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 水辺に風が吹き 3






 おじいさんのコップが戻ってきた。目が覚めたら棚の上にあったのだ。ひび割れは丁寧に塞がれている。
「よろしければ新しいものを買ってくれるそうですが」
 少年に尋ねられたが、フウは首を何度も横に振った。
「これじゃないと、駄目なんです」
 ゆっくりと、コップに触れる。少しずつ指先でなぞり、ちゃんとひび割れが接着しているのを確かめて、ぎゅっと胸に引き寄せた。
 一つだけ、戻ってきた。
 舟と、……船頭たちとの関係は戻ってこないけど。
(おじいちゃん)
 たった一人の味方だ。





 ベットの脇に揃えられた靴を眺め、
(帰るところ……)
 途方にくれる。



 毎日医者が訪ねてきて、診察を受けていた。
「もう痛くないだろう」
「はい、押したりしなければ」
 医者は溜息をついた。
「もう全く痛くないと言っておくれ。やることもないのに、明日も来ないといけないじゃないか」
 フウが首を傾げると、
「君はイグス様にとってよほど大事な客人らしいな。簡単な診療で治療費がもらえるのはいいが、イグス様に詳細に、それはもうしつこく容体を訊かれるのは疲れる」
 どう診療を受けるのが普通なのか、フウには分からない。おじいさんが重い病に罹っても、お金が無くて医者に掛かれなかったくらいだ。
「イグス様はどうして」
「私は知らんよ。とにかく毎日、あの扉のすぐ向こうで待っているんだ」
 その言葉に体が硬直する。
 イグスの屋敷にいるかぎり、緊張は解けなかったが、イグス自身に会うことはなかったので平静でいられた。フウのことを人に任せ、忘れているのだと思っていたし、それに安心していた。
(あの扉の向こう……)
 扉の方から急に足音が聞こえ、その音は遠くなっていった。
「……イグス様……」
 フウは膝を抱いて縮こまる。
 彼に意識を向けられることは……、恐い。



 世話をしてくれる少年は、毎日、真新しい服といっぱいの食事を用意してくれる。
「少し、歩いてみよう」
 扉の向こうが怖くて躊躇するフウに、
「イグス様は夕刻まで仕事だから」
 と柔らかく声を掛け、少年は手を引く。温かく、フウと同じくらい細い腕だ。
「二軒先の店でプレッツェルを買って、庭で食べよう」
 のんびりとした歩調。広間を通り、玄関を出ると、久々の外の風が頬をひと撫でした。
「いい天気だね」
 緑が濃い。
「うん」
 檻に入ったのは早春の芽吹きの頃で、まだ淡い緑だった。今年の春はすでに盛りを過ぎたというのに、フウにはとても新鮮に感じた。

 少年はユイルという名だそうだ。彼が買ってくれた固焼きのパンは、とても美味しかった。
 とても優しい子で、仲良くなるうちに、扉の外への恐怖が、少しずつ薄れてきた。





 イグスは日のあるうちは大体、外出をしているようだ。
「…………」
 そっと扉を開け、廊下を見渡したところ誰もいない。小走りに玄関を目指す。
 玄関で立ち話をしている使用人に、
「少し出掛けてきます」
 と言うと道を開けてくれた。幸い、ユイルには会わなかった。
 敷地を出て、走りだす。走ると足がまだ痛む。路地裏に座って休みながら、河原を目指した。

「ここ……」
 瓦礫が残っていると思っていた。だが、たった数日のうちに、フウが住んでいた場所には小屋が建っていた。小さいながら綺麗な白木の家。
(おじいちゃん、場所……取られちゃった)
 呆然と立ち尽くす。イグスの屋敷を出ないといけないのに、ここ以外にどこに行けば……。
「フウ、もうこんなに遠くまで歩けるの」
 声を掛けられて心臓が飛び跳ねる。振り向くと、ユイルがいた。
 勝手に抜け出したフウを責めず、彼は微笑んで、小屋を見上げた。
「イグス様がね、建て直すよう依頼したんだよ」
「え……」
「君の家」
 フウは目を瞬かせ、改めて建物の方に向く。
「イグス様が……」
 ぼうっと眺めているのを、ユイルに促され、躊躇しながら、戸に手を伸ばす。
(音がしない)
 するっと戸が開いた。おじいさんがたまに直していた戸は、硬くてキィキィ高い音を上げていた。
 小さなガラス窓から昼の光が差し込んで、部屋の中を照らしていた。寝台にはマット、棚には鍋まである。ささくれや歪みなんてない。部屋の狭さに合わせてこじんまりしているが、フウの元の持ち物とはかけ離れた綺麗さだ。
「あの、こんなしっかりした家、僕にはお金払えない……」
 ユイルは笑った。
「イグス様からのプレゼントだよ。気にしないで。なんだか知らないけど、フウが怪我したり家が無くなったの、イグス様のせいだって言っていたよ」
 いままで話していて察してはいたけど、イグスがフウに何をしたか、ユイルは詳しくは聞いていないみたいだ。
「う、ん? ……」
 フウは答えにならない返事をした。
(イグス様のせいなのかな)
 確かにイグスに負わされた怪我だけど、間者だと連行されたフウを、もしイグス以外が見て、間違いだとはたして気づいたのだろうか。
(軍人だし)
 ドラのように、金も払わない、暴力で言うことを聞かせるような奴の仲間なのだ。
 イグスが悪いわけではない気がする。
(イグス様は、お医者や家を建てるお金は払ってくれる)
 ドラとは少しだけ違う気がするけど、恐怖心は拭えない。
(違う世界の人なんだ)
 たまたまイグスが、無実の者に怪我させるのは悪いと、そう考える性格だっただけ。イグスの気が変われば、自分などどうにでもできる立場だ。
(はやく一人に……)
 もう一度、家の中を見回す。
(今日にでも、住めそう)
 そう考えると、少し心の重しが取れた気がした。



 屋敷に戻った時は日が暮れていた。
「疲れていない?」
「……うん…あ……、…平気……」
 答えたが、自分でも血の気が引いているのが分かる。
「着替えて休もうか」
 とぼとぼとついていくフウを、ユイルは何度も振り返ってくれる。
(ちゃんと体慣らさないとな。……これから、何をして働くにしても)
 鈍い体と頭で廊下を曲がろうとする。
「ん……」
「おっと」
 背の高い人にぶつかった。その人の腕がよろけたフウを抱きとめ、転ぶのは避けられたけど、
「…………」
 お互いに固まる二人。フウとイグスは、目を見開いたまま抱きあっている。
「大丈夫か?」
 どうにか声をかけたのはイグスの方だ。
「……はい」
 微かに震えるフウに気づき、イグスはユイルに振り向く。
「早く休ませてやれ」
「かしこまりました」
 背を押され、ユイルに預けられそうになる。
「あ、あの」
 フウは立ちどまって振り向く。イグスと目が合い、つい下を向いてしまったが、
「家……直してくれて、ありがとうございます。とても……綺麗に……」
 お礼の言葉だけはどうにか言って、泊まっている部屋に駆け込もうとした。
「フウ、待ってくれ!」
 彼の声に、体が凍りつく。
「あ、いや……」
 イグスの言葉は途切れた。
「すまない。ユイル、あのこと聞いておいてくれ」
 後ろの方で、微かに離れていく足音。カーペットの上を小さく擦れる足音を、フウは身を強張らせ見送った。



 ソファに座り、ユイルがお茶を入れてくれるのをソワソワと待つ。
(イグス様は何を……)
 カタンとコップが置かれた。
「イグス様ね」
 ユイルが隣に座る。
「舟も修理したいのだけど、随分小型だったから、大工さんから“もう少し大きいものを造ってはどうか”って聞かれたんだって。どうしたい?」
 思わぬ申し出に、フウはしばし言葉を忘れた。ユイルはゆっくりと優しく続ける。
「フウなりの舟の操り方があるだろうから、大きければいいというものでもないんだろう? フウが毎日乗るものになるから、教えてほしいな」
 フウはうつむく。
(舟か……)
 河の皆を思い出す。体が治ってから誰にも会っていない。
(あの中に、戻れるのかな……)
「舟、作らなくていい」
「フウ?」
 ユイルが顔を覗きこむ。フウは顔を逸らして、情けなく歪んだ顔を見られないようにした。
「ローザ河には、戻らない」
「…………」
 ユイルがフウの頭を撫でた。
「今は……そうだよね。うん、そう伝えておくから、気が変わったらいつでも言ってね」
 明るく声を掛けてくれるユイルに、フウは曖昧な返事しか返せなかった。



 豪農の坊ちゃんが、イグスの館に立ち寄ってくれた。近くに見事なバラが咲いていると聞き、見にきたついでだそうだ。
「これから行くんですね」
 フウは少し考え、
「……あの、一緒に連れていってくれませんか」
 と聞いた。
「ああ、いいぞ。フウもバラが好きだったんだな」
「……ええ。ユイル、ちょっと出てくる」
「早く帰ってきてね」
 ユイルは何か察したのか、複雑そうな顔をして見送った。

 十分ほど歩いたところにある、綺麗な植え込みのある屋敷だった。主人と面識があるらしく、坊ちゃんが会釈すると快く入れてくれた。公園か街路だろうと思っていたフウは、恐縮しながら庭に足を踏み入れた。
 坊ちゃんがバラの香りを楽しむのを真似して、フウも鼻を近づけてみる。
(香っているのは分かるけど、良い匂いなのかな)
 ふわりとしながら濃厚な匂い。
(水の涼やかな匂いの方が好き)
 首を傾げているフウに、
「本当はあまり花に興味ないだろう」
 坊ちゃんは笑って言った。彼が肩を揺らすと、昨日降った雨露が、近くの葉からきらきらと振り落ちていった。

 庭の主人にお礼を言い、帰り道を歩く。
「仕事?」
「はい。もし農場で雇っていただけたらと思いまして」
 フウは本当の用事を話した。
「うーん……」
「あ、あの、畑のこと何も分かりませんが、頑張って覚えます! だから」
「いや、フウは真面目だから、うちでも上手くやっていけると思うけど。惜しいだろう。河から離れるのは」
 河から離れたいわけではない。けど、
「もう近づけないと思ってないか?」
 言い当てられて、肩が揺れた。
「辛いだろうけど、船頭の皆は、フウに対して悪意があったわけじゃなくて、悪い兵士が怖かっただけだし」
「分かっています……」
「許せって言っているわけじゃないんだ。無理にでも舟に戻って、好きなことやっているうちに、忘れることもあるんじゃないかなって俺は思うだけで」
 坊ちゃんはとても優しい声で言った。
「フウ、舟に乗って河に繰りだすの大好きだろう」
 泣きたくなるくらい、優しい声で。



 坊ちゃんと別れた後、すぐそこに見えるイグスの館。フウは背を向けて、歩き出した。

 ローザ河の岸には、いつもと同じように、いくつもの舟が乗りつけている。
 フウは、浅い深呼吸をした。前より体調が戻ったつもりだったが、バラ園に寄ってきたためか疲れている。

 底の抜けたフウの舟は、まだ岸辺に置いてあった。痛まないように水から上げてあるが、雨風のせいか泥まみれだ。
「きゃあっ、おさかな。おさかな、いるかな」
 すぐ横を、小さな男の子が走り抜けていった。古びた桟橋の上を、軽やかに弾む足音。
「どうかしら。いるといいわね」
 日傘を差した女性が、フウに会釈する。フウが道を譲ると、男の子の方に向かった。
 男の子は桟橋の先でしゃがみこみ、水面を凝視している。雨上がりの河は泥が舞い、男の子の腕の分の深さも見通せない。

 しばらくして、渡ってきた舟が接岸しようとしていることに、女性が気づいた。
「あれに乗りますよ。立ちなさい」
「……いなかった」
 男の子は不服そうに立ちあがった。

(かわいいなあ)
 フウは周りを見渡して、葦が生えているのを見つけ、むしった。
 舟は向きを変えようと大回りをしているので、まだ到着しない。
「見ててごらん」
 フウは男の子に声を掛けた。
 葦で水面をぺんぺんと叩いていると、
「あっ」
 小魚が五匹、濁りの中から現れて、葦が作った水泡をつついた。
「すごーい。貸して!」
 男の子に葦を渡すと、ばしばしと水面を叩いた。男の子より、フウの方向に水が跳ねてくる。小魚はすいっと泥水の中に沈んでしまった。男の子は焦って、さらに激しく水面を叩く。
(おじいちゃんと、こんなことあったな。僕がこの子の立場で、悔しくって、隠れて何度も魚を観察しにいった)
 冷たい水が掛かっているというのに、フウは楽しそうだった。


「じゃあねー」
 男の子とその母親は、舟に乗って対岸に向かった。
 フウは穏やかな表情で見守っていたが、ふいに風が吹いて、震えた。
(まだ河の水は冷たいな)
 河岸は風が強い。
(…………)
 足元を見つめる。
 顔を上げ、踵を返して土手を登ろうとした。
「ユイル」
 土手の上に、ユイルが立っていた。
「尾行していたんじゃないよ。帰りが遅かったから、心当たりを探しただけ」
「……ごめん」
「いいって。まあ、一言ほしいけど」
 ユイルはそれほど気にしていないような口調で、コートを渡してくれた。
「風邪引かないように」
 ダークグレーの上等そうなコートで、少し戸惑ったが、
「ありがとう」
 怪我の上に風邪を引いてはいけないと思い、素直に受け取った。袖を通すと、
(……温かい)
 服の厚みだけでなく、今さっきまで誰かが着ていたような……。
 ユイルのものとは思えない、大人のサイズ。
 フウが辺りを見回そうとすると、ユイルが一歩近づいて、その視線を遮った。
「さっきあっちに牛車が止まっていたよ。乗らせてもらおう。この街って馬車乗り場が少ないのが欠点だよね」
 フウの手を引いて、反対方向に向かうユイル。フウは振り向こうかと思ったが、ふいにまた風が吹いて、身を竦ませた。
「そうだね。みんな、舟の方が慣れているから」
 手を繋いでいない方の手で、ぎゅっと、コートの前を合わせた。





 フウに与えられた部屋は南向きで、東からの朝日はまだ差し込まない。
 ほの暗い部屋から、隠れるようにしゃがんで、窓の外を覗いた。

「いってらっしゃいませ、旦那様」
 使用人達に見送られる、イグスの後ろ姿が見えた。
 昨日、帰ってからユイルに返したコート。
 それをなびかせて、門を出ていくところだった。

 立ち上がって、窓に身を寄せて、その姿を追う。
 手をついた窓硝子は、陽に照らされはじめて暖かかった。
 窓の外は、暖かそうだった。


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