RegionBlue


第2話 閉ざされた庭園

雲を抜け風を受けたその先、シュレディンガーが向かった世界は澄んだ空気に満たされた世界であった。
 (ここの空気、あまりに澄みすぎてる…?)
そう思った彼女は落下速度に身を任せつつ世界を見渡し、木々や植物が遠目でもわかるほどひしめき合いながら生い茂っている様子に目を細める。
清浄すぎる空気の原因は異常ともいえるほど生育したそれらであるのは間違いない。
世界を満たす空気は毒のように甘く、運命の黒猫の喉はきゅうと音を立てた。
しかし、すべての世界に適応できるシュレディンガーにとって毒の空気など問題ではなく、それよりも優先して気にかけねばならないことに心は向いていた。
 (まずはここの王様を探さなくちゃ!)
迫る地表に恐れることなく、シュレディンガーはくるりと身をひねると羽根のように軽やかに地面へと降り立つ。
靴を通して伝わる地表は小さな白い花をつけた植物に覆われているせいで、まるで緑の絨毯が敷き詰められているようだった。
あふれる新緑の香りはやさしく鼻をくすぐり、太陽の恩恵をたっぷり受ける日向は昼寝にはもってこいといえた。
なんとも魅惑的な環境にふわふわしてきた頭を振りつつ、シュレディンガーは進むべき前を見る。
 「…うぅ、お昼寝は我慢だよ!しっかりして、私!」
黒いネコミミを機敏に動かし、己が求める存在を感じ取ったシュレディンガーは海色の瞳を輝かせ、植物たちに閉ざされた庭園のような道を進むことにした。
進むこと自体は苦でないものの、歩くには不便な道筋を進んでいると、どうしても思考は気になることへと限定されてゆく。
この世界を治める王は、どうしてこれほどまで世界を手付かずの状態にしているのか、その理由に皆目見当もつかなかった。
人を寄せ付けないような道を進むほど、彼女が探す王という存在に近付くほどに、異質を感じてしまうのは気のせいではなさそうだ。
 (おかしい…この世界はなにかが大きくズレてる…)
さまざまな世界を渡ってきた彼女がこれほどまで違和感を感じるなど、いまだかつてない事であった。
飲み下すことの出ない異変。
その違和感を抱えたまま、シュレディンガーはひときわ開けた場所へと辿りつき、そこに広がる光景にさらに息を飲んだ。
 「なに、これ…」
そこにはこの世界のすべてを吸い上げているような巨大な木が一本。
さらにその根本には無数の蔦で守られるように、向日葵色の髪をしたひとりの男性がいた。
男性は目を閉じ、ただ静かに呼吸を繰り返しており、それが眠っているのだと気付くころにはすっかり手に汗を握っていた。
 (この人が、王様?)
張り巡らせた心の弦は捕らわれの男性が王ではないと教えてくれるものの、あまりに異質な光景に心臓は早鐘を打つばかり。
シュレディンガーは助けを求めていた声の主がこの男性である可能性をかんがえ、まずは彼を解放すべくその蔦に手を伸ばそうとした。
その時であった。
 「だめだ!触ってはいけない!」
己を呼び止めた声がした方を見れば、そこにいたのは月光色の髪をもつひとりの男性がいた。
声を張り上げたせいか肩で息をし、まるで信じられないようなものを見る目つきでシュレディンガーを瞳に映しているのが印象的だった。
 「あなたは…?」
 「君も取り込まれてしまう!まずは離れるんだ!」
伸ばされた彼の手を取り、危険な物から遠ざけるように引き寄せられた、その瞬間。
 (あ、この人…!)
間違いない確信を得たものの、なんとか出かかった言葉を飲み込み、シュレディンガーは月光色の髪の男性をみつめた。
自分を見つめる紫電の瞳はアメジストのように揺らぎ、不安そうな表情は不幸の色味に染まっている。
 「ひとまず無事でよかった…君はどこから来たんだ?ここの住人ではないな?」
肺を刺すような甘い空気のなか、それを感じさせない彼の振る舞い。
それはまさしく、ここの支配者の証。
シュレディンガーは問い掛けに頷き、ようやく繋いでいた手をほどいた。
 「まずは助けてくれてありがとう…私はシュレディンガー、世界を飛び回る運命の黒猫だよ」
ふにゃりと笑顔を浮かべれば、それまでの緊張した面持ちなどどこへやら。
男は途端に頬を染め手で口を覆うと、慌てた様子で何度も頷き返してきた。
 「そ、そうか…俺はアスターだ…」
アスターと名乗った彼はすっかり視線を遠くに外し、染まった頬を隠すようにして手を宛がっている。
彼のゆらぐ紫電の瞳に甘酸っぱい予感を感じ、シュレディンガーはくすくすと笑う。
笑ったことでアスターはなにやら不満そうに口を結んでしまったが、この世界を訪れた理由を思い出したシュレディンガーはふたたび眠りについている男性へ向きなおり、アスターに問い掛けた。
 「ねえアスター、あの人はだれなの?」
 「ああ、ファルの事か…あれは俺の双子の兄だ、もう永い間ずっとあのままでいる…」
アスターから語られた出来事。
それはシュレディンガーにとって、まさに信じがたいものであった。