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第14話 魔王の嘆き、悪魔の契約

夜の帳が下り、魔法都市は人の営みを静寂へと変えてゆく。
その街中を征くは、ストレイキャット達とゲフェニアの悪魔。
いまも意識の戻らぬナルを背負うシオンは、自分を永らく封じてきたゲフェンタワーを見上げる。
月明りに照らされる真白の巨大な建築物は、闇夜の中で存在感をさらに増していた。
 (始まりの場所…)
シオンはナルを背負い直し、彼女との軌跡に想いを馳せた。
 「…よし、誰もいないな?」
ステアの声に仲間たちは周囲を警戒する。
夜ともなればゲフェンダンジョンに向かう冒険者もなく、タワーへの入り口へ向かう姿はいささか目立つ。
人の気配がないことを念入りに確認した彼等は、ようやくウィザードギルドへ向かう階段を登り始めたのだった。
 「階段ながすぎ…!死ぬほど疲れる!!」
 「ほら!頑張れ寿、あとちょっとだよ!」
はやくも音をあげた寿を、ファルが奮い立たせる。
 「べらぼうに多い!ここの階段、数万はあるな?!」
 「ないから!錯覚だから!」
二人のやりとりを横目で流しつつ、シオンはナルを幾度となく抱え直す。
彼女の伏せられた瞼、その先に広がる紺碧の海は望郷の彼方のように早る心を揺さぶる。
 (…ナル、そなたは…なにに捕らわれているのだ…?)
憂いながらも階段を昇ると、ようやくナルが記憶を失った階層へと辿り着いた。
 「…他に誰もいないわね?」
ミカの問いに神経をぴんと尖らせたユグが頷く。
もう迷宮の森のように、誰かに見られていたなどあってはならない。
いつもより疑り深く、細心の注意を払う。
人の気配が完全にないのを確認したユグは合図をした。
その合図を見届けてからもミカは念入りに人払いの結界を準備し、ようやく魔法を使う準備をはじめた。
ファルから聖水の入った小瓶を受け取り、床にその中身のすべてを撒く。
手にしていたスタッフオブソウルを操り、聖水で床一面に魔方陣を描いてゆく。
少量しかなかった聖水は魔法の行使を受け、蒸発せず床にて今もその姿を湛えている。
 「さて…陣はこれで完成よ、二重の君はナルを中央へ」
ミカに言われるまま、シオンは魔方陣の中央にナルを降ろす。
 「皆にもすこし協力してもらうわ、ステアはそこに…ユグはあっち、寿はここ、ファルさんはあそこ」
ミカはストレイキャットのメンバーを、それぞれ魔方陣に方々へ配置してゆく。
 「あのぅ…ミカ様?ぼくらって、もしかして生け贄ですか?」
寿の問いに「万が一の時、皆の魔力も借りるだけよ」と答え、シオンには一際複雑に描かれた場所へ指示する。
 「二重の君はあそこよ」
そこはナルを挟み、ミカと対照になる位置。
よく観察すれば、ミカの足元には太陽の紋様、シオンの足元には月の紋様が描かれている。
 「さて…始めるけど、魔方陣を壊さないように気を付けてね」
 「壊したらどうなりますか?」
寿の質問にミカは目を閉じ、ため息をゆっくり吐き出す。
 「一蓮托生、みんな今生の別れになるわね」
ミカが隠すことなく告げた死の宣告に、それぞれが戦慄した。
 「長期戦になるかもしれんし、うちは座ってまったり協力するかな」
ステアはそう言うと、魔法陣に触れぬよう慎重に腰を降ろす。
それに習い、ミカとシオン以外はそれぞれ楽な姿勢をとり、これより行使される魔法に臨むことにした。
それぞれ準備が出来たのを確認し、ミカは杖に括り付けてある小さな鈴をチリンと鳴らしてシオンへ告げる。
 「戻りはこの鈴の音を辿ってちょうだい、それがこちら側への道標よ」
 「ああ、承知した」
シオンは一度だけつよく頷き、陣の中央にて昏睡しつづけるナルに想いを馳せる。
 (迎えに行く、もうすぐだ…)
ミカの翡翠色の髪がゆっくりと赤味を帯び始め、それは夕焼けのような真紅色に染まる。
 「お、はじまったな」
ステアも緊張した面持ちで、ミカの様子を見守る。
ミカの伏せられていた瞳が開かれた。
それはステアよりも深い鮮やかな赤に染まっており、彼女の本気さがうかがえる。
ゲフェンタワーに宿る魔力、それはミカの予想を遥かに越えていた。
これならばナルとシオンを繋げることはさほど難しくはなさそうで、自信も出てくるというもの。
 (よかったわ、これなら皆の魔力まで必要になる事態はなさそうね)
想定外の好条件に心配事が減り、穏やかな心のままスタッフオブソウルをかざす。
魔方陣に使われた聖水が淡く光り、次第に七色の光へと輝きを増してゆく。
 「さあ二重の君、目を閉じて、コンタクトを開始するわよ!」
シオンは指示通り、ゆっくりと目を閉じる。
身体から力が抜け始め、それは眠りに微睡むかのように意識が揺らぐ。
すべての感覚は鈍くなり、やがて何も感じなくなった。
まるで死のようだと思ったとき、遠くで鈴の音が聞こえた。

 ─二重の君、コンタクト成功よ─

ミカの声が聞こえる。
それは自分の内から広がり、身体を伝って耳に響いた。
呼応するかのように目を開けば、そこは氷で出来た洞窟のようだった。
 「なるほど、人を拒む表れということか」
ここはナルの心の内側。
氷で閉ざされた世界は、彼女への心を閉ざす様子そのもの。
吐息は白さを帯び、肌には刺すような冷たさ。
 「これほどまでに閉ざしていては、冷え切ってしまうな…」
青白く反射する光が洞窟内を照らしており、その光は奥に行くほどに強くなっていた。

 ─ナルとあなたと繋ぎ続けることは、私の方で限界があるわ─

そのミカの言葉にシオンは光が強くなる方へと歩き出す。
自分には限られた時間しかない。
のんびりと突っ立ってなどいられないのだ。

 ─限界の前になんとかしてちょうだい…ナルを頼んだわよ…─

ミカの声が遠退くのを感じ、シオンは歩く速度を早めた。
進むほどに光は増し、気温も上がる。
温もりと鼓動を感じながら、とうとうシオンは氷の洞窟から抜け出した。
光と氷のその先、そこは見覚えのある街並みが広がっていた。
 「ここは…ゲフェニアか…?」
それは自分が陥落させた、かつての魔法都市の姿。
まだゲフェンタワーもない、古の魔法に満ちた世界が広がっていた。
街の建物の配置、色合い、手入れの行き届いた茂る緑。
全てが古代ゲフェニアの姿そのものだ。
 「…これは一体、どうしたことだ…」
ナルが知るよしもない、かつての魔法都市。
何故に彼女の中にと考えていると、ある違和感に気付く。
 「人の営み、その気配がしないからか…」
ゲフェニアそのままであるのに賑わっていた人間達の生活感、その影も形もない喪失感は元より存在しない感覚を帯びており、それが違和感の正体であることにシオンは眉をひそめた。
 (廃墟…にしては、あまりに異質…)
考えを巡らせていたシオンの耳に、離れた場所から子供のはしゃぐ声が届く。
 (こども、だと?)
声がする方へ足を向ければ、小さな公園に辿り着く。
気配を消して慎重に様子を窺うと、そこには青い髪の小さな女の子が父親らしきアルケミストの男と遊んでいた。
アルケミストの男、その声にシオンは耳を疑う。
見覚えのある容姿は見間違うことなど決してなく、心臓は早鐘を打って起こるはずのない奇跡を知らせる。
 (あれは…まさか…!)
蜜柑色の混ざった白金の髪。
その顔に掛けられたミニグラス。
女の子を見つめる、優しくも血のような真っ赤な瞳。
間違えようもない。
自分を作りし魔王の二つ名を持つ、あの男。
 「シフェル!」
シオンは堪らず、その人の名前を呼んだ。
振り返ったアルケミストは目を細め、小さく「やあ」と答えてくれた。
しかし突然響いた声に女の子は笑顔を無くし、慌てふためきながらシフェルへ抱き付く。
 「大丈夫だよ、大切なお客様だからね」
女の子を優しく抱き上げたシフェルは、ゆっくりシオンの方へと身体を向ける。
その表情はいつになく優しく、とても懐かしい笑顔を浮かべていた。
 「やぁドッペルゲンガー、元気そうで何よりだ」
それは記憶の中のシフェルと寸分の狂いもない魔王の姿であり、かつて父と仰いだ男はそこに佇んでいた。
何を喋ればいいのか、シオンの頭の中は言葉でいっぱいだった。
 「…シフェルも、元気そうで…良かった」
ようやく口から出たのは、そんな言葉だった。
言うべきこと、伝えたいこと、それは山のようにあったはず。
シオンは口惜しそうに唇を噛む。
 「おや…随分と言葉に詰まっているようだな、これは感心だ」
言葉に詰まるシオンの様子を見たシフェルは穏やかに笑いながら、抱きかかえていた女の子を地面に降ろした。
女の子は逃げるようにしてシフェルの後ろに回り、その小さな手を伸ばす。
 「ふふ…そんなに怖がるもんじゃあないよ、おいで」
シフェルが笑いながら女の子の手を優しく握り返すと、怯えた様子もすこし落ち着いたように見えた。
彼女の深く青い瞳は、シオンの動向を伺っているようにも見える。
 「さてと…ナルを通して色々見させてもらっていたよ、相変わらずな世界だったが…」
憂う表情を浮かばせたシフェルの言葉に、シオンはここがナルの精神世界であること、また自分は彼女を連れ戻さねばならないことを思い出す。
 「そうだ、我はナルを連れて帰らねばならない…」
 「…私を?」
シオンの言葉に、女の子が反応した。
よく見れば青い髪、紺碧の瞳…、そのすべてにナルの面影があるのにようやく気付いた。
 「ナル、なのか?」
シオンの問いに少女は頷く。
彼女こそ皆が目覚めを待ちわびている、ナル本人なのだと確信する。
 「よかった…さあ皆が待っている、我と共に帰ろう?」
シオンの言葉に、小さなナルは首をつよく横に振る。
差し出された手をつよく払いのけ、機嫌を損ねたナルはシフェルの足に抱き着いてしまった。
 「いやだ!父様と一緒がいい!」
ナルの言葉にシフェルは苦笑しながら、その頭を優しく撫でてやる。
一方、よもや拒絶されるなど想定していなかったシオンは、その拒否の強さにすくなからず衝撃を受け、ただ呆然と立ち尽くす事しか出来なかった。
 「ふふ、甘えたな娘ですまないな」
 「いや…いつもの姿とは違うゆえ、こちらも調子が狂うが…」
シオンの言葉にシフェルはミニグラスを直しながら、穏やかに笑顔を浮かべた。
彼のまとう雰囲気は記憶と変わらぬもので、魔王の出立ちと漂う緩やかな空気にシオンは心が満たされていくのを感じる。
 「しかし、どうしてシフェルがナルの中に…?」
シオンは思い切って、その疑問を口にする。
一方のシフェルといえば、目を細めると神妙な面持ちを浮かべ口を開いた。
 「魔王の嘆きには、私の意識だけを生かし続ける呪いが掛かっているからね」
 「呪い…?」
魔王はミニグラスを直し、言葉を続ける。
 「歴代の嘆きの全てを見てきたよ、その命を吸い取りながらね」
つまりシフェルの意識を維持するうえで必要であった代償こそが、選ばれた者の命を吸い取るという呪いだったのだ。
魔王の嘆きと呼ばれる所以。
また、そのアイテムがどうして自分を押さえ込む事が出来るのか。
歴代の嘆きとなった者たちが、なぜ朽ちていくのか。
ようやく納得できる形に落ち着き、シオンは苦虫を噛み潰したような心持ちに眉をひそめた。
 「まさかナルが候補になるとは思わなかったけど、おかげでずっと共に居れたよ」
トゥエラーシュ家とは縁のないナルが、最後の魔王の嘆きに選ばれた理由。
それは父であるシフェルが娘であるナルと共にあるため、自ら最後であると選んだ道だったのだ。
 「どうりで…」
今までナルに感じていたシフェルの気配。
それは、魔王の嘆きに生き続けるシフェルそのものだったことに、ようやくシオンの中で合点がいく。
 「では…ずっと、封じられたあの日から…嘆きの中より全て見ていたのか?」
ドッペルゲンガーの問いにシフェルは頷く。
 「ああ、その通り、今となってはすべてが懐かしいね…」
歴代の嘆きだったトゥエラーシュ家の者達、その中から世界を見ていた魔王。
あの永く思い出すことすら苦痛な時間。
それを共有していたのだと思うと、シオンの瞳は熱く揺れた。
自らが造った悪魔の心揺さぶられる様子に気付いた魔王は、その成長を感じ取り優しく微笑む。
 「ほら、一人ぼっちじゃなかっただろう?」
その言葉は真実であり、シオンは頷くことしか出来なかった。
 「でもそれもお終いだ、全ての嘆きのレプリカが消えたいま、私に残された時間は少ない」
そう告げたシフェルは、その視線をナルへと落とす。
ゆっくり顔を上げたナルは、それは寂しそうな目で父を見つめていた。
 「娘の心配事も無くなったし、君も立派になった…かけられた魔法が解ける時間が来たのだよ」
シフェルの指す心配事、そのひとつであるレッケンベル社。
生体工学研究所から、ナルが今後追われることはないだろう。
狂っていたシオンも永い時を経て、ナルのお陰で完成に至った。
シフェルがナルに気付かれないよう、その場から離れようとする、が。
 「だめ!いってはだめ!」
父の行動に気付いたナルは、全力を以て制止にかかる。
ナルを引き離すのは容易ではないようで、ふたたびしがみ付いてくる娘に魔王は苦笑した。
 「本当はとっくに消えるつもりだったんだけどね、見ての通りだ…なかなか離してくれない…」
シフェルが言うには最後のレプリカを壊したとき、ナル自身がとうとう魔王の嘆きにかけられた父親の意識という呪いに気付いたらしい。
それをきっかけに凍り付いてしまった心は、シフェルが占拠していた嘆きの中のゲフェニアへ共に引きこもっているという。
これこそが彼女を記憶喪失たらしめている原因であり、いまなお心が現実を拒否し、内に潜む父と過ごしているのだ。
表面が空っぽになるのは、当然の結果といえる。
 「なるほどな…」
納得した様子のシオンに、シフェルはすこし疲れた表情を浮かべた。
 「私はあの施設が破壊されたとき、ふたたび消えようとしたのだけれどもね…」
本能的に父が去ることに気付いたナルは更に意識を閉ざし、さらに心の奥深くに父を閉じ込めているらしい。
 「あぁ…だから今度は眠ったように、戻らないのか…」
シオンの言葉にシフェルは困ったように頷く。
 「このままだとナルの心まで死んでしまうからね、帰してやりたいんだが…」
 「いやよ!いや!父様と一緒にいるの!」
シフェルの言葉を遮りナルが拒絶の言葉を口にする。
ナルの気持ちは分からないでもない。
彼女もまた長い間一人だったそれを、シオンはよく知っていたからだ。
 (しかし…)
そう、このままシフェルに預けてはおけない。
シオンは幼いナルと同じ目線になるようしゃがみこみ、自分を睨む少女に問い掛ける。
 「ナルはどうしたら納得してくれる?」
 「父様と一緒ならいいわ、それなら考えてあげる!」
いつになく高圧的な態度は本心の証。
普段は穏やかさを装っているが、本来はワガママを通したいこともあるのだろう。
彼女なりに我慢していたのだと思うと、シオンはどこかナルに甘えていた自分を恥じた。
 「…そうか、共にいるのが我ではダメか?」
少し考えた様子で黙り込んだナルだったが、上目遣いでシフェルをそっと見上げる。
シフェルは何も語らず、ただ穏やかに笑みを浮かべナルを見下ろしている。
その視線に後押しされたのか、ナルはふたたびシオンを見て口を開く。
 「ずっと?」
 「ああ、もちろんだ」
シオンの言葉をそれなりに考えているようで、不服そうな表情ではあるが真剣に悩んでもいる。
あともう一押しで納得してくれそうな手応えを感じ、シオンはゲフェニアでの言葉を告げた。
 「我はナルと添い遂げて構わない、その気持ちは今なお変わってはいない」
その言葉にはっとした表情を見せた後、ナルはまた首を横に振ってしまった。
 「いや!一緒にいるのは父様がいい!」
また入ってしまった拒絶のスイッチに、シオンはもはやお手上げといった様子で頭を掻いた。
自分に縋る娘の頭を撫でるシフェルの頭に、一つの妙案が浮かぶ。
 「あぁ、そうだナル、ドッペルゲンガーと契約を結んだらどうだい?」
父の言葉にキョトンとした表情を浮かべ、ナルはただ首を傾げた。
 「けいやく?」
 「そう、魂を代価に主従契約したらいいんだよ」
 「待てシフェル、それは…!」
魔王の提案にシオンは慌てた。
彼に造られた悪魔とは人間の何倍もある力、魔力、命が備え蓄えられている。
人間と悪魔との間で取り引きをすれば願いをひとつだけ叶えることができるのも特徴のひとつで、願いの代価となるものは人間が差し出す物の価値と比例し、また願いの強さと難しさによっても変わってくる。
しかも、その契約の力は絶対的なもの。
途中で破棄するには、それこそ神による魂の書き換えか、契約した悪魔を殺さねばならないほどだ。
魔王の悪魔に隠された「契約」という秘密の機能。
さらにその秘密を知っているのは、創造主であるシフェルと作られた悪魔達だけ。
 (本来は私の切り札として備えた機能なのだがね…)
シフェルはナルにもシオンにも悟られぬよう、心の中で不穏な思いを燻らせた。
一方、そんな父からの提案に納得したナルは笑顔を浮かべ、シオンを見上げる。
 「私、あなたと契約するわ!」
 「だめだ!ナル、よく聞け!」
シオンは勇むナルを宥め、呼吸を整えて言葉を選ぶ。
悪魔と「契約」するということ、それはつまり。
 「主従となり永遠に共にあるなど魂を代価にしなくては契約など成立しない、すなわちそなたは我の眷族になるのだぞ?」
悪魔の眷族化、それは人を捨てること。
魂を渡すほど共にありたいという強い思いは、人の身では耐えられない。
己の存在を明確にし悪魔により近くなる願い、それは人を捨てねばならない。
 「けんぞく…?」
 「ああ、一度なってしまえば、離れるには神の手でも借りねばならない」
 「ずっと一緒なのに?」
ナルの問い掛けにシオンは言葉を詰まらせる。
眷族となれば、共に気の遠くなる刻を生きなくてはいけない。
また、主従ゆえ、そう簡単に死ぬこともできない。
ナルが仲間と共に歳を重ねることも、人として生きる喜びを感じることもなくなる。
自分のように欲を押さえ付けながら生きねば、心は簡単に闇に落ちてしまう。
ほんの数日前に出会った深淵の騎士がそれである。
あのヒラリーと名乗った深淵の騎士は人間だった名残りを瞳に宿し、その魂を闇に乗せていた。
彼は悪魔に願ったようではなかったが、ナルもいつかは人の世を捨てる選択をする時が来るだろう。
そんなもの、容易に想像出来る未来だった。
 「一人にはさせるつもりなどないが、誰ひとり追うこともできないのだぞ?」
ストレイキャットの仲間たちを見送り、刻を止めた彼女は何を思うだろう。
その身を呪おうとも、眷族となっては契約した悪魔へ逆らうことはできない。
それは契約した悪魔も同じ、眷族は殺せない。
互いに離れることも叶わず、永遠の地獄に身を染めるしかないのだ。
 「たとえそれでも、ナルは我と契約することを望むか?」
シオンの言葉に、幼いナルはごくりと喉を鳴らす。
 「わ、私は…」
 「我の隣に並ぶに必要なのは、諦めないこと…それだけでいい」
戸惑うナルを押し止めるよう、シオンは紫電の瞳で射貫く。
悪魔の囁きとはよく言うが、彼女を押し止めるには十分の効果があるようだった。
 「随分と心配症になったな、ドッペルゲンガー?」
シフェルはクスクスと笑い、ナルの頭にぽんと優しく手を乗せた。
 「大丈夫だよ、私とアリスの娘だ、心は飲まれないようになっている」
魂は魔王の香りをまとい、名前は深い闇に染まらないよう祈りが込められたもの。
それは、母より悪魔達へ制裁を与える可能性を見越して仕組まれた属性。
 「つまり、魂を代価にしたとて、他の人間と契約するような主従にはなれないということさ」
 「それは、ナルが眷族にならなくとも済むのか?」
シオンの問いに、魔王は首を横に振る。
 「魂を貰えば眷族化は免れない、しかし魂を解放する余力は残ると考えていい」
不完全な形で契約成立できることを説明し、シフェルは懐から取り出したメスをシオンに渡す。
 「安全装置が働く契約と考えればいい…さてと、ナルはいい加減戻りなさい?」
シフェルの言葉でナルはおずおずと身を離し、瞬く間に姿がゆらいだその先、それはシオンが見慣れたプリーストの姿。
父に諭された為か表情はあまり浮かないが、いつもの彼女の姿にシオンは安心感を覚えた。
もうあの記憶を無くし、頼りなさ気に憂う彼女はいない。
それだけで心が穏やかになるのを感じるのだから、やはりナルへの特別さは別格なのだとシオンは苦笑した。
 「父様…」
ナルはなにか伝えたい様子だったが、それを分かっているのかシフェルは首を横に振った。
 「刻が満ちた、それだけだよ」
シフェルの言葉にナルは浮かない顔で笑顔を作る。
短い時間ではあったが、既にこの世にいない父と心を通わすことが出来た。
それだけでも十分幸せだったのだと、ナルは自分に言い聞かせる。
一方、シオンは左の小手を外して、その掌へシフェルのメスで器用に魔方陣を描いてゆく。
 (あの紋様は…)
どこかで見たと記憶を巡らせるナルに、思い浮かんだ場所は二つ。
それはゲフェンの噴水の台座と、ゲフェンダンジョン地下の水晶の台座に描かれている紋様と確かに同一であった。
ぽたぽたと流れ出る血に視線を奪われていると、シオンに右手を取られた。
 「すぐに済ませる、耐えてくれ」
そう言うが早いか、今度はナルの右掌に同じ紋様を彫り始める。
 「…っ!!」
刻まれる傷は浅いモノであるが、刃物を入れられる痛みは想像を超えていた。
メスは止まることなく魔方陣を描き、その痛みから逃げようと腕は震える。
何とか意識を逸らそうと、ナルは堪らず口を開く。
 「父様、私の心の中で契約して大丈夫なの?」
ナルの問いにシフェルは頷く。
 「契約とは魂に刻むもの、むしろここの方が都合がいいだろうね」
 「他にはどんな方法があるの?」
 「うーん、そうだね…」
痛みで苦痛に顔をゆがませながら、ナルは父の言葉を待つ。
 「瞳には無限の魂が宿るとされるから、眼球をえぐりだしてもらうとか…それからあとは、臓腑の一つである…」
 「シフェル!」
シオンが遮ったことにより、ナルがその先を聞くには至らなかった。
思ったよりも悲惨な内容に呆然としたが、右手を見ると魔方陣はすでに完成しており、シオンといえば父へメスを返している。
シフェルは言葉を遮られた事とナルの様子にクスクスと笑い「どうも」と心にも思っていない言葉を伝えると、懐に大事そうにメスをしまった。
 「…ここで良かったかも…」
 「気にするな、シフェルがからかっただけだ」
シオンは互いに刻まれた魔方陣が重なるように、その手を握る。
 「…父様、ほんとうにからかったの?」
 「さあねぇ…魂を代価にする程ならそれなりの段取りが必要だけど、どうかなぁ…」
肝心の父は首を傾げて、とぼけている。
 「うん、もう…いい…」
ナルが諦めると、シオンが何かを囁き出す。
よく耳を済まして彼の声に集中するが、どうも人間の言葉ではないようで意味を理解することは出来なかった。
 「…契約者の名前は?」
唐突に尋ねらたナルは驚き、思わず手を離しそうになった。
しかし互いの手がくっついており、離れることはなかった。
シオンと自分の魔方陣が一つとなっている、そのことに気付く。
先ほどまで流れ落ちていた血は止まっており、重なり合った手を通し、お互いの身体へと血と共に魔力が送られているのをナルは感じた。
 「…契約者の名前は?」
 「ナル」
再び尋ねられ、ナルはその名を答えた。
すると次の瞬間、立っていられぬ程の目眩を覚える。
たちまちゲフェニアの街並みを色を無くし、花吹雪のようにゆっくりと消え始めた。
 「これは…!」
突然変わった現状にシオンが戸惑っていると、予め分かっていたようにシフェルが呟いた。
 「ナルが新しく生まれ変わったからね、ここもリセットされるのさ」
ミニグラスを外しレンズを拭く魔王は、足元から少しずつ透明さを増している。
おぼつかない足取りのナルは縋るようにシフェルに手を伸ばすが、もうそれが届くことはなかった。
 「あぁ…!父様いかないで、お願い…!」
ようやっと絞り出した声で父を求めたが、魔王は首を横に振るだけ。
その時、シオンの耳に鈴の音が届く。
 「ナル、もう行かないと!」
 「いや、父様…っ」
なんとかシオンに抗ってみるが抵抗虚しく、ナルは簡単に抱きかかえられてしまう。
 「さあ行けドッペルゲンガー、ぼくとアリスの宝物は確かに託した!」
シフェルの言葉に頷いたシオンは、あの氷の洞窟を目指しナルを抱えて走り出した。
父との別れ、それにナルはただ涙を流す。
意志とは裏腹にいうことを聞かなくなった身体を憎く思う。
苦し紛れに自分を抱きかかえるシオンの腕に、彼女は無意識に爪を立てていた。
残されたシフェルといえば、ゲフェニアが自分と共に消える様子を感慨深くただ見守っていた。
 「灰塵に帰す、か…」
乾いたペンキが剥がれ落ちるように、ナルと短い時を過ごした街並みが消えてゆく。
ナルが選んだ道もこの目で見届け、シフェルは満足そうに赤い瞳を閉じた。
 「ヴァルハラへ行けない私の魂は、また…君に会えるのだろうか?」
瞼の裏に浮かぶのは紺碧色の髪と瞳を持つ、娘と瓜二つの外見をしたエルフのアルケミスト。
彼女とナルの声も全く同じで、その全てにシフェルは驚かされたものだ。
もう色も無くすほど透明に近くなった魔王は、最期とばかりに心の声を口にした。
 「どうか私の造り出した悪魔が娘を笑顔にしますよう…」
全てを言い終える前に、シフェルの世界は終わりを告げた。