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第5話 神の涙

昼の暑さが嘘のように砂漠の街の夜は冷え込む。
身体が凍ってしまうかと思うほどの寒暖差こそ、モロクの特徴でもある。
決して広くはない宿屋の一室をなんとか借りることができた二人は、その部屋の風貌に愕然とした。
まちがいなく二人用の部屋を申請したが部屋の大半は薄汚いベッドで占められ、カーテン一枚越しにトイレとシャワーが見える。
すっかりゲフェニアの心地良さに染まっていたナルにとって、それはいまだかつて想像だにしなかった貧しさを象徴するような光景だった。
 (…こ、これが…安宿…!)
ゲフェニアに沈む古代の遺跡は廃墟ながらも、魔力の管理が行き届いているからか保存状態はよい。
形を保っている家こそ多くはないが、ナルは気に入った一軒をととのえて寝ぐらにしていた。
ながれる地下水は清浄ゆえそのまま口に出来るし、地上へ薪を取りに行けば火も起こせるし、もちろん湯浴みだって可能だ。
さらに遠いアコライト時代ともなれば、師であるファルと立ち寄る旅先の宿はどれも充実すぎる設備の整った部屋ばかりであり、ファルがいる限り寝泊りの心配などする必要がなかった。
ナルにとって初めての経験となる今宵の寝床は、ゲフェニアへの帰還を考えるほどの不運であった。
 「あの…シャワー使う時は部屋から出ますので、気兼ねなく使って下さいね?」
ゲフェニアでの生活に想い馳せていたナルは、セツナの声で現実に引き戻される。
 「うん、ありがとう…」
しかし問題はそれだけではなかった。
寝床が一緒というのは彼女にとって非常に困る。
悪魔の花嫁は特性として、意識を手放す状態である気絶、および睡眠時は魂の主である悪魔に身体の主導権を渡すことができる。
つまりそれは、うっかり寝入ってしまえば主に身体の支配権を渡してしまうことを示し、それは傍らに人間の男を置いていることが筒抜けになってしまうということ。
身の潔白を示そうにも、嫉妬深い悪魔のこと。
勘違いされれば、それはもう一貫の終わりといえる。
 (せめて今夜はベランダで過ごすしかない、かな…)
真冬のような寒さを湛えた窓の外を見つつ、ナルはセツナに気付かれぬよう肩を落とした。



 「…セツナさん、寝た?」
少し距離をおいて共にベッドに転がっていたナルは、とても小さな声で彼の様子を伺ってみる。
しかし、セツナからの反応は一向にかえってくる様子もなく、ナルは慎重に彼の気配だけに神経を尖らせる。
あれから交互に部屋を明け渡す事でなんとか湯浴みを済ませ、身体を横にする所まで落ち着くことが出来た。
寝付く間際、明日はどうするか、そんな話をしていたがセツナの反応は次第に薄くなり、やがて沈黙した。
 「…セツナさん?」
もう一度だけ彼の名前を呼ぶが、やはり返事はかえってこない。
月明かりで目を凝らせば主と瓜二つの寝顔であり、つい見惚れてしまったナルは苦笑する。
ふんわりとした色素の薄い金の髪に思いを馳せつつ、睡魔がくる前にどうにかしてベランダへと移動しなくてはならないのだ。
毛布を纏って静かに窓を開けば、覚悟していたよりずっと冷たい夜風が頬を撫でた。
すっかり冷え切ったレンガに素足で降り立てば、そこは氷の上かと思うほど。
冷たさは足を刺し、身体は一瞬にして温もりを失ってしまった。
身体を震わせつつ夜空を仰ぎ見れば、そこには細い三日月がぼんやりと雲をまとって浮かんでいた。
 「うぅ…さむい…」
つぶやいた吐息は白くなり、その気温の低さを改めてナルに思い知らす。
こんな気温の中、冷たいベランダで寝たら体調を崩すよりも命が危険かもしれない。
しかし、それも杞憂。
そう、自分の魂は今もゲフェニアにあるのだから。
 「あー、ゲフェニアはいい所だったなぁ…」
ため息をつくと何処からかクスクスと笑う声が耳に届き、馴染みのある声に思い浮かんだ名を呼んでみる。
 「…サキュバス、いるの?」
問い掛けに紅の翼を持った夢魔は羽根のようにフワリと姿を現した。
毛布にくるまったナルへ深い礼をし、顔色を伺うよう静かにゆっくりと顔を上げる。
 「うふふ、昨日ぶりです奥方様!外の世界はやはり窮屈でして?」
紅い瞳を輝かせてナルを見上げる姿はどこか楽しそうだが、一方のナルはまとっている毛布を握る手に力を込めた。
サキュバスの着衣、その布面積の少なさを強調する姿はさらに寒さをあおるのだから、たまったものではない。
 「窮屈っていうより、不自由かな…」
寒さで声を震わせるナルの言葉に、サキュバスは楽しげに笑う。
 「まあ!すっかりホームシックになられておりますね、明日にもゲフェニアにお戻りになっては如何ですか?」
 「やめてよ、私はゲフェニアには戻らないよ」
夢魔の甘美な誘惑の言葉を跳ね除け、ナルは苦笑しながら夜空を見上げた。
星はモロクの冷えた空気のおかげでゲフェンで見るよりもずっと綺麗にナルの目に映り、そんな夜空を見上げるナルにサキュバスは目をおおきく瞬きさせ問い掛ける。
 「…もしや、人間の世界からゲフェニアに戻らないおつもりですか?」
夢魔の言葉にナルは確信した。
彼女は夢食いにモロクに来た訳ではない。
ゲフェニアの悪魔からうまく連れ戻すように言われ、自分の前に降り立ったに違いない、と。
ありもしない事を悪魔に告げられては彼自らが連れ戻しにくる恐れがあるし、さらに事情があるとはいえ、人間の男と共に行動しているのだけは絶対に知られたくはない。
サキュバスの言動から推察するに、まだセツナと行動しているのは知らない様子はうかがえるので、ナルは慎重に状況を紐解いてゆく。
 (もし昼間から監視されていたのなら、間違いなくセツナさんの人間性を試す夢への干渉をしているはず…)
夢魔にとって人間、特に異性の夢は大変美味だそうて、幸福な夢ほどその味は至高になるのだと前に聞いた。
食される側の人間性にもよるが自戒している者ほど強い欲求を持つらしく、サキュバスは真面目な相手を選んでは夢食いをしているのをナルは知っていた。
また、望むままの世界を夢として与えることも出来るというので、ナルも過去に一度だけインキュバスに頼み、ストレイキャットの面々と過ごす夢を見せてもらったこともあった。
それが紛れもない夢だと分かっていた。
それでも、かつて心を許していた仲間達と過ごす夢はナルにとって幸せなどという言葉では足りないほど尊く、夢から戻る様子などない姿に業を煮やしたドッペルゲンガーに無理矢理起こされてしまったほど、夢魔の作り出す夢とは甘美な色に溢れているもの。
さらに今、ナルの前に降り立っているのは好奇心の塊のサキュバス。
彼女をよく知っているナルからすれば、その行動は非常に予想がしやすい。
 (なんとか私から意識を逸らさせないと…)
サキュバスの性格を考慮し、ナルはなるべく自然に振舞うと苦笑してみせる。
 「帰りたくない訳じゃないよ、ところでサキュバスはどうしてここまで来たの?」
 「それはもちろん!主様から奥方様の貞操を守れとの言い付けですわ!」
 「…よ、よく言うよ!言い訳よろしく、ただの監視じゃないか…!」
ため息混じりに呟くと、白い吐息は空気中へと消えてしまう。
こうして素直に答える辺りが彼女の長所ではあるが、やはり口止め出来る訳がない。
自分がどれほど懇願したとしても、彼女はゲフェニアの悪魔の下僕であることは覆せない。
まずは彼に誓っている強い信頼、それを自らにもそうなるよう勝ち取らねばならず、ナルは意を決する。
それは自らを駆り立てた理由のひとつ。
ナルは瞳を伏せがちに潤ませ、顔色を伺うようにサキュバスを見つめた。
 「あのね、私、欲しい物があるんだ…」
ぽつりと呟かれた言葉にサキュバスの耳がピクリと反応する。
 「欲しいもの?ゲフェニアにはないのですか?」
 「うん、師匠も追い求めていたモノなんだけど…」
ナルの口から出たキーワードに、夢魔はより一層その目を見開いた。
その名前を口にすることはゲフェニアの主から暗黙の了解で禁じられている退魔師。
その退魔師を今も大切に思うナル。
彼女が次に口にする言葉を、サキュバスは息をのんで待つしかできず、喉をこくりと鳴らした。
 「スタージュエルを見つけようと思って」
零れ落ちたその名に夢魔は口に手を当て悲鳴のような声を上げた。
 「星の瞬き!神の涙、ですか!?」
スタージュエル、別名を神の涙、星の瞬きの全てを内に有する不思議な石。
その結晶である宝石に願えば過去現在、更には未来の全てが文字となり浮かびあがるという、時の流れの理を閉じ込めた魔法の宝石なのだという。
ファルが教会から生涯をかけて見つけ出すように命じられていたアイテムであるが、結局、その消息も痕跡も掴むことは出来ずに人生に幕を下ろした。
それを決して忘れていなかったナルは、帰らぬ人となった師の背中をふたたび追うように旅の目的と定め理由とし言葉として解き放ったのだが、サキュバスの反応は思ってもいないものであった。
 「なに…サキュバス、もしかしてスタージュエルの在処を知っているの?」
 「知ってるもなにも冥府王の…あ…!」
やはりサキュバスの性格上、浮かんだ言葉を我慢などできるはずもない。
罰の悪そうな表情を浮かべるが夢魔のそれは聞き逃せるような声量ではなかったし、思わぬ所で師の追い求めたモノの鍵を見つけたナルが追撃の手を緩める理由はない。
 「冥府王?ドッペルゲンガーからも聞いたことないよ?」
 「何でもありません、何でもありませんの!忘れて下さいまし!」
慌てて飛び去ろうとするサキュバスの手を強く握り、ナルは主が自分にそうするよう瞳に力を込めた。
主のように従わせる力などないが、深い海のような紺碧の瞳は決して夢魔を逃がさなかった。
 「悪魔の花嫁として君に願うよ、私にスタージュエルの在処を教えて?」
 (あぁ…!なんということでしょう、奥方様…!)
心を貫く瞳の強さは、間違いなく主の唯一の眷族の証。
それを思わせるには、あまりに相応しい姿だった。
あまりに勇ましく、あまりに可憐な姿に、もはや諦めるしかないサキュバスは肩を落とし声を震わせる。
 「奥方様、なりません…行ってはいけない場所なのです…」
問質すまでもない様子に、答えを聞き出せることを確信したナルは深呼吸をすると口を開く。
 「そっか、やっぱり何処にあるのか知っているのね?」
その問い掛けにサキュバスは顔色を悪くさせながらも頷いてくれた。
 「…その場所は?」
質問の手を緩める様子の無いナルの声に一度開こうとした口を閉じる。
しかし、どうあがいても逃れるの出来ない紺碧の瞳にさらされ、夢魔は身体を震わせる。
ナルの姿にどこか自分の主に似てきたと思い浮かべ、観念した彼女は桃色に染まった唇を開いた。
 「…死者の国、ニブルヘイムですわ」
聞き覚えのある土地の名前に、ナルは首を傾げる。
 「ニブルヘイム?師匠やステア様たちと何度も行ったよ?」
しかしサキュバスは首を横に振った。
 「冥府王の邸宅はご存知ですか?」
再び出て来た冥府王というキーワード。
それにナルは噛み付く。
 「冥府王って?誰なの?」
 「白き鎧を纏う死者の王、ロードオブデス…またの名をヘル」
ナルは遠い昔に読んだ本に描かれていた挿絵の中、無数の屍の上に君臨する死者の王を思い出す。
それは神の一人で地獄の釜を開閉する白い焔を操り、死と混沌を世に送り出しては魂を回収する輪廻の歯車を回すのだと書かれていた。
 「ニブルヘイムにいる神様が、スタージュエルを持っているの?」
ナルの言葉にサキュバスは何度も頷く。
 「そうなります…しかし行ってはなりません、ならないのです!」
 「ずいぶん反対をするのね、どうしてダメなの?」
サキュバスは喉をゴクリと鳴らし、ぽつりとその理由を語り始めた。
冥府王の邸宅はニブルヘイムにあり、そこは肉体を離れた魂の選定場所でもある。
さらにそこは、生きる身で到底訪れることの出来ない場所であり、悪魔であれ天使であれども生きとし生けるものはすべて同じ扱いとされ、冥府王の領域に入るには肉体を捨てなければ辿り着けない。
つまり、生き続ける限り、永遠に到達は出来ない場所だと夢魔は言った。
 「魂を捨て生き続ける私は、永遠に辿り着けない場所ってこと?」
ナルの問いに強く否定を意を込めてサキュバスは首を横に振り、震える唇をようやく開いて言葉を発した。
 「違います、輪廻から外れた魂…それを冥府王は赦さない、そう聞いております…」
悪魔に魂を渡したナルは「赦さない」という言葉に息を呑む。
それと同時に浮かんだ答えに戸惑いつつ、怯えた様子のサキュバスから答えを促す為、その口を開く。
 「それは…つまり…?」
 「つまり奥方様は、死の神により回収されてしまうやもしれぬのです!」