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第6話 その力、ふたたび

ストレイキャットからの転送、それは景色を瞬く間にゲフェニア遺跡へと変えた。
踏みしめるのは封印された地。
肌を刺すのは人には甘くするどい空気。
身体を満たすのは魔の力。
そのすべてが帰還した主を迎えていた。
 「ナルの記憶と引き換えに解かれた力、試さなくてはな」
そうつぶやき、シオンはその姿を思い描く。
陽炎の如く身体がゆらげば、その姿を真紅の髪のハンターへと変える。
それはまごう事なきステアそのもの。
弓を構えれば彼女のそれと寸分なく、矢はするどく空を切る。
ふたたびゆらげば、次の姿は退魔師のファルとなった。
杖を振るい退魔魔法を執行すれば、本来の自分にとって手痛い火傷をもたらす魔法陣が出現した。
 「うん、なるほど…出力も悪くないね」
声も喋りの癖も模倣してしまえば、一体誰がにせものであると分かるのだろう。
もしかしたら、彼女であれば、あるいは。
むしろ、自分の本質を見破ってくれるのは、彼女であってほしい。
そんな願いを心に浮かべれば、胸は自然と高鳴る。
 「そうだね、それでは…最後に…」
瞳を閉じ、今は閉ざされた花園となってしまった紺碧の聖職者を思う。
ゆらいだその先、その姿は自分の解放者であるナルであった。
指先から腕へ、自らの身体を確かめるように頬へ指を這わせてみる。
くすぐったくも覚えのある手触りは、間違いなく彼女そのもの。
 「ふふ、鏡がないのが悔やまれるな…」
吐き捨てた言葉はナルの声であり、シオンの声でもあった。
興が覚めたように、シオンは本来の剣士の姿へ戻る。
 「…力は確かに戻った、あとはアイツらか…」
シオンはなにかを呼び寄せるため、指笛を辺りに響かせた。
その音に呼応するように、遺跡中央にある地下へと伸びた巨大な穴、その底より羽音が響く。
まるで巨大な鳥が羽ばたくような音。
それは近づくにつれ大きくなり、羽音の主は二つなのが分かる。
 「ああ…、やはりお前は我がすべての解放者なのだな…ナル…」
求めれば与えられる、その幸せを噛みしめ目を閉じる。
 (ならば応えねばならない…お前がお前でなくなったとしても、その魂に相応しくなるように)
ゆっくり開かれる紫電の瞳。
シオンの目の前に一組の男女が降り立った。
 「主様、復活おめでとうございまぁすっ!」
なんとも可愛らしい声をした女の頭、そこには羊の角があった。
彼女は肌からすべり落ちそうなほどしかない服をまとい、その背に紅いコウモリの翼を生やしている。
 「我ら夢魔、主様の凱旋をお待ちしておりました…!」
深々と頭を下げた男、彼の頭には山羊の角があった。
彼も肌を惜しむことのない服をまとい、その背にコウモリの翼を生やしている。
ただ傍の女と違うのは、彼の翼は宵闇色をしていた。
 「サキュバス、インキュバス、久しいな」
シオンに名前を呼ばれた夢魔達は、それは嬉しそうに笑顔を浮かべる。
 「主様に力が戻られた今、デビルチたちも数を殖やしましょう」
サキュバスが微笑み、その口元には八重歯が顔を覗かせる。
 「…して主様、嘆きの存在が感じられませぬが…いったい何処に?」
 「あら…?確かに主様から感じられないわ…?」
目聡く気付いたインキュバスの進言にサキュバスも便乗し、彼らの主を永く縛り付けていた封印の心配をする。
 「あれは破壊せねばなりません、主様を封じようと企む人間がまた出てきますわ?」
ルビーを閉じ込めたような瞳に憎しみを宿し、サキュバスは主に進言する。
臣下の言葉にもっともであると苦笑しつつ、シオンは答えを口にした。
 「とある女のプリーストが次代の嘆きとなった」
その言葉に、インキュバスは声を荒げた。
 「制裁をッ!」
 「落ち着けインキュバス、最後まで聞くがいい」
主の言葉に口を噤んだ夢魔たち二人は、聞き逃すことのないよう主人の言葉に耳を傾ける。
 「二度と言わぬ…、その嘆きより新たな身体を貰い、心を決めた」
夢魔達は一瞬首を傾げたが、サキュバスは一足早くその言葉の意味を汲み取り頬を染めた。
それは嬉しそうに「まぁ、まぁ!」と黄色い声を上げ、その場で跳ねて見せる。
 「人の身ながら、主様の御心を射止めた御方なのですね!?」
 「…否定はしないでおこう…」
すこし居心地悪そうに咳払いをする主の姿に、インキュバスも感嘆と言わんばかりに瞳を輝かせる。
 「つまり、奥方様となられる方が嘆きの役目を請け負ったのですね?」
 「まちがいないわ、その通りよ!インキュバス!」
思ってもいない方向へ話が飛躍してしまった。
事を正確に伝えようとするが、浮かれた頭には自分の傍らを歩くナルの姿。
彼女の瞳に映るのは自分だけ。
それが叶うとなれば、どれだけ満たされるだろう。
つい先ほどまで彼女との関係に名前をつけるなど、人間のような考えは微塵たりともなかった。
しかし意識してしまえば心は見える世界のすべてを変え、甘い花園へ落ちゆくのは簡単だった。
 (…ナルと番いに…?)
関係性を言葉にしたそれは、心へ深く刻まれる。
己へ対となる唯一の存在。
かたや人に化ける化け物、かたやそれを封じる楔を持つ人間。
 (二つが揃うことでようやく形となる、なんと…なんと甘美な…)
ナルへ感じていた想いは甘く形取られ、シオンはもはや否定することをやめ、伝えるべき言葉を夢魔たちに告げる。
 「それで…我が嘆きだが、今は息災ではない」
主の不穏な言葉に、はしゃいでいた夢魔達は大人しくなる。
 「…奥方様の身に何か?」
インキュバスの言葉に頷き、シオンは話しを続けた。
 「我の力の最後の解放、その際に記憶をなくしてしまったのだ」
主の言葉にサキュバスは両手で口元を覆い、その目に涙を浮かべた。
 「なんてお痛わしい…っ」
 「何か…我々にも出来ることはございませんか…?」
インキュバスの言葉にシオンは頷く。
 「明日バフォメットの元へと行く、ゆえにお前達の惑わしの力を回収したい」
その言葉を聞いた夢魔達は深く頷き、二人はその両手を差し出した。
 「お預かりした力、お返ししますわ」
 「どうか奥方様をお救い下さい」
二人の手を握ったシオンは、自身の中へ力が流れ込むのを感じる。
自分の中に欠けていた部分が満たされてゆく、それはなんとも不思議な感覚だった。
 (瞳が熱い…なんと懐かしい感覚だろうか…)
紫電の瞳をゆらし、シオンは過去に思いを馳せる。
惑わしの力。
それは人間を喰らうため、身に付けた力のひとつ。
また、造られてからすぐ覚えた力でもあった。
すべてを写し取る「成り済ましの力」で化かす前に、餌となる対象を魅了し惑わせる。
それは狩りをする上で、非常に成功率が良かった。
やがて力を付けたドッペルゲンガーは、とうとうそれを使う必要がないほど強くなった。
また当時のゲフェニアでは、自分の魔力の欠片から次々と新しい魔が生まれていた。
それは悪魔の興味本位の、ただの小さな悪戯だった。
その力を自分の魔力の欠片に預けてみれば、それは見事に夢魔として成長したのである。
すっかり生体になった今の夢魔にも必要な力ではなく、バフォメットとの交渉に使えればと今のシオンは考えたのだ。
 「あら、主様…?」
力を戻し終えたサキュバスは、その手の感触に違和感を覚える。
 「もしや、奥方様に指輪はまだでして?」
どうやら手を握った際に、めざとくも指輪の有無を確かめたようだ。
 「指輪…?あぁ、確かにまだだな…」
 「いけません、いけませんわ!」
そういうがはやいか、サキュバスは懐より銀の指輪を差し出した。
渡された指輪を呆けるように見ていたら、今度はインキュバスから金の指輪を強引に渡されてしまった。
 「主様!証を立て、しっかりと捕まえておかねば!」
 「物で縛るのは意外と大事なことですわよ!」
夢魔達の小言に、シオンは頭痛を感じる。
それはナルに指輪を渡せば怒り狂うファルの姿が容易に想像できたからであり、彼へ感じていた嫌悪感の正体がただの退魔師と悪魔という関係だけでなく、恋敵でもあるゆえと認識したせいでもあった。
はしゃぐ夢魔達と共に、ゲフェニアの明るい夜は更けていった。



一方、同時刻のストレイキャットでは夕食が終わり、それぞれがゆったりとした時間を迎えていた。
 「ナル、起きないねぇ…」
何度かファルが様子を伺いに二階へ足を向けているが、まるで目覚める気配が感じられなかった。
気を利かせたユグが後で目覚めても良い様にと、ナル用の軽めの夜食を用意してくれていた。
具材たっぷりの色とりどりのサンドイッチを横目で見つつ、ステアが呟く。
 「…で、シオンからの提案なんだが、勝算はあると思うか?」
ユグは苦笑を浮かべながら、食後の珈琲を煎れ始める。
 「まずナルの記憶が戻るかも分からないんだし、なんとも…かな…」
ユグは抑揚無く答えた。
それぞれのティーカップに均等に珈琲を注ぐ姿は手馴れたいつもの姿でもあるが、どこか不安げな様子も浮かんでいる。
 「二重の君の口ぶりからするに自信はあるのでしょう、やるしかないわよ」
ミカの凛とした声にファルも「うん」と頷く。
 「他に明確な方法がない今は、彼の考えに賭けるしかないだろうね」
この選択でナルの状態が悪化するとは考え難いうえ、失くした記憶もいつ戻るのか定かではない。
あの悪魔に頼るのはしゃくだが、今のファルには他に候補となる良案もない。
 (私的にも二重の君にはナルに対する疑惑を知られず、事を進めたいもの…)
ミカは綺麗に切り揃えられた毛先を指先でいじりながら、誰にも悟られぬよう静かに深呼吸をした。
記憶を無くしてしまった、なんとも無防備な今のナル。
ナル自体を傷つけるような選択をすることはないとは思うが、ミカに訪れている一抹の不安。
それは、シオンの叛逆だった。
彼を唯一封印出来るナル。
今の彼女を拐われでもしたら、もはや打つ手はない。
トゥエラーシュ家の人間だからこそ、あの悪魔には過剰な警戒をしてしまう。
ミカの血筋はそれだけのことを、あの悪魔に強いてきたのだから。
 (…しかも、ナル以外には懐かないし…)
普段のべったり具合を思い出すと、自然とため息が洩れた。
 (とにかく、ナルに早く復活してもらうしかないわね)
抑止力となるナルさえ復活してしまえば、あとはどうにでもなる。
あとはファルを何とか言いくるめてしまえば、ナルの素性を調べるのも容易そうだ。
しかし、どうも宝物庫から卵を持ち出した犯人の意図が引っかかる。
 (一体、何の為に…?)
目的も相手の憶測も分からず、ミカは一人悶々と悩む。
やはり、それを含めて調べられるのはファルだけだと判断し、香りに誘われるまま珈琲を口にする。
ミカの隣でステアが大きな欠伸をし、壁掛けの時計に目をやれば日付が変わろうとしていた。
 「うげ、もうこんな時間かぁ…」
珈琲を飲み終えたファルは重い腰を上げ、すっかり縮こまっていた身体を背伸びで伸ばす。
 「さあ、明日に備えて休もうか」
その言葉にそれぞれ頷くと、各部屋へと足を向けた。


朝日が顔を覗かせるまで僅かばかりの早朝、魔法都市は夜への別れを惜しむかのように静まり返っている。
街のすべてが朝霧に包まれるなか、ナルはふわふわとした意識のまま、ようやく目を覚ました。
 (…私、どれくらい寝てたのかしら…)
不思議と身体に気だるさはなかった。
また倒れはしないかと不安を抱えつつ、ベッドからゆっくり起き上がってみるが身体に違和感は感じられず安心することが出来た。
そのまま出窓を優しく開けば外から湿気を帯びた空気が入り、夜明けが近いことを示していた。
ナルの部屋は東向きの間取りであり、魔法都市を取り囲む湖面から朝靄が立ち昇る幻想的な様子が視界に入ってくる。
 「…はぁ…」
昨日の出来事を思い出せば、ついため息が漏れてしまった。
どうも自分は記憶を無くしたらしいが、そのせいで全く話が噛み合わず、取り囲む人たちは誰もが苛立っていた。
 (私のせいだ…)
炎のような毛色をしたハンターに「はじめまして」と挨拶すれば、凍りついたような表情にさせてしまい、その事はひどくナルの心に刻まれていた。
 「記憶かぁ…」
自分がプリーストだということも、自分の名前すらも分からなかった昨日の自分。
思い出せぬ事を思い出してはまた深いため息をつき、ナルはぽつりと呟く。
 「私、ちゃんと思い出せるのかな…」
早く思い出さねばならない。
そうしなくては、また周りの人達を傷つけてしまう現状がとにかく怖かった。
昨日の周囲の動揺を思い起こすと、傷ついた心はうずき、鼻の辺りがツンとしてくる。
涙が溢れそうになった、その時だった。
 「おや?これはまた、随分と早い目覚めだな」
聞き覚えのある声が聞こえ、家の前の道へと視線を落としてみるが、その目には誰も捉えることは出来ない。
首を傾げながら空耳かと考えていたら、屋根の上から「こっちだ」とまた声が聞こえた。
恐る恐る出窓から少しだけ身を乗り出してみれば、隣の出窓の屋根に剣士の男が腰かけていた。
見覚えのある彼は間違いなく昨日の自分を助けてくれたうちの一人であり、ナルは涙を押し留めると緊張した声色で彼に応えるべく努めることにした。
 「あ、えっと…昨日はどうも有り難うございました」
ナルの言葉に穏やかに微笑みながら、剣士の男は「どういたしまして」と返してくれた。
彼の反応に自分の応対は間違ってはいないかと不安に駆られるナルの心、それは野良猫のような警戒にも満ちており、緊張の糸は今にもはち切れそうだった。
 「ふふ、だいぶ緊張しているな?」
 「え、うん…」
不安そうなナルの様子を悟ったシオンは急ぐ必要もないため、たっぷりと時間をかけてナルの言動に合わせようと心に決めた。
今までとは違うナルの反応というのも新鮮であり、初々しい関係性は優越感に似た心地よい気分にさせてくれる。
 「起き抜けに悪いが、入っても?」
意図が飲み込めず「うん?」と首を傾げつつ聞き返すその姿、それすら愛らしく映るのだから、相手を想う心持ちとは不思議なものだと思う。
 (ここから我が番いとなるよう、手塩を掛けゆくのも悪くない…)
思わず笑みがこぼれてしまい、それによりナルの機嫌を損ねてしまったようで彼女は口をとがらせていた。
その様子に笑みを浮かべつつ「失礼した」と咳払いをし、シオンは改めて言葉を直した。
 「襲うつもりはないから、部屋へ入っても?」
その言葉の意味は理解できた様子で、ナルは顔を赤らめると数度まばたきをして頷いてくれた。
 「う、うん…どうぞ…」
いつもファルの目を盗んで入り込んでいるナルの見慣れた部屋。
しかし、本人の調子がこれだと余計な思惑を抱かれそうであり、シオンは細心の配慮をしつつ窓より招いてもらう。
昨日は騒がしい人間たちに囲まれ、ゆっくり話をする暇もなかった。
たとえ記憶がなくとも、彼女と言葉を交わしたい、そう願うシオンは言葉を選びながら話しを始めた。
 「さて、と…我の名前は覚えているだろうか?」
その質問にナルは言葉を詰まらせ、落ち込んだ様子で首を横に振る。
 「ご、ごめんなさい…」
小さく謝罪の言葉を口にし、すっかり俯いてしまった。
昨日は何度、彼女のこの姿を見ただろう。
その様子にシオンはナルの手を握り、空いている片方の手でうつ向いた顔を上げさせる。
 「怒ってはいないし呆れてもいない、ただ忘れたものがどれなのか確かめたいだけだ」
吸い込まれそうな紫電の瞳に見つめられ、ナルは息を止める。
その瞳は雷鳴を予感させ、アメジストの瞬きにも似ていた。
 「あの…私…」
 「君はシオンと、そう呼んでくれていた…また呼んでくれるだろうか?」
何故か溢れてきた涙に、ナルは「うん」と頷く。
そのままゆっくり抱き締められると、身体の力はすっかり抜けて、ただ心地よい体温に身を任せるだけだった。
 「…大丈夫、昨日は驚いただけで、いつだってみな味方だ」
大切な仲間たちの記憶を無くした。
そのせいで孤独感に晒されていたが、シオンの言葉で心が軽くなったような気がする。
まだ涙は止まらないが、ナルはシオンの言葉を信じようと頷いて精一杯応えてみせた。
 「ふふ、いい子だ」
頬を撫でられ、涙を拭われる。
子ども扱いされたことに不服な気持ちもあるが、彼の紫電の瞳は言葉に表せない心地好さを秘めていた。
 (なんて不思議な色…夕焼けの…夜の帳みたい…)
覗き込もうとすれば、それは広大な闇夜のようにも見える不思議な彼の瞳。
二人の視線は交差するように互いを映す。
 (深い海のような青…溺れてしまいそうだ…)
己を映しつつ、どこまでも深淵へと誘うナルの紺碧の瞳。
飲み込まれそうだと思いながら、シオンは彼女の瞼に優しく触れると閉ざしてしまう。
 「さて…明け方過ぎ、つよい力を持った悪魔が住まう森へ向かうぞ」
その言葉にナルが瞳を開くと、シオンは自信に満ちた表情を浮かばせていた。
 「取り戻そう、ナルの大事な宝物を」
そう告げられ、何か握らされたことにナルは気付く。
手を開けば銀の指輪がひとつ、その手の中で輝いていた。
 「…これは?」
ナルの問いに「ふふ」と笑うと、シオンは耳元で囁く。
 「ナルを守るお守りだ、身に付けてくれ」
そう言うが早いか、指輪はナルの左手の薬指にぴったりと収められてしまった。
小さいながらもランプの光に輝く指輪の姿は綺麗で、ナルの表情には穏やかな笑顔が浮かぶ。
 「ありがとう、シオン」
すっかり自分を人間の剣士だと信じこんでいるナルの様子に、シオンにも自然と笑顔が浮かんだ。
自分をゲフェニアの悪魔として見ることのない、いつもとは違う自然なナルからの視線。
それはなんとも言えない高揚感を呼び起こし、これが幸せなのだと心は歌う。
 「どういたしまして、ナル」
今のナルとずっと話をしていたいがそこを耐え、シオンは彼女をベッドへ誘う。
 「まだ明け方までは時間がある、もう少し休んだほうがいい」
シオンにそう言われると思い出したように睡魔は訪れ、布団の心地よさはナルをふたたび迎え入れる。
意識を手放す間際、ナルはこれが最後とシオンに問う。
 「…ねえ、シオン…あなたの本当の名前は…?」
記憶を失いつつも、何かしらを感じ取ったのであろうその言葉に、シオンは心を掴まれたような気がした。
 (なんと…僅かな時間で、我が人でないことに気付いたのだな…)
短時間のやりとりで自分の正体を見抜いてくれた嬉しさと同時に、彼女が自分を律する事ができる唯一無二の存在であることをシオンは誇りに思った。
静かに眠りに沈み行くナルの耳元。
シオンは少し悩んだ表情を浮かべたが、閉じられてゆく紺碧の瞳を愛しく見つめると呟いた。
 「ゲフェニアの悪魔、ドッペルゲンガーだ…」