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第15話 悪魔と退魔師の攻防

シオンの耳に届く鈴の音、それは次第に大きく、また鳴る間隔も短くなり、気付けばその音は辺りへ響き始めている。
周りの景色はすでにシオンが通ってきた、あの氷の洞窟。
肌を刺す寒さに、二人の吐く息は白さを帯びる。

 ─二重の君!ナルの命の流れが変わったわ、これ以上繋ぐのはムリよ!─

シオンの中に焦るミカの声が響いた。
 「ああ、分かっているとも!もう少しだ!」
今も涙の止まらぬナルを抱きかかえ、シオンは降り立った場所へとようやくたどり着く。

 チリン!

ひときわ大きく鳴った鈴の音。
意識は大きく揺さぶられ視界は回転し、ようやく全身の感覚が戻ったところでシオンは瞳を開く。
そこは間違いなく、あのゲフェンタワー。
展開されていた魔方陣は光を失い、使われた聖水はゆっくりと姿を消し始めていた。
ミカを見れば疲労困憊な様子で腰が抜けたように座り込み、髪の色もいつもの萌黄色へと戻っている。
 「ナルは!?」
魔方陣の中央に横たえられたナルの元へ、シオンは脇目も振らず一目散に走り寄った。
抱きかかえてみれば目には涙を浮かべ、共にシフェルの最期を見た、ありのままの彼女がいた。
 「…父様っ」
 「ああ、よくぞ戻った…!」
もしや戻らないかもしれないと案じていたシオンは、ようやく悲しみと共に舞い戻ったナルを抱き締め、泣き続ける彼女の頭を優しく撫でた。
二人の様子に安堵のため息をついたミカは、ゆっくりと立ち上がり魔法の終わりを見届ける。
 「さて、どうやら戻ったみたいね?」
どこか嬉しそうに、しかし落ち着き払ったミカの声にナルが頷く。
そのやり取りを見たステアは満足そうに立ち上がると、猫のようにめいっぱい背伸びをした。
 「ふむ、まずは溜まり場へ戻るか!」



ストレイキャットの邸宅へ全員が戻るころ、月はすっかり西へと傾いていた。
窓を開け放つと、心地良い夜風が入り込んでくる。
ユグは遅すぎる夕食の支度へ取り掛かり、ファルは今だに表情を曇らせるナルを案じていた。
空腹に耐え切れないステアと寿はテーブルの上の林檎を頬張り、シャクシャクと小気味好い音を立てている。
 「なんだ、まず…あれだな、おかえり!」
ステアの声掛けに、はっとしたナルは急に立ち上がると頭を下げた。
 「みんな、ごめんなさい!いっぱい迷惑掛けてしまって…!」
いち早く反応したのは寿だった。
 「いや、オレなんか誘拐させてもらったし、こちらこそってやつかな」
 「え…寿、あれって誘拐だったの?」
 「合意なので犯罪ではないです、セーフってやつ」
寿とナルの噛み合わないやり取りを見つつ、ステアは食べかけの林檎を置くと「ちがう」と首を横に振った。
 「こういう時はごめんなさいじゃない、分かるだろ?」
ステアの言葉はナルの心へと真っ直ぐに届き、それはまるで彼女の放つ矢の軌道にも似た流星のような一声。
その言葉にようやく帰還できたのだと感じたナルは泣き腫らした目をこすり、ぎこちない笑顔をつくる。
うまく笑えているかなんて、もう考える必要はなかった。
 「うん…みんなありがとう、ただいま!」
 「ああ、おかえり!」
ナルの様子にステアは笑顔を浮かべ、そしてとても充実した表情で林檎に齧り付いたのだった。
となりに座るミカはようやく戻った穏やかな空気を満足げに堪能し、頬杖を付きながらキッチンから漂う香りに目を細める。
 「あら、この匂いはカレーね?」
ユグ特製の野菜たっぷりカレーは、ミカの大好きなメニューの一つ。
下ごしらえの香りで確信し、うっとりとその瞳を閉じる。
 「ナルの心へ二重の君を繋ぐ旅は流石に堪えたもの、今日はおかわりしちゃおうかな」
ミカの言葉にファルが続く。
 「そういえば結局、どうしてナルは記憶を無くしたんだい?」
師の心配そうな声色にナルは頷く。
 「…はい、お話しします…」
そう告げると、ファルの隣に腰を降ろす。
ファルは焦らなくていいと心遣い、ナルの手を握りしめた。
しかし弟子の眼差しは決意に満ちており、その姿にファルは心配したことを恥じ、ようやくナルは経緯を語り始めるに至った。
まず、自分の中に父である魔王シフェルの魂がいたこと。
父に会えて嬉しかったこと。
気持ちのまま、ただただ言葉を紡いだ。
師は幾度となく頷き、弟子の言葉を受け止める。
そして、全員がようやく真実を知り、件の幕は下ろされたのであった。
 「…それから、お師匠様には大切なお話があって…」
 「うん?ぼくに?」
シオンを伺うようなナルの態度。
普段は見られない姿に、ファルは不安を覚える。
まるで虫の知らせのようだった。
ファルもナルに倣いシオンへ視線を移してみるが、そこには迷惑そうな表情を浮かべる、いつもと変わらぬゲフェニアの悪魔がいた。
ファルの悪い予感というものは、いつも当たる。
最悪が訪れる予兆に、鼓動は速まってゆく。
 「…なに、どうしたのナル?」
再び視線をナルへ戻すといつもの優しい声で問い掛けるが、紺碧の瞳は師を映しながらも恐れを含んでいた。
瞳を伏せがちな姿は、言葉を選んでいるようにも見える。
 「きっとお師匠様はお怒りになると思うけど…私…」
いまだはっきりと言葉にしないナル、その左手。
それに気付いたのはミカだった。
 「あら、ナル…その指に指輪をはめると既婚者なのよ?」
そこに光る銀の指輪。
ファルは悪い予感の答えをようやく捕まえた。
意識せずに立ち上がった身体はアークワンドを握り、その先をシオンへと向けていた。
 「おい、シオン、どういう事だ?」
その行動を予め分かっていたように、シオンは紫電の瞳で退魔師を見つめる。
いずれは向き合わねばならない相手であり、むしろ今の方が都合がいいかもしれない。
様々な思惑を抱えながら、右の籠手を外す。
そこに光る金の指輪を見せれば、ファルの喉がヒュッと音を鳴らすのを聞いた。
 「人間同士の意味合いとは大きく異なるが、つまりそういう事だ」
ステアはあまりの事態に噴き出し、寿は手にしていた林檎を床に落としてしまった。
ただミカだけは色恋沙汰にはとんと興味無さそうに、全員のやり取りをつまらなさそうに眺めていた。
 「へぇ…たぶらかしたってこと?」
 「それは否定させてもらおう」
ファルはアークワンドを降ろし、紫電の瞳を睨み付ける。
どこまでも夜のような瞳に、嘘偽りはなさそうだ。
しかし、ここで諦める訳にはいかなかった。
決意新たに、師は弟子へと向き合う。
空色の瞳と紺碧の瞳は交差し、互いの拠り所を求めるため言葉を紡ぐ。
 「いいかいナル、あれは人の形をしているが悪魔だ、知っているね?」
 「は、はい…お師匠様…」
ナルの前にしゃがみ両手を取り、瞳にはナルだけを写し、退魔師ファルは今生唯一の弟子へ語り掛ける。
 「人と悪魔は相入れない、それは命の重さが違うからだ」
 「はい、分かっています…でも…」
 「僕らは聖職者、神に仕える聖なる使者なんだ」
ナルの言葉を遮り、ファルは続ける。
 「僕らは時に人を誑かす悪魔に制裁を加える断罪者でもある、彼等は狡猾で非情なる地獄の使者だからね」
その瞳は退魔師ファル・スカイとしての信条を秘めたものであり、世の理でもあった。
聖職者と悪魔。
それは相反する属性を秘めた敵同士。
その理は覆すことはできずナルは口を噤むと、今はただ弟子として師の言葉に耳を傾けた。
 「賛成はしないし、阻止もする」
空のように青く澄んだ瞳は、真摯だけを宿していた。
 「それは君を師事する者としても、今を生きる人間としても、たった一人の男としてもね」
思い掛けない言葉に、ナルは息をのんだ。
プリーストのファルへ憧れる純粋な気持ち、それは出会った頃から今もなお色褪せておらず、むしろ師事を施されるほどに輝きは増したように思う。
あの日のプロンテラから、ずっと追い続けてきたのだ。
決して追い付けず隣に並ぶには早すぎる、未熟な自分に飽きず手を引き施しを与えてくれる。
そんな信頼たる師から出た、愛を告げる言葉。
この言葉を投げられたのがシオンに出会う前であれば、眷族の道は選ばなかったかもしれない。
ナルはそう思うと目を瞑り、ゆっくりと深呼吸をした。
改めて自分の気持ちへ向き合い、慎重に選択する。
そしてようやく心を決め、師へ告げたのだ。
 「…ごめんなさい」
ナルの言葉に身体が強張る。
分かっていた、きっとそう告げられるであろうと。
思っていたより過酷な鼓動の早さに、ファルは浅く呼吸をして頷くのがやっとだった。
 「私が彼との道…魔になることを選びました…」
嘘の無い紺碧の瞳。
ファルは「そうか…」と呟き、瞳を閉じる。
諦めきれない心は氷となって思考を巡り、ファルはその手に握られた聖書の一節を開く。
開かれたそのページには退魔の際の福音が記されており、それをよく知るナルに緊張が走る。
 「…いいね?」
師の甘い声は弟子の拒絶を許さず、不安そうに顔色を悪くする弟子に向かい合った退魔師は、迷う事なく悪魔祓いの言葉を紡いでゆく。
 「あ、あの…師匠…これって…」
戸惑う弟子に構わず、ファルはナルの手を取る。
悪魔祓いを生業とする師に連れられ、何度も見た光景だった。
これが悪魔憑きを確かめる為の儀式なのだとナルは早々に理解し、これから行われる退魔の手続きに息を呑む。
 (師匠は祓うつもりなんだ…)
抵抗することなく従順にしていれば、やはり掌に聖水を垂らされる。
これより我が身に起こること、それは聖水が触れた箇所からは硫黄の香りと地獄でくすぶる煙が勢いよく立ち上り、そして悪魔に憑かれ穢れた魂を持つ身体に起こる激痛、それを全て甘んじて受け入れようとナルは目をかたく瞑る。
しかし透明だった聖水はナルの手に触れた途端に錆色となり、まるで血のように床へと流れ落ちてゆく。
ただそれだけだった。
 「あぁ…匂いも痛みもありません、師匠…」
途端に緊張はほどけ、ナルは荒く呼吸を繰り返した。
 「うん、痛みがないようでなにより…つまり魂は綺麗なままということだね、よかった」
なお怯えるナルの手に残った聖水を口に含み、ファルは表情を曇らせる。
 「しかしこれは…随分と強いつながりだね、なるほど…」
不愉快そうな表情で立ち上がると、ファルはシオンを強く睨み付けた。
 「ぼくの弟子を悪魔憑きにするなんて、よくもやってくれたね?」
 「悪魔憑きだと?ナルの魂は我と同等となった、すでに人ではない」
その言葉にファルは奥歯を食いしばる。
最愛の弟子を人より離したのは自身であるくせに、その現実を軽々しく否定する言葉は聖職者の逆鱗を撫でるのだ。
悪魔の言葉に耳など貸さぬよう、ファルは聖書をつよく握る。
 「祓ってみせるよ、いつか必ず」
退魔師としての宣戦布告は強い意味を含み、まるで呪いのようにシオンへ届く。
ファルは弟子に視線を移し深呼吸をし、決して揺るがない決意を告げた。
 「ナル!弟子を卒業するまでは、絶対にそういう間柄にはさせないからね!」
師からの宣言に狼狽えつつ、ナルは念のために問う。
 「あ、あのちなみに私の卒業は…いつに…?」
 「もちろん、ぼくが死ぬ日まで卒業はないよ!」
 「ファルさん無茶苦茶だな!」
ファルの即答に、たまらずステアのツッコミが入る。
しかしファルは聞く耳を持たず、ナルへと言葉を続けた。
 「これからは師として厳しく接していくから、そのつもりで!」
その言葉にナルは驚きつつ、素直に「はい」と返事をした。
師が反対するのは退魔師として分かっていたが、まさか自分に好意があったのは驚かされた。
あの時ファルに出会わなければ、自分はプリーストになれていなかっただろう。
自分の全てを担ってくれた、ただ一人の運命の相手。
ナルはその出会いと奇跡に感謝した。
 「あの、師匠…すこしだけ、いいですか?」
 「うん…なに?」
慣れたやり取りに、互いに冷静さを取り戻してゆく。
いつもの声色の師に安心し、ナルは心を砕きながら告げる。
 「私を弟子にしてくれて、どうもありがとう」
その言葉は、どんな名言より響き渡った。
ファルが持ちうるすべての想いが、風のように揺さぶられた。
 「うん…ぼくの方こそ、ずっと付いてきてくれてありがとう」
たったこれだけで自分は満足できてしまった。
退魔師は観念する。
ただの弟子である彼女がそこにいる、それだけで良かった。
それの為だけに、心を果てさせる決意ができた。
師弟のやり取りに決着がついたところで、ユグがカレーをよそった皿を次々に運んでくる。
 「なんだかドラマティックに話もまとまったようですし、狸カレーで満腹になりませんか?」
 「はーい!賛成!」
ミカがいち早くカレーを口へと運び、舌鼓を打つ。
それにつられて皆も席に付き、遅すぎる幸せな夕食が始まった。



ナルの記憶が戻り復帰を果たした、それはストレイキャットにも日常が戻ったことも多く意味していた。
今回の一件は各々に負担こそあったが、より絆を深めたいい機会でもあった。
 「んじゃうちは先に寝るぞ、おやすみ」
ステアとユグは夕食後、さっさと湯浴みを済ませると就寝するために部屋へ向かった。
 「ちょっと待って寿、報告書その内容でいいと思うのかい?」
 「いやだって…もう、書くことないですし…」
寿とファルはアサシンギルドへの報告書をどうするか話し合っている。
ミカはその様子を眺めつつ朦朧としており、もはや部屋へ向かうのも時間の問題だろう。
そこへ湯浴みを終えたナルもリビングに顔を出し、穏やかな空気に笑みをこぼす。
 (ふふ、やっと帰ってきたって感じする…)
まだすこし話足りない気もしたが、ファルと寿の邪魔をしてはいけないと二階の自室へと向かう。
扉を開ければ出窓の正面、そこにシオンが外を見ながら佇んでいた。
 (シオン、ここにいたんだ)
先ほどリビングで見掛けなかったのはこういうことだったのだと、ナルは納得した。
今宵の月の青白い光はなんとも幻想的に部屋を照らしており、ナルはそっと扉を閉めると髪にタオルを当てがいつつソファに腰を降ろす。
自分が部屋に入ってきたのを分かっているはずなのに、振り向かないシオンの背中を見つめる。
 「…どうしたの?」
沈黙を先に破ったのはナルだった。
その声に呼応するかのように、シオンは視線だけをナルへ向ける。
月明かりを含んだ紫電の瞳は、その深みをさらに増しているように見えた。
 「そなたの選んだ道、その先のことを考えていた」
きっと例のファルとのやり取り、それが原因だろう予測はついた。
退魔師としてのファルにより現実を突き付けられる形となり、シオンが動揺したのは確実。
 「これでずっと一緒にいられるよ、私もそうしたかった」
 「…今は、な」
シオンの言葉に、ナルは返事に詰まってしまった。
きっと心のその先、考えるよりずっと深い所にシオンの心があるのだとうっすらと悟る。
 「そう…じゃあ私がどういう選択をしたら、シオンは満足した?」
ナルの問いにシオンは瞳を伏せ、難しい表情を浮かべた。
あの状況下ではナルの心を戻したい一心、ただそれだけであり目的を先行したのは事実で、その結果シフェルの言うままに契約をしてしまった。
しかしそれを振り返ったところで選択を変えるかは分からず、冷静になった今考えてみても彼女をどこへも離したくない気持ちは確かに己にある。
 「そうだな…やはりいつかは、この選択を懇願していたかもしれない…」
月を見上げるシオンはどこか遠い場所にいるように見え、声を掛け続けなければ消えてしまいそうでもあり、ナルは心を締め付けられるようだった。
今回の事で、自分は世界で唯一のひとりぼっちという枷を持っていることをナルは知ってしまった。
しかしそれはゲフェニアの悪魔の孤独、それをようやくすこし理解できた事もあり誇らしくもあった。
 (でもきっと、私もひとりぼっちだからなんて…言ってはいけない…)
決して孤独な気持ちを寄せ合いたいわけではなかった。
寂しさのその先、そこに未来があると信じて、共に分かち合いたい。
どう考えを巡らせても、戻ってくるのはやはりそこだった。
ナルはシオンの答え合わせにならずともいいと、そう思い言葉を紡いだ。
 「…これだけは信じて…ずっと一緒にいたいと思った気持ち、それは本当だよ」
 「ああ、ありがとう…」
シオンはそれだけで充分だと、彼女の言葉を飲み込んだ。
いつかナルが心変わりする日が来るかもしれない。
そうなった時、はたして己は冷静でいられるだろうか。
 (…ああ、恐らく無理だな…)
自問自答し、その答えに苦笑しながらシオンはようやく振り向く。
 「信じよう、ナルの気持ちとやらを」
 「ふふ、よかった!」
シオンの言葉にようやく笑顔を浮かべ、ナルはゆっくりと立ち上がった。
 「…む、どこへ?」
 「お師匠様におやすみだけ言いたいから、様子を見てこようかなって…」
 「ああ、そういえば寿と話していたな…なら代わりに見てこよう」
シオンはナルの頬を撫で、ファルより先に「おやすみ」を告げリビングへと向かう。
当のリビングではファルが黄金色をした果実酒をグラスにあけており、降りてきたシオンに気付いた退魔師は微睡んだ瞳に悪魔の姿を映した。
 「おや、悪魔くん…僕と一杯どうかな?飲めるクチだろ?」
意外な誘いだった。
 「構わないが…ナルが就寝の挨拶をしたいと言っていたぞ、いいのか?」
 「え、いくよ、すぐいく、ちょっと待ってて」
髪をかき上げ、虚ろ気味だった瞳を開き、襟を立てなおすとファルは二階へと向かった。
ファルのことだから長くなるだろうと自らのグラスを用意したが、思っていたよりもずっと早く彼はリビングに姿を現した。
 「…早かったな…」
 「あんな事があった後だからね、はやく休んでほしいじゃないか」
酒の匂いをまとわせつつも理性はしっかりある様子に、シオンはすこし安堵した。
 「でも、もうちょっと話せたらと思ったけど…」
こうして本音が出るのは、きっとアルコールが回っているせいだろう。
シオンもグラスに注いだ酒を煽ると、それはなんとも甘く口当たりの果実酒だった。
 「しかし、貴様から酒の誘いがあるとはな…おどろいた」
ソファへと腰を降ろすとき、酔い潰れた寿が床に転がっているのに気付く。
 「…寿はここでいいのか?」
 「ああ、いいよ」
ファルの即答に怪訝な表情を浮かべつつ、間違って踏まないようシオンはカーペットの方へ寿を転がした。
グラスに新たな酒を注ぎつつ、ファルは改めてシオンを見た。
紫電の瞳は今回のこの件で、以前よりはるかに柔らかなものになったと思う。
 「今まで君と向き合って話す時間なんて無かったな、と思ってさ」
本当は今すぐ退魔の魔法を詠唱したいんだ、と付け加え、ファルは杏で造られた果実酒を流し込むと、その華やかな香りを楽しんだ。
確かに二人で話をしたことはなかったと思い、シオンも酒の力を借りるべく果実酒を流し込んだ。
 「さて、駆け引きはしたくないんだ…いいかい?」
ファルの言葉にシオンは頷く。
 「それはこちらもだ、さっさと腹の内を見せろ」
 「じゃあ遠慮なく…君はどうして傍にいる者にナルを選んだの?」
それは互いが想像するより、ずっと勇気がいる問いだった。
一度でも口に出してしまえば言葉は溢れ、もはやファルが止まる理由などなかった。
 「ふたたび封印される恐れがあるから?」
 「違う、恐れなどではない」
きっぱりと言い切ったシオンは、彼女をつよく想うようになった、あの時のことを心に浮かべる。
 「ゲフェニアからの解放、その際にナルから孤独に寄り添う…と、それから決めていた」
 「そうか、あの時点でやり取りがあったんだね…」
それはまだシオンがゲフェニアの悪魔として、殺戮と戦いを渇望していた頃でもある。
ファル自身は身体を乗っ取られたり、ナルは生死を賭けた魔法を執行されたり、正直あまりいい思い出ではない。
あれよりファルがずっと気に掛けていたのが悪魔を従わせたナルであり、二人の間でなにか取引を行ったのではないかとずっと案じていたのだった。
 (悪魔ですら放っておけないなんて、ナルらしいな…)
弟子の優しさを微笑ましく思いながら、ファルは同時にため息をつく。
さらに解決したとはいえナルの中に魔王シフェルの魂があったと聞いたとき、さらに一つの疑問が浮かんだ。
もう魔王の魂が無いのに、シオンがナルに付き従う理由はないのでないか、と。
 「それでもう魔王の魂はなくなった訳だけど、君はこれからどうするの?」
訪ねられたシオンは首をかしげる。
 「…どうする、だと?ナルと共にいるが?」
 「それは本当に君の意思なの?」
ファルが杞憂する理由に気付き、シオン「あぁ、そういう事か」とグラスを傾けた。
 「我がナルに溺れる、その理由が欲しいのだな?」
シオンの言葉にファルはすこし唸った後、観念して頷いた。
彼もまたナルに心惹かれているのは事実。
昼間にナルからは「自分で選んだ」と聞いたが、まだ何処かで期待を寄せているのだろう。
はっきりと交わされた契約の話しをするべきなのだと、シオンはグラスを置くと口を開いた。
 「意思も何もナルは我の眷族になった、あるべき未来はそれだけだ」
そのキーワードにファルが反応する。
 「…なに?眷族、だって?」
シオンはファルの空っぽになったグラスに酒を注ぐ。
 「そうだ、ナルの魂は我のモノと同一となり、ナルはその全てが人より離れた」
人間とエルフの間の子。
完全な人であるとは言えない彼女が、今やその魂までも魔に傾いた。
 「だからぼくでも祓えないと?」
 「そうだな、我でももはや魂を別け隔てることは叶わぬ…神であれば、あるいは…」
確かにそれはたぶらかしたなど、そんな言葉では到底敵わぬほど深い契約であり、ファルは眉をひそめ酒を飲み干す。
一方のシオンといえば、己の心臓と重なるように刻まれる律動にナルの魂を感じ、ただ幸せそうに目を細めて告げる。
 「ナルは人でも魔でもない、唯一無比たる我が君となった」
うっとりと答えたシオンに、ファルは彼が悪魔であったことを再認識させられる。
彼が昼間、婚姻の話しになった際に「人同士のそれとは大きく違う」と濁した理由も分かり、愛弟子の手に入れた大きな変化に師として寄り添える準備に掛かる。
 「それで眷族になったナルには、具体的にどういうことが起こるの?」
ファルの問いにシオンは考えを巡らせる。
見た目の変化はそもそも起こらなかったし、魔力や性格の変化も感じられなかった。
まだ確かめてもいないが、可能性の強いものを導き出し口にする。
 「魂をよこしてきたからな…不老の長命になっただけだろう、ナルの本質は何も変わらないだろうな」
その言葉に頷くがやはり何処か納得がいかず、ファルは唸りながら頭を掻きむしった。
 「どうした、かなり不満そうだな…」
 「そりゃね、ぼくのかわいい弟子なんだから当然だよ」
もう手が届くことはないかもしれない。
そう思うだけでファルは気分が沈んでいくのを感じる。
 「ナルには寂しい思いをさせるだろう、だが後悔はさせないよう善処はする」
その言葉に確かにシオンの意思を感じ、ファルは頷いて理解を示した。
シオンが注いでくれた最後の酒を一気に飲み干し、耐えきれなかった胸の内を聞く事にした。
 「…その眷族って、さ…人間の夫としてなら隣が空いてるってことだよね?」
その言葉にシオンは眉をひそめる。
 「…そんなものは知らん、ナルに聞け」
 「あ、ナルがいいよって言ったら、いいんだね?」
ファルのしつこさに眩暈がしそうだったが、これには流石のナルも拒絶するに違いない。
シオンはそう確信し、自信たっぷりに答えた。
 「ああ、ナルがいいというなら構わないぞ?」
ファルはアルコールに浸された脳を動かし、そうなった未来を思い浮かべてみる。
朝から妻となった弟子と朝食をとり、昼はともに退魔師として協力しあい、夜が訪れれば寄り添い合って愛を囁きながら眠りにつく。
それは自身にとって都合のよい幸せな未来で、想像にも関わらずニヤけてしまうのを止めることができなかった。
 「ふふふ!お師匠様、めいっぱい頑張らないといけないなぁ!」
 「…話は変わるが…封印の一族の宝を狙った輩、その検討はついたのか?」
敢えて取り合わないように問い掛けたシオンの言葉に、顔を上げたファルは頷く。
 「ああ、レッケンベルの人間で間違いないだろうね、明日には調べるつもりだよ」
 「そうか…ナルが其処に保管されていたこと、それは何処から洩れたと思う?」
シオンの言葉にファルは「うーん」と唸ると、頭の中で順番に物事を整理し始める。
あそこにアリスの子供を保管しているのを知っているのは、代々続くトゥエラーシュ家の人間のみ。
ミカの話しを聞く限り、当主か当主候補でなければ知ることができない仕組みであるのは確実、つまり…。
 「ナルの年齢を逆算して十八…それより以前に盗まれているのは確実だからね」
 「なるほどな…」
 「先代当主より前の当主あたりが、情報を売った可能性があるよね」
トゥエラーシュ家が急激に栄えた近辺が怪しいかもしれない、と付け加えたが今となっては知る由も無い。
魔王の子供が存在するとリークしているのなら、その時点でナルを高額取り引きに出している可能性がある。
しかし、ミカからは「盗まれた」と聞いた。
もしかすると売りはらった後、当時の当主が「盗まれた」と歴史を塗り潰したのかもしれない。
可能性を考えると人間の嫌な部分を目の当たりにしそうで、ファルは今から荷が重いと苦笑した。
壁の時計を見れば日付けはとうに変わっているのに気付く。
 「さて、そろそろぼくも休むよ…色々とありがとうね」
そういうとファルは立ち上がり、右手をシオンに差し出した。
 「恋敵としては許せないけど…ナルのこと、よろしく頼むよ」
形はいびつながら和解は出来たのだろう。
そう思い、シオンも手を差し出し握手をする。
 「人間の心のやりとりは分からんが…、任せるがいい」
その言葉にファルは苦笑しつつ、客部屋へ向かった。
まだグラスに残された酒を飲み干し、シオンもナルの部屋へ足を向ける。
部屋に入ればナルは安心しきった寝顔を浮かべていた。
 (ようやく、戻ってきたな…)
もうあの不安そうな寝顔ではないことに、シオンは胸を撫で下ろす。
寝ているナルの頬を撫でてやればタイミング良く寝返りを打ち、ナルはその唇を開く。
 「…ん、師匠…」
まさかこの場面でファルの名を出されるとは思わず、シオンはソファに腰掛けると苦笑した。
 「…ふふ、これはなかなか手強い退魔師かもしれんな…」