願い、彼方へと
■-2
「あ、おはよ」
休日に多少遅く起き、台所へと足を踏み入れたアユルスをナユルが迎える。ナユルは料理中のようで、その手には調理器具があった。
「おはよう。ごめん、朝ご飯作らせちゃって」
「ううん。もう少しだから座ってて」
こうして他愛の無い会話を交わす事にも漸く慣れてきた。漸く普遍的な生活へ手が届いた二人にとって、自然な会話こそ貴重なものだ。
アユルスは台所の側にある皿の並んだ食卓を見る。調理を同時進行している献立はまだいずれも出来上がってはいないようだ。
「ううん、手伝うよ」
「いいの? じゃあ、スープ見ててくれる?」
「うん」
互いに料理にも漸く慣れが生まれ始めた。料理らしい料理を作れるようになり、食べられるようになったのも、周囲と比べればまだ日が浅いだろう。
あと少し煮込めば完成するスープを時折掻き混ぜるアユルスの隣で、ナユルはフライパンへ卵を落とした。焼ける香りは朝の控えめな空腹であっても刺激され、気付けばナユルの腹の虫がか弱く鳴く。それにアユルスが小さく笑った。
「ふふ、お腹空いたよな」
恥じらう暇も無く、ナユルは向けられるアユルスの微笑みへ喜びを覚える。近頃は穏やかなアユルスを見られる回数が増えていた。
やがて出来た料理を器に盛り付け、食卓へ並べる。二人で席に着き、堪らない心地で一口食べると期待した通りの美味にどちらともなく笑みが零れた。
「お父さん、今日は早かったみたい」
食べながらナユルが言う。アユルスの実父でありナユルの義父であるルイセは、今日は早朝からアドベンチャーズギルドへと赴いているようだ。主に討伐依頼をこなしているルイセへの二人の心配は相応に大きく、無事を願うしか出来ない己が力の及ばなさを痛感する。
「そっか。あんまり無理してないといいんだけど」
「そうだね……」
アユルスは以前、階こそ違えど野生モンスターの狩りやギルドの依頼を受けていた時期があり、戦闘を数多く経験していた為か言葉には実感が伴っていた。ナユルとてアユルスを探す為に塔を上った際に戦闘を経験しており、その実感は理解の及ぶところである。
「なあ、ナユル」
不意にアユルスに呼ばれ、ナユルはいつの間にか俯いていた顔を上げた。
「なあに?」
「今日、一緒におかあさんの墓参りに行かないか」
アユルスの使った呼称はナユルの実母を指すものだ。今まで各々が墓を訪れた事はあったが、二人で行くのは初である。
「うん。じゃあ、お兄ちゃんのお母さんのお墓参りにも行こうよ」
アユルスの実母である寛鷺の墓参りを二人でするのもまた初めての事だ。
「うん、有り難う」
故人を思う程に淋しさは果てしないが、目の前にいる確かな優しさに互いが救われているのだろう。
食事とその片付けを終え、二人で出かける準備をしているそのさなかだった。
『――アル、ナユルちゃん、二人共今何処にいる?』
同時に届いた思念の声に二人は顔を見合わせる。ジダルドの声だった。
『いきなりごめんね、でも緊急』
『今二人で家にいるよ。緊急って?』
緊急性の為にアユルスの送信も遮断していないようだ。勝手を知るアユルスが思考のみで応えると、ナユルにもその思念が伝わる。三人の思念を繋げているらしい。
『今俺のとこに、ナユルちゃんの父親がいる』
ナユルが恐怖に染まった息を呑んだ。アユルスにもその乱れた思考が直に伝わる。
『本当、なんですか』
ナユルは不安定な思念で辛うじて言葉を絞り出した。アユルスは側に寄り、ナユルの背を宥めるようにさする。
『少なくとも名前と格好は知ってたよ。……ナユルちゃんの事情、勝手に聞いてごめんね』
『ジダルドさん……いいんです』
苦さの滲むジダルドの思念へ多少落ち着きを取り戻したナユルが応え、続けた。
『あたし、会ってみたいです。たとえどんな人でも』
ナユルの両手が拳を作る。言葉からは父親への期待の無さが窺えるが、それは覚悟の強さでもあった。
『うん。じゃあ、五分経ったらそっちにテレポートするよ。いい?』
『はい、お願いします』
『解った。……俺、付き添っててもいいかな』
遠慮がちに加えられた言葉にナユルは多少驚く。ジダルドはあくまで第三者だが、言葉にあった迷いは嘘偽りの無い優しさだった。その温かな感情の貴重さをナユルは知っている。
『はい。心強いです』
『ありがとね。じゃあ、また後で』
そうしてテレパシーは切れた。静まり返った感覚がやけに耳を刺激する。
「……ナユル」
呼びかけたアユルスはナユルの背から手を離すと、固い侭の拳を両手で取った。温もりに包まれた事で漸く力が抜ける。
「俺も側にいていいかな。俺もジダルドも、ナユルを見届けたいんだ」
それは不安からではなく、信頼から来る意志だった。それを悟りナユルは微笑む。
「うん。有り難う」
僅かであっても支えたいと願う、その優しさは何よりもナユルへ強さをもたらした。
二人分の席を用意する為、椅子を一つ持ってアユルスの部屋へと移動する。椅子に座り静かに待つナユルは、一度だけ傍らに立つアユルスを振り返った。襲いかかる不安を解くようにアユルスはナユルの肩を撫でる。緊張した体は冷えているように思えた。
『――ナユルちゃん。いくよ』
やがてジダルドの思念が届く。ナユルは一つ深呼吸をすると、思念を紡いだ。
『お願いします』
返事の直後、正面に置いた椅子の傍らへ音も無く二人の人物の姿が現れる。一人はジダルドであり、よろめいたもう一人はナユルの見覚えの無い男だった。不健康な印象を与える風貌はいっそ汚らしい。
男はやや黄ばんだ眼球を動かし、ナユルへと定める。
「……まさか、ナユル、本当に君なのか」
言葉にナユルの体が驚愕と恐怖で跳ねた。男は椅子へくずおれるように座ると、ナユルの反応へ構う事無く続ける。
「ああ、あの女、リカーナは、どうしたんだ」
突如出た名前へナユルの表情が強張り、見る間に双眸から涙が零れ落ちた。
「お母さん……」
事実に男は黒ずんだ顔を徐々に紅潮させ、更にナユルを無視する。
「ああそうか、此処にいないって事は、あの女も遂に何処かへ行ったか、ははっ……」
「――死んだよ」
男の嘲笑へ割り込むように告げたのはアユルスだ。男は漸くアユルスに気付いたかのように視線を動かし、その赤い瞳への恐怖に喉を鳴らす。
アユルスは男へ静謐な眼差しを向け、淡々と続けた。
「俺が殺した。そうしないと、俺もナユルもきっと死んでたから」
ナユルの手が膝の上で苦しげに拳を作る。唇は引き絞られ、全ての言葉を呑み込んだのだろう。
男は表情へ恐怖を張り付かせた侭、だが語調の熱は消さずに笑った。
「はははっ、あの女、運の尽きだったんだなっ、こんな化け物に殺されるなんてっいい気味だっ」
今まで男を抑圧していたのはナユルの実母の存在だったのだろう。それが無くなった今、解き放たれた男は暴走を始める。アユルスを見ながらナユルを指差し、喚いた。
「なあっ、この子も殺してくれないかっ、この、間違いなんだ、これさえ無ければっ、出来るだろう? あの女を殺したんだからっ」
「……貴方は、何も考えていないんだな」
男の上擦った言葉へアユルスは小さくかぶりを振り、あくまでも静かに告げる。
「ナユルの気持ちも、ナユルの存在そのものも、今目の前にいるナユルの事も、貴方はこれっぽっちも考えていないんだな」
ナユルの事情すら尋ねず、ひたすら自身の事情のみを押し付けるさまへアユルスは厳しい目を向けた。その怒りは男の為ではなく、ナユルの為だ。
アユルスの指摘に男が目を剥き、漸く現在のナユルの姿をその目に捉える。ナユルの涙は既に枯れていた。表情にはただ怒りだけがある。
「かっ、考えられるかっ! 化け物に誑かされても、僕は知らないっもう知らないんだっ!」
「知らないなら教えてあげる」
震えもしないナユルの強い声音に男は竦み上がった。
「お兄ちゃんがあたしを誑かしたなんて、そんな訳無いじゃない。あたしはお兄ちゃんに何かされた訳じゃない、あたしは自分で今を選んだの!」
ナユルは椅子から立ち上がり、男へと歩み寄る。
「貴方はあたしの父親かもしれない。でもあたしは、貴方に頼らない。貴方に捨てられたからじゃなくて、貴方を選ばないから、そうしたいの」
見下ろすナユルの強い意志の瞳は、男が目を逸らす事を許さなかった。歪めた顔で男は呻くしか出来ずにいる。
「……もう、いいね」
男の傍らに立っていたジダルドが宣言するように告げた。男はジダルドへ助けを求めるような視線を寄越し、ジダルドは一つ息をつく。
「俺には物事の正しさなんて決めらんないけどさ。ナユルちゃんのほうが断然格好いいよ」
それだけの事が今は決定打となり、男は項垂れた。
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