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第13話 奪還、そして目指すは

シオンよりも先に問診を終えたナルは、次の検査のため洗浄を目的としたシャワー室へと案内されていた。
壁も天井も埋め尽くす真白のタイル。
減菌のための薬品の独特な匂い。
使用頻度の少なさを示す乾燥した空気。
そのすべてが日常からかけ離れたものであり、異質すぎる空間にナルの不安は膨れ上がる。
 「終わったら声をかけて下さい」
ナルを連れてきた若い男の研究者は必要以上の会話をすることなく、押し付けるようにして白いタオルを手渡してきた。
その機械的な行動に躊躇ってしまったが、なんとか感謝の意を伝えようと顔を上げる。
しかし研究者の男は瞬く間に退室し、シャワー室のドアはかたく閉じられてしまったのだった。
 「…はぁ…」
あらかじめシオンと寿からは、心細くとも脱出の準備が整うまでは研究所の人間に従うようにと言われている。
しかし、こうも物のように扱われると心は簡単に折れそうだ。
先程の問診でも研究者が何人も取り囲んでくるものだから、まるで自分が見世物にされたように思えたほど。
そうして、ようやく解放されたと思えば今度はこのシャワー室へと押し込まれてしまい、もはや拒絶が頭に浮かぶのも無理はなかった。
 (うぅ…もう、いやだ…)
今すぐにでも逃げ出したい気持ちは涙となりこぼれ落ち、頬を伝う。
これではダメだと自分を奮い立たせるため、己の溢れた感情に冷静さを取り戻すかのように目をこすってやりすごす。
しばらくして心を落ち着けたナルは、壁のフックへタオルと共に、まとっていたプリーストの正装をかける。
使い慣れない壁掛けシャワーであるが、蛇口を捻れば熱めの湯が頭上へと降り注ぎ、耐え切れずに浮かんだ涙も、湯とともに排水口へと流れてしまう。
 (準備ができたら合図するっていってたけど、いつまでかかるのかな…)
シオンは離れても信じろと言っていたが、すでに心は不安で押し潰されそうだった。
 (だめ、耐えなきゃ…!)
備えつけの石鹸を馴染ませると思ったよりも泡立ちがよく、ふわふわと柔らかな泡が充分すぎるほど出来上がる。
香り立つジャスミンの芳香に身を委ねていると、遠くから異音が聞こえた。
まるで土管を薙ぎ倒すような忙しない轟音と、あいだに悲鳴のような声。
 「…なんだろう…?」
シャワーの音に負けぬほどの大きな物音に不安になるが、今は命令に従わねばならぬ身。
なにか起きているのなら先ほどの研究者が迎えに来るだろうし、あれほどまで研究者たちの興味を引いている自分が放置される可能性は恐らく低いはず。
そう考えつつ律儀に身体を洗っていると、シャワーの水音を飛び越え、懐かしい声が耳に届いた。
 「ナル!いるのか?!」
凛とした力強い、魂を掬い上げるような勇敢な声。
それはストレイキャットのギルドマスター、ステアであった。
 「ステア様っ?!」
反応したナルに「ここだ!」と確信の声があがり、もはや遠慮など不要と告げるように慌ただしい足音が駆け寄ってくる。
再会は幸運の知らせとなって心細さを一切取り払い、濡れた身体など気にせず声のした方へ顔を向ければ、そこには息の上がったステアとミカが姿を現す。
 「二人とも、どうして…!?」
 「詳しい事は後だ、後!今はのんきにシャワーしてる場合じゃない!さっさとずらかるぞっ!」
そう言うが早いかステアはシャワーの蛇口を全開にし、ナルを包んでいる泡を洗い流す。
 「急いで!はい、タオル!ステアも手伝って!」
ミカもかなり慌てた様子で、二人は手荒く拭き上げにかかる。
自分の意志とは裏腹にもみくちゃに拭かれていると、シャワー室の出入り口からユグの詠唱する声が聞こえることに気付いた。
かなり焦っている様子だが、一句も間違える事なく呪文を唱え終えるのは一流の証。
すぐさま雷鳴が轟き渡ったことで、ユグがロードオブヴァーミリオンを唱えたのだと分かった。
 「みんな、一体どうしてここが分かったの?」
ようやく手荒いタオルから解放されたナルは状況が分からず、ステアへ問う。
 「寿からここに来るのは聞いてたからな、こっそり後を付けてきてたんだ!」
そう言ったステアはウインクをしてみせ、隣のミカも自信に満ち溢れた表情で頷いた。
 「建物の外で待機してたのだけど、なんだか騒がしくなったみたいだから便乗したのよ」
プリーストの服を手渡しながら「私はもっと早く突入してもよかったのだけど」と付け加えて笑む姿に、二人の気遣いを嬉しく思う。
袖に手を通しつつ、ナルはさらに浮かんだ疑問を口にした。
 「でも、よく私の居場所まで分かったね、こんな施設の奥なのに…」
 「にしし!鼻の効くスモーキーのおかげさ!」
ステアはいたずらを楽しむ子供のような笑顔を見せ、そう答えた。
確かにスモーキーの嗅覚であれば、ナルの匂いを追ってくるのは容易い。
 「このままシャワーで匂いを落とされたら、そっからはかなり危なかっただろうなぁ」
 「あ…そっか、匂い消えちゃうもんね…」
ステアの答えに納得していると、ユグの「まだダメだよ!」という叫び声と同時に、こちらへ駆け寄る足音が聞こえた。
 「無事か!?」
足音の主は、慌てた様子で姿を現したシオンであった。
 「あぁ…よかった、ナル…!」
ナルの姿を見て安心したのか、シオンは珍しく笑みを浮かべる。
しかし、ミカは怒り心頭といった表情を浮かべ、毛を逆立てた猫の如く彼に平手打ちを食らわせたのだった。
 「二重の君!まだだめ!」
思いがけないミカの行動にさすがのステアも目を丸くしたが、視線をナルに向けると思考は動き出す。
袖に手を通しただけのその姿は、まだ裸といえるほど肌を露出していたのだ。
 「きゃあ!」
己の状態に気付いたナルも悲鳴を上げたが、時を戻すことは叶わず。
事態を把握したシオンは気まずそうに視線を背け、ステアもタオルを使ってナルの身体を隠し顔を青くする。
 「うおお!シオン、後ろ向け!後ろ!」
 「あ、あぁ、すまない…」
すぐさま背を向けたシオンは、しばしの別れの間に去来していた心配の種をそれぞれ潰してゆく。
酷い目に遭わされていた様子はなかったが、怖い思いはしたであろう。
それを考えると、心臓が潰されるような気がした。
 「ナル、迎えが遅くなった…怪我などしてはいないか?」
背中越しに案じれば「平気だよ」と答えがあり、シオンはようやく胸をなでおろす事ができた。
また、先にステア達が救出してくれていたことで、ナルもかなり落ち着いたであろう事がシオンにも伝わっており、彼もまた二人とナルの再会に感謝したのだった。
ようやくナルの支度が整い、出入り口まで来たその先、廊下には焼け焦げた機械人形達が山のように転がっていた。
 「す、すごい数だな、これ!」
ゼエゼエと息を切らすユグは、苦笑するステアへ抗議を決意した。
 「あのねぇ!ぼくの精神力だって無限じゃないよ!ガス欠ぷしゅーだよ!?」
 「おお…!よし、よく頑張ったな!えらいぞ!」
ステアに褒められてすこし気を良くしたユグは、ナルの姿を見て安心した表情を浮かべた。
 「本当に無事で良かったよ、一緒にゲフェンに戻ろうね!」
その言葉にナルは強く頷いた。
仲間がいること。
それがどれ程心強いことであるか、胸に刻み込んだナルは「ありがとう」と心の思うままに応える。
 「こっちだよ、こっち!」
 「あれ!揃ってる?!」
再会を分かち合う仲間たちのもとへ慌ただしくファルと寿が姿を現し、ようやく全員が揃うこととなった。
 「いやはや、皆さん勢揃いで何より!」
寿を押し退けたファルは人目も憚らずナルをつよく抱き締め、彼女の様子を確かめる。
 「ナル!あぁ…良かった!すごく心配したよ!」
その言葉は心から出たそのもの。
妹の面影のある愛弟子の傷一つない姿に、ただ安堵した。
戸惑いながらも「ご迷惑をお掛けしました」と答えたナルに、自然とファルの瞳が潤む。
無事であった、ただそれだけで充分だった。
 「さあ!追っ手が増える前に建物の外に出るぞ!」
ステアの一声に各自頷き、長い廊下を走り出す。
建物の構造を把握しきっている寿は的確なルートを選び、脱出口までの道筋を案内する。
途中で現れる追っ手はステアの矢で、またはミカとユグの魔法で近付く前にガラクタにされた。
ひときわ広い廊下に出れば、寿が元気良く声を上げる。
 「ようし、この先が出口でござるよ!」
曲がり角に差し掛かったとき、寿をシオンが引き止めた。
 「…待て、何かいるぞ…」
そう告げたシオンは斥候を務めるため全員を下げ、警戒しながら先頭へと足を踏み出す。
出口と思しき扉の前、そこには一人の研究員と剣士の少女が佇んでいた。
 「あ!あいつ…!」
思わずファルが声を上げた。
それは牢獄にて自分に喰ってかかってきた研究員に間違いなく、相変わらず嫌な笑みを浮かべる姿にファルはふたたび嫌悪感を抱く。
そして彼の隣に佇む少女、その生気のない瞳にユグが反応した。
 「ねぇ、あの子、ちょっと変だよ…!おかしい…!」
スモーキーの本能で感じとった異変を口にする。
その言葉の意味を察したシオンは頷き応え、少女へするどい視線を向けた。
 「あぁ、人でも悪魔でもない、あれは…」
答えを言い終わる寸前、少女の姿はストレイキャットたちの視界よりゆらりと消えた。
今一度その姿を目で捉えるべく、それぞれが辺りに視線を投げた、その刹那。
凄まじい剣のぶつかる音が辺りに鳴り響く。
それは少女の太刀筋をシオンが剣で受けた音。
ストレイキャット達は紛れもなく、寸前のところで命を救われたのだ。
 「ヒェ!なんだコイツ!早ぇ!」
驚いた寿の声に研究員は笑い声を上げる。
 「生体工学兵器の試作品、イグニイゼム=セニアだ!」
 「試作品だって?!」
驚いたステアの声に研究員は興が乗ったようで、嬉しそうにさらに続ける。
 「身寄りのない少女の身体をいじってね、そこにモンスターの遺伝子を組み込んだのさ!」
その言葉にファルは絶望と怒りで心が震えた。
 「なんてことを…!!」
この研究所は、心を持たない生物兵器を作ろうとしていると噂では聞いていた。
まさかここまで人間に手を加え、人ならざる兵器を作っていたとは。
 (ナルよりもまだ幼い女の子、それが…!)
彼女はシオンに迫る能力を持たされ、その手に剣を握っている。
剣を交える姿は猛々しくも、光を宿さない瞳は死体のそれだった。
 「シオン!」
ファルの声に余裕のなさそうなシオンは、視線をこちらへ一瞬よこす。
 「抑え込めるか?!」
 「劣勢にはなりえないが、加減はできぬ!」
それは倒せるというシオンからの他ならぬ答えであった。
このまま戦いを続ければ、いずれはシオンに勝ちが上がる。
つまり、相手の少女を救うには至らず、かつては人であった者に制裁を与えることになるのだ。
 「おい!このままだと、あの子は持たないぞ!」
 「構うなセニア!戦え!敵を倒せ!」
研究員に少女を止めるように進言したが、ファルの言葉は届くことはなかった。
研究員の男は闘いの結果を求めるあまり、兵器と化した少女に無我夢中で倒せと命令し続けているのだ。
 (こいつ…!)
奥歯を噛みしめ、ファルは戦況を判断する。
少女の身体は力の限界を越えているように見えた。
それは剣を振るう度に腕がぶれるせいで、剣を交えるほどに異様な方向に曲がってゆく。
それでも攻撃の手を休ませない姿は、まるで疲れも痛みも感じていない様子。
関節を捻じりながら、ただ腕の力のままに剣を振り下ろし続けるのだ。
 「ファル!お前の祝福で魂は戻せるのか?!」
シオンの声にファルは舌打ちをした。
 「ぼくのリザレクションだって、届きはしないよ…!」
ファルの答えは、少女にはもう魂などありはしないことを窺わせる。
そして、闘いを見守るストレイキャットの面子は息を呑み、ようやく確信した。
少女の身体は髪の毛ひとつたりとも、もはや彼女の物ではないと。
 「貴様、止まらぬと崩壊するぞ!」
剣を交えるシオンの声も虚しく、少女が次に剣を振り下ろすことはなかった。
ぐちゃりと音を立て、少女の両腕が床に落ちる。
それはやはり、すでに人間の腕ではなかった。
落ちた腕は黒ずんだ緑色で、鱗に覆われた皮膚があやしく光を反射している。
形こそ人間の腕であるが、もはや魔物の類いのそれであった。
 「セニアの竜の腕が!」
研究員の言葉に、少女に竜の腕を付けたことが白日の下にさらされる。
 「もはやこれまで!我が太刀により、ヴァルハラへ送り出してやろう!」
慌てふためく研究員を無視し、シオンは少女の首を落としてやった。
続いて胴を薙ぎ払い、その足を袈裟懸けに斬り裂く。
溢れ出る血は人間とは似付かぬ程に青く汚れ、その匂いは確かに魔物であった。
 「あぁ!私達の結晶が!セニアが!この悪魔め!!」
正気を失い殴り掛かってきた研究員を難なく躱し、シオンは峰打ちで仕留める。
 「なんと愚かな…!屍の命を作るなど…!」
少女の遺体を見て口を噤むシオンは、それはとても人間らしい表情を浮かべていた。
 「いいんだ、シオン…もういいんだよ…」
ファルはありったけの回復魔法を少女に向け、たとえ人から離れた身体だとしても綺麗に傷口を塞いだ。
全員が口を噤み、ただ少女が永い地獄より解き放たれた事を目の当たりにする。
 「さあ行こう…、嫌な役目をありがとう」
ファルの言葉にシオンは不機嫌そうに舌打ちを返す。
荒ぶる心でナルを振り返ることは出来ず、ただひたすらに出口を目指した。
異形とはいえ人の形をしたモノに制裁を下した姿は、彼女の目にどう映ったのだろう。
 (ナル…そなたは赦してくれるのだろうか…)
それぞれ複雑な心を抱きつつ、最後の扉を開け放ち、全員で外へと飛び出す。
重苦しい空気は一変し、新鮮な空気が肺へと入る。
それはようやく研究所より逃げ出すことができた現実を、身体の隅々まで実感させてくれた。
研究所より距離をとり、もう追手が掛からないほどに離れた場所でステアの足が止まる。
 「ようやく出れたな!」
ギルドマスターの声にそれぞれ安心した表情で頷く。
 「さてっと、お待ちかねの爆破たーいむ!」
元気良く声を上げた寿は、スイッチを天高く掲げる。
どうやら施設の内部に爆弾を仕掛けたらしい。
 「えぇ…ちょっと…寿、だ、大丈夫なの?!」
ユグの心配をよそに、寿は自信満々に胸を叩いてみせた。
 「任せとけぇい!いくぞぉ!ぽちっと!」
寿がスイッチを押したと同時に、研究所からは盛大に爆発が起こった。
爆破は施設のあちこちに広がり、どんどん火の手があがる。
まだまだ収まる様子のない爆発に、思わずステアが息をのむ。
 「…お、おい、仕込み過ぎだろ…」
その言葉に顔色を青くさせ、寿は震えながら答える。
 「あっ、…火薬の分量、間違えたかも…しれない…」
寿は毒薬を使うことには長けているが、どうも火薬の類とは相性がよくないらしい。
以前、皆で花火をしたとき、寿の花火だけ凄い勢いで燃えたり、逆に全く火が付かないこともあった。
さらに寿だけが留守を預かるとなぜかボヤ騒ぎを起こす事も多くあり、ストレイキャットの面々は寿に火の扱いをさせる際にはそれは警戒に警戒を重ねているほど。
そして非情にも目の前にて起こっているのは、まだまだ収まりそうにない爆発と火柱。
沈痛な面持ちでその光景を遠巻きに見るステアは、一度だけ寿を目の端で見ると決してなにも言わず、ただ静かに息を呑んだ。
一方、施設が破壊されている光景を見ていたナルは、次第に頭が痛くなってくるのを感じていた。
 「なんか…頭、いたい…」
 「ちょっと、ナル?平気なの?」
ミカの心配も空しく、ようやく呟かれた言葉と同時にナルの視界が白んだ。
眩暈と吐き気を引き連れてきた頭痛は、ナルの意識を簡単に奪いにかかる。
限界を越えたナルは頭を抱え、とうとうその場に倒れこんでしまった。
 「どうしたの?!」
 「ナル?!」
慌てるミカとその異変に気付いたステアは、ナルの身体を揺すり声を掛ける。
しかし意識を失ったナルに届く様子はなく、ミカにとってその姿はあの記憶を失った日のことを思い出させた。
 「ナル…!」
顔から血の気が引く様子は、死の気配をも感じさせる。
弟子の一大事にファルは迷う事なくブルージェムストーンを取り出すと、瞬く間に魔方陣を展開する。
 「ワープポータル!」
意識を失ったナルをシオンが抱きかかえ、ストレイキャット達はゲフェンに戻ることになった。



夕暮れが差し迫る魔法都市は紅く染まり、行き交う人々で道は賑わっていた。
ストレイキャットの溜まり場である邸宅へと無事帰還したが、シオンに抱えられたナルは、今なおただ静かに意識を手放している。
柔らかなソファに横たえてやると顔色は戻り、荒かった呼吸も落ち着いたものとなり、ナルの様子を確認したそれぞれはようやく肩の荷を下ろした。
 「とりあえず、奪還は成功したな!」
ふぅとため息をひとつつき、ステアは空いているソファに倒れ込むように腰を下ろした。
 「しかし、ステア達まで来てるとは思わなかったでござるよ」
寿もステアと同じくソファに腰をおろして、その驚きを伝えた。
 「私が行こうって言ったのよ」
その寿の言葉に反応したのは、テーブル席についたミカだった。
彼女はファーのついたマントを外し、椅子の背もたれにそれをかけながら髪の毛に手櫛を通す。
 「ステアがね…寿がナルを連れていったっていうから、助けにいかなくちゃと思ってね」
そしてナルを抱えるシオンに視線を移す。
シオンは横たわるナルの手を優しくさすっており、こちらの話を聞いてはいないようだった。
 「…ナル…」
シオンが心配そうに彼女の名を呼ぶ。
頬をなでるが反応はなく、意識が戻る気配はない。
まるで死人のような昏睡。
横目で見ていたファルは視線を寿へ向け直し、ここぞとばかり尋ねる。
 「…寿はどうしてナルを研究所に?」
 「ん、これ」
ステアとシオンに見せたあの指令書をファルに渡す。
目を通したファルは「なるほど」と呟き、合点がいった表情を浮かべた。
ユグが人数分のハーブティーを用意し、テーブルの上へと並べ始める。
部屋の中には仄かにカモミールの香りが漂い、まだ冷めやらぬ感情の昂ぶりを落ち着かせてくれた。
 「あ、しまった…ナルに関する記録の隠滅するの忘れてたな…」
ファルの言葉に、ハーブティーで口を潤した寿が答えた。
 「あー、書類やデータの記録保持類は処分済みだね、ちなみに写真は全部ユグにしてきたでござる」
 「え!愛でられるべき狸さんがまさかのとばっちりかい?!」
個人情報の流出だと騒ぐユグを落ち着かせ、寿は「スモーキーの写真だから」と納得させた。
情報の改ざん、施設の損壊。
充分過ぎる結果にステアは満足したらしく、美味しそうにハーブティーを口にする。
 「ふむ…寿がうまくやってくれたのなら、もうナルが追われる心配はないな」
爆破はともかく、寿の仕事の正確さはステアも一目置いている。
あの施設にナルが存在した痕跡など、もはや微塵もないだろう。
ストレイキャットに平和な日常生活が戻るまで、あと一歩。
 「あとは記憶、か…」
ステアの呟きに、皆が神妙な面持ちになる。
さらにナルに再び訪れた、昏睡の症状。
記憶喪失に関しては、それぞれ思い付く限りの選択をしたが、今の所全く成果が上がっていない。
 「…忘れたまま、ってことはないよな?」
ステアに話し掛けられたユグは困った顔で答えた。
 「んんん…その記憶を無くした場所に、もう一度行ってみたらどうかな?」
 「落とし物じゃあるまいし、落ちてました、はい見付かりましたーなんてことないだろ…」
ユグの提案は簡単に説き伏せられてしまったが、ミカがその提案にピクリと反応する。
記憶を無くしたのはウィザードギルドに近いゲフェンタワーの中間地点。
あそこは魔法が強くかけられている特別な場所。
ウィザードギルドの迷いの魔法。
ゲフェニアの悪魔を留めていた呪い。
この二つだけでも、相当に厄介だといえる複雑で強力な魔法地帯だ。
ここでトゥエラーシュ家に伝わる、過去を見るため心に入り込む魔術を使用すれば、さてどうなるだろうか。
 「もしかして…」
ミカはシオンをちらりと見やると考えをまとめ、集中し呼吸を整える。
伝え方を間違えば、きっと協力などしてくれないだろう。
すべての可能性の集約、奇跡の確率は今ここに確かにある。
冷静さ、言葉の選択、すべてがミカに満ちた。
 「二重の君を媒体にすれば、ナルの記憶を戻せるかも…」
 「…どういうことだ?」
シオンは怪訝な顔を浮かべる。
自らを永らく封印してきた一族の次代当主、その口から出てきた「媒体」という単語に嫌悪感を感じるのは当然であった。
しかしシオンの不機嫌など想定の範囲内であるミカは、臆することなく言葉を続ける。
 「心を暴く魔法があるのよ、本とか…そういう媒体が必要なのだけれど…」
 「ほう…つまり、我をどうしたいんだ?」
答えを急くシオンにミカは告げる。
 「二重の君にナルの心の中に入り込んでもらって、無くした記憶を掘り起こしてもらいたいの」
ナルがシフェルの娘であること。
それは間違えようのない事実であろう。
順を追い思考を整理すれば、ミカが母より見せてもらったトゥエラーシュ家の始まりの記憶。
あれは、母であるミレイが魔力で作り出した水晶玉に封じられていた。
水晶玉はトゥエラーシュ家始祖、エノクに繋がりが深いアイテム。
それはエノクは水晶玉での占いを得意としていた為であり、今ではそれが記憶を継ぐキーアイテムになっているのだ。
ナルに繋がりが深いアイテムは分からないが、しかし、血の繋がりがある魔王シフェルに関する存在であれば、代用として魔法が執行出来るはず。
その条件に、もっとも一番近い存在。
つまり、魔王に作られたドッペルゲンガーに白羽の矢が立ったのだ。
 「それだったらバフォメットとか別の封じられた悪魔でもいいんじゃないか?」
ステアの言葉にミカは首を横に振る。
 「強い魔力の籠もったゲフェンタワーに入れないとダメ、タワーに入れる一番近い悪魔は二重の君しかいないわ」
他にも存在するシフェルの悪魔、それは今でもなお魂をその地に縫い付けられている。
そのため、その地よりゲフェンタワーまでくることは出来ない。
唯一その魂を解放され、自由に動けるのはドッペルゲンガーしかいないのだ。
ステアは「ぐぬぬ」と押し黙ってしまった。
 「でも、記憶を継ぐ魔法でナルをどうするんだい?」
ファルの質問に頷いたミカは、予測であるとした上で語り始めた。
 「机上の理論だけど…二重の君を媒体にすれば、ナルの閉じ込められた記憶に直接コンタクトが取れると思う」
記憶を継ぐ魔法は、記憶したいモノとキーアイテムを同調させる必要性がある。
ナルのキーアイテムを魔王として魔法を執行する。
そのキーアイテムである魔王の悪魔の意識をナルの意識に同調させ、悪魔の意思で記憶を引っ張りあげようというのだ。
 「…それは、うまくいくのか?」
シオンの問いに、ミカは正直に「分からない」と答えた。
しかし残された有効なカードは、今はこれくらいしかない。
 「ミカ様の考えは崇高過ぎて分かりませんけど、やってみたらいいんじゃないでしょうか?」
寿が皆を後押ししてくれた。
それぞれ頷き、ふたたび腰を上げる。
シオンも意識の戻らぬナルを抱きかかえると、ふたたび立ち上がった。
迷う時間も、悲しむ彼女を愛しむ時間も、もはや充分すぎた。
 「もうじき日が暮れる、善は急げ…だな」