さいこうのコ


■-3

 激しい頭痛で意識が戻った実感に朧気だが気付き、ジダルドは重い瞼を薄く開く。枕元には暖かな色の光があり、全身をも包み込むそれに温められているような心地良さがあった。
 光の向こうに苦しげな呼吸が聞こえる。それに腕を伸ばしたいが、動かせたのは指だけだった。その僅かな動きに光の向こうが気付く。
「ジダルド」
 絞り出すような切迫した声の主がジダルドの片手を取り、それに応えようとジダルドは苦心して唇を動かした。
「ア、ル」
「もう少し、だから」
 アユルスの声は苦しみの他に恐怖で歪んでおり、手も大いに震えていたが、それらが何よりも心強く感じられてジダルドから安堵の息が軽く漏れる。
 徐々に鮮明さを取り戻す意識が現状を把握出来るようになると、ジダルドは首を動かして光とその向こうのアユルスを見た。アユルスはケアルの書を手にしており、発動の際の光が煌々と輝いている。書のページが発動の負荷で燃え尽きる端から次ページを発動させているらしい。
 治癒魔法で血液そのものは作り出せないが、その回復を速める事は可能である。だがその為には傷を癒やす以上に魔力が必要になる上に発動回数も多く、医療現場においても複数人で行われる行為だ。如何にアユルスの保有魔力が膨大といえどかかる負荷は大きく、アユルスの耐えるような呼吸は心身の苦しみを物語っていた。
 ジダルドは手を握り返す事も出来ず、茫然とアユルスを見遣るだけの自身を呪う。自身が瀕死に陥った事でどれ程恐怖させてしまったのかを考えると自己嫌悪は果てしなく、同時にアユルスの抱える恐怖が微かに伝染していると気付いた。
「……俺、やっぱり、死ねないよ」
 ジダルドの呟きに、アユルスの赤い瞳が魔法書からジダルドへ向けられる。
「死んだら、見えないのにね、見たくないんだよ、アルが、悲しんでるとこ」
 顔を隠せない事がもどかしいが、アユルスになら晒しても良いとは思えた。
「見たく、ないなあ……」
 アユルスは弱々しく顔を歪めかけたが、次には小さくかぶりを振り、覚悟を決めた表情でジダルドを見詰める。
「死なせない、絶対に死なせないから」
 誓うような言葉の強さに改めて惹かれるものを感じ、やはり最高の存在なのだと再確認した。



 回復が終わる頃には二冊の魔法書が空になっていた。ジダルドは身を起こすと軽く手を動かし、通常より体の調子が良いとさえ感じるが、とても無理をする気分にはなれない。窓の外はとうの昔に暗くなっており、倒れてから何時間を回復に費やしたかを考えると申し訳無さが募った。
「気分、どう……?」
 まだ呼吸の整わないアユルスは寝台の側にへたり込んでいるが、その表情には恐怖の色がまだ残っている。
「うん、もう平気だよ」
 その恐怖が消える事は無いと解りながらこう答えるだけに終わり、無力感がジダルドを襲った。それを誤魔化すようにジダルドは言葉を続ける。
「そういえば、あのエスパーのヒトは?」
「この宿の別の部屋にいるよ、魔法書もその人がくれたんだ。最初の内は一緒に回復もしてくれたよ、今は多分寝込んでると思うけど……終わったら知らせてくれって言われてる」
 魔力切れを起こしてしまう程に尽力した事へエスパーの義理堅さを感じ、ジダルドは小さく笑った。その所為でこの先もエスパーには多大なる苦労があるだろうが、少なくとも嫌われる要素ではないだろう。
「じゃあ報告に行こっか。それが終わったらアルを送らないとね」
 ジダルドは寝台を下り、アユルスへ手を差し出した。アユルスは何故か迷いがちに手を取り、よろめきながら立ち上がる。その侭俯いているアユルスへ言うべき言葉が見付からず、ジダルドはアユルスの手を引いて歩き出した。か細い声でアユルスが教えた番号の部屋へ向かい、扉を軽く叩くと中から疲れきった声が聞こえる。
「はーい……?」
「さっきはケアルの書ありがとね」
 ジダルドが扉越しに告げると中から声が上がった。
「あっ……いてっ! 目が覚めたのかっ」
 騒がしい物音の後に扉が開き、軽く手を振ってみせるジダルドへエスパーは安堵の息をつく。
「一時はどうなる事かと――」
 言いながらエスパーは暗い顔でいるアユルスに気付き、配慮して話題を打ち切ろうと言葉を探した。
「……まあ、無事で良かったよ」
「お互いね。これで貸し借りは無しだねえ」
 ジダルドの言葉にエスパーは頷かないが、その表情は穏やかだ。
「いいや。あんたへの借りはまだ返しきれないな」
 言ってエスパーは親指で室内を指し、その先にはナイトテーブルに置かれたサイコダガーがある。それがいつか本当に不要となった時に初めて借りを返せるとの意味へ、ジダルドは楽しげに笑った。
「アハハ、また会ったら宜しくね」
「こちらこそだな」
 其処でふとエスパーは、ジダルドの背に隠れるように佇んでいるアユルスへと視線を向ける。
「君も有り難う、本当に助かったよ」
「俺に出来る事をしただけだよ……」
 遠慮するアユルスの言葉へエスパーは戯けるように肩を竦めた。
「あんな事が出来たら誰も苦労しないけどなあ。君に世話になったのは事実なんだ、だから感謝されてやってくれ」
「……うん」
 控えめながら今度は素直に頷くアユルスへエスパーは満足げに微笑み、ジダルドへ向き直る。
「あんたが言った通りの子だな」
「ふふ、でしょ」
「え、どういう事……?」
 短い遣り取りにアユルスが首を傾げるが、二人は笑みを浮かべるだけで教えずにいた。



 部屋へと戻る時もアユルスはジダルドの手を離さずにいる。アユルスの胸中を推し量ろうとする程に苦しくなるが、その苦しみはジダルドのものでしかない。その事実は遠い距離のように二人の間を隔てていた。
 部屋の中に入り扉を閉め、ジダルドはアユルスの手を取った侭で向き直る。
「じゃあ、一階に飛ぶから――」
「いやだ」
 間髪を容れずに発せられた拒絶は重々しいが、脆い。ジダルドは努めて穏やかに告げた。
「アル、帰らないと」
「いやだ!」
 アユルスはきつく言い放つとジダルドを睨み付け、唇を噛み大粒の涙を零す。赤い瞳の厳しい眼差しに胸を貫かれるような心地になり、ジダルドは微笑みを繕うのを諦めた。
「アル」
 握った手を引き寄せ、肩をしゃくり上げるアユルスの体を抱き留める。顔を見たくないだけの行為にジダルドは己の卑怯さを知るが、今出来る事が他に見付からなかった。
 アユルスはやがて手を離し、ジダルドの背に縋り付く。だがその震える手も嗚咽も、今は無視しなければならなかった。
「お願い、そんな事言わないでよ」
 どれ程酷な選択をしているのかを知りながらその手段しか取れないジダルドを、アユルスは恨まないのだろう。アユルスもまた今すべき事を理解しており、それだけだ。理解だけでは恐怖を払う事など到底出来ない。
 ジダルドは込み上げる感情を抑えるように固く目を閉じ、必死に言葉を絞り出す。
「アルの事、ちゃんと考えられる俺でいさせて。ね……?」
 本心の何処を探しても無い一言一句が喉に突き刺さるような錯覚を与えるが、アユルスの苦しみには全く届かない。そしてこれもアユルスの苦しみの一因となるものだ。
 アユルスの体から徐々に力が抜け、脱力しきった両腕が下りる。何度も大きく息を吐き、無理矢理に嗚咽を止めてからジダルドの肩口で告げた。
「……行こう」
「うん。いくよ」
 これ程までに集中を要するテレポートは初めてだった。
 一階にある路地へ転移し、空を見ると重い雲が広がっているが、昼前ではあるだろう。人気も無く薄暗い路地を抜け、往来へと出たところでアユルスが足を止めた。
「有り難う、此処でいいよ」
「うん。いってらっしゃい」
 この侭出勤する気でいるアユルスへかけた言葉の貧弱さが喉を締め上げ、蛇女に掴まれた時以上の苦しみがジダルドを襲う。そうして歩き出したアユルスの背中から目が離せない。振り向かない姿は酷く小さく見えた。
 完全に見送ってしまった後にジダルドは再度十階へ転移し、まずは今いる宿の部屋を引き払う。そして元々拠点としていた宿の部屋へと戻ると、ナイトテーブルにいるルルムを抱き上げた。アドベンチャーズギルドへ依頼を見に行く前に此処へ置いてから微動だにしていなかったが、今となっては慣れた謎である。
 普段通り仏頂面でいるルルムを見詰めながら、ジダルドは苦笑して溜め息をついた。
「何やってんだろうね……、やりたい事やるって、この前言ったばっかなのにね」
 あまり上等ではない寝台へ腰を下ろすと大仰に軋み、胸中を代弁された気分になる。
「アルはそうしようとしてくれたんだよね。自分のこの後を全部放り出して、今そうしたいからってさ」
 膝の上に乗せたルルムからの反応はやはり無いが、その虚空を見詰める瞳には全て見透かされているように感じた。だからこそ素直に自身の心を整頓出来るのかもしれない。
「俺はアルの我儘を諦めさせちゃった。なんにも諦めなくていいって言ったの、俺なのにね」
 金色の光の中でアユルスへ告げた言葉が偽りになる事など、ジダルド自身も望んでいなかった。
「もう、なんにも諦めてほしくなんかないのにね」
 記憶が遡る。傷を治癒しようとしたジダルドの手を掴んで短く告げた、自らの血に沈むアユルスの諦めがまた聞こえるようだった。言葉は今も耳に絡み付き、直後に力無く落ちる手の感触も忘れられそうになく、あの一連はジダルドの中で一生残り続けるのだろう。当事者であるアユルスの恐怖の大きさは、最早計り知れない。
「ほんと、勝手だよね……」
 いっそ殴られでもすれば吹っ切れられるのだろうが、それをアユルスへ、出来ない事を知った上で強請るのはまさに身勝手でしかなかった。
 ジダルドはルルムを傍らへ置くと寝台へ倒れ込み、茫然と天井を見詰める。早急にアユルスの職場へ謝罪と弁償に行かねばならないが、ことごとく失われた気力とアユルスへの面目無さは鈍重なものとなって体を包んだ。
「あえぇ」
 普段滅多に喋らないルルムが一声発し、その声から思い出したくもないあの一連の終わりに、ルルムが初めて喋った言葉を思い出す。
「きせきは、ないから、いきることは、むずかしい……」
 何とは無しに復唱したルルムの言葉に、ジダルドは気付きを得て跳ね起きた。淀んでいたものが消え去り、体が軽くなったような心地がする。
「ルルム、ありがとね」
 向き直って見たルルムは相変わらずの無反応だが、妙に貫禄を感じた。



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