「おい、執事」
ボルドーの長く緩いウェーブの掛かった髪を揺らし、死を司る女神は執事を呼ぶ。
彼女の声に応えたのは漆黒の燕尾服に身をつつんだ長い銀髪の若い執事で、彼は女主人へと深く頭を下げた。
「御前に…」
「さっさとこい、私は待つのが好きではない」
冥府王は片手に乗せていた水晶玉を執事に手渡し、組んでいた足をゆるやかに組み替える。
水晶玉を受け取った執事は退室するため、ふたたび長い銀髪を揺らして頭を下げた。
部屋を後にしようと黄金に輝くドアノブに手を掛けた、その時であった。
「もうすぐ面白いモノが見れるぞ…おまえ、私の白き鎧で出ろ」
冥府王の突然な気まぐれに執事は顔をしかめこそしたが、流れるような動作で主君に向き直ると感情のない顔付きで頭を下げる。
「迷い込んだ魂の処理…で、よろしいですか?」
執事のなんとも抑揚のない声に冥府王は楽し気に笑う。
「蹴散らして連れて来い、全員すべて…生きたままでな?」
「はい、仰せのままに」
執事が部屋を後にし、再び静まり返った室内に取り残された死の女王であるヘルは、それは楽しそうに玉座の古ぼけた装飾を指でなぞると満足そうに目を細める。
髪と同じ色をした長く尖った爪を器用に滑らせながら、彼女は笑みをこぼす。
「ようやくだ、ようやく待ち望んだ晩餐が私の元に巡ってきた…」
ナルとセツナがニブルヘイムに到着するころ、それは月が真上にのぼる真夜中であった。
真夜中といっても奈落の底にあるニブルヘイムでは空が見える訳でもなく、ただ淀んだ湿り気のある空気が死者の街を満たすだけ。
黒鉄格子で作られた街の門をくぐったナルは、肌を刺すような威圧感を察し足を止める。
「あ…」
間違えようもないその感覚に思わずこぼれた声。
ただならぬナルの様子に勘付いたセツナも足を止め案じる。
「ファスキー殿、どうかしましたか?」
「街にいるわ、私の…、私の主様…」
その言葉にセツナは喉をならす。
二人はてっきり追い掛けてきているのだとばかり思っていたが、それは先回りをして待ち構えていたのだ。
いまだ姿こそ見えないが、ナルが間違えることのない威圧的な感覚は街の中央にて自分を待ちわびているのが手に取るように分かる。
「…どうしますか?」
自然と声を殺したセツナの前でナルはリボンを目に巻き、どこか淋しげな笑顔で告げる。
「セツナさんは手を出さないでいて、私一人でやらなきゃいけない事だから…!」
事が済む間、どうか物陰に隠れているようにとナルは丁寧に頼むと、ゆっくり街の中央を目指して二人は歩き出す。
(心臓が爆発しそう…)
一歩進むたびに鼓動は恐怖を示し、心臓が震えあがるのが分かる。
彼をこれほど怖いと思うのはいつぶりだろう。
ゲフェニアで遭遇したときの、あの日を思い出すと呼吸は自然と速くなるのが分かる。
(そうね、私…とても怖いわ、今の主様が…)
そろそろだとセツナに隠れてもらい、ナルはようやく街の中央へと辿りつく。
そこに巨大な魔女を象ったモニュメントがあり、その下にはよく見知った悪魔が腕を組んで瞳を閉じていた。
懐かしい存在感にしびれる身体を馴らし、ナルは悪魔の目が届く範囲に足を踏み入れる。
ゆっくりと紫電の瞳を開いたドッペルゲンガーは闇色の目隠しをしたナルを見ると、そのささやかな抵抗に笑みを零す。
「…なるほど…ステアのリボンか、考えたな」
視界を遮ることで魅了の支配から逃れる。
その知恵を見て、ドッペルゲンガーはナルから明らかなる抵抗の意思を受け取った。
身体を強張らせる彼女の姿は、恐怖しつつも自分の前に立つ勇気にあふれ愛くるしくもある。
(なんといじらしい…だが、しかし…)
「我の元に帰れ、もう人でないお前はゲフェニアから離れて生きることなど無理だ…分かっているだろう?」
主の言葉にナルは首を横に振った。
いつになく我を通そうとする姿には少しいらだちを覚えたが、それもまた愛らしく思う。
彼女が自分に遠慮し、感情的なふるまいをしなくなったのは一体いつからだったろうかと考えれば、彼にとってこの抵抗は些細な悪戯に過ぎなかった。
ドッペルゲンガーは両手を差し出し、彼女が自らの意志で自分のもとへと戻れるようにと言葉をえらぶ。
「お前は我の腕の中で満たされる存在に堕ちたのだ、共に生きるため契約を交わしたのだろう?」
その問いには首を縦に振る。
しかし腕の中に飛び込んでくる様子はなく、ナルはすこしだけ俯くとようやく口を開く。
「でもね、主様…私は、私が人だったという可能性を見たくなってしまったの…」
その言葉ひとつで、悪魔の気が怒りに満ちたそれへと変わるのをナルは感じた。
まるで魔王の嘆きに選ばれた、あの夜のようだと震える心は危険を知らせてくれた。
恐怖で震える身体を自ら抱き締め、ナルは震える足に力を入れ、漆黒のリボンで遮られた瞳で主を見る。
すっかり機嫌を損ねた悪魔は紫電の瞳を細め、抱き締めるはずだった両手を下げていた。
「…では、どうする?」
悪魔の問いにナルは喉を鳴らすと、ここまできた理由となる決意を告げる。
「戦って…キミから自由を勝ち取る」
その言葉に悪魔は愛用の大剣を呼び出すと、その切っ先を愛する眷族に向ける。
「なるほど、では当分は寝所から出れぬ程そなたの身に我が剣を刻む…覚悟はいいな?」
言葉の意味を汲み取ったナルは、逃げることも負けることも出来なくなった戦いを目の前に深呼吸をする。
気持ちを切り替えアサシンの魂をまとい、ジャングルで見せたカタールを両手に形成すると十字に構えたナルは強く頷く。
「私は!私の意思で戦う!」
強固な意思を言葉で明確化し、先手を打ったのはナルであった。
防戦に入れば彼に手数で敵うわけがないし、攻めなくては恐怖で足が動かなくなりそうだった。
ナルの光のカタールを操る姿は全盛期のファルを彷彿とし、その太刀筋を剣で受け流しながら悪魔はさらに苛立ちを覚える。
「我が憎み続ける退魔師の真似事とは!よほど逆鱗を撫でたいと見える!」
悪魔の一閃で薙ぎ払われたナルは、受け身も取れぬまま後方へ叩きつけられてしまった。
打ち付けられた痛みに声が出ないが、思考を止める事なく動かせば身体はすぐに反応し、反撃するため立ち上がってくれた。
(次の手を!止まってはダメ!)
今度はカタールをヴァイオリンに変えたナルは、ブラキの詩を高らかに唄うと悪魔の追撃を踊るような動作で逃れつづける。
捉えどころのない動きは狙いを定めにくく、今まで相対してきたどの職よりも相性が悪いことをドッペルゲンガーは感じ、またそれを的確に選択した愛しい眷族に笑みを浮かべた。
「ほぉ…バードとダンサーの力か、よく思い付いたものだ」
ナルは舞うように一際高く跳び上がり、今度は杖を形成すると今ではすっかり得意となった退魔魔法を彼の足元に展開する。
「来たれ浄化の光、化の者を焼き尽くせ!マグヌスエクソシズム!」
ブラキの詩により詠唱を短くして現れた浄化の聖域、それに身を焼かれる悪魔は少しだけ表情を歪める。
(まったくもってよく似ている、まさにファルの忘れ形見だな!)
唯一ちがうのはファルに比べてナルは詰めが甘いことを、彼女の主はよく知っていた。
聖域などには目もくれず、悪魔は滞空から地面に解き放たれる彼女を迎え撃つため、鋭い突きを繰り出す。
それを見越していたナルも杖を剣に瞬時に変化させ、なんとかカウンターを取れるよう主たる悪魔に突きを向ける。
だが、それは経験の差もあり、悪魔に圧倒的に有効なものになった。
「…あぁッ!」
主より贈られたのは身体に根を張るようにするどい痛みで、耐え切れず悲鳴があがる。
脇腹に食い込んだ刃は彼女の身を激痛でよがらせ、悪魔は加減など一切せずにナルを地面へと叩き落とした。
それでもナルは止まることなく、彼から一定の距離を保とうと後方に飛び下がる。
剣を構えようと腕を上げるが、再生力の間に合っていない傷から血が勢いよく吹き出す。
「つぅ…ぅっ!」
あまりの痛みで立ち上がれないナルの様子に、ドッペルゲンガーは己の手に浴びた彼女の血潮に気付き目を細める。
なんと美しく、なんと魅惑的な色と香りだろう。
彼女の血を、そうであると認識するころには、彼はすでに味を確かめていた。
(なんとまあ、これほどまでに甘いとは…)
人の世から遠ざけ、閉ざされたゲフェニアで大事に育ててきた果実は、不相応なほどの魔力を吸いあげ甘く育っていた。
さらに彼の目に映るソウルリンカーの能力で自己再生するナルの姿は人間にはまったく相応しくなく、蜃気楼のように歪で悪夢のような光景にみえる。
すっかり人間から掛け離れた異常な姿を見れば見るほど己にこそ相応しい番いの相手であることを確信し、手を放そうとする彼女を思うままにする昂揚感を抑えるのは難しく、いくら耐えようとしたところで笑みは零れ落ち、彼が悪魔である証明のように溢れ出てしまうのだ。
「やはりそなたは我の隣こそが相応しい、よく似合っている」
言葉に含まれた愉しむ思いが存分に伝わっただろう手応えを感じ、ドッペルゲンガーは感嘆のため息を吐き出す。
痛めつけられる恐怖で身体を強張らせた彼女に気を良くした悪魔は、さらに窮地に追い込むため、その身に黄金の集中魔法を使う。
「ふふ、眷族の血肉も悪くないものだ…再生力があるのならば喰らう娯しみがあってもいいな?」
かつての人喰いの欲を思い出せば彼女の血は極上のワインのように香しいし、その身のすべてが自分を誘う甘美な菓子のように思えた。
抑え付けてでも隣に置いておきたい、そう意識してしまえば、滾る心はうごめき震える。
まるで飢えた獣と対峙している獲物のようにナルは立ちはだかる敵におびえ、震える身体に回復魔法を施して撃退という遠く儚い希望に手を伸ばす。
「キミにはもう、一滴の血だってあげない!」
剣での勝負は分が悪いと思ったナルは、今度はブラックスミスの魂を宿して剣を巨大なハンマーに変形させる。
渾身の力を身体に漲らせ、脳内のアドレナリンの告げるまま彼にハンマーを振るう。
「そうだな、身体の限界を越えねば我には抗えんな!」
先程よりも確かに攻撃速度は上がっているが、有効打を打てないナルは焦りを感じる。
そしてそれは現実となり、彼女に厄災として降りかかった。
「さあ、速いということはどういうことか教えてやる、覚えろ」
形勢が逆転するのは一瞬だった。
ハンマーを弾かれたと思ったら、もう次の一手が腕を掠めていた。
次に控える斬撃を防ぐため、なんとか構え直そうするが間に合わずに右足を裂かれる。
これ以上の踏み込みは危険だと判断し身を引けば、まだ再生しきっていない脇腹へふたたび剣を当てられる。
痛みに反応し、庇うように身を屈めれば首を掴まれ、軽々と持ち上げられていた。
「うぅ…!」
苦し紛れにこぼれた自分の声があまりに情けなく、次の手を考える心も砕け散る寸前だった。
すっかりボロボロになったソウルリンカーの衣装に防具の意味などなく、もはや布切れ同然と化したそれは彼の怒りの末端であるように身にまとわりついているだけ。
身体のあちらこちらは再生の間に合わない流血ばかりで、首を絞める悪魔の腕から逃れようと彼の腕を握り爪を立てるが、そんな抵抗などまったく意味はなかった。
「ふふ…剣の軌道は見えていたようだな、感心したぞ?」
声が聞こえた場所へ手を伸ばせば、人差し指に彼の唇が当たった。
いつもは愛を囁き、自分を庇護する言葉を利かせてくれる彼の唇が、とてもこわいと思った。
震えながら血に濡れるナルの指に悪魔が舌を絡ませた瞬間、それを見計らったナルは迷わず電撃の魔法を行使した。
しかしそれが叶うことはなく、魔法を外したと思った次の瞬間には閉ざされた視界は反転し、痛みにまみれた身体は彼の怒りのままに地面へ投げられていた。
(こわい!私じゃ主様に勝てない…!)
ここまで完膚無きまでに蹂躙されるとは想像もしていなかった。
己の無力さ、そして彼のゲフェニアの王たる力に、ナルは恐怖に震えることしかできなかった。
(お師匠様…私、やっぱり一人じゃ…なにも…!)
息をするのがやっとの身体は、プリーストの回復魔法を唱えることすら諦めさせた。
近付く足音から逃れようと身体に力を込めた瞬間、悪魔はナルが自ら視界を覆っていたステアの形見であるリボンを取り外してしまった。
狼狽える紺碧の瞳を赦さないよう、悪魔は全ての魔力を込めて覗き込んだ。
「あ…っ」
しまったと思ったが、それは手遅れに他ならないわずかな時間であった。
紫電の瞳に魅入られた身体は麻痺し、思考は風のない水面のごとく音もなく静まる。
与えられたのは支配される安寧。
「どうだ?痛みと恐怖はお前の気持ちを変えるに至ったか?」
まだ余裕あふれる紫電の瞳を細め、ドッペルゲンガーはナルの長い髪に手を伸ばす。
すっかり血に濡れてしまった彼女の髪はひときわ美しく、撫でれば手に吸い付くような触り心地。
答える様子のない眷族の姿はすっかり魅了されている証で、虚ろう紺碧の瞳は自分だけを映している。
「ああ…そうだな、魅了されていては答えられんな…」
そして悪魔は大剣の刃を当て、一思いに彼女を彼女たらしめている長髪を切り落とした。
ステアを真似た長い髪をどれだけ大事にしているか知っている悪魔が行った、斬髪という処罰。
それはついにナルの心を砕き、今までの決意の全てを崩すには十分すぎる仕置きであった。
切り落とした髪を彼女の前で踏み躙り、ゲフェニアの悪魔は動かせない身体を震わせ涙を浮かべる眷族に現実を突き付ける。
「これでもう、お前をお前たらしめているモノは何一つなくなったぞ?」
悪魔に誘われるまま二度と戻らない髪に視線を落とせば、涙は重力に簡単に負け落ちる。
すっかり戦意喪失をしたナルは言葉を発する事もなく、奈落の底のような目でただ涙を流し続けた。
「もうこれ以上お前の気紛れに付き合ってはおれん、さあ、ゲフェニアに帰るぞ」
「待て!」
声がした方向に悪魔が目を向ければ、そこにはファイアーブランドを携えた騎士の青年がいた。
手を出すなとは言われていたが流石にこのまま黙っている訳にいかず、セツナは魔剣を手に勇敢にもゲフェニアの悪魔の前に立ったのだ。
騎士の顔を見たドッペルゲンガーは一瞬怪訝な顔を浮かべ、眉間にこれほどかというほど皺を寄せる。
「…貴様は…?」
「私はプロンテラ王国騎士団所属セツナ!私の剣は弱きを助けるもの!彼女から離れろ!」
眉をしかめていた悪魔だったが、騎士のその顔造りに気付くとナルを見下ろし、とても幸せそうに笑顔を浮かべた。
すっかり心を無くしてしまった彼女の頭を優しく撫で、その頂きに口付けを落とすと、先ほどまでの怒りの気配はどこへやら。
「なんだ、やっぱり寂しかったんじゃないか…髪を切る必要はなかったな、可哀想な事をしてしまった…すまない…」
「ファスキー殿から離れろ!」
これ以上ナルへの仕打ちを阻止するため、炎を纏わせセツナは悪魔に斬りかかった。
しかし炎の太刀筋は届くことなく、悪魔の愛用たる大剣で簡単に受け止められたセツナは力量差をまざまざと感じざるをえない。
涙するソウルリンカーから視線を離すことなく、ゲフェニアの悪魔は騎士に告げた。
「我が寵姫の全身全霊を以ってしても敵わなかったのだ…お前などでは尚更無理だ、退け…」
その声はまるで絶望の権化のようで、セツナは震えた。
地の底から沸き上がるような恐怖は未だかつて感じた事のない類いのもので、魔剣を持つ手が小刻みに震える。
それでも交える剣を退けないのは彼が騎士故なのか、彼は絞るような声で今一度ゲフェニアの悪魔に言う。
「…ファスキー殿から、離れろ!」
相変わらずソウルリンカーの頭を撫で続けていた悪魔は重いため息を吐き出すと、興の冷めたような瞳でセツナを見た。
「しかたない、少し遊んでやろう…」
その時だった。
彼らの足元に朝靄のような白い瘴気が立ち込め、空気中の燐がうっすら緑がかった白い炎となりあちらこちらで燃え始める。
「これは…仕置きに時間を掛け過ぎたか…」
口惜しそうに吐き出したドッペルゲンガーは瘴気が溢れる方角へ視線を向ける。
幾重ものウィスパーも従え彼等に鎮魂歌を謳わせる。
純白のナイトメアに跨り、月光の輝きを持つ槍と巨大な盾を携え、白い鎧を纏った死者の王が姿を現したのだった。