誘われるまま、エノクは森の中へと足を踏み入れる。
どこかでフクロウの鳴き声が聞こえ、潮風の香りが木々の香りへと変わったところで、エルフはぴたりと足を止めた。
「…うむ、ここまで来れば大丈夫じゃろう」
エルフのアルケミストが小瓶を二つ取り出し蓋を開けば、新緑色をした液体が地面へ降り注がれ変化はすぐ起こった。
液体を注がれた地面はこんもりと盛り上がり、異常な速度で植物が成長し始めたのだ。
それは瞬く間に子供の背丈ほどある二頭のマンドラゴラへと成長し、アルケミストはその上に慣れた様子で腰掛けエノクにもそれを勧める。
「ふふ!心配しなくとも、人間を襲わぬようよく躾けてあるぞ」
差し出された彼女の手を取れば、マンドラゴラの触手がエノクの足に絡み付き、モンスターとは思えぬ丁寧な動きで筒状の花びらの上へと導いてくれた。
モンスターに腰掛けたことなど経験のないエノクは意外にも座り心地が良いことに驚かされたが、それを別とし改めて彼女に問う。
「ところで…あなたは私になにか御用でしょうか?」
エルフの女性は「ふむ」と口に手を宛がうと、しばし考える仕草を見せる。
「…そなた、本当に私が分からぬのか?」
「え?」
どう考えても身に覚えが無いエノクは、ただただ困惑した。
エルフの知り合いなどいないし、むしろ間近で見るのすら初めてだった。
煮え切らないエノクの様子にしびれを切らしたのか、アルケミストはランタンをひとつ取り出す。
中には青く淡い光を放つ液体で満たされており、まるで月明かりのようにも見えるそれを目を凝らして伺えば、小さな球体が一つ浮かんでいるのがわかった。
「…これは…?」
エノクの様子にまったく進展がないことを悟ったエルフは、頭を抱えながら盛大にため息をついた。
「うぐぐ…しばし待たれよ、これでは話が進まぬ…」
そして、その細く色白の手をエノクの額に宛がった瞬間、アルミストは表情を一変させ悲鳴のような声を上げたのだ。
「これは驚いた!なんと呪いの多いこと!すこしばかり外さねばなるまい!」
そう言うが早いか、エノクの耳にパチンという何かが弾けた音がした。
遠くにも近くにも感じられる不思議な音は、立て続けにエノクの身体を取り巻いた。
「な、なにをしたの?!」
驚きの余りエルフの顔を見つめれば、不思議なことに彼女の顔に懐かしさが込み上げる。
「あ…」
膨大な記憶は川のようにエノクの中へと蘇る。
初めて会う女性であるのに、名前も、過ごした日々も、なにもかもが鮮明に浮かびあがり、次第にそれが魔王と呼ばれた男がかつて愛した、たった一人の女性への記憶であると理解した。
「…まさか…アリス?」
「ふふ!ようやっと思い出したか…!」
アリスと名前を呼ばれたエルフは満足そうに微笑むと、頭を痛そうに押さえるエノクにポーションを差し出し、それを迷うことなく飲み干せば言葉にできぬほどの懐かしさに心は震え、とろりとした舌触りのそれは思い出とともに身体に染み渡った。
(今までこんな記憶なんて無かったのに、なぜ…?)
先ほどアリスが何かしら自分に施したのは、おそらく呪い解除の魔法の類であると仮説を立て受け入れることができたが、不可解なのはなぜアリスはそれを自分に施したのかという疑問であり、エノクは恐れず問いを口にした。
「なぜアリスは、私に魔王の記憶を思い出させたの?」
「それは約束していたからじゃ、子供を渡すとな」
そうして差し出されたのは先ほどの液体入りのランタンであり、アリスはエノクに手渡すと満足げに笑みを浮かべる。
(もしかして、肝心な記憶が抜け落ちているのかしら…)
エノクには約束と言われたそれを思い出すことが出来なかった。
生体工学を操るといわれるエルフにより生み出されたそれが、魔王の作った悪魔のようなものの可能性も否定できず、エノクはランタンを疑わし気に見つめる。
しかし思い返せば悪魔を作っていたのはシフェル単身であり、受け継いだ記憶においてもアリスが悪魔に関与したことは一切なく、その点だけを考慮しても渡されたランタンが悪魔の元であるとは考え難かった。
首を傾げるエノクの様子になにかを察したのか、アリスは優しく言葉を掛ける。
「忘れているのならそれで構わぬよ、ただ私は連れて行けぬ…」
「連れていけない…?」
「ああ、そろそろ時空を越える…その時が来たのじゃ」
この世界に訪れていたエルフ達は巨人たちから逃げるように転移を繰り返し、一定の世界に留まることを良しとせず、常に新しい世界へと旅する種族なのだとアリスは語った。
また、おなじ世界に永く滞在すると、その世界の理と繋がりやすくなり、その結果、滞在している世界の未来が分かるようになることを教えてくれた。
そして、今あるこの世界はエルフと巨人が去ったあと、人間同士でいがみ合うようになることを語った。
「世界の理を知り過ぎるのは世界の寿命を縮めることにもつながる、それで我々は旅立つという訳なのじゃ」
「そんな…」
あまりに壮大な話で信憑性に欠けたが、そもそも生体工学という技術も人間の理解の範囲を超えており、共に戦線に立ったほかのエルフも不思議な技術で敵を抑え込んだりしていたのをエノクは知っていたため、もはやこれまでと腹をくくって話を信じるしかなかった。
「あなたが渡してくれたこれは、エルフになるの?」
単純な問いにアリスは首を横に振り、目を伏せる。
「いや、同種族外の交配で生まれた命はエルフにはなれん…だから置いていくしかなくてな…」
彼女の言葉の通り、それはランタンのの中身が「子供」であるという結論であり、エノクは息を飲む。
「これが…アリスとシフェルの…」
「うむ、身体を通すことなく培養したが、まごうことなく私らの子である」
彼女の話しを察するに、どうも人間のように宿った子供ではないのは確実ながら、魔王の記憶も一部分しか知らないエノクに真実を知る術はない。
彼女ら種族は、どこまでも不思議な技術で人間たちを翻弄するのだ。
そして、アリスはエノクの手を握ると、熱意のこもった眼差しで魔王の記憶を引き継いだトゥエラーシュ家当主を見つめた。
「…そなた…エノクと申したな、魔王の引き継ぎ手として頼みたい」
紺碧の眼差し、彼女のその一途な瞳にエノクは思わず息を呑んだ。
彼女に恋焦がれてしまう、そう錯覚するほどに美しいと思ったエノクは握られた手を握り返し、言葉の続きを促す。
「私の子、どうかその未来を守ってはもらえぬか?」
突然の申し出に驚き、口を噤んでしまった。
自分には魔王の記憶こそあれども、この子の直接の親ではない。
しかし、自分がここで断ってしまったら、この件はどうなるのだろうか?
わざわざアリスが自分を探し出し、ここまで訪ねてきたことを思うと胸は締め付けられ、それだけでもうエノクに断ることはできなかった。
呪いにより永く生きられない身だとしても、自分にしか出来ない、そう思った。
「構わないわ、私ができる範囲でなら…」
自分にどこまで面倒を見れるかは分からないと付け足せば、アリスは「それで構わない」と顔を綻ばせた。
しかし同時にエノクの頭に一つの不安が過ぎる。
エノクの知識では子供とは女性の体内で育つものであり、動物とは違い、未熟な状態で産まれてくるもの。
どの程度の大きさにまで育ったらこの培養液から出てくるのか、はたまた時が来れば自力で這い出てきたりするのか、考えただけでもいろんな可能性に溢れ、エノクはその疑問を押さえることができなかった。
「ちなみに…この子はどうやって生まれるの?」
アリスは頷き、ランタンを手に取ると説明を始める。
「時期が来れば蓋が開き、外に出てから成長を始める仕組みであるが…もしかすると千年程度かかるかもしれぬ」
途方も無い年月をさらりと言われ、途端に目の前は真っ暗になった。
せめて十年程度であれば自分の手で育てられるかもしれないが、千年などどう考えても自分の命が先に尽きてしまうのだから、とてもどう生まれてくるか心配するのはお門違いである。
「…あの、せめて早める方法はないの?」
「成熟前に出し空気に触れることになれば壊死するからの…時を待つしかないのじゃ…」
絶望的な答えにランタンを見ていると、ずきりと頭の中心が痛みを訴えた。
「うっ…!」
あまりの痛みにその場に崩れ落ちそうになるが、アリスのとっさの指示によりマンドラゴラが受け止め、地面には触れない位置で触手に身を委ね、エノクは必死に痛みに耐える。
「ゲフェニアの悪魔…ではないな、これは呪いを無理に移動させようとしたものかの?」
アリスがエノクの額に手を宛がい聞きなれない言葉の列を囁くと、不思議と痛みは消え、助けてくれたことを素直に感謝した。
「ありがとう…アリス…」
しかしアリスの表情は曇ったままで、それはエノクに不安の影を落とす。
「どうしたの…?」
「…魔王もそうであったが、人間はややこしいものを作るのが好きじゃな…」
その言葉にエノクは首を傾げるが、アリスはため息をつくとマンドラゴラに指示を出し、エノクをまたその上へと座らせる。
「いやなに、苦しめ合うことを考えるのが得意だと思っての…」
人間の本質を指していると解釈したエノクは、アリスの言葉を否定することは出来なかった。
彼女の親戚にあたるジャックも欲にまみれ、その欲のために身体を異形へと作り変えていたし、彼が死ぬ間際、その記憶に触れた瞬間、エノクの心に嫌悪感に似た感情を植えつけるには十分であったのを思い出す。
「なに、そのような人間ばかりではないと知っているがの?」
エノクの心を見透かしたかのようにアリスは意味深に微笑み、その笑顔にエノクは苦笑して応えることしか出来なかった。
気付けば辺りに霧が立ち込めはじめ、アルベルタの夜明けが近いことを二人に知らせる。
アリスは海の方角をじっと見詰め、その息をやんわりと白くさせた。
「よいか、エノク?」
掛けられた言葉に短く返事をすれば、アリスはどこか戸惑いながらも言葉を紡ぐ。
「先のことを伝えるのは良くないのじゃが…、本当にこれは特別じゃぞ?」
真剣なアリスの眼差しにエノクは頷く。
その様子を見たアリスは意を決し、その口を開いた。
「そなたは近いうちにゲフェニアへ行く、そこで子を成し、家を栄えさせるのじゃ」
「子ってそんな…!私が!?!」
唐突なアリスの言葉に冷静さを失ったが、アリスに「最後まで耳を貸せ」と宥められてしまった。
「そなたの血筋はまちがいなく大きな流れとなる、そのためには色々と受け継がねばならぬが…」
アリスは人差し指をエノクの心臓に向ける。
「呪いもそうじゃが、悪魔もしばらくは共に継がれるであろうな…」
先ほどアリスに施しを受けた久方ぶりの身体の軽さにエノクはすっかり悪魔のことを忘れており、意識した途端、背中に感じた悪寒に身体を震わせた。
「そなたから数えて…のちの八代目になる当主は術の作成に秀でる、そこで悪魔は身体から剥がせるじゃろう」
尚も続くアリスの話に、エノクは真剣に耳を傾けた。
「悪魔の力が最も弱まった頃に我が子が生まれるだろうの、人では悪魔は殺せぬ…ゆえに制裁は子に任せてよい」
最後に続いた「せめてもの償いじゃからな」という言葉に、アリスもまた魔王の行動に心を痛めていたのだと、エノクは気付かされた。
共に世界を良い方向へと変えるべく、同じ意識を共有していたのにも関わらず、憎しみにまみれてしまった魔王。
彼が道を間違えたことは、すぐにアリスの元へも届いたがもうすべてが遅かった。
だからこそアリスは”知恵”という細工を施すため、こうしてエノクを訪ねてきたのだ。
(希望を捨てた訳ではないからな…)
次第に森の中へも黄金の光がうっすらと射し込み、朝日が夜の終わりを告げ始めた。
急激な気温の変化でアリスの身体は寒さに震えたが、これが最後になるであろうと決意をもってエノクに伝える。
「そなたには申し訳無いが、これが私から出来る贈り物じゃ」
そう告げると一冊の本をエノクに差し出す。
相当の魔力が篭められているのはすぐに分かり、エノクが手に取ろうとした瞬間、本は彼女の掌に吸い込まれるようにして姿を消してしまった。
「え…?」
驚くエノクの肩をぽんぽんと優しく叩き、アリスは笑った。
「そなたの命が尽きても、その記憶を記録できる魔法じゃよ」
エルフとは何と万能な生き物なのか、エノクは羨ましく思うと同時に感嘆する。
海の方角を見たアリスは「よし」と声を漏らし、マンドラゴラの上から身軽に地面へと飛び降りた。
「…さあ、互いにそろそろ戻らねばならぬ頃合いじゃな」
アリスの言葉に頷いたエノクもマンドラゴラの助けを借り、その頂から地面へと足を下ろした。
差し出されたランタンを受け取ったエノクは、ふたたびその中身を見る。
深い海のような青で満たされ、つねに光を発しており、その青い光はエノクの瞳を染める。
その瞳を見たアリスは、魔王が継がれたのが彼女で良かったと心から思うと同時に、寂しさを覚え感傷に浸った自分に戸惑いながら口元を緩めて微笑んだ。
(…これが母親ということ、か…)
アリスが合図するとマンドラゴラは役目を終え、瞬く間に枯れてしまった。
アリスはその枯れ後から一枚の葉を拾い上げポーチへとしまいこむと、その様子を見ていたエノクに語った。
「物珍しそうに見ているな?これは次代のマンドラゴラの元にするのじゃ、命は繋がるものだからの?」
決して使い捨てにしない、その使役の方法に納得した面持ちでエノクは頷く。
二人の間を一陣の冷たい風が駆け抜け、エノクが空を見上げれば次第に空が白ばみ始めているのが分かった。
「さて、街まで送るかの?」
アリスの申し出に首を横に振ったエノクは「一人で大丈夫」と答えた。
彼女にかけられた呪いもアリスの手で解除出来る範囲を無効化させたことにより、元気を取り戻した様子が伺える。
「そうか…それでは、私は退散させていただくよ」
ポーチから一枚の艶やかな蝶の羽を取り出し、エノクに振ってみせる。
「…ねえ?私たち、もう会えないのかしら?」
予想しなかったエノクからの質問に、アリスは言葉を詰まらせる。
かつて愛した魔王、彼は別れ際にいつも「もう会えないのか?」と聞く寂しがり屋だった。
だからこそ決まってアリスは「運命ならば、また」と答えるのがお決まりだったのだが、今回は違う。
「…そうじゃな、達者で暮らせよ」
交差することのなかった、最後のやり取り。
すべてを察し、その答えに苦笑するエノクも穏やかに「あなたもね」と答えた。
やはり、これが永遠の別れ。
いつ頃この世界を発つとは言わなかったが、彼女の口振りからすると間もなく行ってしまうのだろう。
アリスは名残惜しそうにエノクの腕に抱かれる我が子を見つめ、決意した面持ちで蝶の羽を握り締めた。
「それでは頼んだぞ、エノク」
エノクは力強く頷く。
それを見たアリスも頷き返し、蝶の羽を千切ると、光となってその場から消えた。
朝日に目覚めゆく森の中で、まるで夢のような出来事だったとエノクは思う。
目覚めた小鳥の声に促されるように家路に向かう最中、抱かれたランタンに小さな文字が彫ってあるのに気付き、それに沿うように指を這わせる。
「…ナ…ル…、リアス…?」
エルフの文字は最初こそ解読不能に見えたが、どうやら魔王の記憶が手助けしてくれたようで読むことが叶った。
リアスはアリスの姓。
エルフの中に置いて、その血筋を示す音。
つまりこれの文字は子供の名前だと、エノクは理解した。
「名前だけは先に決めておくなんて、あなたらしいわ…!」
穏やかに微笑むエノクの目にアルベルタの街門が映り、その背後の広大な海からは輝く太陽が顔を覗かせていた。