「Stray Sheep」あらすじ
■-25 沈んだ先
やめられないしもどれない
18年目。
コピーは白い靄を静かに手から転がす。靄はやがて標本に滲み、消えた。
コピーが標本へ手をかざす。光る水が標本を一瞬で包み、何も濡らさずに弾けると標本に異変が起きた。軟らかさを取り戻した肉がざわめき、体中の傷も、生々しい切断面も、肉芽となる。
コピーの瞳は揺らいでいた。
「……どうか幸せに」
消えそうな声が最後だった。
寝転がった体に触れると、確かな体温があった。その手を離そうとした瞬間、目が見開かれる。
「違うっこんなっ、臾僖さんっこんな事っ酷すぎるっこれじゃあの人は、あの人はもうっ」
左腕が激しく臾僖の腕を揺さ振っている。それを押さえ込むようにして体を抱いた。
臾僖は小さくかぶりを振る。
「もういいんだよ」
出来事も、感情も、秘め事も。
「もう全部いいんだよ」
過ちも、嘘も、罪も。
「疲れたよ……!」
酷く弱々しい嗚咽が聞こえ、アースラは思い出す。自分はこの人の、拠りどころなのだった。
泣き疲れ、眠ってしまった臾僖の腕の中にいる。
情報を叩き込まれた。神の力が完全なものになる事。臾僖が死体を持ち去って標本にした事。自分が死んで十八年もの間、臾僖が死体を離さなかった事。臾僖がコピーを拒絶した事。コピーがもう臾僖とは完全に離れるという事。自分が生き返るという事。
コピーは『アースラ』ではなくなってしまった。しかしそれでいいのだと伝えられた。
臾僖の異常なまでの執着は悲しくもあり、喜びだった。応える筈も無い体を、何度も愛し、狂っていった臾僖は酷くやつれていた。髭が無かったのは辛うじて残っていた生活習慣なのだろう。その代わり髪は伸びるが侭だった。
本当に疲れたのだろう。あと少し遅かったら臾僖は死んでいたかもしれない。
記憶が遥か遠くに遡る。初めて出会った時。あの時出会わなければ、臾僖は壊れなかったかもしれない。そう考えても、臾僖を狂わせる程の存在になれた事を嬉しいと思ってしまう。
徐々に思考が保てなくなった。罪の意識も全て流されてしまう。
「ごめんなさい……」
今までつらい思いをさせて。二度と戻れないところまで落としてしまって。
それでも自分はこの人を愛してしまうのをやめられない。
高く日が昇っても眠った侭の臾僖の体調が気になり、肩を揺すってみる。
「臾僖さん……」
臾僖はすぐに薄く目を開けた。
「起きないと」
「やだよ」
「夜眠れませんよ」
「別にいいよ」
「でも」
「嫌だ」
力を込めて抱かれ、何も出来ず臾僖の胸元に顔をうずめた。
「……やだよ」
急な涙声に何事かと見上げると、臾僖は顔を歪めて泣いていた。
「だって、離したら、冷たく、なるっ、もうっいやだ、離れたく、ない、もう、いやだ、ああぁぁああっ」
大声を上げて臾僖が泣く。
「臾僖さん、落ち着いて」
「わあああああぁぁぁぁっうううっうああああぁぁっ」
「臾僖さん……」
頻繁にこうして泣いていたのだろうか。何をしても一人きりの毎日をどう生きていたのだろう。
落ち着いた臾僖へ尋ねる。
「臾僖さんは最近、どんな生活をしていたんですか」
「そうだなあ……。ギルドで仕事を請けていたよ。討伐系の。僕がやれるのはそれくらいだったから」
臾僖の財産は恐らく膨大だが、何もせずにいるのは退屈だと思ったのだろう。商業に頭が向かなかったのは精神的な部分が大きかった為か。そして臾僖は殺しを好む傾向にある。合法的に殺せるのならそちらを取るだろう。
「他には?」
「何だったかなあ……」
臾僖の目は虚ろだ。本当に忘れているのだろうか。
「臾僖さんの記憶を、少し覗いてみてもいいですか」
「いいよ」
解っていないようにも思えた。
ギルドの討伐依頼を完遂した臾僖は血塗れだった。
「お疲れ様でした」
即席の討伐部隊へ頭を下げた瞬間、視界がうねり、切り替わる。テレポートしたらしい。邸の中をよろめきながら歩き、ランプを手に取り、あの部屋へ向かう。
大きく息を吐く。痛い。腹が熱い。
「う……う……」
呻きながら歩を進め、辿り着くと崩れ落ち、震える腕でブランケット越しに死体を掻き抱く。
「ただいま……」
暫くは不安定な呼吸の侭じっと横たわっていた。
「痛かった……?」
ふと臾僖は自らの腹を掻いた。指は傷口にかかり、埋まる。
「う、ううう、う」
生温かい血が溢れ出ているのが解る。
「痛かったよね……痛かったよね……」
時折力を込めて引くと、目の前が霞む。
「痛かったんだね……」
力が入らなくなり、朦朧とする。
目を閉じる。
だが急に腹の痛みが無くなる。何かが落ちる音もする。
目を開けてみると、其処に死体は無かった。あったのは散乱した魔法書だ。此処は魔法書の棚の部屋だ。其処に寝転んでいる。
いつの間にテレポートしたのだろう。
いつの間に治癒の魔法書を発動させたのだろう。
一時は茫然としていたが、突如臾僖は絶叫した。
「あああああああああああああああああああああああああああっああああああああああああああああああああああああああああああっああああああああああっああああああああああああああああああああああああああああああああああああっあああああああああああああああああああああ」
頭に爪を立て乱雑に掻き毟りながら、毒が回ったかのようにのた打ち回る。絶叫が耳に響く。
「うーっ、うーうーうーうーっああああああああああああああううーうーっああああああああああああああああ」
視界が滲む。
狂乱を余所に他人事のように臾僖の思考が言った。
『またやってしまった。どうして死ねないんだろう。どうして生きてしまうんだろう。死ねたらいいのに。死んでしまえばいいのに。僕なんかもうどうしようもないんだ。いらないんだ。どうしてあの子だけ死んでしまったんだろう。あの子がどうして死んだんだろう。こんなに酷い事をして。あの子に酷い事ばかりしてる。僕はあの子の側には……』
其処で記憶が途切れた。
次に目を開けると朝方だった。頭が痛い。両手を見ると抜けた髪が絡まり、爪の間には血の塊が詰まっている。喉も痛い。
両手を横に投げ出す。目頭が熱くなる。涙が止まらない。
「ごめんね……ゆるして……おねがいだから……ゆるして……ゆるして……ごめんね……ゆるして……」
頭の内側が痛むのは錯覚なのだろうか。
「ゆるして……」
臾僖の思考が言葉にかぶりを振った。
『一体どうして許してもらえるんだろう。僕はもう何もかもやりすぎた。もう許されない。でもこうするしかなかった。もう全て駄目だったんだ。苦しい、つらい、それでも、こうするしかあの子が、ああ、会いたい、あの子に会いたい、あの子に会いたい、あの子に会いたい、あの子に会いたい、あの子に会いたい、あの子に会いたい……アースラ……』
また意識が途切れる。
暫くは暗闇に落ちていた記憶が、再開される。
響くのは荒い息。見えるのは、標本と揺れる視界。そして全身の疼き。
「き、みはっ」
標本となり硬くなった体に己をこすりつける。
「ぼくの、ぼくだけのっ」
抱き締め、柔らかさを失った唇を何度も吸う。
「はっ……ぼくはっ、ぼくは……」
頭の中だけがぬるい。
「ぼくは、きみ、をぉ、みてる、から」
混濁する。
「きみだけぇっ、みてる、みてるから、ずっとっ」
視界が歪む。
「きみをっきみをきみだけっきみだけ……」
限界を迎え、しかし心身が満足しない。
動きを再開し、こじ開けようと必死に唇を舐める。
思考の片隅で臾僖が泣いている。
『ああ、ああ、会いたい、返事を、聞きたい、声が聞きたい、会いたい、会って、ずっと、側にいて、触って、見詰めて、滅茶苦茶に、繋がっていたい、アースラ、アースラ、アースラ、ああ、アースラ、愛してる、僕だけが君を、僕しかいない、君を、愛してる、ずっと愛してるから……だから……お願いだよ、会いたいよ、アースラ……』
「き、きっ、きみはぁ、ぎみはっ、あ、ぼく、だけの、ぼくだけのぉぉっ」
潰れた声で叫んでいた。
アースラはいつの間にか震えていた。何事も無かったかのような臾僖を見る。
「臾僖、さん」
「うん」
左腕で臾僖にしがみ付く。
「臾僖さん……!」
「どうしたの? どうしたの、泣かないで」
笑い混じりに臾僖が言う。その声が酷く痛ましい。
もう臾僖が苦しむ事が無いように。それがアースラの願いだった。
アースラは気付く。臾僖は壊れた。だが今は、たった一つ見付からなかった破片が漸く見付かった。雑に集め繋ぎ止めもせず無残ではあるが、漸く全ての部品が揃った。
臾僖は失くしてはいなかった。アースラただ一人を除いて。
そのような存在になれた事が、そのような存在になってしまった事が、本来見付からないものを探し続けてくれた事が、悲しく、どうしようもなく愛しい。
臾僖は直向きだった。これまでも、これからもそうだろう。
「……どうしたの?」
微睡んでいた臾僖が問いかける。
アースラは言葉を言いかけて、やめた。散々言い続け、最後は死ぬ時に言った。いつも呑み込まれ、伝えられなかった言葉がある。
「臾僖さん」
臾僖の瞳は濁っているが、確かにアースラを捉えている。
「ありがとう」
一瞬、臾僖の瞳に光が差したような気がした。
臾僖は昔のように微笑み、優しくアースラを抱いた。
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