「Stray Sheep」あらすじ
■-23 堕ちる
やめられないしもどれない
32日目。
いつの間にか眠っていたらしい。
臾僖は何かを考えようとしたのだが、先に涙が溢れてくる。最初は呻き、それから声を張り上げて泣いた。
どうしてこの子はこんなにも悲しいのか。死んでしまった事、自身の存在を失くした事、それよりも。
どうしてこの子はこうなって、大人しく自分に抱かれているのだろうか。
「ごめん、ね、ごめんっ、ごめんねっごめんね」
必死で謝り続けた。しかしこの子の怒りの表情は欠片も思い浮かばない。それが悲しい。約束の通りに受け止めてくれる姿は、もう死んでいる。
濁った、焼き付けるように自分を捉えていた瞳。それがあの時別れてから消えてくれない。今は閉じられた瞳が、今見ているかのように。
その瞳がやめてくれと訴えるようで、臾僖の謝罪をやがて止めた。
「君は」
悲しい瞳が、じっと臾僖を見ている。
「謝らなくていいんだよ」
弱々しい謝罪の声。たった一言に全てを込めて、全てを手放した。恐怖に打ち勝ち、そうしたのは臾僖の為だ。そして死に敗北した。
「大丈夫」
残った左手はシーツを掴んで震えていた。泣き叫ぶ力を込め、別れたくないと訴え、何も出来なかった。それがどれ程苦しかっただろう。
その左手を握り締めて、抱き締めて、近くにいてやりたかった。それが冷たくなった今になってやっとかなう。
「大丈夫だから、もう泣かないで、泣かないでいいんだよ」
「側にいるから、ずっと、君の側に、いるから」
もうこの子を傷付けたくない。臾僖の為に生き、死んでいったこの子を、せめて守りたい。
33日目。
熱に浮かされるような感覚。揺れる視界で、自分を幾度も呼び、悶える。その体が熱い。
だが熱が何処か遠い、そう感じた時だ。
目が覚めた。
体が熱く、疼いている。反応している自身を自覚する。
腕の中のこの子は冷たい。
「僕、は……」
吐息が荒れている。
「僕は……」
思考が白くなる。腕を伸ばして、張り詰めたものを外に出してやる。考える事が出来ず、標本に体をこすり付けた。
「く……う、う……」
夢のようにはいかない。冷たい。
掠れた記憶を頼りにするしかない現実に涙が溢れた。
「うー、うー、うー……」
呼びたかったが、呼んでしまうと返らぬ言葉の意味を知ってしまう。必死で口を閉じていた。
思考の片隅で思う。このような自分に、このような形で抱かれ、このように無抵抗でしかいられないこの子。今の自分を怒るだろうか。責めるだろうか。だが泣き顔しか浮かばない。いっそ責められ、罵られたほうがまだましだった。臾僖にその僅かな全てを捧げ、臾僖の許を離れるしかなかった、優しいこの子は、自分を見て泣くのだろう。
もういい、構わないで、苦しまないで、泣かないで、もう此処にはいないのだから。想像の言葉すら、臾僖には惨い現実として突き刺さる。そしてそれに耐えきれない。
気付けば、脱力感が絶頂の終わりを告げていた。白濁が傷付いた体を汚している。
「う……」
事実に気付いて、張り詰めていたものが切れる。
「うわああああっああああっわあああああっ、あああっうわあああああっ」
声を張り上げ、必死にしがみ付いて泣いた。触れる事すら許されないのかもしれない。だがこうして拒否も出来ないこの子がいる。承諾も出来ないこの子がいる。
「どうして、どう、して、どうして」
何もかもに問いかけた。運命に、現実に、此処にしかいないこの子に。
どうして自分は、このような事しか出来ないのだろう。
「ごめん……ごめんね……ごめんね……」
別の部屋へテレポートする。よろめきながら歩き、小刀を手に取る。
くずおれ、何かに急き立てられて、腹を刺す。痛みが走る。しかし見てみると、刀身は先端が僅かに埋まっているだけだった。手を離すと簡単に小刀は落ちた。
情けない。死ねもしない。あの子から離れられない。
この痛みをどれ程大きくすれば、あの子の苦しみになるのだろうか。凄惨な体の痛みに近付けるのだろうか。
あの体は臾僖にとって恐怖だった。だが本当に怖かったのはあの子のほうなのだろう。拒絶される事を恐れ、もしかしたら泣いていたのかもしれない。
苦しみに、どうすれば近付いてやれるのだろう。
滲んでいた血が流れていく。
「アースラ……」
名前を呼んだのはいつ振りだろうか。その事に気が付いて、臾僖はまたテレポートした。目の前に、粘液に濡れた侭のあの子がいる。
そっと抱き上げ、縋り付いた。
「ごめんね、アースラ、ごめんね、ごめんね、アースラ」
口付ける。硬い唇は開かない。
「アースラ……」
この子の最期の時、何故自分は大人しくしていたのだろう。本当なら、思いの侭に泣き叫び、想いの全てを伝え、あの場から攫ってしまいたかった。
だがそうしなかった。自分が壊れてしまえば、この子は踏み出せなかっただろう。己を消すという行為を、最後に後押ししたのは、臾僖自身だ。
ごめんなさい。あの時の言葉は、臾僖の後押しに対して言ったものなのだろう。貴方に、貴方が最も望まない事をさせてしまって。
苦しい。傷の所為だけではない。耐えきれず、腕の中のこの子を何度も撫でた。
「うっ、うう……アースラ……うぐっ、アースラ……」
悲しい優しさが心を慰める。満たす事はもう出来ない。
「ごめんね……アースラ……、ごめんね……」
記憶の中のこの子が泣いている。それに向かって謝り続けた。
34日目。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
あの子が泣いている。
「ごめんなさい」
この言葉さえ貴方を追い詰めてしまって。
泣きやんでくれない。
違う、悪くない、君は悪くない。訴えようとしても声が出ない。
「ごめんなさい……」
どうする事も出来ずにいると、目が覚めた。
思えばこの子は謝ってばかりだった。何もかも背負い、一人で抱えていた。それでいい、大丈夫、としか言ってやれなかった。
結局この子を救えなかった。背負う事しか知らなかったこの子の重荷を、増やす事しかしなかった。
今も何処かで謝り続けているのだろうか。臾僖の無様な姿を見て。
35日目。
この子にとって不都合な事は避けなければならない。日常生活を続けなければならなかった。
丁寧に体を拭ってやり、ブランケットで包み、外へ出る。
洗面台に立ってみて、鏡が落胆を教えてくれた。最後に髭を剃ったのはいつだろうか。最後に食べたのはいつだろうか。最後に充分な睡眠を取ったのはいつだろうか。
濃い隈、こけた頬、伸びた髭。風呂に入った記憶すら無い。
急に力が抜けた。
湯浴みをしようとして気付く。体を見ると、骨がやや浮いていた。
生きなければ。死ぬ事は、甘美に思えても決してしてはいけない。さもなければ、あの子を置いていってしまう。
アドベンチャーズギルドにて討伐依頼を受注する。綾菟とユーリに驚かれたが、何も無いとしか答えなかった。
敵を斬り、飛び散る血が温かい。
そうして全て斬り殺してしまった頃、気付く。血の中にあの子を見ていたのだと。
帰り着くと体が重くなった。
唾液も垂れるが侭に、腕にあの子を抱いて横たわっていた。
腹は空だが、食べる気が起こらない。潰れそうな瞼でも眠りは殆どやって来なかった。
それでも幸福だった。腕の中にあの子がいる、それだけで良かった。他はどうでも良かった。死ぬ事、死んではならない事、それすら頭に浮かんでこない。
流れる自身の涙が冷たい事に気付いた時、脳裏に思い出が過る。
行為の後の、心地良い微睡みが懐かしい。温かな体を抱いて、求め求められ、悦び合った後の、小さな幸福だった。
狂おしい程に愛おしく、鮮明で、現実が夢のように思える。
この記憶がある限り、自分は生きていける。
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