願い、彼方へと


■-3

 剣の町へテレポートする男とジダルド、そしてナユルを見送ったアユルスは、静かになった自室で一人椅子に座り、茫然と窓の外を見る。この部屋は幼かった頃にナユルと幽閉された部屋でもあった。窓枠をよく見れば未だに封鎖の際使われた釘の跡がある。
 ナユルの実父は遂に名乗らなかった。それで良いのだろうと思うと同時に、ナユルの実母もまた名乗らなかった事を思い出す。実子のナユルでさえ、実母の名は墓石に刻まれたもので知ったらしい。
 ナユルはあまりに親に恵まれなかった。今回でまざまざと見せ付けられた現実に、ナユルは深く傷付いただろう。癒える事の無い傷の痛みは想像を絶するのだと、アユルスは我が身を思いながら考えた。その痛みは両親の名も解り、深く愛されたアユルスの喪失の悲しみとは全く別種の悲しみによるものだ。
 苦しみなど比較するものではない。ナユルを苦しませたくない心だけが真実だった。



 剣の町の路地裏、ジダルドが男と出会った場所へとテレポートする。ジダルドが男の襟首を捕まえた手を離してやると、男は何も言わず一目散に往来の方角へと走り出した。ナユルは男の背が見えなくなるまで見送る。見送るだけの一連がナユルの自身を生んだ事への感謝だとは、男は理解出来なかっただろう。
 男の姿が完全に見えなくなってから、ナユルの肩を抱くジダルドが口を開いた。
「大丈夫なんかじゃないよね」
 ジダルドに肩をさすられ、ナユルの葛藤がほどけていく。絡み合っていたものが取れてしまえば、中からは封じていたかった感情が出てくるだけだった。
「ジダルドさん」
 絞り出した声は既に涙で歪んでいる。
「少しだけ、酷い事、言っても、いいですか」
「うん。大丈夫だよ」
 恐れを取り除く言葉にナユルは小さく頷いた。
「……あたし、お兄ちゃんが羨ましかったんです」
 アユルスが不在の今だからこそ出来る告白は、赦しを得られないとの絶望に染まっている。
「優しいお父さんがいて、お母さんがいて……お兄ちゃんのお母さんに、あたしは会った事無いけど、お父さんとお兄ちゃんが大好きなんだから、きっと優しい人だって思うんです。だけど……」
 ナユルは顔を覆うが、涙が止まる事はなかった。
「あたしには、誰もいなかった、から……、だから……っ」
 現実を自ら口にし、気付かない振りをしていた傷を抉る。だが今はそうするしかなかった。無視し続ければいつか心身を滅ぼすであろう傷を洗うのは今しかない。
 ジダルドはナユルの強さへ敬意すら覚えながら告げる。
「それ、いつかアルにも言ってあげてね。出来る時でいいからさ」
「どうして、ですか……」
 ナユルが恐る恐る顔を上げると、ジダルドの穏やかな眼差しが見えた。
「多分だけど、ナユルちゃんの気持ちにアルも気付いてるんじゃないかな。アルはそういう優しいとこあるでしょ?」
「はい……」
 即座に同意出来る程にアユルスを想うナユルの心を眩しく思いながら、ジダルドは一つ頷く。
「ナユルちゃんもアルも優しいコで、お互いの事自分の事みたいに喜んだり苦しんだりしてるよね。それって全然簡単じゃないんだよ」
「そうなんですか……?」
 首を傾げるナユルへ、ジダルドは朗らかに笑いながら答えた。
「そうだよ。俺のねえさんはそういう事あんまりしないから、ちょっと羨ましいなあ」
「えっ、お姉さんがいるんですか?」
 意外な事実へ驚くナユルの涙は止まり始めている。
「うん。すんごくマイペースなヒトだよ」
 その声音に淋しさが無いのを感じ取り、ナユルは表情を綻ばせた。
「でもお姉さんの事、大好きなんですよね」
「そうだねえ。だからどっちかって言うと、俺のはナユルちゃんの気持ちに近いかなあ」
「ふふ、それなら解る気がします」
 ジダルドの言葉へ楽しげな笑い声を漏らすナユルの表情は、普段の明朗さが戻った事を雄弁に語っている。それにジダルドは密かに安堵しながら告げた。
「ナユルちゃんには、ナユルちゃんらしくいてほしいって思うヒト達がちゃんといるからさ。泣いても笑っても、ナユルちゃんらしいとこ見せてあげてね」
「はい!」
 活力の宿る返答に、最早不安の付け入る隙も無い。ナユルが新たに手に入れた強さを悟りながら、ジダルドは頷く。
「まずはアルにだね。帰ろっか」
「はい、お願いします」
 腕に掴まるナユルを確認し、ジダルドが再度テレポートを発動しようとした時だった。不意にナユルがジダルドを呼ぶ。
「ジダルドさん」
「うん?」
「あたし、今日でジダルドさんの事、沢山知った気がします」
 ナユルとジダルドの主な交流期間はアユルスの逃亡生活の終盤半月弱でしかなく、浅いものだ。それ以降もアユルスを通して互いを見ていたに過ぎず、其処に自身の感情はあまり無かっただろう。
「俺もそうだよ。これからもっと知れたらいいな」
「そうですね。これからですよね」
 笑い合う二人の姿が掻き消える。あとには悲しみも弱さも、何も残っていなかった。



 墓参りを終える頃には太陽が赤く染まり始めていた。帰り道を二人で歩くだけの事が、ナユルにもアユルスにも温かな喜びをもたらす。
「遅いし、何かおかず買って帰ろうか」
「あ、それならね……」
 アユルスの提案にナユルが候補を出し、今日の夕飯が決まったところでふと、ナユルがアユルスを呼んだ。
「お兄ちゃん」
「うん?」
「今日、有り難う」
 言葉にアユルスは素直に頷く。今は言葉を正面から受け止めたいとの願いが勝った。
「うん。ナユルも有り難う、凄く頑張ってくれて……嬉しかった」
 告げるアユルスは誇らしげでもあり、ナユルへの深い情が窺える。ナユルは込み上げるものを抑えきれず僅かに涙を滲ませるが、それが悲しみではないとアユルスもまた理解していた。
「だから、もうナユルに悲しい事が起きないでほしい。その為に俺も頑張るよ」
 願いは幼い頃の約束を思い起こさせる。そして今度は不安も無く、確かな温かさがあった。だからこそ決意も固い。
「あたしも頑張る。みんなと一緒に、あたしらしく生きようって思えたから」
 力強い言葉に二人で笑い合い、光が頼り無くなってきた道を行く。たとえ道が暗くとも、今ならば歩んでゆけるだろう。



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