No.17

DB

触れた指先あなたの笑顔
「すいません、晩御飯までご馳走になっちゃって」
「どうせ夜中まで一人だし」
 かちゃかちゃ食器を洗いながら名前が言う。この家には食器洗浄器などないから手洗いだ。最近の家には建てた時から備え付けられているらしい。
 悟飯が名前の家へと訪れて数時間。ぐるぐると盛大に響いた不気味な音に名前が首を傾げれば、悟飯がその頬を真っ赤に染める。そこで漸く悟飯の腹の虫が鳴いているのだと気付いた。それほどまでに大きな音だったのだ。
 そういえば、と時計を見ればなるほど夕食を食べていてもおかしくない時間。
 買ってきた惣菜は一人分。ならばいっそ冷蔵庫の中にある賞味期限目前の食材を消費してもらおうかと情けない顔で「帰る」と訴える悟飯を引き止めた。
 あの事件以降冷蔵庫の中には常に大量の食材が詰め込まれている。愛故に、ではあるのだろうが同時に中庸という単語も学んで欲しいものだと思ってしまう。
 母親が待っているからと断られるかと思ったが、返ってきたのは満面の笑み。
 取り合えずおにぎりで間を持たせ、超特急で準備に取り掛かった。
 名前は嫌いだけれど父親が大好きなので大量に買い過ぎたニラは蟹と一緒に卵で閉じた。豚肉は茹でて油を抜いてレタスの上に乗せて冷しゃぶごっこ。タレは胡麻ダレしかなかったけれど悟飯は嬉しそうにしていた。
 買ってきた惣菜も適当に温めて、汁物は味噌汁でファイナルアンサー。
 美味しい美味しいと言いながら食べる悟飯は、母親もそりゃ料理のし甲斐があるだろう、と顔も知らぬ孫家の大黒柱を思った。
 そして楽しい食事の時間が終われば面倒な片付けタイムである。
 名前が寄越す洗った食器を拭きながら悟飯はそっと隣を見た。
 悟飯よりも少し背の低い名前は隣に立つと旋毛が見える。そこから更に視線を落とすと細い首筋に行き当たる。
 少し力を入れれば簡単に折れてしまうだろう。普段は日に当たらないのだろうそれが、今は下を向いている所為で悟飯の目に顕わになる。
 触れたら壊れてしまうだろうか。どれだけ力を抜けば触ることが出来るだろうか。
 セクハラだなどという感覚は悟飯にはない。こんな所は父親似である。
 そんな邪なことを考えていたものだから、名前から手渡される皿との目測を誤り、盛大な音を立てて皿を割ってしまった。
「わ、わ、わ、ごめんなさい! すぐに片付けますから!!」
「馬鹿手ぇつくな!」
「え、……いたっ」
「お約束なことすんなボケ! 手ぇ出せ血ぃ流せ! 消毒持ってくるまで動くなよ!」
 ずびし、と指差し言うだけ言って名前は駆け出す。
 パタパタとスリッパの音が遠ざかっていくのを聞いて悟飯は小さくため息を吐いた。
 名前が怒鳴るのを初めて聞いた。
 普段は呆れたようなため息や切れ味鋭いツッコミを聞きなれている身ではあるけれど、怒鳴られたことは一度もなかった。それなのに、先ほどの名前は眦を吊り上げ悟飯に一言も発言する機会を与えず走り去った。
 その背中しか見えない姿に同じ家の中にいるというのに何故か置いていかれた気がした。
 食器を割ったのは悟飯だし、当然申し訳ないと思っている。けれど一顧だにされないというのはこれほど寂しい気持ちにされるのかと項垂れる。
「……名前さぁん……」
 一人にしないで下さいよぅ。中指を蛇口から流れ出す水で洗いながら恋しい少女の名を呼ぶ。
 と。
「何泣きそうな顔してんだ」
 がつん、と後頭部を固いもので殴られた。
名前さん!」
「お前な、その程度の傷でンな情けない顔してどうすんだ」
 武道会大丈夫かこいつ。とは言えない。
 名前は悟飯を殴った固いもの ― 箒 ― を近くに立てかけ、水を止めて悟飯の腕を引っ張る。
 箒とちりとりを持っていたのと反対の腕に抱えた救急箱をテーブルに置いた。そして悟飯を椅子に座らせ、自分もその隣に座る。
「あの、名前さん、ごめんなさい、お皿……割っちゃって」
「あ? 別に皿くらいいいっつーの。落とせばそりゃ割れるわ。それより指出せ。中指だけ?」
「は、はい」
 言われるがままに悟飯が指を差し出す。名前はその手を掴むと救急箱から消毒液を取り出して傷口に数滴垂らした。
「これなら絆創膏でいいかな……」
 色々詰まった救急箱をがこがこ言わせながら片手で漁る。絆創膏の箱が見つからないのかその眉根には皺が寄りだした。そんな名前を悟飯は幸せな気持ちで眺める。先ほどとは正反対だ。
 自分の無骨な手が、名前の柔らかな手に包まれている。名前は「脂肪たっぷりの癖に節くれだっている」とぼやいていたが、悟飯にとっては握れば潰してしまうんじゃないかと思うほどに華奢である。
 短く切り揃えられた爪がたまに皮膚を引っ掻いて、くすぐったいついでに何だか心臓まで擽られている気もする。
 食器を洗っていた所為で冷たい手が徐々に上がっていく体温に気持ちいい。ただ、体温上昇しすぎて名前に気付かれないかだけが心配だ。
「お、あった」
 漸く絆創膏を見つけたらしい。名前の手が離れたのは残念だが、ここで駄々をこねるわけにもいかない。悟飯は大人しく中指以外の指を握り締めた。米国人にしてはいけない仕種だ。勿論名前は気にしないが。
 包装を剥がしてガーゼを傷に当て、くるんと指に巻きつけて一応治療完了である。
「割れた皿には触ってないな?」
「はい、あの、僕も手伝い……」
「ヤメトケ。いらん傷が増えるぞ」
 ビシリと言われて悟飯は小さく「はい」と頷いた。名前の言ってることはもっともだ。
 生まれてこの方家事などしたことのない悟飯が無闇に手を出しても仕事を増やすだけだろう。たった今のように。
 暗い目をする悟飯に鼻を鳴らすと名前は鞄から数冊のノートを取り出し、ばさばさと積み上げた。
「ノート?」
「数学、国語、生物、化学。お前地理だろ。私は現社だから外しとく。取り合えず適当に見てたらどうよ。数学と化学は後で教師に聞いたほうがいいと思うけど」
 片付けている間、それで暇を潰していろ。
 暗にそう言われて悟飯は頬を染めて何度も頷く。
「ありがとうございますっ」
 弾む声で礼を言い、早速国語のノートを捲る。名前の少し右上がりの字が綴られたノートは、いっそコピーして取っておきたいくらいだ。
 夢中でノートにかじりつく悟飯を見やり、名前はやれやれと片づけを再開した。
 
 
 
 ふと顔を上げた瞬間。正面には時計。その短い針が左側、ほぼ水平を指しているのに気付き、悟飯は「ひぇ」と情けない声を上げた。
 窓の外を見れば空は真っ黒。星も眠そうに瞬いている。
 名前も悟飯の声で顔を上げ、その視線をたどって「うわぁ」と洩らし、心配そうな視線を悟飯に向けた。
 チチが悟飯を溺愛しているだろうことは会ったことはなくとも悟飯との会話だけでそうと知れる。
 こんな時間まで帰らず、連絡もせず、どれだけ心配していることだろうか。ばら撒いたノートをかき集め、名前は適当な袋に詰めて悟飯に渡した。
「とりあえずこれ持って帰れ。
 んで、半月分の授業ざっと習ってたつって、何とか誤魔化せ。一応嘘じゃないし」
「でも、名前さん、ノート使うでしょう?」
「ルーズリーフだからいい。分からんとこはダチに聞く」
 ほら急げ、とぐいぐい背中を押され、悟飯は「でも」と言う暇もなく玄関に追い込まれる。
 仕方なく靴を履いて、ほぼ同じ高さになった名前の目を見つめた。早く帰れと言わんばかりの仁王立ちは雄々しく勇ましいが、今の悟飯にとってこれほど寂しいこともない。
 あと半月も会えないというのに、こんな浪漫の欠片もない、慌しい別れ方しか出来ないなんて。とほほのほ、というやつだ。
 繊細な男心故に涙がちょちょ切れそうになるが、名前の前でこれ以上情けない真似をして溜まるものかと何とか堪える。
「気をつけて帰れよ」
「はい。あの、また、来てもいいですか?」
 問う。
 嫌われているはずないと思いつつも、どうしても聞いてしまいたくなる。女々しいと言われても仕方ないけれど、純情なるオトコゴコロってやつは不安定なのだ。
 だがしかし。
「たりまえだ。いつでも来い」
 破顔一笑。
 馬鹿なこと聞いているんじゃない。悟飯の不安などくだらない、と弾き飛ばすような。
 この笑顔だけであと半月頑張れる。……かもしれない。悟飯は思った。
 むしろ名前欠乏症になりそうな気もしたが、この笑顔を見れたという事実だけで幸せだ。
 大事な記憶を仕舞っておく心の部屋にそっとコピー&ペースト保存して、悟飯は「ありがとうございます」と微笑んだ。
「それじゃ、お邪魔しました」
「ああ」
 ばいばい、と家の中から名前が手を振る。外まで見送りに行かないのは、悟飯が出来るだけ早く飛び立てるように。
 この辺は林が少なくもないから、こっそり変身して飛び立つのも苦労はしないはずである。
 玄関先の明かりが悟飯の影を映さなくなってから、名前は手帳を取り出した。次いで電話の受話器を取り、几帳面な字で書かれた番号をプッシュすると、数コールで年かさの女性の声。
『はい、孫です』
 ここで違う名前が出てきても困るよなぁ、と思いつつ、名前はまず挨拶をする。
「夜分に失礼いたします。オレンジスターハイスクールに通う名前と申します」
『! 名前さ!? あぁ、あぁ、いっつもお菓子くれる子だべ? いやぁ、悟飯ちゃんから話は聞いてるだよぉ。最近の悟飯ちゃんは口を開けば名前さん名前さん、って』
「は、はぁ……」
 お前家では悟飯「ちゃん」扱いかよ。て言うか母親に何言うとるんだコンニャロー。
 名前は突っ込みたかったが、電話の向こうではチチのはしゃいだ声が聞こえているためコメントは差し控えた。それに今は世間話をするために電話したのではない。
 名前が孫家に電話した理由。そんなの一つだ。
「あのですね、今日、孫……えーと、ごは、ん、君が、うちに来まして」
 何でアイツの家は苗字があるんだ。
 何で孫の名前を呼ぶだけでこんなにむず痒くなるんだ。
 名前は心の中でぶつくさ文句を言いながら、突っかかりながら悟飯の名を告げる。本人は気付いていないが、孫家に苗字がなければ悟飯の呼び名が最初から「悟飯君」に変わるだけの話だ。
 本人はまったく気付く余裕がないが。
「休学してた分の復習……えーと、とにかく勉強というか、してまして。それでこんな時間になっちゃったんですよ。今気付いて、慌てて帰ってったんですけど……」
『悟飯ちゃんの勉強見てくれただか? そうかぁ、ありがてぇなぁ。後で取り戻せばいいっちゅうても一ヶ月は長いべ? いやぁ、名前さ、有難うなぁ』
 チチは何度も有り難い、と繰り返す。
 これは悟飯の言っていた教育ママっぷりも本当なのだろう、と名前は電話越しに苦笑した。
「いえ、友人ですから」
 当然のことをしたまでです。
 言い切ると、それまで明るい声を出していたチチがふっと黙り込んだ。名前は見えないと理解しつつ、首をかしげた。何か気に触ることでも言っただろうか。
『あーその、名前さ。名前さは……』
「はい?」
 何だろう。何を言われるのだろう。
 この年にもなると、同級生の親と話す機会など殆どない。ごくりと生唾飲み込んで、チチの次の言葉を待ち……。
 
 
『グレートサイヤマンについてどう思うだ?』
 
 
 斜め上三四度を突かれた。
 
 
 
 
 いや、どうって言われても。
 がつん、と壁にぶつけた頭がちょっと痛い。
 左手でぶつけた部分をさすりながら、名前はとりあえず友人の母の不可思議な質問に答える。
「は、はぁ……グレートサイヤマンですか……。
 一度助けてもらったんですけど、いい人、ではないかと。そうじゃなきゃ正義の味方なんてやってないでしょうし……」
 ここで名前ははっとした。
 チチは、息子がグレートサイヤマンということを知っているのだろうか。もしかしたら知らないかもしれない。
 悟飯が正義の味方をやっているのは父親の跡を継いで、とか。そしてそれは一子相伝、父から息子へと受け継がれていくものなのかも。
 それとも悟飯は何かそういった組織に所属していて、その組織の存在は母親にさえ告げていないのかもしれない。何せ正義の味方は秘密の組織に属しているというのがセオリーであるし。
 明らかにその発想は基本五人のカラフルな連中やバイクに乗ったり飛んだりキックしたりする改造人間の番組を見すぎなのだが、そんな妄想はチチには聞こえない。名前もあくまでもしもの話だと自覚しているので敢えて質問はしない。仮に本当だとしたら悟飯に申し訳ないことでもあるし。
『それじゃぁ、グレートサイヤマンに憧れるとか、好きとか、そういうのは無いだか?』
「いや、嫌いではないですけど、一回しか会ったことない人に好きって、……それはないですね」
 チチの突拍子も無い質問に頬の肉を引き攣らせつつ、それでも名前は律儀に答える。
 その答えに安心したように、チチは電話口から離れた場所でそっとため息を吐いた。
 これでも息子の恋路を心配していたのだ。
 自分に似て(と彼女は信じる)奥手な息子が、誰よりも嬉しそうに名を呼ぶ少女。母親として可愛い息子を取られるようでちょっとばかし癪は癪なのだけれど。
名前さんが好きなんです」と告げられたわけでなくとも事在るごとに表現されればあーもうはいはい分かったよ、という気分にさせられる。恋する人間は乙女も男も関係無しに無敵なのだ。
『そうかぁ、それはよかっただ』
 いやだから何が。
 突っ込みたいけれど突っ込めないこのフラストレーション。何に対してかは分からないが、何だか安心しているのでまあいいかと気にしないことにする。スルーしたとも言う。
「あの、そろそろ失礼しますね」
 あまり長く話していると無駄にボロが出てきそうだ。
 さくっと宣言すると、チチも『んだな』と頷いたようだった。
 受話器を置くと肩に乗った荷物も一緒に下ろしたように心が軽くなる。
「これでよし」
 あの様子では帰宅した悟飯が喧しく言われることもないだろう。名前は数分の会話だったにもかかわらず妙に凝った肩をごきごき言わせながら、風呂に入って寝る支度を始めた。
 
 
 
 一方帰路途中の悟飯。
「また行ってもいいって、また行ってもいいって、また行ってもいいって……!!」
 にやけた顔で同じ事を呟きつつ未だかつて無い高速で飛ぶ悟飯はそれはそれは不気味だったという。

#DB #孫悟飯

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