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第7話 迷宮の森へ

永い夜が明け、それぞれに等しく日は昇る。
魔法都市ゲフェンが朝日に照らされ始め、人々はその活動と営みを行うため目を覚ます。
ストレイキャットの邸宅、そこにも柔らかな朝日が射し込むと、まず最初に目を覚ましたのはユグであった。
変化の術にて寝間着姿から着慣れたルームウェアに身を包み、己でもなんと便利な術だろうと得意げに目を細める。
自室から廊下へ、そしてナルの部屋の前に差し掛かったところでとある気配を感じた。
ナルの部屋から漂う気配は心当たりのあるもので、ユグはそれならばと気配の主に伺いを立てるかのように扉をやさしくノックする。
 「…どうぞ」
中からの返答は部屋主のナルではないが、やはり覚えのある声。
 「すこし失礼するね」
できる限り音を立てぬよう、ゆっくりとドアを開く。
横たわるナルの傍ら、そこには気配の主であるシオンが椅子に腰掛けていた。
 「おはよう、ナルの調子はどう?目は覚めた?」
ユグの問いにシオンは頷き、早朝にすこし会話が出来たことを丁寧に答え、その内容にユグは胸を撫で下ろした。
昨日はみんなが混乱していたし、あの動揺は全員にとってよくないものだった。
それによりナルが精神的に追い詰められてはいないか、とても心配していたのだ。
 「朝ご飯作っちゃうから、出来たら呼ぶね」
笑顔を浮かべたユグが部屋を出ようとした、その時。
 「な、なんで…ここに…!」
そこには顔色を青くしたファルが佇んでいた。
おそらくユグ同様、廊下から気配を感じ取り、顔を出しにきたのだろう。
しかしその結果、瞳に捉えたのは愛弟子ではなくゲフェニアの悪魔であり、ファルは苦虫を噛み潰した表情を浮かべていた。
 「いちど目が覚めたんだって、シオンとすこし話もできたみたいだよ」
ユグの助け舟のおかげで出掛かった退魔魔法の呪文を飲み込み、ファルも部屋へと足を踏み入れる。
眠る表情は昨日と変わらないが、その頬にのこった涙の跡に気付いた師の指は軌跡をたどり、弟子の頬をやさしく撫でた。
その光景は退魔師としても師としても、ナルにとって優秀でかけがえのない存在なのだと、シオンは改めて認識した。
 「…ナル、泣いていたの?」
ファルの問いにシオンは隠すことなく「ああ」と告げる。
 「昨日の周囲の反応に、かなり堪えていた様子ではあったな」
 「そう…」
相手がだれであれ、とにかく心内をはきだせた事が伺えたことにファルもようやく安堵した。
自分の前でも泣いてくれていいのにとも思ったが、ここで焦る必要などない。
今はただ、目の前の問題をすこしずつ解決していけばいいのだから。
 「ユグ、ぼくも朝ごはんの支度を手伝うよ」
穏やかに「なにを作ろうか」と話しながら部屋を出てゆく退魔師の背中は、シオンの目に大きく映った。



うっそうと緑があふれる森を進みながら、ステアが何度目か分からないため息を吐き出す。
この世のすべてに絶望したような表情を浮かべ、とうとうその思いを口にするに至った。
 「ほんとに進む道がないな、ここ!」
一行はすでにプロンテラ北部、迷宮の森と呼ばれるバフォメットの領域へと侵入していた。
迷宮といわれる整備のされていない森は歩くにも一苦労するほどで、進むべき道はかろうじて獣道のような細いものしかなく、人間が進むにはなかなかの勇気がいる。
 「ふふ!ここはスモーキーのぼくにお任せだよ!」
自信たっぷりに先頭を進むのはユグ。
マントの下からふわふわ尻尾がご機嫌な様子で顔を覗かせているあたり、やはり自然の中でこそ彼の野生は輝くのだと誰もが思った。
 (このまま縄張りは大事とかいって、マーキングしだしそう…)
ミカが不安げに思っていると、それを見越したようにステアから声が掛かる。
 「なあユグ、ここに住んでるスモーキーとの縄張り争いとか考えなくていいからな?」
 「ええ?!考えてないよ!なんてこと言うんだい、ステアは!」
失礼極まりないと怒り始めてしまったユグと相変わらずからかい口調のステアのやり取りに、後方に続いているファルは笑みを浮かべた。
穏やかな雰囲気のなか、ナルもつられて笑顔になる。
 (うん、調子は良さそうだね)
ナルの様子に気を払いつつ進む一行は、とうとう森の深部への入り口ともいえる中間地点へと到着した。
それまで人を寄せ付けなかった迷宮は小さな川が流れるひらけた場所へと姿をかえ、その川にはなんとも心許無い吊り橋が架けられていた。
吊り橋のその先にある森はさらに深さを増し、より複雑に広がっているのが分かるほど圧を感じさせる。
小休憩も兼ね足を止めた一行は、それぞれ束の間の休息にて体力を回復させることにした。
 「うち、初めて来るんだが…なんていうか…」
ステアが言葉を考えている傍らで、水筒の水で口を潤したミカがふぅとため息をつく。
 「バフォメットの存在力のせいで、身がすくむって言いたいのでしょう?」
ミカの言う通り、あの吊り橋の向こう側の森からは尋常ではないプレッシャーを感じる。
頷いたステアは目の端でユグを伺ってみるが、彼もまたやはり硬い表情を浮かべており、スモーキーといえど緊張を隠さずにはいられない様子。
ファルも同じものを感じ取っているようで、真剣な面持ちで森を見据えている。
 (やはり人の身では荷が重いか…)
人間達の怯えた様子を見るに見かね、シオンが先行しようと前に出た、その時。
背中をついと引っ張られる感覚に、思わず足を止めた。
いったい何ごとかと振り返れば、ナルが震える手で服の裾を握っているではないか。
 「…ナル、どうした?」
 「ねえシオン、やっぱり…私、このままで平気よ?」
つまり記憶は失くしたままでいいと、彼女はそう告げたのだ。
ナルの震える声は庇護欲を掻き立て、シオンの心臓は掴まれたように鼓動を早くする。
きっと彼女もバフォメットの気に当てられ、ステア達のように心が折れてしまったのだろう。
 「もしや、この先が怖いか?」
シオンの問いにナルは頷き、不安げな表情を浮かべる。
素直な反応はまちがいなくシオンに信頼を置いてるものであり、師であるファルより自分を頼ってくれた事実は何物にも勝る後押しとなる。
ナルの気持ちに応えるべく、また彼女の不安に向き合うため、紫電の瞳は揺らぐことなく彼女だけを映した。
 「…大丈夫、たとえなにが起きても信じてくれるだけでいい」
その言葉に彼への信頼をさらに強固にしたナルは、不安を拭うかの様に強く頷くことで精一杯を応えることとした。
そして一行はゲフェニアの悪魔を先頭に、とうとう深部へと足を踏み入れるのであった。


 「この先は奴の領域、すこしでも離れたら迷うと思え」
ナルの手を取り先行するシオンの助言通り、一行は決して互いの距離を開けずに進む。
バフォメットの力のせいだろう、普通の森では感じるはずの方向感覚はまったく当てにならないほどに奪われていた。
 (こんなに広い領域に力を及ばせる悪魔なんて、とても考えられないな…)
ファルの額にじんわりと汗が浮かぶ。
すこし足を進めただけで、もう来た道が分からない。
あまりの不安に背後を振り返りたくなるが決してそうはせず、唇をかたく結び前だけを見据える。
振り返ること、それは迷いへの誘いであると理解していたからだ。
心を落ち着けるため耳を澄ますが、風に揺られてざわつく木々の音は焦りをさらに煽る。
 (感覚が鈍い…まずいな、飲まれかけている…)
自分でも理解しているのに、ゆらゆらと蝕まれる感覚はうなされるほどの悪夢にも似ており、自力で打開できない状況に不安を覚える。
ファルが汗を拭ったのを横目で見たシオンは意地悪そうな笑みを浮かべ、悪魔らしい囁きを口にする。
 「ふふ…退魔師よ、心を乱されると森に飲まれるぞ?」
シオンに喝を入れられたのは悔しかったが、逆に煽られたお陰で冷静さを取り戻すことが出来、ファルはお返しだとばかりに余裕ある笑顔を返した。
そんなやりとりをした、その時。
 「みんな待って!」
まさに鶴の一声、ユグの声にみんなが足を止める。
ユグの動物としての感が働いた。
鼻先がチリチリする、危険な気配。
何かが起こる予感。
シオンは瞬時に両手剣を呼び出し、それを地面に突き立て「後ろに飛べ!」と声を上げた。
全員が身を庇いながら後方へ離脱した。
その瞬間、両手剣へ轟音を響かせ、いくつもの落雷が降り注ぐ。
雷鳴でストレイキャット達の耳は麻痺し、すべてが無音になる。
 「みんな無事かッ?!」
ステアが耳を押さえながら周囲を見渡す。
それぞれ耳や目頭を押さえてはいるものの、ダメージを受けた者はいないようだ。
ただシオンだけは何事もなかったかのように立っており、鋭い視線は前を見据え、その背は確実にナルを庇っていた。
 (さすが悪魔は伊達じゃない、か…!)
調子の戻らぬ耳を押さえ、ステアもシオンと同じ方向に視線を向けた。
ステアの真紅の瞳に写ったのは、それはそれは巨大な山羊であった。
二本足で立つには違和感しかないほどの巨体。
その手には青白い半月のような大きな鎌を握っている。
白く濁りギョロリと飛び出している目は、自らの前に佇むゲフェニアの悪魔を睨みつけていた。
ふしゅふしゅと鼻息を鳴らし、ようやくステアの視線に気付いたのだろう。
 (あ、やめろ…こっちを見るな…)
本能的に目を合わせたくないと思ったステアは拒絶を選ぶが、目を閉じることは恐怖が許してくれなかった。
視線をシオンからステアへ移したバフォメットは、ゆっくりと口角を吊り上げ、じっとりとした笑みを浮かべた。
 「ふふ、随分と血色のいい人間だ…あのハンターからにするか!」
ステアはその言葉に体が硬直した。
地から鳴るような声色、それは足元から生気を奪うように身体の芯に響き、訪れた甘い死の予感は逃げることを諦めさせた。
 「待て、急くなバフォメット」
シオンの言葉にバフォメットはステアから視線を外す。
途端に金縛りから解放されたように全身の力が抜け、ステアはその場に座り込んでしまった。
 (これが…!これが、バフォメットなのか…!)
ようやく息をする事を思い出し、ステアは矢継ぎ早に酸素を求めて呼吸を繰り返した。
威圧感はドッペルゲンガーと対峙した時の比ではなかった。
まだ人間の形をしている分、ゲフェニアの悪魔との戦いはマシだったのだと今になり思い知った。
異常なバフォメットの風貌とプレッシャーに飲まれたステアはすっかり戦う気を削がれてしまい、震える身体をその場に繋ぎ止めるのがやっとであり、悪魔同士のやりとりに視線を投げるだけで精一杯だ。
 「ほう、ゲフェニアの悪魔が顔を見せに来るとはな?…タワーの封印が解けたのか?」
バフォメットの問いに「そんな所だ」と返答し、シオンはその背で庇っていたナルの手を取ると抱き寄せる。
 「あっ、あの…!」
シオンに抗議の声を上げたが「大丈夫だ」と囁かれ頬擦りされると抗っていた力はたちまち抜け、もはやなす術なくシオンが望むままに腰を引き寄せられた。
 「今日訪れたのは他でもない、我はこの娘のためだけにここへ来たのだ」
吐息が掛かるほどに近い状態では身動きすることも出来ず、ナルは震えながらバフォメットを見上げる。
同じ魔王の悪魔であるシオンとは全く異なる独特の獣の香りは吐き気を催すのだから、逃げ場のないナルはたまったものではない。
そんな事お構いなしのバフォメットは巨大な顔を近付け、シオンに抱き寄せられているナルの匂いを確かめた。
 「若い聖職者の雌、処女か!なんと美味そうだ!」
 「待て!だから餌ではない…!」
ひときわ興奮したバフォメットを落ち着かせようとシオンが一歩前へと出るが、巨大な半月鎌を握り締めたバフォメットはナルに狙いを定めた。
 「やはり話し合いは無理か!」
諦めたシオンは両手剣で、その鋭い一撃を止めてみせた。
ナルを庇いつつの防御は分が悪いと踏み、即座にナイトメアの群れを呼び出すとナルを後方へ連れるよう命じた。
 「ナル!そこから動いてはならぬ!」
主人の言葉にナイトメア達は自分達がなにをすべきか理解すると即座にナルを取り囲み、その身を呈して主人が守りたいものを守るべくつよく嘶いた。
バフォメットの追撃を避けつつ、シオンはここぞとばかりに夢魔から戻した力を瞳に込める。
 「そんなものが効くか!」
瞳の力はバフォメットのディスペルにより無効化され、シオンは口惜しそうに舌打ちをすると反撃に出た。
力押しでは勝てないが、手数の多さではバフォメットを上回ることが出来る。
両手剣を振るい、次第にシオンが押し始めた。
しかし、今まで武器を交えていたバフォメットが違った構えを見せる。
 (なに…!?)
瞬く間に鎌を持ち直す動作。
それがなにを知らせるか気付いた時には、すべてが遅かった。
 「しまった!逃げろ!」
バフォメットの威圧感に飲まれ、もはや動くことすら出来ぬストレイキャットの面子になんとか指示を出す。
しかし半月鎌より放たれたブランディッシュスピアの衝撃、それは周囲の木々を薙ぎ倒し、各々へ襲い掛かってしまった。
幸いにも鎌の刃が届く範囲からは逃れていたものの、身体を突き抜ける衝撃は恐ろしい程の威力を秘めていた。
 (息が…つまる!)
一瞬のことではあったが、その威力にミカは驚愕する。
まるで全身を石で包み固められたかのように、なす術無く後ろに倒れこんでしまった。
恐怖で震える身体を起こし、再び武器を交えあうバフォメットとドッペルゲンガーの攻防を見守る。
 (遠距離魔法が届かないほど離れているのに、なんて威力なの?!)
とてもじゃないが、支援などと称して手など出せない。
ふと横を見ればカタールを携えながら、そこより一歩たりとも動けぬファルがいた。
ファルも理解したのだ。
バフォメットは人間の手に負える悪魔ではない。
あのゲフェニアの悪魔ですら有効な一撃を与えることが出来ず、今なお手を焼いているのだ。
むしろ、あの疾風のような斬撃で身を守っているようにも見える。
 (悔しいけど、足手まといにしかならない…)
自分がバフォメットに手を出したとしても、その反撃はゲフェニアの悪魔が止めることになるだろう。
人間ではバフォメットの一撃を耐えうることなど出来ないのだ。
それこそ彼の足手まといになる。
 (シオン、頼んだぞ!)
人間達は歯を食いしばりながらもシオンを信じ、悪魔同士の攻防を見守った。
しかし、一瞬の隙を突いたのはバフォメットであった。
クレセントサイダーと呼ばれる半月鎌による一撃がシオンの腕を霞め、その鮮血が鮮やかに宙に舞う。
 「太刀筋を捕らえたぞ、ゲフェニアの!」
嬉しそうに声を上げたバフォメットに、シオンを舌打ちを返す。
深くこそないが武器の形状ゆえ、浅くも剥ぎ取られるように与えられた傷口からは絶え間なく血が溢れる。
地面へと滴るシオンの流血、その鮮血色にナルは身体が震えた。
 (このままじゃダメ、負けちゃう!)
そう強く思った時にはナイトメアの制止を振り切り、ナルは走り出していた。
突然のナルの行動、それは誰にも止められなかった。
師から貰ったアークワンドを手に持ち、回復呪文を唱えながら悪魔の間に割って入る。
 「だめだ!来てはいけない!」
シオンの叫びも虚しく、バフォメットの鎌がナルの腕をかすめる。
それは香りを伴い、彼女の服を濡らした。
プリーストの深い紫色の正装は引き裂かれ、受けた傷が赤い軌跡をなぞり顕になる。
自分の負傷には構わず、ナルはシオンに回復魔法を施した。
シオンの血こそ止まったが、バフォメットの追撃が止まる様子は無い。
 (このままではナルが!)
どう足掻いても己の剣では間に合わない。
シオンは身を挺し、鎌の刃からナルを庇おうとする。
 「ナル!いけない!」
ファルが叫んだその瞬間、バフォメットがぴたりと動きを止めた。
鼻をスンスン鳴らし、なにやら辺りを確かめている。
知らせる何かに気付いたのか、鎌を地面に下ろすとナルの腕に刻んだ傷口に鼻を寄せた。
 「…魔王の匂いだ…」
そう呟くと、バフォメットはその大きな身体をナルの前に跪かせた。
 「シフェルの血肉を持つ者に無礼を…、どうかお許しを…」
今まで荒れていたのが嘘のように大人しくなったバフォメット。
それを見たシオンはもちろん、ストレイキャットの一同も怪訝な顔をするしかなかった。


 「そうか、名をナルというのか」
すっかり落ち着きを取り戻したバフォメットに、シオンは事の経緯を話した。
ナルが魔王の嘆きになったというのは驚かれこそしたが、彼なりに納得してくれたようだった。
冷静になったバフォメットからは先ほどまでの威圧感は消え去り、ステア達もようやくその傍らへ足を運ぶことが出来た。
 「それでそなたの心を操る術により、記憶を戻すのは可能だろうか?」
シオンの問いに、バフォメットは不思議そうに首を傾げて見せる。
 「…知らないだけなのか?それは本気で言っているのか?」
その答え方の真意が分からず、シオンは眉をひそめた。
バフォメットはナルを丁寧に引き寄せるとシオンの前に立たせ、向かい合わせになる形となった二人は互いに首を傾げ合う。
 「先ほどの魅了の瞳、ナルへ使ってみるがいい」
 「え!!」
素っ頓狂な声を上げたのはファルで、そのせいでバフォメットからは思い切り睨まれてしまった。
 (記憶もないのに魅了なんかされたら、恋敵としてもたまったもんじゃないよ…)
そんなことを考えながら肩を落とすと、バフォメットからは盛大なため息が洩れた。
 「実にくだらん聖職者だ、惑わせることなど出来るものか」
心を読まれて驚いているファルを尻目に、シオンは不安そうなナルの瞳を覗き込む。
 「…私、シオンに魅了されちゃうの…?」
ナルの様子はなんとも甘い誘惑を伴い、自分に酔い痴れる姿を考えただけで思わず喉が鳴ってしまった。
 (…我が先に魅了されてしまいそうだ…)
シオンは気持ち新たに咳払いをし、心を落ち着かせる。
 「一時的な錯覚だ、心配せずともすぐに開放する…さあ、目を見て…?」
そう告げると紫電の瞳にありったけの魔力を込め、ナルの心を惑わしにかかる。
揺らめく紺碧の瞳はどこまでも深く、いつまで経ってもナルには酔い始める気配は訪れなかった。
肝心のナルは目をパチクリさせ、まだかと待っている有様。
 「…なんか見つめ合ってるだけ?…じゃないか?」
ステアの言葉にバフォメットは頷くと、いまだ諦めきれない様子のシオンを小突いた。
 「いやらしいヤツめ、諦めろ」
バフォメットの行動に不快感を顕にしつつ、ナルに力が効かないことにシオンは納得がいかなかった。
あれこれ考えを巡らせていると、地面に腰を下ろしたバフォメットが語り掛ける。
 「ナルはシフェルと同等の血肉を持つ者だ、我らの力はシフェルに通用したか?」
それは驚くべき答えだった。
 「なんですって!?」
真っ先に言葉を発したのはミカだ。
 「ナルがシフェルの娘である可能性は高いの?!」
普段からは想像もつかない勢いで声を上げるミカに、ステアとユグは驚かされた。
 「ちょっとミカさん、ぼくの尻尾を見て落ち着いてみないかい?」
ユグの優しさを華麗に無視し、ミカはバフォメットへの問いを続ける。
 「あなたは心が読めるのでしょ?私が知るべきことを教えて!」
ミカの言葉にバフォメットはため息をつく。
ナルを傍らに座らせ、彼女の服に残る血の香りを堪能した。
 「…そうだな、オマエの推測で間違いはないだろう」
その答えはミカの推測を確信へと導いた。
やはりナルは、トゥエラーシュ家から盗まれたシフェルの卵が成長した姿だったのだ。
まさかとは思っていたが、ゲフェニアの悪魔と同様にシフェルに造られた悪魔が言うのだから間違いないだろう。
そうなれば、誰が卵を持ち出したのか辿らねばならない。
事情がさっぱり飲み込めないステア達を気遣う余裕もなく、ミカは黙り込むと悶々と考えを巡らせた。
 「ナルが…シフェルの…?」
一方、驚きを隠せないのはシオンも同じであった。
自分が心満たされる理由はそれだった、そう思うと心には大きな穴が空いたようだった。
共にいようと言ってくれたのは、自分達を造ったシフェルの娘だから。
自分を解放へと導いたのも、彼女が魔王の娘だから。
あれほど満たされていたのに、その幸せはすっかりどこかへ行ってしまった。
そして空白となった心は、暗い不安で溢れる。
永く苦しい、あのゲフェニアで過ごしてきた孤独感がふたたび蠢き出す。
早く記憶を取り戻しいつものナルに確かめなくてはならない、そんな気がした。
 「ナル、残念だが私では記憶を戻すことは出来ぬ」
優しく語りかけられ、ナルはバフォメットを見上げて頷く。
 「ありがとう…そのうち戻るかな?」
力無い笑顔を浮かべたナルに寄り添いながら、バフォメットはその首を縦に振った。
 「急いではいけない、また元気になったら姿を見せにきておくれ」
そう言われたナルは「うん」と小さく返事をした。
ナルをシオンの元へ返す時、その手に指輪を見たバフォメットは苦笑する。
 (なんと…アレを傍に置くとは、苦労するだろうな…)
そう思ったが言葉にはせず、ワープポータルで森を後にする人間達をバフォメットは静かに見送った。