はその手を必要とせず、舟に乗った。その身のこなしから、
(将校さんかも)
 とフウは思った。ジタラ通りは砦も近い。
 従者の二人を乗せ、岸辺の杭から縄を解き、舟を漕ぎだした。


「ほう、釣り舟もしてくれるのか」
 身分の差を考え、話しかけない方がいいかと気後れしていたのだが、男の方から釣りの話を聞かれた。ちょうど釣り人を見かけて、何が釣れるのか気になったらしい。釣り好きのようだ。
「イグス様、都やご領地では随分なさっていたのに、こちらに赴任してから暇がありませんでしたね」
(イグス様……)
 従者の言葉から、名前を聞き取った。
「高貴な方のための舟遊びの店がありますので、お客様でしたらそちらの方が」
「釣りがしたいだけだ。豪奢な船は必要ない」
(そんなものかな。柔らかい椅子や温かいお茶のもてなしがあると聞くから、釣り好きでも嬉しい気がするけど)
「しかし……、君は随分となめらかに舟を操る」
「そんなことは」
「この街に来て、何度か小舟を利用したが、君ほどまっすぐ川を切っていく者はいなかった」
 ローサ河は所々に浅瀬があり、水流が入り乱れている。
「風が穏やかな季節ですから」
「……そのせいか」
 イグスは納得した顔をした。
 確かに風は穏やかだ。だが、雪解けの後で水勢は増している。
 ―師であるおじいさんが言っていた。
『機嫌の悪い川も、よーく付き合って知っていけば、一つも焦ることはない』
 フウが川をよく知っているのは、おじいさんの知識を分けてもらったからだ。だから腕を人に誇る気はなかった。おじいさんの残してくれたこの宝物を胸に、川と寄り添っていられればいい。

「魚が近いなあ。手で捕れそうですよ」
 従者の一人が水面に手を伸ばした。だが水の中の像など当てにならない。魚は従者の手にはひっかからなかった。
「あっ!」
 ボチャッと音がした。従者のたもとから何かキラリと光るものが滑り落ちたのだ。
「あああ……」
「あきらめろ。銀貨か何かか」
 もう一人の従者が聞く。
「違う。指輪だ。プロポーズのために都で買ってきた……」  従者は水面を覗きこむ。ローサ河は澄んでいるといわれるが、さすがに中央付近の深さでは底が見えない。
「残念だろうが、この街でまた買いなおすといい」
 主のイグスにもそう言われて、従者は肩を落とす。
 カタンと、フウが櫂を置いた。
「流されないうちに戻りますから、座っていてくださいね」
「え……」
 上衣と靴をサッと脱いで、フウは川に飛び込んだ。イグスたちは驚き、フウの沈んだ波紋を注視した。フウがいなくなったとたん、舟はその波紋を突っ切り下流に向かう。従者が焦って櫂を持とうとした瞬間、バシャっと水の中から手が伸びて、舟の縁を掴んだ。
「ありました」
 フウは水に浸かったまま従者に手を伸ばし、彼の手に指輪をそっと置いた。
「あ、ありがとう」
 フウはニコッと笑うと、両手で縁を掴み、スルッと舟に上がった。
―」
 イグスは言葉を失った。髪もズボンもずぶ濡れなのに、羽のように軽やかな動きだったのだ。フウの姿に目を奪われる。そうしている間に、フウは櫂を手にして舟を漕ぎ、すぐに上流に向かいだした。イグスははっとした。フウが上半身を晒したままだと気づいたのだ。
「着なさい」
 と服をフウの肩に掛けた。
「はい。ありがとうございます」
 フウは櫂を持ったまま、片手で器用に服を着た。
 それから岸に着くまで、イグスはずっとフウから目を逸らし川面を見ていた。その横顔は、赤みを帯びていた。


 イグス達を降ろして、フウはまた長々と次の客を待つ。
(良かった。見つかって)
 ズボンを脱いで、ギュッと絞る。
(この川に悲しい思い出ができるところだった)
 フウはご機嫌で雲を見上げ、この後の天気を占った。





 東岸から街のある西岸へ、夜遊びに行く豪農の坊ちゃんを降ろした。
(早く舟をしまわないと)
 前の客を降ろした時、珍しく間を置かず、次の客が来たのだ。よく使ってくれる人で、ありがたく乗せたが、いつもより仕事を終えるのが遅くなってしまった。
 フウは焦りながら舟置き場に向かおうとした。
 以前はこの時間が稼ぎ時だったが、最近フウは早めに切り上げるようにしていた。
「おい、フウ」
―!」
 野太い男の声に、フウは身を竦ませた。
(見つかった……)
 大柄な男たちが寄ってきて、フウの船にドカドカと乗り込んだ。
「先払いだって言っているじゃないですか……っうッ」
 男がフウの髪を鷲掴みにする。
「うるせえよ、早くしろ」
「……っ」
 睨みつけると殴られた。
「……ぐ……」
「さっさとしろ」
 フウは悔しさと恐怖に怯えながら、舟を漕ぎだした。


 ようやく自宅である河原のボロ小屋に帰り、フウは身を丸めた。
 船賃はやはり払われなかった。
 ゴロツキたちはあれでも軍人らしい。リーダーの男はドラという。あの界隈で船賃を踏み倒していて、皆難儀していた。フウが軍に文句を言いに行って、それから一人、目を付けられるようになった。他の船乗りたちは遠巻きにしている。
「おじいちゃん……おじいちゃん……」
 膝を抱えて泣く。どれだけ呼んでも、フウはこの小屋にたった一人だった。
「……おじいちゃん……」
 殴られた頬が、じんじん痛んだ。





 おじいさんの命日のお供えを買いに、フウは珍しく河原を離れ、街中に来ていた。去年以来のおぼつかない記憶を頼りに店を見つけ、ほんの少しのワインとオリーブ漬けを買うと、そのままくるりと元来た道を戻る。
「あ……」
 道をこちらに来る集団の中に、イグスを見つけた。やはり目を引く容姿をしている。街の人々も、いつもは軍人とは関わり合いにならないようにしているが、今は興味深げに見ている。
(僕のこと気づかないかな。忘れているかな)
 フウもそれに加わっていたが、はっとして路地に隠れた。
(ドラ……!)
 イグスの側にドラの姿を見つけたのだ。胸の中がモヤモヤと嫌な気分になる。
(もう行こう)
 そう思った時、ドラがイグスに何か話しかけた。それにイグスは笑って答えている。
「……!」
 胸が鋭く痛んだ。周りの娘たちがイグスの笑顔を見て嬉しそうにしている。フウは彼女たちの後ろを通り、河原に向かって走った。
(軍の人……とは、思っていたけど……)
 寂れた場所まで来て、石畳のでっぱりにつまずいて転ぶ。
「ッ!」
 擦りむいた肘と膝から血が出て、涙が滲む。
「……仲間なんだ……あいつと……」
 酷いことをしたドラの味方をした、軍の人間なんだ。
 時たますれ違う人が、フウを訝しげに見る。民家の窓ガラスに映った自分の姿が目に入る。泣いて崩れた顔。持っている袋が濡れていることに気づいた。ワインを入れた小瓶が割れてしまったのだ。窓から目を逸らし、また走りだした。己の姿がとても、みすぼらしかった。
(あのかっこいい人は……)
 息が上がるほど走って、やっとローサ河に着いた。
(イグス様は、僕とは関係ない人)
 頭の中をごちゃごちゃと舞う、辛いだけの気持ちを振り払いたかった。早く舟に帰ろうと、もう一踏ん張り走る。まだ冷たい空気を吸って、肺が、胸の辺りが痛んだ。





 夕方の西岸で、舟上で寝転びながら客を待つ。いつもは座って待つのだが、今日は体が重い。
(明日の命日は、ずっとおじいさんと一緒にいよう)
 突如、ドッっとどこかで音がした。騒がしい声が聞こえる。フウは頭を上げてそちらを窺った。どうやら他の船頭の船に、客が勢いつけて飛び乗ってきたらしい。船頭は文句を言いながらも舟を出した。
(あ、いつのまにか、こんなに舟が出てたんだ)
 岸にはフウの船しかないことに気づいた。伸びをしてから岸に繋いだ縄を解いておく。縄が解けた時、後ろから走り寄ってくる足音がした。
「!?」
「お前か! すぐに向こう岸に渡れ!!」
 ドラたちだった。最初から怒鳴りつけてきた。
「さ、先に払……」
「さっさしろ!」
 怒鳴られて、反射的に身を竦めたが、それがすごく悔しかった。腹立ちが収まらなくて、喉から嗚咽が出そうで、
「ふざけるな!」
 考えもせずに叫んでいた。櫂を掴んで、勢いよく振り回す。フウの急な抵抗に、ドラは驚いて後ずさった。
(重い……)
 水の中では自在に動かせる櫂が、水から上げるととても重かった。
(無理だ……!)
 櫂を水に戻し、舟を漕ぎだした。
「あ、おい!」
 瞬く間に岸から離れる。
 ドラ達の怒号が向けられる。
「もう言うこと聞くもんか」
 そう言いながら体が震える。これまで以上に酷いことをされるかもしれない。だが、
「…もう……、嫌だ……」
 全てを投げ出したくなったのだ。


 しばらく当て所もなく川を上った。夜中になった頃に船着き場に戻り、こっそりと小屋に帰った。
「ただいま、おじいちゃん」
 木箱の上に載せた素焼きのコップがおじいさんのご神体だ。
 おじいさんはそれでワインをちびちび飲んでいた。フウも飲ませてもらったことがあって、
『苦い』
 と一口で止めてしまった。
『水上ではいっぱしでも、やはり子供だな。まだまだワシが守ってやらんと』
 そう言ったその年のうちに、おじいさんは病に罹り亡くなった。
 今日一日干しておいた、ワインの香りの残る袋にコップを入れた。
「僕、他の岸に行く。ごめんね、いっぱい……教えてもらったのに……」

 質素な部屋でも、荷物を全てまとめると、袋が丸々と太った。肩に掛けて外に出ようと戸に手を掛けた。
「!」
 ガッと外から戸が引かれた。
「よう」
 ドラだった。
「……や…」
 後ずさると、ずかずかと軍人たちが入ってくる。
「こいつ、荷をまとめて……」
 いつものいたぶるのを楽しむ顔ではなく、険しい様子だ。
「やはり貴様、間者の一味か!」
「え……?」
 肩を押され床に叩きつけられた。ガシャンと背にした袋から音がした。
―!」
 ゾッと衝撃が走る。全身の毛が逆立った。
「おい、こいつを連行するぞ」
 仲間に振り向いたドラの横面に、拳を叩きつけた。
「ぐっ……何しやがる!」
 ドラは軽くよろめいただけで、すぐにフウを蹴り飛ばした。
「ぐあッ!」
 それでも痛みより怒りが勝った。ぐっと立ち上がり、また殴りかかる。
 だがすぐに拘束される。
「離せ! 離せっ……!」
 渾身の力で暴れるが、フウの力は一向に通じない。
 引きずられて連れていかれる間、暴れ続けた。殴られても、憑かれたように叫び続けた。


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