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第23話 忘却のPrelude

 「ナルよ、魔王の嘆きの呪い…その身に刻め…」
ドッペルゲンガーの声を感じながら、すぐに失われた痛みに別れを告げ、やがて意識が凍結してゆく様は眠りに落ちるように穏やかだった。
 (ああ…私…ここで死ぬのね…)
ゲフェニア遺跡に下りる際、ドッペルゲンガーは嘆きに選ばれてしまったら助かる術はないとナルに告げた。
すっかり衰弱したナルはうっすら目を動かすのも精一杯で返事などできなかったが、それでも彼の言葉は無情にもよく届いていた。
嘆きの呪いから解放されるには死しかなく、それを自分の手では叶えてやれないことを告げる悪魔の姿はどこか悔しそうで、人間のような振る舞いをするドッペルゲンガーは誰よりも呪いを憂いているように見える。
枯渇し続けるナルの魔力は命を脅かす呪いとなり、すでに封印の魔法へ命を削る段階へと到達していた。
 「あのね…どうせなら、お師匠様の手でヴァルハラに送られたいわ…」
ゲフェニア遺跡にてドッペルゲンガーに呟いた言葉は、本心でこそなかったが希望ではあった。
 「…そうか、それがそなたの望みであるなら…」
死の際の記憶は曖昧で、彼の言葉を最後まで思い出すことはできなかった。
 「ナル!!」
希望が叶った今、目の前の師は見たことのないほど辛そうな顔で涙を堪え、必死に自分のことを呼んでいる。
 (もう…聞こえない…)
光は失われ、闇が足元より這い寄る感覚は溺れるように静かで、不思議と恐怖はなかった。
強制的に意識と感覚は途絶え、ナルは風に身を委ねるように命を手放した。
 「いやあ!!」
ミカの悲鳴が響き渡る。
その悲痛な叫びにより気を戻した寿は身体を起こし、最悪の状況に目を見開いた。
 (まじか…!)
ステアは放心状態で矢など引けぬ状態。
ミカは取り乱し魔法など詠唱できる様子ではない。
ユグにいたっては吹き飛ばされた衝撃で気を失ったまま。
そして、自分はようやく気が戻ったという体たらく。
師弟に関してはなにが起きたのかは分からないがナルは死の際を迎えており、ファルは弟子を抱え心を砕いている。
 (やばすぎるだろ!)
絶体絶命の状況に、這うように寿は身体を起こす。
ナルを抱えたまま戦意などとっくに失ってしまったファルへ、いまだうまく動かない身体で精一杯、声の限り叫んだ。
 「ファル!動け!止まるな!!」
しかし寿の叫びも空しく、ファルの前に佇むドッペルゲンガーは両手剣を消失させると紫電の瞳を閉ざす。
 「もう魔王の嘆きなどいらぬ、これですべてを終わりにしよう…」
 「ファル!逃げろ!立ち上がれ!!」
寿の叫びも空しく、ドッペルゲンガーの身体は夜空のような漆黒の霧となり師弟を包み込み始めた。
漆黒の霧は意思を手放したファルの姿を隠すように広がり、やがて残されていた剣士の姿をしていた肉体は砂のように崩れ落ち始める。
そして、ファルが完全に包み込まれる頃には、ドッペルゲンガーが佇んでいた場所に黒い砂山が出来上がっていた。
 「ミカ!何とかならないのか!?」
寿はいまだ痛みを訴える頭を抑えつつ、絶望的な光景から希望を見出すためミカに問うが、ミカは震える身体を自ら抱きしめる様にして首を何度も横に振った。
 「もうムリよ…!ファルさんは取り込まれてしまった…!」
 「なんとかして取り戻す方法はないのかよ!?」
荒ぶる寿の声が響き渡る中、辺りに嵐のような暴風が吹き荒れる。
やがて目も開けられぬ突風が止み、ファルを包んでいた霧が晴れると、そこにはナルを抱きかかえて立ち上がるファルの姿があった。
 「…ファル?」
額に汗をにじませながら寿に縋るように名を呼ばれたファルは、その視線をナルから寿へと移す。
見た目こそ間違いなくファルであるのに、その瞳は紫電に染まっていた。
瞳の奥底、漆黒の揺らぐそこに明らかな別人格を感じとり、悪魔へと成り果ててしまった友の姿に身体は震えた。
 「くっそ!ファルを返せ!!」
痛みの残る体を気力で奮い立たせ、寿は果敢にもファルめがけて二刀で斬りかかった。
 「…セーフティウォール…」
ファルの唇は絶対防壁の魔法を紡ぎ、寿の絶対幸運を授ける短剣は聖なる光の壁によって遮られた。
力任せに防壁魔法へ刃を立てるがギリギリと金属を跳ね除ける音を立てるだけで光の壁を越える事は叶うことなく、寿は優秀な友の魔法を憎く思う。
 「テメェの魔法じゃないだろ!」
寿の言葉に目を細めつつ、自ら作り出した防壁魔法を不思議そうに眺め、それを発動した己の手を見つめる。
 「…馴染むのに時間は掛かりそうだが、悪くはない…」
抱きかかえていたナルの身体から淡い青白い光の玉が零れ落ちるように溢れ、それは次第に数を増やしてゆく。
それに気付いたファルは眉をひそめ、ナルを抱え直すと幸せそうに頬擦りをした。
 「ナル…最後の嘆きとなれ、そして我と共にゆこう…」
恍惚とした表情でナルの結晶化を望むファルの頬を、一本の銀の矢が掠めた。
寿よりずっと後方、ふたたび戦意を取り戻したステアが次の矢を放つ準備をしているのが見える。
 「ああ、遠距離による攻撃は防げないのだったな…」
つまらなさそうに鼻をならしたファルはナルをその場に横たわらせ、今は砂山となった我が身の中から愛用の両手剣を引き摺りだすようにして手にした。
獲物を手にした相手の姿にすこし冷静さを取り戻した寿の脳裏に、目的であったナルの奪還がふたたび浮上する。
友の念願。
命と引き換えても構わないと告げた、彼の宝物。
 (今だ!)
それと同時にセーフティウォールの力が弱まったのを確信した寿は、強引ながらもナルの手を引いた。
なんとかミカの元までナルを運べば突破口が見えるのではないか、そう信じた行動だった。
 「貴様!」
寿の行動に出遅れた形で剣を振るったファルであったが、まだ慣れぬ感覚は距離感を狂わせ、それは空を切るにとどまった。
傷付いたナルを抱きかかえ転がるようにしてステアの元へ戻るのが精一杯で、寿は肩で息をしながらナルを横たわらせると頭を押さえ、その場にうずくまった。
ミカはナルを抱えるように座り込み、不安そうにステアを見た。
諦めの色を濃くするミカの瞳から絶望を取り除くかのように、ステアはとびきりのウインクを返して声を張り上げる。
 「よくやった、寿!」
この状況下となっても足掻くステアは、休むことなく銀の矢をファルとなったドッペルゲンガーに射続ける。
 「ナルは返してもらうぞ、最後の嘆きにさせるためにな!」
強い決意がある様子のドッペルゲンガーはファルの身体で大きな両手剣を器用に操り、次々とステアからの矢を叩き落としてゆく。
 (だめだ!このままじゃ、うちの矢が先に尽きる!)
もはや威勢だけで迎え撃つステアの膝は震え、気力を振り絞る指先は冷たく、迫るファルの姿をした悪魔に絶望を感じる。
 (ファルさん!あんた、そんな負け方していいのかよ!)
弓弦を引く指に血が滲む。
ひときわ大きく弓がしなり、ダブルストレイフィングを打ち出そうとした、その時だった。
ファルの周囲に電気の嵐が巻き起こり、耳鳴りを起こしそうな雷の雨が降り注ぐ。
ステアの傍ら、ユグがふらつきながらも杖を構え、ギルドマスターを支えるべく彼の得意な雷の王とも呼ばれるロードオブヴァーミリオンを唱えた姿が、そこにあった。
 「ユグ!気が付いたのか!」
 「ついさっきね!ごめん、ダウンし過ぎてたみたいだね…」
謝罪はファルとナルの状態を指し示すものであり、ユグはすぐさま次の魔法の詠唱に掛かる。
心強い助っ人の登場にステアは笑みを浮かべ、彼が唱えたロードオブヴァーミリオンが収まる頃合を伺いつつふたたび矢を構えた。
 「よっし!足止めやるぞ!」
ストレイキャットの中でも特に連携に長ける二人の様子を見たミカは、ステアの言葉に意を決したように大きく頷く。
 「二人とも、お願いするわよ!」
 「おうとも!」
 「ぽんぽこにお任せあれ!」
再び作り上げた雷雲は大きく膨れ上がり、内包する電気の雨を惜しげもなく辺りに降り注ぐ。
人の身では耐えられないほどの電気の嵐はドッペルゲンガーの足を確実に留め、ミカは千載一遇を逃すまいとファルに託されたスクロールを取り出した。
ミカの傍ら、今だ視界が揺れる寿がレディムプティオの執行を感じ、その声を震わせる。
 「ファルの…魔法か…」
 「そうよ、私が行使するわ」
答えたミカは杖をスクロールにかざすと、聞き慣れない呪文を唱え始める。
その間にもナルの身体は少しずつ、しかし確実に光の粒子に変わり続けており、もはや身体の向こう側がぼんやりと透けて見えるまでに消耗していた。
 (急がなくては…!間に合って、お願い!)
全集中のミカの髪は燃え盛る炎のように赤く染まり、やがてスクロールも呼応するように光輝きはじめる。
そんな光を背負いつつ、今も大気中に雷の渦が荒れ狂うなか、ステアの脳裏に出発前の大聖堂でミカが言っていた言葉がゆらゆらと陽炎のようによみがえる。
 (ファルさんの身体が取られてしまったら、嘆きオリジナルの力でも封印出来るか分からない、か…)
ナルが呼び戻されたとしても、手遅れの状況に変わりはないのかもしれない。
それでもここで諦めてしまえばすべてが終わるのだから、それだけは認めるわけにいかなかった。
ステアは首を横に振り、弓弦を引く力をより一層強くする。
 「最悪の結果だけには、させないからな…ッ!」
そんなステアの声に呼応するかのように、ミカの長い詠唱が終わる。
スクロールは光の柱となったのち散り弾けると、その中から虹色の翼を持った女神が舞うように姿を現した。
女神の金と銀のオッドアイをみつめながら、ミカは鈴のような声で最後の詠唱を下す。
 「ファル・スカイの名において命ず、去り行くこの者を蘇らせたまえ…」
ミカとナルをその巨大な翼で包み込むと、女神はそっとナルの頬に触れる。
 「…ミカ・トゥエラーシュの魔力を持ってここに宿れ!レディムプティオ!」
最後の言葉を述べると、女神は母のような微笑を浮かべ、眩い光を発しながら姿を消した。
おそるおそるミカがナルを伺えば、血の気が引いていた顔色は嘘の様に生気を感じさせる。
 「ナル…!」
ミカの呼び声にひときわ大きく息を吸い込み、自発呼吸をはじめた様子に魔法の成功を確信し、次代の若きトゥエラーシュ家令嬢ははじめて己の生まれに感謝した。
隣で見ていた寿は目を丸くして頭に手を添えると、先ほどまでの痛みがすっかり消えていることに気付く。
 「…痛みが消えた…これが女神の力…」
おまけではあったが寿の回復を見届けたミカはふらつく身体を持て余し、とうとう膝から崩れ落ちてしまった。
 「ミカ!?」
 「代理執行者の命を削らないとはいえ、私の魔力全部持ってくなんて…あの女神やるわ…」
ナルやファルの何倍も魔力を保有しているはずのミカが魔力全喪失とは緊急事態もいいところで、すっかり顔色を悪くしてその場に倒れ込んでしまったミカに寿は駆け寄り安否を確認する。
 「ちょ、ミカ!しっかりしろ!!」
寿の声も届かない様子のミカは額にびっしりと汗を浮かべ、もはや気絶に近い状態ともいえた。
 「なんでうちのギルドは魔職ばっかり多いんですかね?!」
もっともな意見を述べる寿がステアとユグの様子を伺うと、ステアがさらに足止めをすべくアンクルスネアを大量に設置している最中であった。
 「ユグ、もうちょい耐えろよッ!」
そのステアよりやや後方、連続してコールドボルトを詠唱し続けているユグは余裕なく頷いて応えた。
魔法の詠唱と共にふわりと揺れるマントの裾、そこからはスモーキーの尻尾が見え隠れしており、もはや人の形を維持できるないほどユグも魔力を消費しているのが目に見えて分かる。
乗っ取られたファルは冷気魔法独特のダイヤモンドダストと、氷の刃が粉砕され白く霞む視界のなか、かろうじて人型を確認できる程までに作戦通りの足止めができている。
 「いいぞ、下がれ!」
ステアの声に反応したユグが詠唱を止め、大きく後退する。
 「最後にお土産だよ!アイスウォール!!」
アンクルスネアが設置されている寸前、ユグが巨大な氷の壁を作り上げた。
しかし、そのユグの行動も先手を取られ、ファルを乗っ取ったドッペルゲンガーは氷の壁越しに両手剣を振り上げ、地面に勢い良く叩きつけた。
その衝撃波はステアが設置したトラップを弾き飛ばし、ユグのアイスウォールをも粉砕する。
 「手強すぎるだろ!くっそ!」
ステアはふたたび弓を構え、矢を射る為の体制に入る。
 「オレが時間稼ぐ!ユグとステア、おまえらなんとかしろ!」
敗北の色が濃い戦況に、すっかり体力の戻った寿が短剣を構えてステアの前に出た瞬間、後ろから肩に手を添えられ思わず振り返る。
 「私が、行きます…」
紺碧の髪を揺らし、レディムプティオで呼び戻されたナルは瞳を揺らして、ファルを見つめていた。
 「ナル…おまえ…」
ステアの声に頷いたナルの姿に、寿は短剣を握りしめたまま顔を顰める。
 「お弟子ちゃんは引っ込んでな、あれは君の知ってるファルじゃないぜ」
寿からの精一杯の助言に頷きつつ、ナルは構わない様子で歩みを進める。
それは師であった人が、もはやそうではなくなったと理解した上での行動であり、寿はもうそれ以上は口にすることなく道を譲った。
 「師匠、ごめんなさい…」
最前線であった寿より前に立ったナルは、パーティメンバーにマグニフィカートを庇護を受けさせる。
ゲフェニアの満ち足りた魔力に感化された魔法はいつもより効果を強め、一行を祝福した。
ナルは振り返りみんなを視界に捉えると、その惨状に心を痛め、悔しそうに頬に一筋の涙を滑らせた。
 「みんなも、ごめんね…」
全員が言葉を失い、ただナルの言葉を噛みしめるだけだった。
とうとうファルの身体を乗っ取ったドッペルゲンガーの前まで来たナルは、紺碧の瞳を涙でゆらし彼を見つめた。
 「ナル、そなた…」
 「止まって、ドッペルゲンガー」
その声は楔となりドッペルゲンガーの動きを制限させる言葉となった。
拘束するつもりはないのだろう、ナルの言葉のままに足を止めたドッペルゲンガーは不思議な感覚に神経を向ける。
 (…嘆きの匂いがしないのに、力を感じる…?)
紫電の瞳を細め、ナルの様子を伺う。
ファルによる致命傷はすっかり消え失せ、その身体には確かに魂の流れを感じる。
おまけに魔王の嘆き特有の強制力も伝わり、まるで不思議な心地よさに溢れた存在のように思えた。
 (嘆きとなることを克服したのか…)
戦う事を忘れた手からは両手剣がこぼれおち、それはゲフェニアの大地へと突き刺さる。
 「色んな事を教えてもらったから、あなたを助けてあげられるわ」
 「なに…?」
ナルの言葉に怪訝そうな表情を浮かべ、ドッペルゲンガーは言葉の意味を探る。
助けるとはゲフェニアからの解放なのか、はたまた乗っ取った退魔師の身体のことなのか、考えても答えは頭の中にはなさそうで、口を噤んで彼女の言葉を待つしかできなかった。
ミカが意識を取り戻したのを見たナルは、瞬時にワープポータルを展開する。
 「みんな乗って、私は後から師匠と向かうよ」
まるでどこかに消えてしまいそうなナルの姿に、まっさきに拒否の言葉を発したのはステアであった。
 「だめだ!一人で残す訳にはいかない!!」
しかし、いきり立つステアの手を引いたのは意外にもミカであり、思わぬ人からの行動にステアは言葉を詰まらせた。
ミカはナルの目を見ると、何かを感じ取った様子で大きく頷く。
 「…戻ったら、トゥエラーシュ家の為にもゆっくり話がしたいわ」
理解できないステアを半ば強引に連れるように、ユグがワープポータルへと促す。
駄々をこねる子供のように「いやだ」と叫ぶステアとユグが先に乗り込むと、寿は悔しそうにファルを睨みつける。
ファルはそれに気付く様子も見せず、ナルと対峙するように佇んでいる姿は、魂の根っこまで別人になってしまったように淋しさを覚える姿だった。
 「絶対、戻ってね…?」
寿に支えられながら足元のおぼつかないミカの言葉にナルは頷き、それを確認した寿と共にミカもワープポータルの中へと消えた。
転送魔法の光も消え、辺りに静寂が訪れる。
ゲフェニア遺跡にたった二人きりとなったナルは、泣き出しそうな顔で身体を乗っ取られてしまったファルを見た。
それはもう完全にゲフェニアの悪魔であり、彼女の大切な師はどこにもいなかった。
 (それでも…私は…)
深呼吸をしたナルは、諭すようにドッペルゲンガーに話しかける。
 「…ずっと一人ぼっちで寂しかったのね…?」
 「何を…分かったふうな…!」
ドッペルゲンガーの言葉には孤独がありありと含まれており、それに自分を含めた誰一人として気付けなかったことをナルは恥じた。
 「もっと早く気付いてあげれたらよかったのに、ごめんね」
ナルからの言葉はドッペルゲンガーにとって、まるでゆるやかな坂道を下るような、そんな感覚だった。
足取りは軽やかに自然と前に進めるような、不思議な感覚に言葉を失う。
 「そなたは…いったい…」
紺碧の瞳を伏せ、ナルは申し訳なさそうに言葉を紡いでゆく。
 「あなたは愛されていたのに…それに気付けないまま、ここまで来たのね…」
失くしていたパズルのピースを拾い上げるように、ナルは彼の心の欠片を一つずつ手にしてゆく。
 「戯言を…!」
拒絶の意志を見せたドッペルゲンガーの心の曇りを祓うのは今しかない、そう思った。
 「シフェルは大切なものの為に、あなたに任せたのに…まだ気付けないでいるの?」
 「…ッ!?」
予想もしなかったナルの言葉のなか、そこに現れた名前にドッペルゲンガーの身体は動かなくなる。
心臓の鼓動が耳鳴りのように聴こえ、まるで時間の進み方が遅くなったように感じられた。
沈黙が恐ろしくて、先に口を開いたのは彼であった。
 「…何故、その名前を…?」
まるで脅えるように顔色を悪くするドッペルゲンガーを安心させるように、ナルは静かに師であるファルのように穏やかに微笑む。
 「嘆きの意味も分からない、小さな迷い子…」
そしてナルの手はドッペルゲンガーの手に重ねられ、されるがままとなった悪魔は喉を鳴らした。
不安げに紫電の瞳をゆらす彼に、ナルは囁くように尋ねる。
 「あなたは自分の存在の理由を、忘れてしまったの…?」