「ナル?」
ファルの呼び掛けにナルは首をかしげた。
明らかに通常とは異なる反応に、弟子の異常事態を感じ取る。
「ぼくのこと、わかる?」
「ええと、…ごめんなさい…」
つい先刻までとろける様な声で呼んでくれた弟子の喪失感は、ファルにとって悪夢のようだった。
「…一時的な記憶喪失、か」
傍らでシオンが呟く。
不思議そうに自分を見上げる紺碧の瞳。
それはシオンにとっても、居心地の悪いものだった。
「記憶喪失…私が…?」
どうやら自覚症状はない様子だが、現状に対して怖がる様子もないのは救いだとミカは思う。
呼吸を整え、冷静さを努める。
突然の出来事にうろたえていたが、ようやくミカの思考が動き出す。
「…とりあえずここにいても仕方ないわ、一度ストレイキャットへ行きましょう」
ナルの手を取り、ミカはゆっくり立ち上がる。
顔色をうかがうと、やはりいつものナルのような人懐こさはなく、ただ遠慮がちな笑顔を浮かばせる。
まるで赤の他人のような仕草。
それはナルでない別人を感じさせ、ミカは心を痛めずにはいられなかった。
いつもと変わらぬストレイキャット、そのはずだった。
戻ってきた四人のただならぬ様子に、出迎えたステアとユグは何事かと事情を問う。
「実は…」
ミカからの説明を受け、ステアは立ち上がりナルを見る。
「ナル、おまえ…本当に?うちのことも分からないのか?」
「…あの、ごめんなさい…」
「そんな…どうしたんだよ、ウソだって言ってくれよ…!」
ステアは信じられないと声を荒げるが、事態は変わることはない。
ただナルの不安そうな姿、自信のなさそうな表情、顔色を伺う弱々しい瞳。
ステアはそのすべてを受け止めることができなかった。
両者に落ち着く素振りがないため、見兼ねたユグが口を開く。
「ナルも疲れてるだろうし、ステアも少し頭を冷やして…休ませてあげようよ、ね?」
全員が突然のことに疲弊していた。
その助言を受けたナルはファルに手を取られ、二階へと静かに上っていった。
ナルの部屋の扉が閉まる音が微かに聞こえた瞬間、ステアはゲフェニアの悪魔の胸ぐらを掴みかかる。
「ちょ、ステアっ!?」
あまりに突然だったため、ユグが静止に入る間もなかった。
「…もしも…」
ステアは努めて声量を抑え、感情がむき出しにならぬよう続ける。
「ナルがあのまま戻らないなんてことになったら、うちは許すことなんて出来ないからな…!」
ここまでステアが激昂する様を見るなど、ユグですら初めてのことだった。
畏怖の余り、尻尾の毛が逆立つのを感じる。
ステアの真紅の瞳は、まるで怒りで燃え上がる炎のようだ。
かたやシオンと言えば、ステアから逃げることも、その怒りに逆らうこともない。
ただステアの瞳から目を逸らすことはない。
「逃げるつもりなど毛頭ない、気が済むようにしたらいい」
彼はステアの怒りの炎を一身に受けるつもりなのだ。
シオンの胸ぐらを掴む拳に、さらに力が込めらえる。
「ステア!」
「うるさい!」
ユグの制止の声も聞かず、ステアは大きな声をあげた。
その場に緊張感が走る。
もうだめだ、心が弾けてしまう…誰もがそう思ったとき、ステアの手に色白の小さめな手が添えられる。
「ステア、もうやめて…」
ミカの鈴を鳴らしたような声。
それに、はっと我にかえったステアは慌てて手を離す。
「…悪い、どうかしてた…」
冷静さを取り戻したステアに、シオンは「構わない」と小さく答えた。
シオンが普段からナルを丁寧に扱っている、これはストレイキャットの人間なら誰しも知っている。
それでも、ナルが記憶を無くした責任を誰かに押し付けねば、ステアの心は潰されそうなほどにショックだった。
決して言い訳はせず、ステアは「ごめん」と謝罪の言葉を口にした。
窓からしっとりした香りをまとい、湿気た風が部屋へ流れ込む。
鼻をスンと鳴らしたユグが外を見れば、大粒の雨が音を立てて降り始めていた。
ユグが窓を閉めると同時に、ファルがゆっくり階段を下りてくる。
その顔色は決して良くは見えない。
「ナルは…?」
ミカの問いに「眠ったよ」と返すと、ファルはつらそうにソファに腰を下ろす。
重苦しい空気に耐えかね、ユグはお茶の用意を始めるためキッチンへ姿を消した。
現在、溜まり場にいるメンバーを見ながらミカは考え始める。
(まずはナルの現状打開が必要ね…)
時間が解決してくれそうではあるが、問題解決の確実性はあまり期待ができそうにない。
まずは自分の目的を優先的にしても、結果はついてきそうでもある。
(ナルの素性とトゥエラーシュ家の宝物庫、調べるなら…この男で間違いなさそうだけど…)
ふと視線を落とし、ファルの様子を伺う。
仮にミカの心にある謎解き、これはアサシンの寿に頼めば調べてくれそうである。
しかし以前、ファルからは魔王の嘆きを持ち出したと聞いたことがある。
ミカが内密に事を進められそうなファルに白羽の矢を立てた。
トゥエラーシュ家の人間としても、宝物庫の場所をあまり広めたくもない。
(大きな問題はナルの今の状態、あとは切り出すタイミング、ね…)
このトラブルがなければ、まだ少しばかり頼みやすいのだが状況が厳しすぎる。
特に今のナルの傍からファルが離れるのは考え難い。
ミカが思いを巡らせていると、シオンがポツリと呟いた。
「ナルの記憶が今宵中に戻らぬなら、明日、迷宮の森へ連れていく」
「な、なんだって?」
突然の宣言に驚いたステアが思わず聞き返してしまった。
ミカとファルも唖然とし、紅茶を運んできたユグだけがききそびれて「うぅん?」と唸った。
「彼処にはバフォメットがいる、知っているだろう?」
シオンが発した名前にユグは身震いした。
バフォメットと言えば二本足で歩き、絶大な雷の魔法を使い、巨大な鎌で森に迷いこんだ冒険者の命を奪う山羊の姿をした悪魔だ。
プロンテラ騎士団が幾度も討伐に向かったが、派遣された隊のほとんどが帰らぬ人になった。
それから迷宮の森は立ち入り禁止になり、もう数年の月日が流れている。
「なんだってバフォメットがいる森なんかに?」
ファルが問えばシオンは向かいのソファに腰を下ろした。
「彼奴は心を操る魔法も使う、それを利用させてもらうだけだ」
シオンの口ぶりからするに、信頼たる情報なのだろう。
ナルを連れて行くという発言からして、バフォメットの力であれば記憶が戻る可能性が強いことが伺える。
「で、でもバフォメットって…ヤバいだろ?」
ステアの震える声色に、ユグも首を縦にブンブンと音がするほど頷く。
「…もしや悪魔同士、何か通じ合えるのかい?」
ファルの質問にシオンは頭を横に振る。
しかし、その目には確信が満ち溢れていた。
「手間がかかるのは好まない、ナルに負担を掛けるつもりもない…ゆえに力ずくだ」
意地悪そうな笑みを見せたシオンは立ち上がり、その場にいる人間たちに告げる。
「…明朝ナルを迎えに来る、それまでに共に来たい者は心を決めることだ」
それだけ伝えると、まるで霧のように姿を消してしまった。
ふぅとため息をついたファルは天井を仰ぎ、迷う素振りなど見せず笑みを浮かべる。
「やってやりましょうじゃないの、迷宮の悪魔狩り…!」
その退魔の腕前から有名なファルだが、バフォメットを相手にするなど逃げ出したいほどに怖い。
しかし、ストレイキャットのメンバーの目の輝き。
その力強さに感化された勇気は、目的地をただひたすら真っ直ぐに示していた。
「まぁ、ナルの記憶が戻るってんだったら、やるしかないよな?」
「世界初、バフォメットを倒したスモーキー爆誕になってしまうね!」
ステアの声にユグは震えながらも、力強く答える。
ミカはその姿にクスクスと笑いながら「そうね」と呟く。
(悪いけど便乗させて頂くわ、二重の君…)
それぞれの想いを胸に、雨に濡れる魔法都市は夕暮れを迎えた。