手を振り払い、ファルの身体のままドッペルゲンガーは後ずさりした。
「なにを言っている!?」
焦る鼓動は早鐘を打ち、穏やかなナルとは対照的な悪魔は身体を強張らせた。
忘れてしまった、彼女はそう言った。
(忘れたことなど、一度足りとも…!)
ナルの言葉を跳ね除けようと記憶を辿れば己の過去に鮮明さはなく、トゥエラーシュ家との確執のその前など黒く塗りつぶされたように思い出すことはできなかった。
彼女が言った通り、記憶は欠落したように空っぽな部分が多く、ドッペルゲンガーはそれを認めると口を噤んだ。
大人しくなった様子にナルはふたたび彼の手を取る。
師であるファルの手はいつもよりずっと冷たく、まるで氷のようだった。
「…私のお師匠様、返してもらうね」
「だめだ、我には…やるべきことが…」
「それは、なに?」
反射的に答えてしまったが、ナルの問いに答えることのできないドッペルゲンガーは肩を落とす。
何故こんなにも使命を感じるのに、その理由が思い出せないのだろうか。
悔しくてたまらず、紫電の瞳はただきつく閉じられた。
「…シフェルとの約束、ずっと守っているんだね…」
顔を上げると、なんとも悲しい表情で自分を見つめるナルと目が合った。
「約束…しかし、思い出せない…我はいったい…!?」
不安に揺れる紫電の瞳に、海のように深いナルの紺碧の瞳が映る。
まるで真実をその中に隠すように、ただまっすぐに己を見つめる瞳が眩しく感じられた。
ナルは努めて穏やかな素振りで、静かに言葉を紡ぐ。
「あなたの生まれから教えてあげる、一緒に思い出していこう?」
それはまだゲフェニアが魔法の力に守られていた頃まで遡る話。
グラストヘイムが城として、また防壁として機能していた時代、そこには人間とエルフの共同戦線が敷かれていた。
元居た世界より放浪してきたエルフと巨人。
両者が流れ着いたこの地を第二の故郷とせしめんとした事こそが長い戦いの幕開けであり、人間はそれに巻き込まれる形でありながらも、利害性の問題からエルフに力を貸していた。
巨人はエルフを食べるものとして恐れられており、人間も同じように彼らを恐れたからだ。
長い戦いは多くの命を失い、当初の目的など忘れるほどに互いを憎み合うところまで来てしまった。
特に敵対心を顕著に現し始めたのは、本来のこの世界の住人である人間だった。
巨人の衰えを知らぬ強い身体、エルフの長命と知恵。
世界に来訪した者たちの命を暴き、自分たちのために利用しようとする者たちが現れたのだ。
もちろん、人道に外れたことに反対する者たちが大半であったが、その意志を貫けぬほどすべてに疲弊しきっていた。
そのような情勢のなか、ミョルミール山脈の中腹、人の寄り付かぬ場所に隠された研究小屋の主であるシフェルも世界を憂う人間の一人だった。
彼はアルケミストとして非常に優秀であり、エルフより知恵を授けられた人間のうちの一人であった。
彼は優秀であるがゆえに、世界を変える研究を一人で行うしかなかった。
「そろそろ頃合いだ」
そう呟いたシフェルは様々な書面を挟んだバインダーを片手に、小屋の地下室へと降りて行く。
そこには人間が一人まるごと入れそうな培養ポッドが数個並んで配置され、その中にはおぞましい生き物が拘束されていた。
生体工学。
エルフから教わった命を紐解く技術を、人はそう呼んでいた。
ありとあらゆる生き物の命を暴き、神にも迫る御業で新たな生命を作り上げる技術。
それはモンスターをベースにすることもあれば、人間そのものを使うこともある、まさに禁忌の研究であった。
ひとつの培養ポッドの前で足を止め、シフェルは中を覗き込む。
そこには巨人族の頭部によく似た頭を持つ、奇怪なモンスターが意志などないように薬品漬けにされている。
「これはもうダメだな…」
バインダーの中の一枚の紙面になにやら複雑に書き込んだのち、培養ポッドの電源を落とす。
すぐに変化は訪れ、ポッド内の薬品循環が止まると奇怪なモンスターは唸り声を上げながら暴れ始める。
シフェルは冷静にその様子を見ていた。
「さようなら、ふたたびぼくの元へ命が巡るのを待っているよ」
その言葉を最後の手向けとし、奇怪なモンスターは次第に弱々しく、やがて動かなくなった。
シフェルは近くにある椅子に腰かけ、机に投げ出されたままの本に視線を向ける。
(約束の聖書、か…)
赤い表紙の聖書は大聖堂に伝わる神聖な歌が記されているとされているが、その内容を紐解けば人の生命の秘密にかかわる力の使い方が隠されており、この世界を憂う主神オーディンに導かれたシフェルはとうとうその秘密に辿り着いたのだ。
聖書よりオーディンの力を一部抽出する方法とエルフの技術を用いれば、様々な命を混ぜる事が可能となり、彼はやがてそれを用いて不毛すぎる世界へ復讐をしたいと考えるようになった。
迫害を受け去ってしまった愛しい人を思えば、今なお戦火が絶えぬ世界に意味などなかった。
モンスターを軸にたっぷりと魔力を封じ込め、そこへ自立するよう人間の魂を仕込むと、悪魔的な強さを誇る特別なモンスターが生まれた。
数匹それらを作り各地へ送り込めば、人間たちはおろか、巨人もエルフもみるみる数を減らしてゆく。
誰もシフェルの研究所を突き止められず、彼のことを魔王と呼び、震えて眠るしかなかった。
「アリス、もうすぐだよ…」
シフェルはそう呟くと先ほどの廃棄としたポッドの奥、まるで大事な宝物のように隠されたポッドへと向かう。
そこには人間の子供と見間違うほど精巧に作られたモンスターが目を閉ざしており、不思議なことにそれはシフェルとまったく同じ顔をしていた。
「そろそろ起きてくれなくては困るよ、ぼくのドッペルゲンガー」
培養ポッドを指で小突くと、中の悪魔はびくりと震えた。
シフェルが目指す世界には、戦いの勝敗などどうでもよかった。
「そろそろゲフェニアを落としたいんだ、起きてくれ?」
薬品の濃度を調整するとドッペルゲンガーと呼ばれた悪魔は目を開き、切なげに表情を強張らせる。
「いい子だ、さあ出てきてくれ」
培養液を排水し、シフェルはドッペルゲンガーを引き摺りだす。
おぼつかない足取りははじめて自重を味わい、呼吸は肺に酸素を満たした。
苦しそうにむせるドッペルゲンガーの腕を掴んだシフェルは、慣れた手付きで彼に注射針を突き立てた。
チクリとした痛みに驚き、思わず腕を引いてしまったがすでに内容物は接種を終えていた。
「抑止剤と安定剤だ、これで思った通りの姿を維持できる」
眩暈を感じたドッペルゲンガーは何度も瞬きを繰り返す。
焼けるような肌の感覚、鮮烈なる視界からの刺激。
備えられた本能は人の形をするものからすべてを奪えと、絶え間なく命令を出し続ける。
「…奪わなければ…ならない…」
「よく洗練されてるね、流石に研究もこれだけ進むとなると完成度も高いな」
シフェルは自慢げに笑みを浮かべながら、自分と同じ顔の悪魔の手を取った。
「さあ凱旋だ、顔も姿も…命もぜんぶ奪いに行こう」
シフェルに連れられるまま降り立ったゲフェニアにてドッペルゲンガーは悪夢のすべてを以ち、奪える限りを尽くした。
奪う事で得られるものは甘美なものであり、それらに成りきることは彼にとって糧であり誇りであった。
「相手を姿を奪うと記憶や身体能力まで同じになるのだな…」
ドッペルゲンガーはさきほど奪い取ったブラックスミスの顔と身体で、シフェルに話しかけた。
シフェルは満足そうに頷き、ミニグラスを外して汚れを丁寧にふき取ると口を開く。
「記憶の貯蔵庫みたいなものだ、どう使うかはキミ次第だけどね?」
頭に蓄積される奪い取った記憶の数々は、経験となりドッペルゲンガーの身体を満たしてゆく。
体験したことのない経験は彼のものになり、その能力の恩恵によりシフェルが作った他の悪魔たちよりもドッペルゲンガーはより人らしく、より悪魔らしく、より経験を積んだ悪魔となった。
狡猾になる悪夢の王の姿に、シフェルは満足そうにその暴虐の日々を見守っていた。
「とてもいいね、ドッペルゲンガー」
賞賛の言葉にドッペルゲンガーは口をきつく閉ざす。
「ぼくと約束をしよう」
「…約束?」
怪訝そうなドッペルゲンガーとは裏腹に、機嫌のよさそうなシフェルは嬉しそうに頷く。
「ここゲフェニアを崩壊させ、人の住めぬ地にすることを約束してくれ」
あまりにくだらない内容に鼻で笑ってしまったが、シフェルはそんなことはしなかった。
それは彼にとって非常に重要なことであり、もはやそれが目的だといっても過言ではなかった。
「大切な人が残してくれた宝物がある場所だからね、是が非でも不要なものを排除したい」
シフェルの言葉に、おそらくそれこそが悪魔を生み出す理由となった例の人物のことであり、その思い出を守るためだけに自分を作られたことをドッペルゲンガーは理解した。
「…いいだろう、我が父シフェルのため、この剣を振るい続けよう」
違えることのできない約束。
それこそが彼が生まれた理由であった。
やがてシフェルはその禁忌の技術を用いたことであらゆる方面から信頼を失くし、とうとう人間側の裏切り者として魔王と呼ばれるようになっていた。
しかし魔王の悪魔たちも、そう長くは世に君臨することは許されなかった。
やがて魔王により作られた悪魔たちは、強力な術士により魂をそれぞれの土地へと縫い付けられ土地より動くことが出来なくなった。
唯一、ドッペルゲンガーはその特性上、他の悪魔とおなじ方法では押さえつけられることができず、ゲフェニアは混沌と混乱を極めていた。
しかしそれも戦況の変動とともに変わり、人間たちは魔王シフェルを捕らえることに成功する。
そして長い悪夢が幕を開けた。