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第6話 指標

サキュバスから出た言葉は、ナルの心に大きな波紋を落とした。
それは遠い昔、仲間たちを見送った際も心に生まれこそしたが、当時は哀しみが勝り、その感覚に蓋をしてしまったようにも思う。
だが今回は明確に根を生やしたことを主張し、そのゆさぶりは言葉にせずにはいられなかった。
 「私の魂が回収されるって、それは…私も…みんなが逝ってしまった輪廻の環に戻れるということ?」
とうとう口に出してしまえば、心に浮かぶのは宝物である思い出たち。
それと、輪廻の環に戻れば再び出会えるのではないかという、小さな幸せすぎる希望の粒。
サキュバスは途端に切なそうな表情を浮かべ、ナルの手を強く握り返した。
 「あぁ…!やはり人間にお戻りになりたいのですね?」
過去に縋り続けるナルの姿はサキュバスも当時より見守り続けており、折に触れては悲しみにくれる姿には心を傷めており、それは二人の主である悪魔も同じであることを知っていた。
 「別に…人間に戻りたい訳じゃ…」
 「私、知っていますわ!思い出たちに、その仲間であった墓標に花を捧げに行ってらっしゃること!」
いつに無く強い口調で言葉を遮るサキュバスの声にナルは口を噤む。
花を手向けに行くのを伝えてあるドッペルゲンガーはまだしも、サキュバスまでが自分の墓参りに気付いていたとは思いもしなかった。
供える香の香りだって気を付けていたし、戻ってからも決して表情に浮かべることがないようにしていたつもりだった。
 「奥方様が泣いてお帰りになられるお姿に、主様はどれだけ想いを募っていらっしゃることか!」
墓標の前で泣くこと。
それはナルにとって悪魔の花嫁としてではなく、自分が自分でいられる唯一の箱庭、そう感じていた。
しかしサキュバスの口振りからすると、その行為自体が人と世に戻りたいと見えるうえ、ゲフェニアの主も心を痛めているという。
 (主様…ああ、私は…)
今まで気付いてはならないと背けていた心を決め、決意の証としてナルはサキュバスに告げた。
 「そうだね、私は…また皆に会いたいと思っているよ…」
 (ああ!奥方様…!)
その言葉にサキュバスは息をとめ、身体は震えた。
ピンクダイヤのような瞳を見開いて口をしっかりと閉じ、肩を落として視線を下げた主が愛してやまない人間だった女を見つめる。
頼りなさげで不安げに視線を虚ろわせる様子は、禁忌を犯した罪深い彼女の魂を見ているようだった。
 「…私、ニブルヘイムに行くわ…あなたはゲフェニアに戻って彼に伝えてくれる?」
 「奥方様だめです!」
サキュバスの否定の声に首を横に振り、握っていた手を離したナルは強い眼差しで夢魔に告げた。
 「私自身の指標を探しに、スタージュエルを求めに行く、と…それだけ伝えて」
もしそこで冥府王に回収されるなら、それも運命。
運良く見逃されるのも、もしスタージュエルを手にして未来を読み解くのも道の一つなのだと、ナルは言った。
自らを追い込まねば進めぬほど永いこと止まっていた時間にようやく気付いてしまった心はかつての情景を求め、歩くことを忘れていた足はようやく一歩目を踏み出そうとしている。
サキュバスは今にも泣き出しそうな顔を浮かべたが、すぐに諦めたようにゆっくりと羽を広げて空へと舞い上がる。
月の映える夜空からナルを瞳に映し、別れの言葉を口にした。
 「…きっと…次は主様が自ら連れ戻しに参りましょう、どうぞご無事であられますよう…」
きっと連れ戻される際に、自分は彼の剣を向けられるだろう。
それを何処か他人事のように思い浮かべつつ、ナルは笑ってサキュバスを見送る。
 「ありがとう、楽しみにしているわ!」
そんなナルの姿に苦笑したサキュバスは、恐ろしくも安らぎである魔法都市に向けて夜空の彼方へと飛び去った。
残されたナルは部屋に戻り、不安に染まった胸に手をそえると大きくため息をつく。
 (スタージュエル…私の可能性…!)
目的を定めた心は存外にも軽いもので、ゲフェニアでソウルリンカーとして旅立つと決めたときよりもずっと息がしやすいとも思う。
紺碧色の瞳を強く伏せ、声を押し殺し、それを吐き出すように言葉を紡ぐ。
 「もう師匠の導きなんてない…私の道は私で決めなくちゃ…!」
自らの死後、弟子が困らぬようにと手を尽くしてくれた最愛の師。
その残り香も忘れてしまいそうなほど永く生きたのだ。
師がそうしていたように、大地を踏みしめていかねばならない大きな岐路。
そこへナルはやっと辿り着くことができた、そう思った。



砂漠の都市に朝が訪れ、ナル達が借りていた部屋にも強い陽光が入り始める。
あれから少しだけ仮眠をしたが悪魔に取って変わられた様子もなく、そのことには素直に安堵した。
ただ隣で眠るセツナはまだ夢の中のようで、起きる様子は微塵もない。
 (ん…よく寝てる…)
まだぼんやりする頭で主に似た顔を見つめれば、普段接している主にしか見えない。
むしろ彼が隣でいつものように寝ているのだと錯覚するのは、当然ともいえた。
ナルはいつものように彼に覆いかぶさり、彼の頬に両手を添える。
 (主様…)
すっかり寝ぼけた頭は別人であることを忘れ、主よりも先に起きた時にする口付けの儀式を今、まさにすべく行動する。
唇が重なる寸前、いつもとは違う気配に気付いたセツナの茶色い瞳が開かれれば、自然に互いの目が合う。
交差するはずだった紫電の瞳は幻となり、見開かれてゆく瞳にナルも動きを止めた。
 (…そうだ!ここはゲフェニアじゃない!)
ようやく頭がついてきたことで身体は飛びのいてこそしてくれたが、頭の回転は覚束ないままであり、この状況をどう説明すべき言葉は出てきてくれない。
慌てふためく互いであったが、先に口を開いたのはセツナであった。
 「あ、あの…ファスキー殿…お、おはようございま、す…」
 「お、おは、ようっ!」
上擦った声は己の不甲斐なさと後悔と懺悔を凝縮しているようで、ナルはさらに自分の情けなさを恥じた。
すっかり同じ顔というだけで酔いしれていたことを反省し、その弱さに向き合うため、ナルはセツナにまずはこれだとばかりに頭を下げた。
 「ごめんなさい!セツナさん…その私の主にとても似ていて、ついいつもの癖で…!」
 「くせ?!あ、あるじに、ですか…!なるほど!それは失礼しました!」
明らかに動揺しながら納得する姿にまったく別の内容で謝罪が伝わったことが推測されたが、未遂であった行為はどうやら許してくれたようで、ナルは素直にそのことだけ安堵した。
そして、告げる必要のある自分が目指す物の話を始めるべく、咳払いをすると彼の目を見て改めて切り出す。
 「あのね…セツナさんが寝ている間にトラブルがあって、私はニブルヘイムに行かなくてはいけなくなったの」
 「え、それはなんとも突然です、ね…」
昨夜は寝入る前に再びスフィンクスダンジョン攻略の話をしていたのに叶うことはなくなり、さらに別の土地の名前を出されたことにセツナは困惑するしかなかった。
はだけていたシャツを直しつつ、着ていたものを羽織りながらセツナは改めて彼女の口から出た未開の世界の名前に心が揺れる。
 (ニブルヘイム、たしか死者の国…)
目の前で申し訳なさそうにする姿に昨日の勇ましい姿を重ねれば、彼女と共に進む道になんど心躍る光景があるのだろうかと気持ちは昂る。
 「…それは私が共をするのはダメ、ですか?」
口からこぼれ落ちた言葉に驚いたように顔を上げたナルは、すこし言い淀むと改めて口を開く。
 「ダメじゃないんだけど、うーん…この先は私の主様が追い掛けてくると思うの…」
先ほど自分に覆い被さってきた際、彼女がしていた蕩けそうな眼差しを向ける相手とは一体どんな輩かと考えれば、ますます旅路が気になる。
昨日のラッコ退治の充実さは今まで体験した戦いのなかでも、飛びぬけて充実したものであった。
彼女と共にいれば単身でいるよりも戦闘は心強く、また旅の途中で話し相手に退屈することもない。
しかもニブルヘイムなど存在こそ聞いたことがあるだけの、自分は行ったこともない場所を目指す旅。
 「あの…決して足は引っ張りません、それでもダメでしょうか?」
彼の鮮烈でまっすぐな眼差し。
さらに昔から押しに弱いナルが断りきれる訳などなく、結局は二人でニブルヘイムを目指すことになってしまったのだった。



一方のサキュバスは怯えながらゲフェニアの地へ、今まさに降り立っていた。
視線の先には彼女らの主の姿。
 (うぅ…主様、お待ちくださってたのですね…)
使い魔の帰還を待ち侘びていたドッペルゲンガーはその報告に期待の心を寄せており、その様子を察したサキュバスは口を強く結ぶ。
ナルの託を頭に浮かべれば主の前に跪くことすら気を失いそうで、彼女はようやく頭を下げるに至った。
 「…よく戻ったな、ご苦労だった」
 「お心遣い、痛み入りますわ」
いつになく機嫌のよい主の声にさらに頭を下げ、サキュバスは声を震わせた。
どう切り出したものかと考えていると、先に待ちきれない様子の主から声が掛かる。
 「それで…アレはどうだった?人の世は息が詰まると嘆いていたか?」
 「はい、人の世は不自由だと仰られておりました…」
 「そうか、ふふ!…そうだろうな…」
どこか楽しそうに答えるドッペルゲンガーに頭を下げたまま、サキュバスは目を伏せると静かに息を吐き出す。
きっとこの穏やかな姿は、彼の唯一の愛を唄った相手から送られるスタージュエルの話に触れれば程なく変貌するであろう。
それを思えば、たとえ少しなりでもうまく伝えねばならぬ、そう改めて思った。
すっかりナルがゲフェニアでの生活に順応し心満たされているものと確信した悪魔は、自分の心の拠り所となる問いを夢魔に問う。
 「…それで、だ…我が恋しいと震えていたか?」
 「確かに震えてはおられましたが、モロクの寒さに…でしたわ」
当ての外れた返答に悪魔の眉が吊り上がる。
急に溢れ出した主の不穏な空気に気付いたが、ここまできてはぐらかすことは命取りだと、サキュバスは絞り出すようにして言葉を続けた。
 「奥方様から伝えてほしいと頼まれた言葉がありますの…」
 「む、なんだ?」
夢魔はゆっくりと顔を上げ、主の顔を伺いながらナルの言葉を口にする。
 「ご自身の指標を探しに…スタージュエルを求めにいく、と…」
聞き捨てならないキーワードに、紫電の瞳を見開いた彼は夢魔を射抜くような眼差しで見下ろした。
それは天地をひっくり返す程の怒りの気配。
サキュバスは身体を震わせ、音を鳴らす奥歯にてその恐怖を顕にする。
配下の恐れる様子など構うことなく、ゲフェニアの主は改めて夢魔へと問う。
 「…まさか、ニブルヘイムの秘密をアレに告げたのか?」
揺らめく怒りの気配に、サキュバスは力を振り絞り答える。
 「…冥府王が星の瞬きを所有する事と…魂の回収の可能性を…」
震える声で答えればドッペルゲンガーは憎そうに使い魔を睨み付け、地上へ続く道へ身体を向けると足を踏み出す。
 「しばらくゲフェニアは留守にする、どうにかしておけ」
夢魔を視線に映すことなく告げたゲフェニアの主は、愛の軌跡を追うため二人の安寧の地より這い出ることを誓った。
左手を強く握れば、薬指には揃いの指輪。
ようやく退魔師から取り上げ、永い時間を掛け愛でてきたというのに、たった一つの宝物は気まぐれを起こすと雲を掴むように逃げ出したのだ。
あれほど囁いてくれた愛は嘘だったのか。
共に寂しさを分かち合いながら生きると誓ったのは戯言だったのか。
怒りで自然と食いしばる奥歯に血の味を感じながら、悪魔は花嫁を連れ戻すための呪詛を口にした。
 「今になって心変わりするなど許さぬ!絶対に…!」