◇時間旅行◇Act07


 今更と言えば今更だったが、彼のボンネットの中にハロウィンの衣装をそのままにしていることを思い出す。これからどうなるのかは分からないが、明後日にはバイトは休みでも塾のハロウィンパーティーがある。このままバッグの中に入れていては服のシワが取れなくなって着れるかどうか。
 余計な事をと思いつつも口に出すと、マスターにボンネットから出してかけてあるから心配しなくて良いと微笑みながら言われてしまった。
 彼が笑った気がした。と言っても、口角がほんの少し上がったように感じただけで、笑い声が聞こえたわけじゃない。
「君が言っていた証拠だけれど、これが見えるか?」
 彼が右手のひらを反すとぼんやりとした空気の玉が見える。空気が見えるはずもないので、煙だろうか。首をかしげている私に、
「ファクターと呼ばれる物質を変形させたものだ。今、俺たちがいる空間はこのファクターが形作っているものの中にある」
「雲の中にいると考えてみて下さい。建造物と同じように形作る事は可能ですが、私たちが中に入った所で、通常のコンクリートなどが持つ重さを感じる事はないと思います。ファクターも同じで見えますし、触れる事も可能ですが、はっきりとした重量を感じることはありません。もちろん、質量はありますよ」
 理系の講釈はどうにも苦手なので、気体みたいなもんかとアバウトな理解をしておく。どう考えても複雑そうな理論を理解しろというのは、私には無理そうだもの。
「通常ならファクターはこちらの世界には存在しない。だが、この空間だけは違う。俺と彼がいるためにファクターが存在する。俺たちが向こうの世界から引きずってきていると言ったほうが分かりやすいか」
「ファクターは気体のようなものじゃなかったんですか?」
「気体というよりも空間そのものと考えるのが合理的でしょうね。これは私達の存在意義にも関わる事なのですが、普通別の次元へと移動することによって何らかの障害が起きます。障害というと語弊があるかもしれませんが、簡単に言えば存在するための定理を持ち越してしまうのです。そうしなければ、誰であろうと在る事は出来ません」
「うーんと・・・つまりは、私がここに存在しているのは、その定理に沿っているからであって、もし定理から外れてしまえば存在出来ないってことでしょうか?」
「近いが正解ではないな。定理から人が外れる事はない。どの次元に移動しようとも自身が持つ定理から逃れる事は出来ないんだ。次元を超える場合、定理も同時に移動させている事になる」
 ようやく事態が飲み込めてきた気がする。次元の中にいる私達は定理に支配され、その定理が変わる場所に行く場合、必然的に自分が存在できるだけの定理を移動先へ持ち込んでしまうということらしい。
 つまりは、ファクターが彼らの定理の一つということになるんだろうし、それは私達の定理ではないため私達には存在しないと。定理が世界によって変わるかららしいが、なんともややこしい。
「ファクターは誰もが持っていて、扱うことが出来るんですね?」
「私たちの世界の者でも扱うというまでにいくには、やはり知識と経験が必要です。幾つものの厳しい訓練を経る必要がありますので、みんなが使えるというわけではないんですよ」
「君らの世界でも、誰もが科学者や技術者になれるわけでじゃないだろ。ファクターを扱う者は専門の訓練校に通う必要があるし、資格も取る必要がある」
 別世界の話なはずなのに、いやに現実的な話だ。どこの世界でも御伽噺のようにはいかないらしい。学校という制度は、人間であればどこに住んでいても考えつくものなのだろう。勉強が嫌いなわけではないが、随分と予定調和のような感じがするのは私だけだろうか。
「彼からこの店がファクターで作られているのは聞きましたか?」
「はい・・・」
 神妙に頷く私に、マスターが大好きな笑みを浮かべて続けた。
「あなたにとって、この店は虚像であり偽りですが、私達にとっては真実です。こちらの世界の人がファクターで出来たこの店を見たり触れるためには、私達のような他の存在を認めるだけではなく、定理である律を受け入れる必要があります。それは、あなたのような若い方にはとても難しい事なんですよ」
 そこまで言われ、ふと疑問を口にする。
「でもお客さん、私以外にもちゃんといましたよね・・・?」
 今日だってハロウィンのために、幾人も来ていた。あれは全てマスターや彼と同じ世界の人達なんだろうか。そんなにこちらの世界に来たがる人が多いんだろうか。
「何人かは同胞のもの達ですが、何人かはあなたと一緒でこちらの世界の人間です。ほとんどが望んで見つけられた方ですが」
「望んで?」
「稀だが具体的な願いがある場合にのみ、ファクターを見る事が出来るようになるみたいだ。といっても、人の定理が変わる事はそうそうないから、偶然であろうとなかろうと、ここを見つけられた時点で、既に自分の半分が俺たちの定理へと塗りかえられてる事になるのだろう」
 それはルーツを換えるという事に他ならぬのではないか。もはや生まれ育った自分ではない事にならないだろうか。知らぬ間に自分が消え去り、作りかえられているという事に・・・ならないだろうか。
 そこまで思い、ぞっと背筋に冷や汗が伝う。人造されるより、狂気に侵されるよりも、恐ろしいことのように思える。
 彼とマスターは、私が感じた恐怖を敏感に察知したようだった。少しだけ彼の顔に苦笑ともつかない曖昧な笑みが口の端に浮かんだ。
「定理が変わると言っても、人そのものが変わるというのとは違う。住む、生きる世界が変わるだけだ。人格も体もその人のままなのだからね。君が考えているような別人になるのとは違うよ。だからむやみに怖れる必要は無い。もちろん不安になる必要も」
 彼の言葉に安堵した。それはどのような事態になったとしても、私という個が消える事は無いという安心であり、矜持でもあった。きっと、私は誰よりも我が強いのだろう。
「それに他のお客様は彼の言うとおり、定理の変化によってこの店を見つけられたようですが、あなたの場合は少し違っているようですしね」
 マスターの言葉に彼が頷いて、私の顔を覗きこんできた。彼の顔がもう少しで私に触れてしまいそう。思いがけない接近だったせいで、体は動かないのに首だけ後ろに仰け反ってしまった。私の顔を見て彼がくすりと笑った気がする。表情は全くといっても良いほど微動だにしなかったのだけれど。
 マスターが笑いながら彼の肩を引く。普段は近寄りがたい彼の意外な一面を垣間見たような気がして嬉しいが、心臓には悪いに違いない。こういうときマスターがいてくれて良かった。
 彼とマスターの言葉を心の中で反芻していた私は、ふとある可能性を思いついた。
「それって…もしかして、マスター達の世界の人と私に血の繋がりがあるとかじゃないですよね?」
 異種間の婚姻なんて展開はありがちで、王道だった。だけど、今まで私の身に降りかかってきた事のほとんどが、御伽噺の王道の展開にはならないことをすっかり忘れていた。
「もしそうだとしても、定理はどちらかの世界のものであり、一つしか持てません。同時に持つことは出来ないんですよ。戸籍のように、自分を証明するものがいくつもあっては大変でしょう? ですから、あなたは確かに私達とは異種なのです」
「君は先走りしやすいみたいだな。彼の説明にあったように、俺達の世界との血縁関係があろうとなかろうと、君の定理は君の世界のものだ。普通なら定理と世界に合わせて体質や機能が作られていくんだ。君もこの世界で生きやすい体になっているはずだ。普通だったなら」
「どういう……」
「君に渡したカクテルがあっただろう? 君たちの世界にはない程のアルコール度数のものが混ざってる。普通ならどんな酒豪だろうと急性中毒になって大変なんだよ。けど、君は少し頬が赤くなっただけで済んでる。俺の世界ではそれほど弱くない奴によく見られる、一般的な反応だな」
 はたと彼の顔を仰ぎ見るけど、彼の表情では何も分からなかった。私は私の世界でも周りから隔離され、彼らにとっても私が異質だという。
 私きっと顔色悪いんだろうな、と他人事のように思う。私だけ切り離された世界にいるような彼らがテレビの中で動く人のような、どこか現実から遠くなっていく。
 もう少ししていたら、私は失望していたかもしれない。私というものに。でも、彼がそれよりも早く口を開いていた。
「俺も君と同じだ」
「えっ…」
 ぽかんと口を開けてしまい慌てて閉じる。
 くすりとマスターが笑ったような気がして、そちらを見ると静かな微笑みが私と彼に向けられていた。動揺が伝わっているのは分かっていたけれど、いくら驚いたとはいえ、一瞬でもあからさまな期待を出てしまって恥ずかしい。
「俺は俺の世界の定理を持ち、ほとんどをあっちで過ごしていても、体質も体の機能もこちらの世界の奴に近い動きをする。まさか自分と同じ存在がいるとは思っていなかった」
 言葉もなくジッと彼を見つめる。最初から彼の話を嘘だとは思っていなかった。それでも彼を疑っていたのは事実で、それは世界でも定理でもない彼自身をだ。
 彼と会ってからのやりとりを思い返して、ようやっと彼が私を騙そうとした事など一度たりとも無かったのだと知る。一人暮らしで身に付けた自己防衛が、フィルターになってしまっていた。
「それで、ここからが本題なんだが」
 彼の声に今までとは違う緊張があって、私も釣られて息をころし彼に集中した。
「君が俺と同じ存在だとしても、ここを自力で見つけるには無理がある。定理がある以上は、見ようと、触れようと思えば出来るというだけで、無意識でそれらをこなすことは出来ない。普通の人とアスリートとは見える範囲に差はあるが、予め見ようと思っていなければどれだけ動体視力に長けた者でも飛んでくる球を見極める事までは出来ないだろ?」
「それは、まあ、確かにそうですけど」
「体質っていうのは、何となく感じる程度のものだ。違和感がある、何かおかしい、変だという程度のもので実体を掴めるようなものじゃない」
「つまり、店という実体を見つけた私が」
 彼の言葉に一喜一憂してしまう。浮上しては突き落とされるのでは私の神経が持たなくなってしまう。早々に最悪の事態を口に出してしまえと焦る私に、彼は首を振って否定した。
「先走るなと言ったはずだが? 君の体質だけで偶然起こりえる可能性は低い。そうなら、同じような特徴を持った俺にも、似た偶然がいくつも起こっていておかしくないだろう。だが、君以上にこちらの世界との行き来を頻繁にしている俺にはない」
「例えばどういうことでしょうか?」
「こちらの定理を持っていない俺達が、こちらの世界で物に見たり触れたりするために定理の素の一部であるファクターを利用する必要がある。ファクターを利用せずに、通りを歩いて新しいビルを見つけるというのは難しいんだ。先に在ると分かっていれば比較的見えやすくなるが、それでもはっきりと捉える事は出来ないだろうな」
「私にも同じ事が言えるってこと・・・?」
「そうだ。だが、さっきも言ったように君個人の問題じゃない。他になんらかの要因があるはずだ。ファクターに問題があるのかと最初は思っていたしな」
 彼はそこまで話すと、ちらっとマスターを見て肩を下げた。今まで黙って私達のやりとりを見ていたマスターが静かに言った。
「私たちがいた世界で、律の綻びと言われるものがあります」
「ほころび・・・」
「何らかの拍子で、崩れてしまった律が正常に世界を保ち続ける事が出来なくなってしまう事があるんです。あなたがこの店を見つけた、それ自体が問題というよりも定理が崩れてしまっている事に問題があります」
「律・・・」
「律とは世界だ」
「厳密には違いますが、世界の定理と言い換えても構わないでしょうね」
「崩れるって、空間が歪むって事ですか?」
 定理は紐解こうとすることが出来ず、振りほどけないものではなかったっけ。世界の定理とはまた違うのかな。私の問いにはっきりとした返答は無かった。言葉で語れるようなものではないのだそうだ。
「歪むとか崩れるという言い方は、修復する奴が言うからであって、俺達がその変化を目で捉える事は出来ないんだ。ただ定理は律、律は世界、世界は定理だという事は向こうの世界にいる奴なら皆知ってる」
「人の定理は律と連動しており、律はその世界と、世界は定理と繋がっているのです。ですから、世界と繋がっている律に異常があれば私達の定理にも影響がありますし、もちろん世界にも」
「俺や君は他の人間よりも早くその影響を受けやすい。定理と体質によって双方の世界から干渉されているから。あちらの律の変化に真っ先に気が付いたのが俺だ。そのためにこちらに来て調べるようになって君を見つけたんだ。君がこの店を偶然に見つけたのも、あちらの律の影響だと思う」
 彼の声が硬く、重く腹の底に響いてくる。定理が存在の根幹に結びついている物なら、世界のそれが壊れたとき人はどうなるかなんて考えたくなかった。

2009/01/16