国語の授業で辞書のひきかたを教わった時、ある二つの言葉を目にして動けなくなった。ひとつは「異域の鬼」、もうひとつは「去る者は日々に疎し」。課題は「辞書から知らない慣用句とその意味を書き出してみよう」という簡単なものだったが、たったその二項目を書き終える前に、ツナは鉛筆の芯を二本折り、紙を一枚だめにした。
行儀悪く仰向けに寝転がって、返却されたそのプリントを見やる。
(異域の鬼、異国でなくなった人のこと。去る者は日々に疎し、死んだ人が次第に忘れられていくこと)
それはそのままジョットの過去に当てはまる。
幼い頃からあたりまえにジョットと盆を過ごしていたツナは、彼からたくさんの話を聞いた。祖国イタリアのこと、日本に来た理由、たった一人の女性に認められなかったこと──そしてそのせいで存在すら忘れられてしまったこと。
家系から追い出されてしまったジョットは、盆に戻ってきても、ツナがいなければ敷地内にすら入れない。だから、ずっとこの家を外から見つめるだけだった彼に、人と触れあうことを思い出させたのはツナだった。忘れたままだったらこの先も辛い思いなんかさせなくてすんだのに。悲しいだとか寂しいだとかいう以上に、そのことが申し訳なくて、彼のためになにもできないことがもどかしくて、ひくりと喉がなった。
「綱吉、どうした?」
心配そうな声音にゆるゆると首を振り、上体を起こした。覆い被さって顔を近づけてくるジョットから、できるだけさりげなく、プリントを隠す。
「むかしの、情けないテストが出てきちゃって」
「……本当にそれだけか?」
「それだけです。ジョットさんは捜し物みつかりました?」
「ああ、上々だ」
よほど嬉しかったのだろう、そわそわと落ち着かないジョットがそれ以上追求してくることはなかった。なんだかひどく寂しかった。
ツナとしては、できればこのままジョットが帰る日までずうっとくっついていたいのだが、相手はそうではないらしい。もやもやした内心をごまかすように声を出す。
「よかった、ですね。うちに入れる間にみつかって」
なにしろ来年になってしまえば、家の中のものは全てここからなくなってしまう。それでそう言ったのだが、ジョットは気にくわなかったらしい。少しだけむっとしたような顔で口を開きかけ、やめた。
居心地の悪い沈黙が部屋を支配する。なにか、なにか言わなきゃ。じりじりとそんなことを考えていると、襖を叩く間の抜けた音と伯母の声がきこえた。
「ツナ君、ごはんよー」
「あ、はーい!……ジョットさん、ちょっとオレ行ってきますね」
ジョットはツナ以外には見えない。他の先祖達がここにいる誰にも見えていないことを考えると大分マシなのだろうが、それによって引き離されるのがツナはたまらなくいやだった。
だが今はまるで救いだ。ツナはプリントを四つ折りにしてポケットにねじ込み、小走りに部屋を出た。
とうとうジョットは夜まで何も言わないままだった。
互いに、まるで意地を張ったように黙り込んでいたが、先に音を上げたのはツナの方だった。コチコチと秒針の進む音に背を押されるように、古い和綴じの本を捲るジョットに身を寄せ、声をかける。
「ジョットさん」
「なんだ」
「……怒らせちゃったなら、ごめんなさい。オレ、バカだから、どうしてジョットさんが怒ったのかわからないけど……あと、あ、明日しかないのに、このまま別れちゃうなんて、そんッ、な、の……やだぁ」
ぱたぱたと微かな音を立てて畳が濡れていく。
泣きやめ、涙を拭って顔を上げろ、これじゃあ初めて会ったときとなんにも変わらないじゃないか。自分に言い聞かせても、一度決壊した涙腺はどうにもならなかった。
(結局成長なんてしてないんだ)
だがジョットには効果覿面だった。無表情ながらも慌てたように、シャツの袖でツナの頬を拭う。
「な、泣くな。怒ってなどいない、おまえはバカじゃないし、俺だって考え事をしていただけで離れたいわけではない」
「かんがえ、ごと」
「ああそうだ!だからおまえが泣く必要なんて、なにもないんだ!」
誤解させてすまなかったとジョットは頭を下げた。
「誤解……ほんとに?」
「本当だ」
「よかったぁ」
へにゃ、と笑うツナにジョットもほっとしたようだった。身を寄せて瞼にひとつキスを落とす。そのまましばらくべったりとくっついていたが、やがてジョットが声を上げた。
「そうだ。綱吉、ひとつ聞いても良いだろうか」
うってかわって真剣そのものの声だった。後ろめたいことなど何もないのに、ツナは少しだけ腰が引けてしまう。それほどまでに力がこもっていた。
「なんですか?」
「昨晩おまえが言った、来年から会えなくなる、というのはどうしてだ?受験か?それとももうこんな田舎には来たくないか?」
「な、ち、違いますよ!俺はここ大好きだし、受験はそりゃあ厳しいけどそのための家庭教師だしっ」
「では、どうしてそうなる?」
問われてツナはすべてを話した。祖母の入院、祖父の転居、そして改葬。
先祖達はみな新しい墓に手厚く葬られる。だがジョットはその先祖の中にカウントされていないのだ。
「ジョットさんのこと、父さんも母さんも、おじいちゃんたちも信じてくれなかった。この家はだれか他の人のものになっちゃうし……それに、ちょっとだけ調べたんですけど、新しい土地はこんな風にお盆とかしないんです。だから、もし改葬したとしても、ジョットさんは帰ってくる場所がなくなっちゃうんです。消えちゃうか、この山にひとりぼっちになっちゃうか、どっちかなんです」
ぼろぼろとまた大粒の涙をこぼし始めたツナに、ジョットもまた狼狽えたようだった。涙を拭って鼻をかませて、それから膝に載せてぎゅうと抱き込んで、一言一言かみしめるように呟く。
「俺をひとりにするのが、会えなくなるのが、そんなに嫌だと言ってくれるのか。おまえは」
「あ、たりまえ、です」
ジョットが山へ戻るための牛を捨ててしまおうと思ったことは、一度や二度ではない。幼い頃には、泣きながら送り火を消してしまったことさえあった。これさえなくなれば、きっとジョットは帰らずずうっといてくれるのだと、子供の頭で必死に考えてしたことだった。
この「はずれ」の家に暮らす人たちは、来年にはもう誰もいない。彼はこれからずっと、明かりひとつ無い、暗くさみしい山の中で、ひとりきり夏を過ごすのだ。
「おれが、もっとずっと大人で」
せめてあと十年くらいは早く生まれていて。
「オレがここに住むとか、仕事なんてどうにでもなるとか、言えるくらいならよかったのに……!」
「ツナ、綱吉、泣くな」
「だ、って」
俯いてしまったツナの頭をぐしゃりと撫でて、ジョットは口の端を上げる。
「死んで二世紀以上も経って、なおここまで言ってもらえる俺は、幸せ者だな」
「しあわせ?」
「俺の墓が一族のものと別にされたと知ったとき、こうして誰かと関わることは二度とできないだろうと覚悟していたというのに……」
そう言いかけたままジョットは口を閉じた。
山の中の静かな家は、ふたりが黙り込んでしまえばもう虫の声しか音がない。気まずさに耐えかねたようにツナがまた声を上げる。
「あ、あした、おじいちゃんたちに、またジョットさんの話してみる!家系図とか書き付けとかきっとあるし、信じてくれる……よ」
ツナにできることはたったそれだけだが、それでも、少しでもジョットのために何かしたい。そう思って提言したのだが、しかし本人は瞳を閉じて、ゆるゆると首を横に振った。
「構わない」
「でも!」
「書き付けはない。家中探し尽くした。それに……」
おまえに会えないのならば、どこにいても同じ事だ。石灯籠の光をじっと見つめてジョットは言う。
「いつだったか……戻ってきても中には入れなかった。きっと誰も迎えてくれてはいないのだと気づいて悲しくなった。これでは自分がいなかったのと同じ事だと」
「ジョットさん」
「ならば戻ること自体を止めてしまえと思うのに、それもできなかった。俺に気づいてくれたのはおまえだけだ。それから夏がくるたびこうしておまえと一緒に過ごすのは幸せだった……それができないのなら家や墓の場所など、どこだって同じだ」
穏やかな声音の奥に、確固たる意思がかいま見えて、ツナはそれ以上何も言えなくなってしまった。
ジョットと一緒に並盛に行ければいいのに。遠い昔に夢見て諦めた、そんな考えが頭をよぎる。
三日目の夕方、路上に盛ったまこもの前で、ツナはまた盛大に泣いた。涙で湿気って火なんてつかなければいいのに、そんなばかばかしいことさえ願った。だがまこもはからからに乾いたまま、ツナの足下で火をつけられるのを待っている。
「綱吉、納戸の奥の桐箱に、俺の荷物一式が遺っている。それをおまえの手元に置いておいてくれないか?」
ツナが頷くと、ジョットは満足そうに微笑した。もう十年ほどのつきあいになるが、これまで見た中できっと一番はっきりしていて綺麗なものだと思った。
「……それじゃあ、ジョットさん」
「ああ。『また』な」
「は、はい!『また』会いましょうね」
「また」来年。それはいつか、離れたくないとだだをこねたツナにジョットがしてくれた約束だった。もう先がないとわかっている、しかしだからといってやめる気にはなれなかった。
繋いでいた手を離し、ツナは震える指でマッチを擦った。シュボ、というささやかな音と共に、橙色の鮮やかな火が上がる。
「綱吉」
呼ばれて顔を上げると、秀麗な顔が近づいてくるのが見えた。いつもなら、額か、瞼か、頬か。だがジョットが選んだのはそのどれでもなかった。
「ん、んぅっ」
「……必ず会いに行く。待っていろ」
長い指がツナの手からマッチ棒をとり、ぽとりと落とした。送り火が熾る。短かった盆が終わるのだ。
いつの間にか集まっていた死霊達が、門柱から一列になって、茄子の牛の後について山道を上がっていく。ジョットはその一番後ろにつき、一度も振り返ることもなく、竹林の向こうに消えた。
我に返ったツナがキスされたのだと気づいたのは、まこもが燃え尽きた後だった。